5 斬理
引き裂かれる痛みと共に、己貴は現世に引き戻された。
だが、理を歪めたために、もとのままの国津神ではなくなった。
死に近き存在。
それは、穢れに近き存在でもある。
神気すら変わった。
神威も上手く操れない。
それなのに。
誰も、何も気づかないのか。
何故、何も気づかないのか。
この身体すら、自分のものではない。
失われた欠片を繋ぎ合わせているのは、兄の――穴持の身体だ。
それなのに、兄の神霊はここにはない。
自分だけが独りここに在る。
満たされぬ虚しさが神霊まで蝕んでいく。
何もかもが空虚で、何の喜びも、怒りも、感じられない。
生きていることすら忘れそうだった。
すでに自分は死んでいる。
ここに在るのは、器に込められた死神の残り火――
もはや現世には、在れない、在りたくもない。
兄を喪い、中途半端に黄泉返ったこの身が、ここに在っていいはずもない。
八十神達は己貴が生き残ったことを許せず、
絶えずその命を狙っていた。
生きる希望を失った己貴は、何度も命の危険に曝される。
いっそ本当に死んでしまいたかった。
だが、母である刺国若比売はそれを許さなかった。
「己貴、このままでは、そなたはまた殺されてしまう。
穴持を失い、今またそなたまで失うなど耐えられぬ。
どうか母の願いを叶えてくれ。
木の国へ往くのです。大屋毘古様に救けを求めよ」
己を護ろうとしない己貴の代わりに神威を使い果たし、
残された息子の命を救い続けた刺国若比売はとうとう倒れ、
床から起き上がることも出来なくなっていた。
「母上……」
「母の願いを叶えてくれ。生きよ、己貴。
その為なら、母は何度でも、神去るまで、この命を削ってみせる」
涙ながらに乞う母の願いに、逆らうことは出来なかった。
八上比売が刺国若比売の傍らに寄り添い、己貴へ告げる。
「母上様は私がお世話致します。どうぞすぐにお発ちください」
出立は夜明け間近であった。
誰にも気づかれぬように旅立つ己貴を視送るのは、八上比売と素菟のみ。
「八上比売、母上を頼む」
「お任せください。己貴様こそ、道中お気をつけて」
「……」
何か言わねばならないと思いながらも何も伝えられず、己貴は背を向けた。
八上比売と素菟は黙ってそれを視送る。
去って往く後ろ姿を、消え去るまでずっと。
「穴持様……」
小さな呟きは、素菟には聞こえなかった。
喪ってしまった夫を想っても、
その名を最早口にすることは出来なかった。
愛しい背の君の名残を、八上比売は静かに胸に刻む。
ただ一夜の交合いであった。
それでも、確かに慈しみ、慈しまれた。
虚りのない言霊が心に刻み込まれているから、
その想い出で自分は生きてゆける。
愛しい方が黄泉返るまで、待ち続けられる。
零れる涙を、拭い去ることはしなかった。
ただ静かに、八上比売は泣く。
「お待ち致します、我が那勢命。
貴方様がお戻りになる日を……」
木の国で、己貴は束の間の時を過ごした。
太古の女神――伊邪那美の末である大屋毘古の治める木の国は
緑に溢れ、穏やかで美しい国だった。
だが、己貴の心は木の国でも癒されることなく、
生ける屍のように日々を重ねるだけ。
「己貴。八十神が来る――」
苦々しげに、大屋毘古が告げる。
八上比売からの文を受け取ったのであろう。
「そうですか――」
己貴はどこかほっとしていた。
兄神達が来る。
今度こそ、自分を殺してくれるだろうか。
今度こそ、黄泉で離れ離れとなった兄の穴持に会えるかもしれない。
「ここを出ろ、己貴。根の堅州国へ往け」
「根の堅州国――?」
「このままそなたを死なせるわけにはいかぬ。
現世と幽世の境、地の門を護る国、根の堅州国へ往け。
三貴神の最後の貴神、建速須佐之男命の許へ」
「――わかりました」
自分を生かそうとする母や八上比売、そして大屋毘古の気遣いも、
死せる神である自分にはどうでもよかった。
それでも、己貴は従った。
すでにこの身が何処に在ろうと同じことだったから。
己貴は木の国を離れ、根の堅州国へ向かった。
現世と幽世を繋ぐ地の門を越えると、そこは暗闇の領界となる。
死出の旅路を往くかのように、その身一つで己貴は進んだ。
闇にも浮かぶ黄泉比良坂の
長い路のりの途中にあるという根の堅州国。
不意に分かれ路を視つけ、
自然とこちらが根の堅州国へ通じる路だと思った。
分かれ路の方に足を踏み出そうとして、
もう一つの長く続く方に神気を感じ取る。
「――」
向ける視線の先には闇に溶け込むように佇む姿が。
「もしや、須佐之男様でございますか――?」
だが、問うてすぐに間違いに気づいた。
三貴神がこのような闇に染まった神気を持つはずがない。
それは、かつて自分と兄を引き離した黄泉大神――
「闇の主……」
闇の中でも冴え渡る美貌の主は、
美しい容に憐れみの色を浮かべ、己貴を視ている。
「哀れな大己貴、何故すぐに、ここへ来なかった」
「え……?」
「稲羽へなど、往こうと思わねば、
すぐにここへ来ていれば、このようなことにはならなかったのに」
「何を言うのだ……」
戸惑う己貴の横合いからかかるもう一つの声。
「否――例え、誰よりも早くここへ来ていたとしても大己貴の定めは変わらん。
それは天命。全ては、天命に従い動く」
根の堅州国への分かれ路の先に立っているのは、
気高くも猛々しい神気を持つ荒ぶる神。
闇に在って、その神気は一層鮮烈に揺らめき、神々しいばかり。
「闇の主、何も知らぬ大己貴を惑わせるな」
荒ぶる神の厳しい声音に、闇の主は気にしたふうもなく肩を竦めた。
「大己貴、天命に逆らいたくなったのなら私を思い出せ。
天命に抗う力を授けよう」
不意に、闇の主の気配が消える。
闇の主の言霊に、己貴は動揺して、荒ぶる神を視据える。
興味を失ったかのように、
荒ぶる神は己貴に背を向け、歩み去ろうとしていた。
「お待ちください。
私が稲羽ではなく、根の堅州国に真っ直ぐに来ていれば、
兄は神去らずにすんだのですか?」
荒ぶる神――建速須佐之男命は、肩越しに振り返る。
「惑わされるな。闇の主は言霊を使って我ら神を惑わせる。
もしもとお前は問うが、それを知って何になる。
時を戻して、お前の兄が神去るのを止められるとでも?
時を司る天津神、天之斑駒でさえ、
時を戻すことは出来ぬのだ。諦めて受け入れろ」
それだけを告げると、荒ぶる神は踵を返し、
足早に分かれ道の向こうへと歩き去った。
暫し呆然とそれを視送り、慌てて後を追う。
一本路なのに、すでに荒ぶる神の姿はない。
駆けに駆け、己貴はとうとう開けた場所へとたどり着いた。
そして、月神の慈悲か、暗闇でも青々と茂る草原を前に立ち竦んだ。
「……ああ……」
訳もなく、郷愁にも似た感情が押し寄せる。
天に浮かぶ冴えた月。
風にそよぐ青草。
その先には、美しい館がひっそりと佇んでいる。
懐かしい――初めて視るのに強く感じた。
一度も訪れたことのない場所を前に、
何故このような気持ちになるのか、己貴にはわからなかった。
黄泉返る前でさえ、豊葦原の何処を訪れようとも
このように思ったことはない。
ここだ。
還りたかった場所。留まりたい場所。
この、根の堅州国――死に近き国だ。
涙が零れそうになる。
須佐之男命にもう一度会わねば。そして、この国で暮らそう。
豊葦原などどうでもいい。兄の八十神達も。
ようやく辿り着いたこの場所で、兄に出会える日まで生きてゆこう。
己貴は逸る気持ちを静めるように、
駆け出したいのを堪えて、草原の先の館へ向かった。
そうして、己貴は根の堅州国で自分の運命と出逢う。
門を開けて出てきた、美しい女神。
目合った瞬間に、心を奪われた。
建速須佐之男命の娘――須勢理比売だ。
触れた白い手に離れて欲しくなくて、自らも手を伸ばし指を絡めた。
愛しさで、胸が高鳴る。
飢えた者が水を求めるように、己貴は激しい衝動に突き動かされた。
この、女神が欲しい。今すぐ。
今までに感じたことのない強い渇望に、己貴は抗わなかった。
部屋に入るなり、須勢理比売にくちづける。
触れた瞬間の激しい歓喜を、魂の震えを、
自分はきっと忘れることなどないだろう。
それまでの全てをかき消すほどの想いの高ぶりを、
己貴は喜んで受け入れた。
性急に求める自分に抗わぬ須勢理比売をただただ求める。
飽くことなく触れ合い、何度求めても足りなかった。
今ようやく、自分は生きていると感じることができる。
ここが、自分の世界なのだ。
彼女こそが、自分の対なのだ。
我を忘れたように交合い続け、疲れ果て、意識を失っても、
己貴は須勢理比売を放さなかった。
腕の中の愛しい者が僅かに身動いで、己貴ははっと目を覚ました。
視線を落とすと、須勢理比売が縋り付くように身をすり寄せていた。
抱きしめ返すと、甘い香りがした。
己貴の動きに、須勢理比売も目を覚ます。
目合うと、ほんのりと頬を染め、恥ずかしげに目を逸らした。
幸福感に、胸が痛む。
きっと今、自分は八上比売の部屋から戻ったあの時の兄と
同じ容をしているに違いない。
そうして、妻問いをしていないことに今さらながら気づいた。
身を起こし、何事かと自身も身を起こした須勢理比売の手を取る。
「須勢理比売、私の妻になってください」
慌てて告げると、須勢理比売は一瞬きょとんとした顔をして、
それから、ほころぶように咲った。
「はい、己貴様」
美しい声音が美しい言霊で受け入れてくれる。
満たされていた。全てが。
それが永久に続くと、信じていた。
須勢理比売が己貴の来訪を告げ、広間に通された時、
改めて真向かった荒ぶる神の眼光は鋭く険しいものだった。
「大己貴よ。ここに留まり、須勢理と共に根の堅州国を治めていくのだな」
「はい、そのつもりでおります」
「ならば、そなたが須勢理の婿として、
この堅州国の主として相応しいか視定めねばならん」
己貴の試練が始まった。
だが、荒ぶる神の試練など、何ほどのことでもなかった。
須勢理比売を得るためならば、自分はどんな試練にも耐えてみせる。
須佐之男の出す試練を、己貴は全てやり抜いた。
そんな己貴を、荒ぶる神は満足げに視ていた。
「――よかろう。
確かにそなたはこの根の堅州国の女王須勢理の婿に相応しいと証立てた」
「義父上様、では――!?」
「ここに留まるがいい。今日からここが、そなたの館だ」
喜びにうち震える己貴を余所に、須勢理比売は唇を噛みしめ、すっと立ち上がる。
そして、戸惑う己貴を置いて、部屋を出て往った。
「須勢理!?」
「構わん、放っておけ。虫の居所が悪いだけだ。
ここを治める定めを持って産まれたのに、何故かこの国を厭う娘なのだ」
だが、己貴は荒ぶる神の部屋を出た後、すぐに須勢理比売を追いかける。
須勢理比売は自室で泣いていた。
己貴は須勢理比売を抱きしめる。
「須勢理、ここでは駄目なのか?
私はそなたといられるなら、豊葦原に戻らずともよい。
ここでそなたと根の堅州国を治めてもよいのだ」
「嫌!!」
「須勢理――」
「このような処にいたくない。私は、豊葦原へ、己貴様の還る場所へ往きたい。
こんな処、大嫌い」
須勢理比売は己貴に縋り付き、涙にけむる美しい容で視上げる。
「己貴様、連れていって。私を、豊葦原へ」
館を出て、己貴は草原に独り佇む。
逃げられるのか、荒ぶる神から。
根の堅州国の女王となるべき須勢理を攫って。
悩む己貴の背後からかかる声。
「往くのか」
振り返った己貴が視る荒ぶる神の眼差しに、怒りの色はなかった。
ただ憐れむように己貴を視ていた。
「須勢理は根の堅州国の女王。
根の堅州国を治めるべく生まれた女神なのだ。
出て往けぬかも知れん。この世界が、それを拒むかも知れん」
「それでも、往かねばなりませぬ。
須勢理の望みは我が望み。妻の願いを叶えてやらねば」
「ならば、これを持って往け。幾ばくかの救けになるかもしれん」
「――義父上様……」
「俺は今宵早々と休む。その間、何が起ころうとも気づかぬだろう――」
生大刀と生弓矢、そして、天之詔琴を己貴へと渡し、
荒ぶる神は去っていった。
そしてその夜、己貴と須勢理比売は根の堅州国を出た。
分かれ路が視えたその時、
突如天之詔琴が悲しげに音色を奏で始めた。
「己貴様……」
「何故天之詔琴が――」
戸惑う二柱の神に迫り来る闇の影。
妖しげな気配に振り返る己貴は、
大いなる闇が須勢理比売を取り戻そうと追ってくるのを感じた。
世界が、それを拒む――荒ぶる神の言霊を、今、理解した。
須勢理比売を逃さぬ世界の理が、仄暗い呪詛となり、須勢理比売に向かう。
「須勢理!!」
須勢理比売を足留めるため、理の呪詛が両の足首を捕らえ、
肉を裂き、くい込んだ。
須勢理比売の絶叫が響いた。
倒れ込む須勢理比売をさらなる呪詛が掴み上げ、縛りつける。
「己貴様、己貴様――――!!」
痛みに泣き叫び、須勢理比売は救けを求めた。
己貴は生大刀を抜き、
己の持てる神威を込めて須勢理比売を縛り上げる理を斬った。
世界が震え、音無き悲鳴をあげた。
さらに己貴は生弓を構え、矢をつがえて振り絞った。
誓約の言霊を奏上する。
「須勢理比売は渡さぬ!!
これは我が妻、豊葦原を治める大己貴が妻――
豊葦原の女王だ!!」
そして、持てる神威の全てと共に、矢を放った。
矢は過たず、理を射抜いた。
大地が揺れる。
天が揺れる。
気を失った須勢理比売を背負い、
生大刀と生弓矢、天之詔琴を抱え、己貴は走った。
黄泉比良坂から豊葦原へと向かう時、己貴は一度だけ振り返った。
分かれ路には、
初めて根の堅州国に足を踏み入れた時のように、荒ぶる神が立っていた。
「見事だ、大己貴。豊葦原を治めるに相応しい神気と神威であった。
これからは大国主と名乗り、
須勢理を嫡妻として豊葦原に住まうがいい」
己貴は涙が零れるのを止められなかった。
本当は、去りたくなかった。
根の堅州国に、須勢理比売と共に留まりたかった。
「――」
「泣くな、大国主。その生大刀と生弓矢で八十神を追い払い、豊葦原を治めろ。
そなたなら出来よう」
荒ぶる神はそれだけを言い残し、根の堅州国へと消えていった。
己貴は荒ぶる神の気配が消え去るまで、その場を動けなかった。




