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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第三章 禍神ーまがつ神々ー

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9 愚幸 


 目を閉じていた黄泉日狭女(よもつひさめ)は、ふと虚空へと目を向けた。


 魂の気配がする。


 また、人間が闇の回廊から黄泉国にたどり着いたのだろう。


 着いたばかりの死者の魂は闇をことさら恐れ、落ち着くまでに時間がかかる。


 いつものように日狭女は放っておいた。


 もう少ししてから、往ってやればよい。


 そうして、また目を閉じる。


 この黄泉国の暗闇の回廊で成りませる黄泉日狭女にとって、

 死者が闇を恐れる理由がわからない。


 黄泉国の闇は、全てを隠したりはしない。


 闇にあっても、望めばすぐその姿を浮かび上がらせる。


 だから、闇を灯す明かりなど必要ない。


 望み通りに従順な闇は、心地よく日狭女を包む。


 死者の話を聞くと、豊葦原の中つ国の『夜』とよばれる闇は違うらしい。


 全てを押し隠し、人々はその闇を恐れるという。


 だから、闇を追い払うように火を灯し、明るくしないと安心できないらしい。


 愚かなことだと思う。


 暗闇を恐れるのは、そこに己自身の弱さを視るからだ。


 自分の恐怖が闇の中に在るはずのないものを浮かび上がらせる。


 心弱い人間達。

 かつては神々だったのに。


 黄泉返りを繰り返し、神威も神気も失ってしまった。


 いなくなってしまった母神の代わりに死者を導く役目を務め、

 もうどれほどの時が流れたのだろうか。


 死者の中に母神の御霊を捜しては諦める日々。


 人の寿命を考えても永すぎるほどの時を経ても、

 ただの一度も戻ってこない母神は、まさか喪われてしまったのか?


「――」


 たどり着いた思考に、日狭女は首を横に振ってその考えを追い払った。


 そんなはずはない。


 するべきことがあると、母神は言っていたではないか。


 そのためにきっと、母神はこの黄泉国から去ったのだ。


 そういえば、と日狭女は思い起こす。


 豊葦原から、母神のように産褥で神去った、

 あの儚げで美しい比売神に会ってから何やら考え込んでいた。


 あの比売神も黄泉返ってきたのを視たことがない。


 勿論、自分は母神を捜すのに忙しかったのだから視逃したのかもしれない。


 だが、あのような美しい神霊を視逃すことなどあるだろうか。


 美しい比売神は、黄泉返りを拒んでいた。


 背の君の心ない仕打ちに傷つきながら、それでも夫を愛していた。


 愛する背の君を忘れ、別の男を愛することを頑なに拒み、

 いっそ神霊ごと消し去って欲しいと(こいねが)っていた。


 母神とあの比売神に、何があったのだろう。

 母神はあの比売神の願いを叶えてやったのか。


 物思いにとらわれていた日狭女の耳に、低い声が届いた。


「日狭女」


「闇の主――」


 日狭女はすっと膝をついた。


 黄泉国を統べる闇の主は、相も変わらず美しい。


「如何致しました? このような処へ。お珍しい」


 本当に、珍しい。


 母神が去って以来、此処へはぱったりと訪れなくなっていたのに。


「伊邪那美は、どのようにして黄泉から去ったのだ」


 不意の問いかけに、眉根を寄せる。


 今更何故、そのようなことを聞くのだろう。


「存じませぬ。

 母上様は私達には何もおっしゃらずに、ただ忽然といなくなってしまわれました。

 黄泉の領界を統べる闇の主たる御身にもわからぬものを、

 どうして私ごときにわかりましょう」


 苛立たしげに、闇の主は顔を歪めた。


 それでも、その容は美しく、魅入られるほどであった。


 闇に属する神々は、闇の主を愛するようにできている。


 母たる伊邪那美から成りませる黄泉日狭女も、

 黄泉で産まれた故に例外ではなかった。


 だからこそ、手に入らぬものを追い求める

 美しい闇の主が憐れでならない。


「母上様は、貴方様の対ではない。貴方様の対は別に在らせられる」


「そのような者、どこにもおらぬ」


 冷たく言い放ち、闇の主は去っていった。


 ほう、っと日狭女は息をついた。


 闇の主は頑なに母神を求めるが、

 対の命だけがその伴侶と成りえるのだ。


 母神の伴侶は父神だけだ。


 それが何故、わからぬのだろう。


「母上様、何処におわすのですか――」


 闇がその言霊を優しく包み込み、だが、(いら)えはなかった。






 部屋から月を眺める須勢理比売(すせりひめ)の前に、

 暗闇からするりと黄泉神――闇の主が顕れた。


「ご機嫌いかがかな、須勢理比売」


「ただでさえ辛気くさい暗闇の国で、そなたの(かんばせ)を視るともっと悪うなる。

 失せよ」


 不機嫌な須勢理比売の声音に、うっすらと闇の主は微咲(わら)った。


「荒ぶる神の最後の娘は根の堅州国に生まれながら、根の堅州国を厭うか」


「そなたこそ独り神として黄泉国に生まれながら、黄泉国を厭わぬのか」


 須勢理比売と闇の主は生まれは似通いながら異なっていた。


 一方は生まれし国から逃れたいと願い、

 一方は素直に受け入れる。


 そしてどちらも、互いの心情を全く理解できなかった。


「私は生あるものを愛したいのだ。闇も死もうんざりだ」


「私は死せるものを愛する。最後にたどり着く死は、生あるものの救いぞ」


 須勢理比売が根の堅州国に神逐(かむやら)いされてから、

 話し相手が欲しいのか、この黄泉神は気紛れに顕れる。


 だが、自分を女として視ているわけではなく、艶言を語ったりもしない。


 ただ純粋に、話をするだけ。


 封じられていた息子達が戻るまで、

 確かにこの黄泉神との語らいは月視とともに慰めであった。


「死してもまた黄泉返るではないか。ならば死は、終わりではない」


「記憶も神威も失い、只人としてな。

 永劫の輪廻を巡る――それは終わるよりはましなことか?」


 黄泉返ったことのない須勢理比売にはわからぬ事であった。


「記憶がないなら、只人に成り果てたとて嘆くことも無かろう。

 忘れ去ることができぬよりはずっとよい」


「それは、そなたと夫のことか」


「――」


 神去ることより残されることの方がずっと辛く、苦しい。


 忘れ去れる身は苦しみなどとは無縁だ。


 夫がいい例ではないか。


 さんざん苦しめておいて自分は神去り、全てを忘れ、

 今頃は只人として生きているのだろう。


「愛する男の行方を、知りたいとは思わぬのか」


「知ってどうなる? 神代を再び繰り返せと?

 甘い言霊を囁いておきながら余所の女の処へ往く夫を待つ日々を

 繰り返したいとはもう思わぬ。

 私の愛はとうに死んだ。神霊と同じに、黄泉返ることはない」


 あの苦しみを。

 胸の痛みを。

 失った愛を。


 今はただ、忘れ去りたいだけ。


「苦しみのみであったか――?」


 闇の主の手が、須勢理比売の額に触れる。


「何を――」


 咄嗟に頭を引いたが、すでに触れた後だった。


「視せてやろう。

 過ぎ去った記憶を。失われた男を。死せる愛を――」


 眼前の手を払い、闇の主を強く視据える。


「そんなもの、視たくない」


 払われた手に、闇の主は(わら)う。

 凍えるような美貌が少し和らぐ。


「素直でないな。まあ、私はそなたのそんなところも気に入っているのだ。

 だから、よい夢を視せてやろう。これは、私の悪意無き心からの(たまもの)だ」


「やめよ、黄泉神――」


 ふるりと視界が揺れて、

 須勢理比売は自分が門前にほど近い庭木の前に立ちつくしていることに気づいた。


 先程まで、自分は部屋の中にいたはずだ。


 月視をしていたはずなのに。


 空を仰ぐが、月はないことを訝しむ。


 何故このようなところにいるのだろう。


 答えを考える間もなく、扉を叩く大きな音がする。


 誘われるように近づく。


 何故、誰もいないのだ?


 訝しげに思いながらも閂を開ける。


 開いた扉から最初に視えたのは、

 根の堅州国では着ない豊葦原の中つ国の装束。


 首に掛かる曲玉の美しさに目を奪われ、そして、(かんばせ)を上げた。


 そうして、互いの顔を視合わせる。


 自分が息を呑んだように、相手もまた息を呑んだ。


 初めて目合(まぐわ)ったこの時。


 定めだと感じた。


 この方が、私をこの根の堅州国から連れ出してくれる方だと――


 視目麗しい男神に、須勢理比売はただ視入った。


 父のように猛々しい顔立ちではない。


 むしろ一番上の兄のように優しげな顔立ちだ。


 ほっそりとした顎も、薄い唇も、今は食い入るように自分を視つめている大きな目も、

 争い事など無縁のように穏やかで、険しい所など何一つ無いように視える。



――貴女が、須勢理比売ですね。


――ええ、貴方様はどなた……?


――豊葦原から参った大己貴(おおなむち)と申します。父君にお会いしたく――


――父は――生憎留守にしておりますゆえ……



 改めて来て欲しいと言うべきだった。


 そうして、扉を閉めればよかったのだ。


 なのに。


 一時も目が離せなかった。


 ずっと視ていたい。


 この気持ちは何だろう。


 高鳴る鼓動を、どのように沈めればよい?


――……戻るまで、こちらでお待ちを。


 そっと腕に触れると、すぐに指を絡められた。


 逃さぬとばかりに。


 頬を染め、それでも手を繋いだまま須勢理比売は庭木の間を縫って奥へと向かう。


 己貴の指先はその間も須勢理の手を優しく動く。


 手の平を撫でられ、指の間を恋うように擦られ、親指が手首を這う。


 須勢理比売の内が甘く痺れる。


――……


 最後には半ば駆けるように自室へ向かう。


 部屋へ入るなり、己貴は無言で須勢理比売を引き寄せた。


 渇き餓えた者が水を求めるようにくちづけられた。


 あっという間に床に倒れ込んだ。


 視上げると、先程のように熱く潤んだ眼差しが自分を視下ろしていた。


 渇きが増したように、それから逃れるように、己貴の熱が肌を埋めた。


 魂が震える。


 神気が揺らぐままにあえかな声音と熱い吐息が部屋に満ちていった。





――須勢理比売、私の妻になってください。



 何度も何度も交合ってから己貴が告げた。


 もうとっくに、妻となっているのに。


 けれど、須勢理比売は構わなかった。


――はい、己貴様。


 その答えに、己貴はああと身を震わせて須勢理比売を抱きしめた。


 そして何度目かももうわからぬ触れ合いでその喜びを伝えた。


 その熱に浮かされたような渇望は何度示しても足りぬように、

 己貴は求め続ける。

 

 須勢理比売も求められるだけ応え、

 二柱の神は離れることを惜しんで求め合った。


 幸せだった。

 互いの他には何もいらなかった。



 ずっとそうであれればよかったのに。





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