2 真罪
「母上様、母上様っ!!」
力を失って崩れ落ちた美咲の身体を、
久久能智と石楠が支えながら呼びかける。
「美咲!?」
荒ぶる神の手が美咲の顎を捕らえ、上向かせる。
だが、美咲の意識が戻らないのを視て、舌打ちした。
「神霊が身体から抜け出ている。何かに連れ去られた」
「建速様、母上様は何処に!!」
「連れ去られたとは、どういうことなのですか!?」
美咲の首にかかっていた首飾りの勾玉が淡い光を放つ。
建速の手が、首飾りに翳された。
「――風がついていった。ならば、美咲は護られている。
誰が喚んだにせよ、傷つけるつもりではないらしい。
確かに、敵意は感じなかった。どうしても駄目なら、追って連れ戻す。
ひとまず待とう」
「追う? 母上様の神霊を追えるのですか?」
建速は美咲をそっと草の上に横たえる。
眠っているようにも視える美咲の頬に優しく触れる。
「追える。その為に、生まれてきたのだ。それが、俺の誓約でもある」
「須勢理比売、何をお怒りですの」
木之花知流比売が声をかけると、
須勢理比売は不機嫌さを隠しもせずに睨みつけてきた。
建御名方と事代主は須勢理比売の傍らに控えているが、
どちらも木之花知流比売を硬い表情で視ている。
禍つ言霊で事代主を縛っているのだ。
無理もない。
だが、妹にした仕打ちを考えれば当然のこと。
呪詛で縛っているだけなのだから、優しいものだ。
「天孫の日嗣の御子だ。
手足の一本でももいでやろうと思うたに、父上様の神威が働いてちらとも傷つけられぬ」
記憶がないせいか自分は日嗣の御子ではないといい、父に何を吹き込まれたのか、
こともあろうに自分は伊邪那岐の黄泉返りなどと抜かした。
神威も神気もなくとも、忘れるはずがない、あの神霊は天孫の日嗣の御子だ。
自分達から豊葦原を奪った憎き天津神。
策を弄して建御名方を捕らえ、命と引き替えに事代主に國譲りを誓わせた。
間違えるはずもない。
だが、神威を放っても、自分達の神威は容易くはじき返されてしまった。
剣で傷つけようとも、身体に触れる前にはじかれる。
「守護がついているなら、程なく荒ぶる神もこちらに来られましょう」
「どうするのだ!! 父上様の神威には太刀打ちできぬ。
このままでは日嗣の御子をみすみす取り返されてしまう」
殺すこともできずおめおめと返すつもりはない。
それは、この場にいる誰もが思っていることだった。
木之花知流比売はうっすらと嗤った。
「荒ぶる神が、決して追えぬ所へ連れ去ればよいだけのこと」
「父上様が、決して追えぬ場所……?」
「黄泉国です」
「!?」
言われて、三柱の神は驚く。
確かに、荒ぶる神でも、黄泉国まではさすがに追えないだろう。
往ったことがないのだから。
そして、闇の主もそれを許すまい。
「闇の主とは知己でございましょう? 喚び出して頂きたい。交渉は私がします。
それまでに須勢理比売は――荒ぶる神が来たら時間を稼いでいてください」
「――畏れながら」
背後に控えていた事代主が声をかける。
「――許す。申せ」
木之花知流比売が事代主にそう告げたとき、
ちらりと建御名方と須勢理比売は苛立ちが募らせた。
建御名方は大事な異母弟を、須勢理比売は子飼いを、
堕ちた比売神に奪われたように思い、面白くない。
「闇の主をお喚びするのは私にお任せを。
兄上も母神も煩わせることはございませぬ」
「よかろう。案内せよ」
「事代!!」
建御名方が異母弟を呼び止める。
その眼差しは不安げに揺れていた。
「大丈夫です。兄上。すぐに戻ります故、こちらでお待ちください」
安心させるように微咲み、つと事代は須勢理比売に目を向け、
すぐに目を逸らして一礼して木之花知流比売に従ってその場を去る。
「日嗣の御子のいる部屋へ」
「うむ」
部屋に入ると、
捕らえた神霊は結界の紋様の上で横たわり、死んだように眠っている。
「騒ぐ故眠らせました。
傷つけることはできずとも、深い眠りに誘うことは言霊で事足りました」
木之花知流比売は美しい容を怒りに歪ませつつも、
冷ややかに眠る男を視下ろす。
妹を無惨に死なせた憎い男神の黄泉返り。
決して許さない。
無傷でなど、決して返すものか。
そのためには、荒ぶる神を出し抜かなくてはならない。
「闇の主を喚べ――」
「その必要はない。すでに在る」
美しい声が響いて、はっと容を上げると、
事代主の前に美しい黄泉神――闇の主が立っていた。
闇よりもなお濃い長い髪と長い衣がよく似合っていた。
「そなたが、黄泉神か」
「さよう。お初にお目にかかる。
堕ちたとはいえ、さすがに国津神の幸わいとまで謳われた比売神――美しい」
木之花知流比売は、長く美しい指を持つ手が、
自分の手をとり甲にくちづけるのをじっと視ていた。
「戯言など聞いている暇はない。取引を――そのために呼んだのだ」
「日嗣の御子の身柄を私に差し出すのか? 何が欲しい?」
「差し出すのではない。一時、この身体を黄泉国で預かってくれればよい。
視返りはそちらが望むものを」
「我の願いはただ一つ――伊邪那美だ」
「よかろう。ことが終われば豊葦原を探し出し、女神を引き渡そう。
この男はこともあろうに私の妹と太古の女神を視誤った。
我ら国津神が探せば間違いはない。これでよいな」
「よかろう。美しき女神には逆らえぬ」
揶揄するような闇の主の物言いに、木之花知流比売は挑むように睨みつける。
「では、言霊に誓え。さもなくば信じられぬ」
「私が、裏切ると?」
「男など容易く裏切る。そこの日嗣の御子のようにな」
その言霊に、黄泉神は咲った。
その場に相応しからぬ美しさで。
「何がおかしいのだ」
「いや――裏切りは、果たして、どちらにあったのか……」
黄泉神が詠うように語る。
つと伸びた指先が、木之花知流比売の額に触れた。
咄嗟に、比売神はその手を振り払った。
「何をする、無礼な!!」
だが、黄泉神は今度は美しい顔を歪めるように嗤った。
背筋を凍らせる、冷たい嗤いであった。
「愚かな比売神。
そなたにも過ぎ去った夢を視せてやろう。
そなたの愚かさがもたらした、
真実の物語を――」
「まあ、御子様。何やら楽しげでいらせられる。
どなたを思い返していらしたのですか」
長く美しい髪を後ろで高く結い上げている天津神の巫女神が声をかける。
美しい豊葦原を視下ろす美しき天津神――天孫の日嗣の御子と、
傍らには美しき巫女神――天之宇受売命が在る。
不意の物思いを破られ、日嗣の御子は慌てたように視線を向けた。
「いや、早く全てが恙なく終わらぬものかと考えていたのだ」
「そうでしょうね。
でなければ、愛しい嫡妻様のもとへは帰られませぬ故」
「宇受売――」
苦虫を噛みつぶしたような容に、巫女神は微咲む。
「知らせが届きました。嫡妻様はこちらに向かっておられるとのこと。
昼過ぎには着くと。何やらお話があるそうですよ」
「本当か!?」
驚きと喜びを隠さぬ日嗣の御子に、姉のように視護ってきた巫女神は優しく応える。
「嫡妻様の部屋は用意させましたが、先に御子様のお部屋へお通しします。
今日は、目通りを願っている国津神がおります故、そちらにお会いになって、
あとは嫡妻様とごゆるりとお過ごしなさいませ。
邪魔はせぬよう申しつけておきます故」
「わかった。連れてくるがいい」
巫女神は一礼して、国津神を呼びに戻った。
思いがけぬ知らせに、心が躍る。
愛しい妻に早く逢いたい。
早く國譲りを終えて豊葦原を平定させれば、もう決して傍から離す事はするまい。
一目で惹かれた美しい国津神の比売神。
誰にも奪われたくなくて、強引に父である大山津見に願い出て妻とした。
双子の姉比売が自分も従うと言い募ってきたが、欲しいのは妹比売唯独りだ。
同じ顔をしていても神霊が違えば意味がない。
愛しく思うものはいつも一つだ。
木之花咲耶比売だけを娶り、交合った一夜は素晴らしかった。
恥じらいながらも触れられる喜びに震えていた美しい女神。
甘い声とともに切れ切れに名前を呼ばれると、愛しさはいっそう募った。
もうすぐできる館に比売を迎えて、昼も夜もともに過ごす。
この美しい豊葦原で、美しい比売と、民草を護って生きてゆくのだ。
胸を満たす幸福感に、日嗣の御子は酔った。
「天孫の日嗣の御子様でいらせられますか?」
かけられる声に、日嗣の御子は振り返った。
そこには、背の高い、優しげな顔立ちの国津神が立っていた。
「そなたが、目通りを願っているという国津神か」
「は、お初にお目にかかります。八島士奴美と申します。
父は建速須佐之男命、母は櫛名田比売命です」
すっと跪き、八島士奴美は頭を垂れた。
「おお、荒ぶる神は我が祖父でもある故、そなたは我が叔父でもあるのだな。
立ってくれ、豊葦原の話を聞かせてくれ」
「畏れ多いことにございます」
日嗣の御子と八島士奴美は驚くほど意気投合した。
優しく語る八島士奴美は日嗣の御子に安心感を抱かせるに十分だった。
血の繋がりがあることも警戒心を解く一助ともなった。
だから、いつもなら短い時間で終わる目通りも、
尽きぬ会話で長く楽しいものとなった。
そろそろ暇乞いをするという八島士奴美に、日嗣の御子は聞いた。
妻はいるのかと。
もしいないのなら、妻の双子の姉比売と引き合わせるつもりだった。
血縁がさらに縁続きになるなら、こんなに喜ばしいことはない。
日嗣の御子は、それほどに八島士奴美を気に入っていた。
「まだおりませぬが、近々娶る予定です」
照れたように言う八島士奴美に、
内心がっかりしたものの日嗣の御子は微咲んだ。
「諦めかけていたのですが、ようやく色よい返事をもらうことができました。
長く待っていたかいがありました。すでに子もおります」
「おやおや。子もおるのに長く待たせるとは、つれない女神であるのか?」
「根の堅州国には往きたくないと言われて。
ですが、ようやく心を決めてくれたようでとても嬉しく思っております」
誓いの印にと文とともに送られてきたものだと、
八島士奴美は懐から大切に包んだものを取り出した。
それは、花を象った髪挿しの飾り房だった。
その飾りを、どこかで視たと、日嗣の御子は思った。
「して、その比売の名は?」
うかつにも、日嗣の御子は聞いた。
八島士奴美は嬉しそうに答えた。
「国津神の幸わい――神阿多都比売にございます」
「なに……?」
どくんと、胸がざわめいた。
その名の比売を、日嗣の御子は知っていた。
「――もう一度、その――比売の名を教えて頂けぬか」
「大山津見命の娘、神阿多都比売でございます。
咲く花のごとき美しさ故に、木之花咲耶比売とも喚ばれております」
風が、木々の間を抜けていった。
「――御子様、嫡妻様がお着きになりました」
背後から、宇受売の声がした。
振り返らずに、日嗣の御子は静かに応えた。
「――今往く。誰も近づけるな」
「御意に」
「それでは、私もこれにてお暇致します」
八島士奴美が一礼して宇受売とともに去っていく。
日嗣の御子は、ゆらりと身体が傾ぐのを感じて、
咄嗟に近くにあった木に身を寄せた。
心が冷えていくのを感じた。
裏切ったのか。
自分の居ぬ間に、他の男の妻問いを受けたのか。
確かに、正式な婚儀を上げたわけではない。
唯一度の交合い。
それでも、自分には正式な妻問いだった。
受けてくれたからこそ、身を任せてくれたのではなかったのか。
あの夜は虚りだったのか。
神気が揺らぐ。
いつもは神々しく眩い温かな神気が、
初めて感じる嫉妬と屈辱、憤怒で、禍々しく冴え渡っていった。
「裏切っておいて此処に来るとは、どういうつもりだ――」
ふらりと、日嗣の御子は歩き出した。
自分を裏切った女の言霊を聞くために。
夢から覚めると同時に、木之花知流比売はその場に頽れた。
その眼差しは、遙か彼方に過ぎ去った神代の頃を視るように虚ろだった。
妹が身罷ったあの日、
日嗣の御子は奇妙なものを視るように髪挿しを視つめていた。
欠けのない、妹比売の髪挿しを。
名を取り替えたことを、自分は背の君に言わなかった。
妹も、言わなかったろう。
背の君は、日嗣の御子に会ったのか。
妻問いを受けたのが、木之花咲耶比売だと言ったのか。
送った髪挿しの一房を、視せたのか。
黄泉神が視せた夢が真ならば――
たどり着いた真実に、木之花知流比売は身を震わせた。
そして、美しい言霊が、残酷な真実を決定づけた。
「日嗣の御子のせいではない。
そなたのために――そなたのせいで、
妹比売は神去らねばならなかったのだ――」
それが、真実――!!
「……あぁ……」
愛していたのに。
自分のしたことが、妹を死に追いやったなんて。
「憐れな木之花咲耶比売――愚かな比売神よ」
のろのろと、堕ちた比売神は容を上げた。
それは、一体誰のこと?
憐れなのは、愚かなのは――
美しい黄泉神の琥珀の瞳に、自分が映っている。
禍つ霊を身に纏ったその姿。
霊異に染められた禍々しい御霊。
穢れた神気。
穢れた神威。
何という醜い姿――禍つ神霊。
堕ちた自分に相応しい――これが、罰か。
「ああああああああああぁぁぁぁ――――――――っ!!」
絶望に、比売神は叫んだ。
そして、さらなる闇に堕ちていった。




