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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第三章 禍神ーまがつ神々ー

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10 幻幸


 いつも、遠くから視ていた。


 隠れるように。


 父神は自分以外の男が嫡妻(むかひめ)である須勢理比売(すせりひめ)と会うことを

 よく思わなかった。


 例えそれが、幼子であろうとも。


 だから、須勢理比売の息子である建御名方(たけみなかた)を慕い、弟と認められるまで、

 事代主は須勢理比売に目通りすることが叶わなかった。


 母神は何故気づかぬのだろう。


 あんなにも狂おしいほどの眼差しで父神が視つめていることを。


 たくさんの妻がいても、他の誰にもあのような眼差しを向けることはない。


 自分を産んだ母――神屋楯比売命かむやたてひめのみことも一夜の契りでその後の訪れもない。


 他の妻も似たり寄ったりの扱いだ。


 二度、三度の訪れはよほど力のある後ろ盾がない限り皆無だった。


 そのように争いなく豊葦原を治め、たくさんの妻を娶ったのは、

 全て母神のためなのに。


 初めて目通りを許されたあの時、事代主は自分の運命を悟った。


 この女神と腹違いの兄のために生きて、死ぬのだと。


 とても美しいのに、氷のように冷ややかな美貌であった。


 切れ長の、けれど意志の強そうな冷たい眼差し。


 (わら)うと艶めかしいだろう唇は引き結ばれている。


 そうだ。


 自分は愛する男が別の女に産ませた子。


 憎まれても仕方がない。

 だが。



――次代の統治者で在らせられる兄上に、何処までも従う所存にございます。

  母神と兄上にこの命を捧げます。如何様にもお使いください。



 驚いたような母神の容。


 それさえも美しい。


 自分も、この方を母に産まれたかった。


 兄を視るような優しい眼差しで、自分も視て欲しい。


 兄がいつも羨ましかった。


 母神が独占し、なおかつ唯一の息子として母神を独占できる兄が。



――そなた、名は?


――八重事代主命やえことしろぬしのみことと申します。


――事代主――言霊を操る者だな。神言(かむごと)を告げるそなたなら(いつわ)りは語れぬ。

  我と我が子に仕えることを許そう。



 僅かに微咲(ほほえ)む母神。


 その()みは確かに自分に向けられている――何という喜び。


 胸が高鳴る。


 ああ。

 きっと。


 自分は父神の想いから産まれたのだ。


 だからこんなにも、この母神に心惹かれるのだ。


 愛しくて愛しくてならぬ方。


 この命に代えても、お護りする。



 それが、自分に立てた誓約(うけい)だった。



「――さて、本当に護れるのか?」



「!?」


 己の夢に滑り込んできた他者の気配に、事代主は褥から飛び起きた。


 暗闇の中、己の息づかいだけが響く。


 静寂の中に幽かだが黄泉神の――闇の主の気配がする。


 根の堅州国と黄泉国の闇は同質のものだ。


 そして、闇の主の領域でもある。


 今、事代主は憑坐(よりまし)の中にいる。


 封じられていた神霊(みたま)のみの自分が豊葦原に降臨し神威を使うためだ。


 荒ぶる神に傷つけられた憑坐の命を繋ぎ止めるためにも人間の内に留まらねばならぬ。


 その分、闇の主が死に近い眠りの中の夢に紛れ込んでくるのも容易い。


 護れるのかと、声は問うた。

 

 直前まで視ていたのは――愛しい女神の夢。


 嫌な予感がする。


 心だけでなく、身体が焦燥にざわめいた。


 往かなくては、愛しい女神のもとに。


「須勢理様――」


 事代主は部屋を飛び出し、母神の部屋へと向かった。




 静まりかえった屋敷の廊下を月明かりだけが照らす。


 母神の部屋は、屋敷の一番奥にあった。


 両開きの扉の片側だけを開け、静かに滑り込む。


 部屋に入るなり、闇の主の気配がする。

 しかも、濃密に。


 母神の夢の中にも入り込んだのだ。


 事代主は怒りで震えた。


 穢らわしい黄泉神が、夢であれ母神に触れるとは。


 褥には誰もいない。


 いつも母神が月視のために開いている

 外開きの小さな木窓が開いていた。


 そこに、身を預けるように眠っている母神の姿がある。


「母上様――須勢理様」


 小さく声をかけ、事代主は近づいた。


 起きる気配はない。


 肩に腕を回し、抱き起こすと、力無く倒れ込んでくる。


 事代主は開いている方の手で木窓を閉め、悪しき者を阻む結界を敷いた。


 これで誰も近づけない。

 母神を害する者は、決して許さない。


 頬にかかる乱れた髪を静かに払うと、そこには無防備な美しい寝容がある。


 いつもの冷たい印象は消え、あどけなくも視える。


 閉じられた目蓋からそっと涙が伝う。


 こんなにも美しく、哀しい女神を自分は知らない。


 父神が愛したただ独りの女神。


 愛おしさが込み上げる。


「――」


 その頬を零れる涙を、そっと指で拭う。


 それに気づいたのか。


 事代主の首筋に母神の腕がまわり、引き寄せられる。


「!?」


 そのまま、抱きしめられる。


 夜着越しの柔らかな感触に、事代主の身体を甘い痺れが駆けめぐる。


 神代とは違う、溢れる愛しさ。


「己貴様……往かないで……」


 呟かれた言霊に、身体の奥底がうち震えた。


 項にかかる熱い吐息。

 押しつけられた胸の柔らかさ。

 すり寄せられたなよやかな細腰。


 喉が焼けつくような感覚に囚われる。


 餓えた衝動に吞み込まれる。



 欲しい。

 この女神と、交合いたい。



 突如湧き上がった強烈な感情に抗えない。


 事代主は縋り付く須勢理比売を抱き上げて褥へと横たえる。


 首筋に回された腕を外し、美しい容を視下ろし、耳元に唇を寄せる。


 神威が発現する。


 封じられているはずの神威――言霊の力が満ちる。


 何故かと考える暇もなかった。


 操られるように言霊で絡め取る。



――これは夢なのです。


  今貴女を抱いているのは夫である己貴です。


  貴女だけを愛する己貴が、貴女を抱くのです――



 耳元で囁かれた力強い言霊に、母神は容易く絡め取られた。


「ああ……己貴様……」


 閉じられた目蓋から、涙がとめどなく溢れる。


 だが、その表情は艶めいた喜びにほころんでいた。


「須勢理……」


 渇きに身を震わせる。


 事代主は母神の夜着の帯をほどき、輝くばかりの肌を眺める。


 初めて視るのに、懐かしいような気がした。


 自分とよく似た、けれど何かが違う――激しい渇望が身体を、魂を、侵食する。


 この女神に、ずっと触れたかった。


 事代主は我知らずその柔らかな肌に顔を埋めた。


 拒まずに受け入れる従順な身体に、呑み込まれるように我を忘れていった。





 熱に浮かされたようなひとときが終わり、事代主は我に返った。


「――何と言うことを……」


 母神と交合った。


 しかも、憑坐の身体で。


 在り得ない出来事に、事代主は混乱した。


 何かに取り憑かれたように我を忘れた。


 記憶も朧気で、断片的でしかない。


 そのことが、恐ろしかった。


「――」


 母神は未だ目覚めない。


 その白く滑らかな肌にはいたるところに薄紅色の淡いが散っていた。


 慌てて手をかざし、神威を送り込む。


 視る間に、肌はもとの白さを取り戻し、

 何事もなかったかのように清らかになる。


 事代主はほっとすると同時に、母神に夜着を着せ、帯を締める。


 掛け布を胸元まで引き上げてやると、

 そこには何事もなかったかのような静寂のみ。


 母神が目を覚ますと同時に結界が切れるようにして、

 事代主は誰にも知られぬように自室へと逃げ帰った。


 扉を閉めると同時に、その場に座り込む。


「……」


 信じられなかった。


 自分は何をしたのだ。


 意識のない母神と――


 まるで自分が自分でないようだった。


 渇きを貪るように、母神の美しい身体を愛しんだ。


 ああ。


 けれど、それは今までに感じたこともないような甘美な夢だった。


 神去った父神が恨めしい。

 母神の心を今も占める父神が。


 甘くその名を呼ぶ母神の声音が耳を離れない。


 自分の名を、呼んでくれたら――そう思わずにはいられなかった。


「どうであった? 愛しい女神をつかの間であれ手にした気分は」


「!?」


 その声に、はじかれたように顔を上げる。


 暗闇の中、美しい黄泉神が闇よりもなお濃い漆黒の衣を身に纏い立っている。


 長い髪は結われることなく肩に、背に、流れている。


 うっすらと咲みを浮かべて立つその美貌に、事代主は一瞬語るべき言霊を失った。


「……そなたの、差し金か」


 憎しみも露わに睨みつける事代主に、闇の主は嗤った。


「そう思いたいのなら好きにするがいい。

 私は、否定しながらも心密かに夫を恋うる憐れな比売に、一時の夢を視せただけ。

 それに乗じたのは、そなたであろう」


「――」


「何、そなたを責めたりはせぬ。

 欲しければ、どのような手を使ってでも手に入れればよい。私とてそうする」


「何が、望みだ……」


「話が早くて助かる。簡単なことよ。そなたを縛る禍つ神霊――堕ちた比売神に用がある」


「木之花知流比売に――?」


「そうだ。上手くすれば、そなたを縛るその呪詛から逃れられるぞ」


 事代主には、闇の主の思惑が未だ読めない。


 戸惑う事代主に、闇の主は宥めるように微咲む。


「そなたが須勢理比売を愛おしみ、護りたいと欲するように、私も伊邪那美が欲しい。

 そのために、私は比売神に会わねばならぬ。そなたはただ、頷くだけでよい。

 それでそなたは呪詛から逃れ、須勢理比売も建御名方も護れる」


「……」


 呪詛から逃れる。


 それは抗いがたい誘惑だった。


 この呪詛の紋様がある限り、自分は木之花知流比売には逆らえない。


 それでは、いざというとき、大切な母神も兄も護れない。


「私の願いを叶える事は、そなたの益ともなるのだ。悪い取引では無かろう」


 躊躇いは刹那であった。


「――母神にも兄上にも、真に害はないのだな」


「言霊に誓おう」


 神は誓いを破る事は叶わない。

 ならば。


「よかろう――」


 闇の主が微咲んだ。




 不意に目を覚ますと、そこは褥の中だった。


 独りなのが奇妙に思えて、愛しい者の気配を探す。


 だが、もともと独りだったのだと気づく。


 夢の名残で、錯覚したのだ。


「――」


 久方ぶりに、夢を視た。


 愛しい背の君と初めて出逢った、甘美な思い出を。


 月視をしていたはずなのに、褥にいるとは、もしや黄泉神が――?


 身を起こそうとしたが、夢のせいか気怠く、諦めてもう一度目を閉じる。



 愚かで幸せな夢だった。



「……」


 満ち足りた感覚に、しばし須勢理比売は身を委ねた。


 これは夢の名残だ。


 この余韻にもう少し身を任せてもよかろう。


 もう一度眠って起きたなら、きっとこの夢も遠くに追いやってしまえる。


 だから、今だけ。

 もう少しだけ。


「……様……」


 夢うつつで、愛しい夫の名を囁いた。






 夢のない沈黙の中、美咲は目を覚ました。


 見慣れた部屋の天井が見える。


「――」


「美咲、気づいたか」


 かかる声に、驚いた。


 慎也ではない。


 美咲はゆっくりと視線を向けた。


 ベッドの端に浅く腰掛けて美咲を視下ろしているのは荒ぶる神だ。


 どうして、彼がここに。


「慎也くん……」


 いつも傍にいるはずの存在を捜して視線がさまよう。


 そうして、思い出す。


「慎也くん!!」


 ベッドから飛び起き、建速にすがる。


「建速、慎也くんは――彼はどこにいるの!? 無事でいるの!?」


 不可思議な紋様に囚われて消えた慎也。


 それが美咲の見た最後の記憶だ。


 宥めるように美咲の顔を覗き込み、優しく告げる。


「落ち着け。連れ去られはしたが、慎也には誰も危害を加えられないようにした。

 安心しろ」


「本当に?」


「言霊に誓う。信じろ」


「――」


 美咲の瞳から涙が零れるのを視て、荒ぶる神は困ったように息をついた。


「泣くな、美咲。大丈夫だ。慎也は必ず取り戻す。あんたの許に返してやる」


「た、建速……」


 それ以上の言葉を探せず、美咲はぼろぼろと泣いた。


 咄嗟に掛け布で涙を拭っても後から後から沸き上がる。


 そんな美咲を、荒ぶる神が引き寄せて優しく抱きしめる。


 それは美咲が知っている慎也とは違う感触で、ますます涙が止まらない。


 子どもをあやすように抱き込まれて、美咲は一層慎也を想った。


 こんなふうに引き離されるなんて思ってもいなかった。


 ずっと一緒にいられると勘違いしていた。


 逢いたい。


 心から、願う。


 初めて出逢ったときから、いつも、傍にいたかった。

 いつも、泣きたくなるほど嬉しかった。


 愛しさを隠さず見つめてくれる瞳も。

 優しく触れてくれる大きな手も。

 甘く好きだとささやく声も。


 全部全部、憶えている。


 それでも。


 こんなに苦しいほど、今すぐに逢いたい。


 離れていたくない。


 すぐ近くに、いつも感じていたい。


 前世のように引き離さないで。

 ようやく一緒にいられるのに。


 どれほどの時が経ったのか、泣きやんだ美咲は、ぽつりと呟いた。


「……彼、どこに連れて行かれたの?」


「根の堅州国だ。俺の娘の須勢理(すせり)比売が、今は治めている」


「根の堅州国……」


「一説では黄泉の別称と言われているが、根の堅州国は黄泉とは違う。

 黄泉へと続く地の門を護る国。

 かつて伊邪那岐も根の堅州国から黄泉比良坂を通って黄泉国へと降った」


 背筋がぞくりと震えた。


 黄泉国。

 自分が逃げてきたところ。


 そのすぐ近くまで、慎也は連れ去られた。


 美咲は顔を上げて建速を見た。


「――建速は、根の堅州国に行くのね」


「ああ。この件には、須勢理の息子建御名方(たけみなかた)

 その異母弟の八重事代主(やえことしろぬし)が関わっている。

 豊葦原を天津神に奪われ、根の堅州国に神逐(かむやら)いされた須勢理は、

 黄泉神と取引をしたようだ――事代主は、図書館で美咲を襲った男だ」


「!!」


「事代主は言霊を操る神威を持つ。

 慎也を捕らえた紋様は、事代主の神威と禍つ霊の神威が絡みついていた。

 どうやら、黄泉神だけではない神々が動き出した」


「まがつひ……?」


「悪しき言霊を操る堕ちた神をそう呼ぶ。天津神を呪った木之花知流比売(このはなちるひめ)だな」


 木之花知流比売。


 その名を聞いたとき、美咲の心の奥で何かがざわりと動いた。


「――」


「美咲、俺が戻るまで待っていられるか? それとも、一緒に来るか?」


 真摯な声に、美咲は引き戻される。


「え……?」


「ここで待てるなら、図書館も休んでここにいろ。葺根と宇受売を護りにつけていく。

 もとよりあんたには風と水の神の守護がある。

 伊邪那美が最初に産んだ国津神は、全てあんたの守護においていく。

 結界もあるから、闇の主も九十九神(つくもがみ)も手は出せん」


「一緒に行くなら、建速が護ってくれる? あの夢の中のように」


「ああ、だが、神代の記憶のないあんたには、辛い道往きになるかもしれん。

 ――それでも、来るか?」


 躊躇いはなかった。


「行くわ――」




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