4 残虚
――咲耶。そなたは変わらず美しい。
咲く花のように艶やかで、この心をとらえて放さない。
そう言ってくれた、愛しい夫はもういない。
――いいえ。その名はすでに私の名ではない。
お別れです、愛しい方。どうかお幸せに。
私はこの呪われた御霊に相応しき処へ往きます。
――往くな。どのようなそなたでも構わぬ。一緒に往こう。
――いいえ、いいえ。一緒には往けない。
貴方の傍らに立つ資格が、私にはもうない。
愛しています、愛しい方。永遠に。それでも――さようなら。
何度も失われた名で自分を呼ぶ夫を捨て、此処まで来た。
全て、あの男の――妹を辱め、裏切り、捨てた男への復讐のためだ。
憎しみが、怒りが、この御霊を豊葦原に押しとどめた。
永遠に、あの男だけは、許しはしない。
黄泉返ったのなら、何度でも、黄泉へ追い返してやる。
もう二度と、妹も、自分も、傷つけさせるものか。
大切なものをもう、黙って奪われたりはしない。
禍つ神霊の比売神は心を囚われたまま哀しい夢を視る――
事代主は闇の主がいとも容易く
木之花知流比売を捕らえたことに驚いていた。
言霊を操ることには長けていると自負していたが、
闇の主は遙かにそれを上回る。
額に指先が触れた後、比売神は宙を視据えたまま動かなくなった。
一体どのような言霊を吹き込んだのか。
比売神が力無く座り込んだところに、とどめとばかりに悪しき言霊を囁く。
絶叫と共に、比売神はその場に頽れた。
「――」
闇の主の冷たい美貌が満足げに咲みを刻む。
同時に、事代主は首にかかる呪詛の紋様が軽い衝撃と共に取り払われるのを感じた。
呪詛から解き放たれたのだ。
首元に手を当て、確かめる。
確かに、禍つ霊も霊異も感じない。
「どうだ、禍つ神霊の呪詛から逃れた気分は」
「一体どうやって――」
「禍つ神霊はもとより死に近き神霊がなるもの。
すでに比売は我が支配下にある。比売がそれを望んだのだ」
屈み込み、愛しげに木之花知流比売の頬に触れ、涙の跡を拭う。
闇の主の手が離れると、
影が比売神の身体を包み込み、沈むようにその姿を消した。
「比売をどうした!?」
「来るべき時まで、眠っていてもらう。彼女は役に立つ故」
「――そなたの狙いは一体何なのだ。豊葦原か!?」
事代主の言霊に、闇の主は冷たく咲みを返した。
「愚かな――全ての神が豊葦原を恋うると思っているのか?
我は黄泉大神。黄泉国を統べる主ぞ。
我の願いは一つ――黄泉の國産みだ」
「黄泉の、國産み……?」
「我と共に国を統べる黄泉神が必要なのだ。
たくさんの死者を統べ、国を統べる神々が。
だからこそ、伊邪那美を取り戻さねばならぬ。我の対の命を――」
不意に、闇の主の視線が宙を視据えた。
美しい容が驚いたように幽かに歪んだ。
事代主は訝しんだが、闇の主は何故かそのまま動かない。
闇の主は心ここにあらずといったふうに言霊だけを事代主に向ける。
「八重事代主よ――私の邪魔だけはするな。
死神として黄泉国に来たいのなら止めはせぬ。
黄泉神として迎えてやる」
「――」
「嫌ならば、そなたの愛しい者の処へ戻れ。
いずれ荒ぶる神が来よう。護りきらねば、また封じられるのみ」
短く言い捨て、闇の主は己の影に溶けるように消えていった。
事代主は結界の中で眠り続ける慎也とともに、
置き去りにされたように暫しその場に立ち竦んでいた――
沈黙の中、ふわりと風が揺らぐ。
視線を上げた荒ぶる神が、天津神の神気を感じ取る。
闇の中にも目映い月影。
意識のない美咲の傍らに座り込んでいる久久能智と石楠も
本来ならば在るはずのない天津神の気配に気づく。
「建速様――」
「久久能智、石楠。美咲から離れるな」
「御意に」
大気が揺らぐ。
冴え渡る月影が階を創り、染み入るように辺りを照らす。
荒ぶる神は美咲を護る国津神の前に立ち、訪れを待った。
幽けき月光の中にふわりと降り立ったのは、
三貴神の中つ貴神――月読命であった。
「月読。ここはお前の縄張りではない。
分を弁え、とっとと己のが領域に戻るがいい」
闇の中で一層際だつ美貌が冷たい咲みを刻む。
「月懸かる闇の狭間は我が領域――弟よ、何故姉上の命に従わぬ。
そなたは今生に在っても、荒ぶる神として高天原に叛くか」
「俺は誓約に従って動く。それが我が天命。故にここに在る」
「天命――」
「お前の天命もまた、別に在る。天照に乞われて来たのか?
相変わらず、逆らえぬのだな」
「私の天命を、そなたが語る必要はない」
麗しき容が苛立たしげに歪んだ。
だが、それさえも一層美しい。
「視誤るな、月読。
さもなくば、お前も伊邪那岐のように全てを失うことになる。
対の命は、視つけたか?」
「私の対は、姉上だ。それが生まれし時よりの定め。くだらぬ神言を申すな」
「何度言えばわかる。天照ではない。お前の対は」
「黙れ!! 戯言を聞きに来たのではない!!」
突如、月神の神気が鮮烈な輝きを放つ。
同時に、光の剣が美咲をめがけて放たれる。
「!?」
美咲を護る二柱の国津神の神威と月神の神威がぶつかり合い、
ほんの一瞬、白光に包まれた。
咄嗟に、荒ぶる神が結界を敷き、さらなる神威で覆い隠す。
光が消えた時、そこに月神の姿はなかった。
「中つ貴神は……?」
久久能智と石楠が眉を顰める。
「ここだ」
傍らで響く言霊に、国津神が驚き、荒ぶる神が振り返る。
意識の無かった美咲が目を開けている。
立ち上がるその姿は紛れもなく美咲だけ。
だが、その気配は月神のもの。
月神の神気が揺らめく。
美咲の口から月神の言霊が漏れる。
「母上様を傷つけられたくなければ下がれ」
美咲の顔で、月神が微咲む。
神気が相まって、神々しい。
国津神が後退る。
「建速様――!!」
「月読、愚かな真似はよせ」
「愚かなのはそなただ、建速!! 高天原に叛くなと言ったであろう!?
高天原が――姉上が、我らの理なのだ。
逆らえぬ。そのようなことは、許されぬ!!」
「違う。天照は確かに天津神の主だが、天の意志ではない。
それよりももっと抗えぬ天命により、俺は動く。
決して、それ以外には従えぬ」
「天命だと!? 太陽神に勝る『大いなる意志』など有り得ぬ!!」
だが、不意に月神の神気が揺らぐ。
月光を覆う、別の神気。
美咲の身体から、月神が容易く弾き出される。
「莫迦な!? 私の神威を弾くなど!!」
月の貴神の神威を弾き出すそれは、美しい神気を揺らめかせる。
「夜の御方で在っても、母上様にそのような無体は許されませぬ。
麗しき月神よ、お戻りなされませ」
美咲の口から、別の言霊が響いた。
美咲の腕が上がり、その手から神威が放たれる。
「何!?」
包み込むように、神威は月神を取り巻き、優しく縛りつける。
視る間に、月神の容が苦痛に歪む。
「何者だ!? 母上様ではないな!!」
「女神の微睡みを妨げてはなりませぬ。いずれお戻りになります」
強制的に戻される前に、月神は優しい呪縛を断ち切った。
そして、するりと闇の中にその姿を消した。
同時に、美咲の身体を包んでいた神気も消える。
力無く崩れ落ちる美咲を、荒ぶる神が駆け寄り受け止める。
「美咲!?」
「母上様!!」
だが、月神が顕れる前までのように、美咲は静かに眠り続けている。
「建速様、今の神威は……」
「母上様ではございませぬ。水や風の神威でもありませなんだ。
我々国津神の知らぬ加護があるのですか」
不安げな国津神に、荒ぶる神は腕の中の美咲を抱く腕に力を込める。
「わからん。だが、俺達の与り知らぬ何かがあることは間違いない。
伊邪那美独りの神威では、決して黄泉国から逃れ、
今生まで隠れていることは出来なかったはず。
伊邪那美が真に目覚めるまで、俺達は護るだけだ」
暗闇の回廊に佇んでいる自分に気づいた時、己貴は驚いた。
何故このようなところにいるのか。
「己貴!?」
自分を呼ぶ声。
すぐに己貴は振り返る。
「兄上!?」
穴持がそこにいる。
己貴は兄に駆け寄る。
「兄上、此処はどこです? 何故我々は此処に?」
「覚えておらぬのか。
私達は神去ったのだ。此処は、黄泉国へと通じる路だ」
「私達が死んだと!?」
「その通りだ」
向かう先の更なる向こうから近づく声。
穴持と己貴は慎重に進みながら目を凝らす。
暗闇に浮かぶ闇より濃い長い髪。
灯る明かりのような琥珀の瞳。
回廊に佇む、麗しき闇の神。
「何者だ!?」
「我は黄泉国を統べる闇の主。
死を統べる神――黄泉大神」
滑るように近づくその姿は冴え渡る闇の神気を身に纏い、
どこか暗く冷たい回廊にあって、
不思議と包み込むような穏やかさを持ち合わせていた。
形のいい唇が微咲みを象ると、冴えた美貌ですら優しげに視える。
「歓迎する――と言いたいところだが、造化三神よりの願いだ。
黄泉路を降ることは未だ叶わず」
どこか憂いを帯びた言霊が零れる。
その言霊とともに、己貴は、暗闇の回廊から
俄かに己の身体が引き離されていく感覚を味わっていた。
「この感覚は――」
隣にいる兄を視やるが、穴持にはそのような感覚はないらしい。
「母の執念とは凄まじい。死せる神をも引き戻すとは」
闇の主が手を挙げると、
暗闇の回廊に地上の様子が水鏡のように浮かび上がる。
「あれは――母上?」
穴持と己貴の母、刺国若比売が視える。
婚礼の知らせを受けて、急ぎやってきたのだろう。
無惨に焼き尽くされ、散り散りになった息子の身体の欠片を抱きしめ、
空を仰いで泣き叫んでいる。
泣きながら、天へと奏上する刺国若比売は憐れだった。
声までは聞こえないが、天は刺国若比売の奏上を聞き届けたらしい。
まばゆい光が差して周囲を照らす。
そうして、雲を抜けて二筋の光が降りてきた。
光は焼焦げた地に着くと、視る間に二柱の巫女比売に変わる。
造化三神の内の一柱、神産巣日神の御子、
刮貝比売、蛤貝比売が目を閉じ、
両手を大気へと伸ばす。
神威を発現させ、
焼焦げ、散り散りになった身体を再生させようとしている。
「そうだ、八十神の兄上の神威で、私達は……」
穴持と己貴を目がけて放たれた八十神全ての神威。
怒りと憎しみに満ちた神威は、
灼熱の塊となって二柱の神を焼き尽くし、押し潰した。
思いもかけぬ八十神の攻撃に、気づく暇も、為す術さえもなかった。
「造化三神の頼みでは断れぬ。
黄泉国の手前、暗闇の回廊までなら死者の数には入れぬ。
そなたらの母が命を懸けて奏上したのでな」
天津神の神威と国津神の神威が交わり、増幅され、満ち溢れ、
散り散りの肉片がゆっくりと肉体を復元していく。
刺国若比売は命を燃やすかのように神威を発現させる。
理を曲げてまで取り戻したいと願う母の心が伝わる。
神気が揺らぎ、
神威が満ちる――
「誓約は成された。
もとより死すべき定めではない故、成すべきことを成す為、
未だ黄泉国へ足を踏み入れることは罷りならぬ。
疾く去れ」
「戻れる!? 兄上、戻れるのですね」
兄を振り返る己貴。
だが、穴持は、優しく首を横に振る。
「今戻れるのは独りだけだ。私ではない。そなたが戻る」
その言霊に耳を疑う。
「八上比売に、私の想いを伝えてくれ。きっと黄泉返る。
そして、再び迎えに往くと」
「兄上、駄目です。一緒に戻るのです」
穴持は己貴に向かって咲って視せた。
抗えぬ力が、己貴を兄から引き離す。
「兄上、嫌です! 共に――」
伸ばした手も、もう届かない。
「己貴、比売を頼む――」
「兄上ぇ――――――っ!!」
密かに知らせを受けた八上比売は、
素菟の後について黄昏の中を駆けていく。
また夜にと言霊を交わし、別れたのはほんの朝のことではないか。
亡くなったなどと、死んだなどと、虚りだ。
何かの間違いだ。
木々の間を縫って、八上比売はひたすら走る。
早く、早く。
その容を視せて。
今日の朝のように愛しさを隠さずに視つめて。
あの夜のように優しく囁いて。
それだけでいい。
「比売様、この先に!」
前を走る素菟が叫ぶ声に、八上比売は顔を上げた。
神気が輝いている。
今までに感じたことのない大いなる神威を感じる。
強い力――死の穢れさえかき消すほどの。
そして、その神威の中心にいるのは、一柱の男神。
生まれたてのように一糸まとわぬ裸身が、装束を再構成し、まとっていく。
神気の揺らめきはそのままに、静寂が戻る。
美しき天津神の二柱の女神が、一礼してふわりと天へ昇る。
そして、矢の如く雲の彼方へと消え去った。
後には神威を使い果たし、気を失って倒れこむ母神の姿と。
立ち尽くす麗しき男神の姿が。
長い髪が、ふわりと風に揺れて、誘われるようにゆっくりと振り返る。
その容は。
己貴のようでもあり、穴持のようでもあった。
己貴ではなく、また穴持でもないようであった。
ただ、とても、以前とは違う――別な神に視えた。
八上比売は、輝くほどの神気に圧倒されながらも、震える声で問う。
「貴方様は……」
「……八上比売……」
その一声で、わかった。
この方は、穴持様ではない。
自分の夫ではない。
涙が零れる。
「素菟、母上を運んでくれ」
素菟が一礼して、倒れている刺国若比売を運んで往く。
後には、八上比売が残される。
ただじっと、八上比売は目の前の男神を視つめていた。
応えを聞いていないのに、わかってしまった。
それでも、聞かねばならなかった。
「あの方は、穴持様は、何処に……」
「神去られた――」
己貴は崩れ落ちる八上比売を抱きしめた。
「何故ですか――!? 何故、このようなことに……っ」
「すまぬ。八上比売」
共に愛しい者を喪って、二柱の神は泣き続けた。




