3 始想
美咲が目を覚ますと、そこは再び暗闇であった。
仰向けに倒れていた身を起こすと、
自分の姿だけが暗闇にぽっかりと浮かんでいる。
「慎也くん」
応えはない。
声を大きくしても同じだった。
「建速? いないの?」
必ず救けると言った建速も姿を顕さない。
美咲は途方に暮れた。
胸元にかかる勾玉の首飾りに触れてみる。
この特別な暗闇のせいなのか、首飾りは仄かに淡い光を発していた。
名を呼べば神威が解放されると聞いたが、肝心の名前が思い出せない。
まだ、その時ではないということか。
説明を受ける間もなく、根の堅州国に入った途端、
強い想いに引きずられるように意識が途切れ、慎也のところへ行った。
あれが慎也の夢なら、
今ここに一人でいるのも、誰かの夢の中と言うことなのか。
何が、自分を呼んだというのか。
「え……!!」
淡い光を放っていた首飾りが、一瞬だけ熱を持ったように感じた。
だが、それはほんの一瞬で、光も熱と共に消えていた。
その代わり、目の前の暗闇に小さな光が見える。
点のように小さかったそれは、近づくほどに僅かに大きさを持ち、
美咲の目の前に来る頃には両手で包み込めるほどの大きさとなっていた。
美咲はその光をじっと見つめて、思わず息を漏らした。
「……」
小さく可愛らしい神が光の中に立っている。
髪は左右に分けて下げ髻にし、筒袖の衣と褌を身に付け、
腰を帯で、膝下を足結で締めている。
首には美咲が今着けているのと同じような勾玉の首飾りが揺れている。
顔立ちは、青年のようにも少年のようにも見えた。
思わず美咲は両手の平を上にしてその光を掬うように差し伸べた。
光の中の神は、そのまま美咲の手の平に足を着ける。
僅かな質感に、思わず微笑む。
「あなたは、どなた?」
「我は小さき神。しばし、我にお付き合い頂きたい、女神よ」
身体は小さくとも、声はきちんと美咲に届く。
「記憶がなくても、いいのですか?」
「記憶がなくとも、根の堅州国に来られし貴女様は
紛れもなく太古の女神伊邪那美様で在らせられる。
貴女様を待っておりました。ずっと、お捜していたのです」
「伊邪那美を?」
「我にはわかる。貴女様が、憐れな神々を――我々を、
この呪われた微睡みから救ってくれると」
「救う……? 呪われた微睡みとは、何なのですか?」
小さき神は、密かに咲んだ。
「それは、叶えられなかった夢。
私と己貴の、命を懸けた願いだった――」
不意に、何かに引かれる感覚がした。
美咲は、手を下げ、小さき神を静かに下ろそうとした。
だが、小さき神は片手を上げてそれを遮る。
「何かに、呼ばれています」
「恐れることはない、女神よ。そなたは夢を視るのだ。過ぎ去りし神代の夢を。
夢はそなたを傷つけぬ。身を委ねよ。
そして、叶えられなかった最後の夢を叶えて欲しい」
神の言霊に、美咲は抗うことを止めた。
そのまま、身を委ねる。
首飾りが、また熱を放っていた。
温かく、包み込むように。
波の音が聞こえる。
潮の香りがする。
暗闇が溶けるように消え去り、目の前に、海が開けた。
そこから動いていないのに、意識だけが飛び去った。
美咲はその時、自分が風になったと思った。
「己貴、大丈夫か」
大己貴命が目を向けると、
すぐ上の兄の大穴持命が心配そうに視ている。
「荷物をこちらへ。半分私が持とう」
「ならぬ、兄上。私が言い出したのです。これくらい、何ともない」
「だが」
「兄上、妻問いに往くのだ。遅れてはならぬ。
他の兄上に八上比売をとられてもよいのですか?」
躊躇う穴持を、励ますように押しやる。
「――すまぬ、己貴」
「謝らなくてよいのです。自分から言い出したのですから。さあ、お早く」
何度も振り返りつつ先を急ぐ兄に、己貴は咲って手を振る。
己貴は、自分とよく似たこのすぐ上の兄がとても好きだった。
五つも離れていても、きっと双子に生まれるはずだったのが、
何かの間違いで兄が先に生まれてしまったのだと思うくらいに。
だからこそ、八十神達が八上比売に妻問いに往くというのを
荷物持ちとしてついてきた。
兄達の中で一番優しく一番視目麗しい穴持を、己貴は心配だったのだ。
自分が往かなければ、荷物持ちを任されるのは穴持であったのだから。
荷物持ちは当然遅れる。
自分がすれば穴持は先に往けるし、八上比売の目通りにも間に合う。
それでいいのだ。
できることなら、八上比売は穴持と結ばれて欲しいと、切に願っていた。
格段急ぐ理由もない己貴は大荷物を抱え、景色を楽しみながら先を進む。
気多の岬にはもうすぐそこだった。
海からの心地よい風が吹いている。
左手に海を視ながら歩いていると、
波の音に混じってなにやら呻くような泣き声がする。
声の方に向かうと、
砂丘から少し離れたところに俯せで倒れている者がいるではないか。
「どうした、大丈夫か」
持っている荷物を置いて己貴が駆け寄ると、
上半身に薄絹だけ纏った幼い少年神が身を震わせて泣いている。
触れようとしたが、
その背が薄絹からでも怪我で真っ赤になっているのがわかる。
ゆっくりと容を上げた少年神は、最初こそ己貴の顔を視て驚いていたが、
小さく首を振ると、さらにさめざめと泣き出した。
「私は素菟。
怪我をしているところを視目麗しい神々方と出会いました。
貴方様とよく似ておいでの麗しき神が、
海に身を浸し、そうして風に身を晒すようおっしゃったのです。
そうすれば、傷が治ると。
ですが、癒えるどころかあまりの痛みに動くことも出来ず、
こうして苦しんでおりました」
それはきっと穴持だ。
恵み豊かな塩は、清めの力がある。
傷口を早く癒すには一番だった。
己貴は担いでいた荷物も下ろすと、素菟をそっと抱え上げ、
痛みに震える小さな身体を河口まで運んだ。
そうして、河へと入り、素菟の身体を真水に浸した。
背中に張り付いていた薄絹が傷口から優しく剥がれる。
傷口はあらかた塞がっていた。
海水のおかげであろう。
これならば大丈夫と、
己貴は河口近くに生えていた蒲の穂の花粉を背につけてやった。
痛みがようやく治まった素菟は、身なりを整えると己貴の名を問うた。
己貴は軽い気持ちで名を告げた。
「兄達は一足先に八上比売のところに参った。
私はのんびりと荷物持ちをつとめておるのだ」
「八上比売様の――あのように残忍な方々が比売様の求婚者なのですか!?」
怒りに震える素菟に、己貴は慌てて言い募る。
「兄上は残忍ではないし、申したことは間違いではない。
塩で傷口を清めると怪我の治りが早いのだ。
確かに痛みは伴うが、それは致し方のないこと」
「いいえ!! あのような苦しみを味わわせるなど悪しき神々でございます!!」
素菟はすくっと立ち上がると、優雅に一礼した。
「ご安心召されよ。
兄神様達は、決して八上比売を娶ることはできぬでしょう」
そうして、あっという間に駆け去っていってしまった。
「ま、待て!!」
そう叫んでも、もはや素菟は遙か彼方となっていた。
「困ったことにならぬとよいが……」
嫌な感じを覚え、己貴は放っておいた荷を持つと自分も先を急いだ。
日も暮れる頃、己貴は八上比売の屋敷へと着いた。
「己貴、遅かったではないか!」
門をくぐると、心配で待っていた穴持が己貴の到着を迎えてくれた。
「兄上。八上比売はいかがでしたか?」
「ああ。とても麗しい比売だった。
他の兄達より、私と長くお話ししてくださった。名も呼んでくださった」
照れたように告げる兄を、己貴は微咲ましく視つめた。
「ならば、比売も兄上を気に入ってくださったのでしょう。さすがは兄上」
安心した。
この兄を視れば、八上比売とてすぐにわかる。
穴持の話を聞いていると、他の兄神達が呼びに来た。
どうやら八上比売が八十神全員を呼んだらしい。
穴持に誘われ、己貴もついていった。
穴持の恋う八上比売の容を一目視てみたいと思ったからだ。
大広間に着いた時、すでに部屋は兄神達でいっぱいだった。
穴持と己貴は部屋の一番後ろに立っていた。
奥から、八上比売が出てくる。
ざわついていた広間がしんとなる。
上座に立つ八上比売は、とても美しい比売だった。
だが、どこか顔色が悪い。
広間を視渡し、八上比売は優雅にお辞儀をした。
「今日はお出でくださりありがとうございます。
たくさんの方々からの訪れを嬉しく思います」
八上比売は涙を堪えるような眼差しで、穴持を視ていた。
「私は、大己貴様に嫁ぎます」
八十神達が顔色を変えてざわめく。
己貴も蒼白となって穴持と容を視合わせる。
「己貴……」
「兄上、違います。これは何かの間違いです!!」
名も告げていないのに、目通りもしていないのに、
何故八上比売が自分の名を告げたのか、己貴はもう一度八上比売の方を視据えた。
そして、一点を凝視した。
「素菟――」
そう――八上比売の後ろには、気多の岬で救けた素菟が控え、
にっこりと微咲んでいた。
一番いい部屋を宛われて、己貴はいらいらと中を歩き回っていた。
「素菟のせいで、とんだ事になってしまった――」
このままでは八上比売の夫とならねばならなくなる。
部屋に案内された折りに兄の穴持を呼んでくるよう頼んだが、
来てくれるだろうか。
不安に駆られ、いっそ自分が往こうと決めた時、扉が開き、穴持が姿を視せた。
安堵に、己貴は兄へと駆け寄る。
「兄上、救けてください。
このままでは私は八上比売を娶らねばならなくなる」
「そのつもりではないのか?」
感情を抑えたような硬い声音に、己貴は慌てて言い募る。
「そんなつもりは初めからありませぬ。
兄上が私の気持ちを一番おわかりでしょう!?」
己貴は事のいきさつを穴持に語った。
初めは強ばったように頑なな穴持の表情が、徐々に驚きで緩んでくる。
「なんと……あの素菟が」
「全て誤解なのです。
きっと素菟は誤解をそのまま八上比売に告げたのでしょう。
だから、目通りをしてもいない私の名を比売が知っていたのです」
涙を堪えるように穴持を視て、己貴に嫁ぐと言ったのはそのせいだ。
己貴は兄の手を握り、告げた。
「兄上、今宵八上比売の寝所へは兄上がお往きください。
誤解を解くのです。比売もきっとわかってくださいます」
夜が更けて、八上比売は夜着を身に纏い、窓辺に座り込んでいた。
これから夫となる神を迎えようとしているのに、心は少しも晴れなかった。
たくさんの男神に出逢ったが、
一目視て心を奪われたのは大穴持命だけだった。
この方が自分の対の命だと思った。
穴持を選ぶことを迷わなかった。
素菟が戻ってきて、八十神の――穴持の行いを告げるまでは。
だから、己貴を選んだ。
でも。
顔立ちは似ていたが、それ以外何もかも違う。
己貴は自分を視ても、
穴持のように熱を帯びた眼差しで視つめてはくれなかった。
そして自分も、
穴持に感じたような胸のときめきを感じることはなかった。
ぽつんと、堪えきれずに涙が零れる。
「――」
声を殺して、八上比売は泣いた。
やがて部屋へ近づいてくる気配と密やかな足音を感じ、八上比売ははっと顔を上げた。
足音が部屋の前で止まる。
己貴が来たのだ。
泣き顔を視られぬように、八上比売は褥へと戻り、傍らの明かりを吹き消した。
途端、暗闇が訪れる。
同時に部屋に入ってくる気配がした。
頬に伝う涙を慌てて拭う。
そうして居住まいを正して待った。
だが、褥の前まで来ても、それ以上動く様子がない。
「……己貴様?」
「八上比売……」
呼ぶ声が違う。
八上比売にはすぐわかった。
年若い己貴とは違う、もっと年上の、落ち着いて大人びた声。
ずっと聞いていたいと思った声、だった。
心が震える。
「誰です!? 己貴様ではないのですか?」
咎めるように響く声に、あくまでも優しくかかる声。
「私です、八上比売。穴持です」
「穴持様!! 何故ここに!?」
「弟の己貴が私を慮って、入れ替わってくれました。
お話を聴いていただきたくて」
暗闇の中、穴持が近づく。
思わず八上比売は座り込んだまま後退った。
それを感じ取ったのか、穴持の動きがそれ以上止まる。
「言霊に誓います。貴女様に、虚りを申しませぬ」
「何をおっしゃりたいのですか……?」
「その前に、お聞かせください。
己貴を選んだのは、素菟の話を聞いたからですか?」
「――そうです」
そうでなければ、穴持を選んでいた。
じわりと、また涙が滲んだ。
「誤解なのです、八上比売。
私は素菟を痛めつけるために海水に身を浸せと言ったのではございません」
「え……?」
暗闇の中で必死に経緯を話す穴持の様子は、
虚りを述べているようには感じられなかった。
そして、何より、穴持の言霊を八上比売は信じたかった。
「八上比売、改めて妻問い致します。
私の妻になっていただきたいのです」
真摯な言霊に、胸が高鳴る。
「貴女を愛しく想うております。このような気持ちは初めてなのです。
どうか私を受け入れてください。貴女なしでは、生きられませぬ」
「……私とて、想いは同じでございます。
素菟に告げられたとき、悔しくてなりませんでした。
何故、もっと遅く戻ってこなかったのかと」
穴持が八上比売の白い手をとる。
「ああ――八上比売。私を選んでくださるおつもりだったのですか」
八上比売が穴持の手に、もう片方の手を重ねる。
「お慕いしております。穴持様。
貴方様がお出でになり、私に妻問いしてくださって、
本当に嬉しかったのです」
手を引かれて、
八上比売は穴持の胸の中へ倒れ込むように抱き寄せられる。
八上比売は息が止まるほど強く抱きしめられて喜びにうち震えた。
「穴持様、苦しゅうございます」
八上比売の声に、はっとしたように穴持の力が緩む。
「すみませぬ、比売。つい」
暗闇の中、慌てて八上比売の顔を覗き込み、
確かめようとする穴持に、八上比売は思わず咲ってしまう。
「比売――?」
近づいた穴持の頬を両手で引き寄せ、八上比売からくちづける。
驚いて強ばっていた穴持の身体が、
優しい触れ合いだけで離れていこうとする唇に気づいて、
追いかけるように塞いだ。
そうして、もっと深くくちづけあう。
とろけるように甘いくちづけにのめりこむように酔った。
そのまま、褥に倒れ込む。
帯がほどかれ、白い肌が温もりに包まれる。
肌を辿る吐息に、優しく与えられる熱に、八上比売は身を委ねる。
幸せだった。
これ以上はないと言うほど。
日も高くなった頃合いに、穴持は己貴の部屋へと戻ってきた。
「兄上。昨夜はいかがでした?」
「おお、己貴。そなたのおかげだ。八上比売は、私を受け入れてくださった。
噂に違わぬ愛しく麗しい比売であった」
喜びを隠せぬ穴持の様子に、己貴は微咲んだ。
「兄上と八上比売がお幸せならば私はそれで。
ですが、他の兄上達には暫し話さぬ方がよろしいでしょう」
「うむ。折を視て、私もそなたへの誤解を解いておく。
独りにはなるな。常に私といろ」
「はい、兄上」
己貴は嬉しかった。
穴持が幸せそうなこと、誤解を解くことが出来たことが。
後は兄の八十神達の誤解さえ解ければ、自分は心おきなく旅立てる。
だが、この時、己貴も穴持も気づかなかった。
八十神である他の兄が部屋の外に潜んでいて、話を聞いていたことを――




