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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第三章 禍神ーまがつ神々ー

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8 貴神


 その白く異質な空間には、三者しか存在しなかった。


 強すぎる光に目を閉じて動けない葺根。


 荒ぶる神。


 そして。


 光り輝く、太陽の化身。


 この豊葦原から全ての神話が否定されようとも未だ信仰される古代神。


 天照大御神(あまてらすおおみかみ)


 太陽の女神。


 降臨するための憑坐もいらず、そこに在るだけで全てを圧倒する。


 衣も裳も比礼も、染み一つない真珠のような光沢の白だ。


 横髪を耳の前で(みづら)に結い、

 黄金の髪差しを使いながら残りを複雑な形に結い上げ、

 それでも余る長く艶やかな黒髪は背から裳裾に及んでいる。


 太陽を中心に象った美しい(かづら)

 形の良い耳朶を飾る耳輪。

 胸元には霊力を秘めた八坂瓊之五百箇御統やさかにのいおつみすまるが、

 美しい澄んだ音を響かせている。


 美しい装束よりもなお美しいその(かんばせ)は、

 神々しい神気と相まって、視る者の心を奪う。


 誰もがその姿を魂に焼き付けたいと願い、

 同時に、その御前から逃げ出したいと(おのの)く。


 象牙のように滑らかな肌に、唇の紅が一際映える。


 きつい印象を与える切れ長の目は、

 今は不機嫌そうに荒ぶる神を視据えている。


「相も変らず美しいな、お前は」


 荒ぶる神の言霊に、

 いっそう不機嫌そうに太陽の女神は柳眉を寄せる。


「戯言を聞きにきたのではない。建速よ。

 今生にあっても、まだそなた豊葦原を争乱に巻き込むか」


 美しい唇からもれる声音は聞く者をも酔わせる美酒のような響き。


「動いたのは俺じゃない。伊邪那岐だ」


「父上様にはお考えあってのこと。

 そなたのようなものに父上様の尊いお心がわかるはずもない」


「その伊邪那岐崇拝思考はどうにかした方がいいな、天照。

 過ぎし世で伊邪那岐がどれほど尊い行いをしたというんだ」


 荒ぶる神は肩を竦める。


「全てを産んだのは伊邪那美だ。

 伊邪那岐に出来たのは三貴神を現象させただけのこと。

 それも伊邪那美に逢うことで。

 男神独りから成りませる我々は強大な力を持ちながらも不完全に生まれた。

 荒魂しか持たぬ俺や和魂(にぎみたま)しか持たぬお前の力が限定され、

 制約を受けるのは、所詮伊邪那美がいなければ

 伊邪那岐もまた不完全だということの証にほかなるまい」


 荒魂と和魂。

 陰と陽。

 正と負。

 男と女。


 全ての存在に両極があるように、神々にもまた魂の両極が存在する。


 伊邪那岐と伊邪那美が対の(みこと)で在ったように、

 荒魂のみを持った建速と和魂のみを持つ天照もまた対の両極であった。


「荒ぶる神である我々は

 己の定めに従い己れの領域を統治するよう父上様に言い遣わされた筈。

 それをそなたはきかずに豊葦原に降臨した。

 己の領界である大海原に帰るがよい。

 我ら三貴神の力の均衡が保たれねば、豊葦原は滅びるのだぞ」


「大海原とて豊葦原よ。全ての現象は一つなのだ。

 俺が大海原にいずとも、現象に変わりはあるまい。

 事実、俺は今日まで豊葦原に在ったが、未だ滅びてはいない」


「何故そなたは私に――高天原に何一つ従わない!?

 そなたの振るまいが全ての現象の元凶となったのだ!!」


「元凶? はきちがえるな、天照。俺ではない。

 伊邪那岐だ――伊邪那岐の愚かさが全ての元凶なのだ。

 俺はその尻拭いをしているに過ぎない」


「――」


 慈悲なく言い放つ荒ぶる神に、太陽の女神は返す言霊を探せなかった。


 その時。


「天照様!!」


 一人の女がその空間に飛び込んできた。


 眉根を寄せて、太陽の女神がそちらを視やる。


 四十を越えた、細身のスーツに身を包んだ憑坐の女が膝をつく。


 日頃抑えていた神気を隠さずにいると、その艶やかさは、

 普段の大人しく地味な司書教諭とは全く異なる人物のようになっていた。


宇受売(うずめ)か――?」


 天照が驚いたように問う。


 憑坐の人間から放たれる神気は、かつて知ったるもの。


 神代が現世と引き離される前に戻ってきた随伴神の中に、彼女はいなかった。


 随伴神に聞いても、言霊を濁してしかとはわからずにいた。


 だから、すでに神去ったのだと思っていたのだ。


「本来なら御前には到底上がれぬ身なれど、お詫びせねばと罷りこしました」


 頭を垂れたまま、山中――天之宇受売命(あめのうずめのみこと)は言霊を告ぐ。


天孫(てんそん)日嗣(ひつぎ)――瓊瓊杵(ににぎ)のことか」


「御子様を最後まで御護りできませんでした。

 それ故、神去ることもできす、封じられました」


「そなたの責ではない。私がそなたを責めるとでも?

 もうよいのだ。宇受売、戻るがいい」


 手を差し伸べる天照に、はっと宇受売は(かんばせ)を上げる。


 泣き出しそうな容で手を伸ばしかけ、それでも止めた。


「できませぬ。天照様の許へは、戻れぬのです。

 私にはまだ、この豊葦原ですべきことが残っておりますゆえ」


「宇受売――」


「宇受売にはまだしてもらわねばならぬことがある。

 この豊葦原で、護らねばならぬものがある。

 それが終わるまでは高天原には返せぬ」


 割って入った荒ぶる神に、太陽の女神は鋭い一瞥で応えた。


「そなたの都合など私にはどうでもよい。

 黄泉国から母上様が消えたことも承知しておる。

 黄泉神が母上様を取り戻したいというのならくれてやれ。

 先ほど父上様を連れ去ったのは、黄泉神と手を結んだ根の堅州国の神々であろう。

 服わぬ神々が豊葦原を取り戻すために画策しているのは私にもわかる。

 父上様の御身と母上様を引き替えにするつもりなのだ。

 母上様は死の女神と成られたのだ。今更覆すことはできぬ。

 在るべき場所へ還らねばならぬ。父上様もぞ。

 そのために、天津神も動くであろう」


「伊邪那岐を高天原に、伊邪那美を黄泉国に――それがお前の、高天原の望みか」


「そして、そなたは大海原へ――己が支配する領界へ、在るべき場所へ。

 理が崩壊する前に。全ての神はそうで在らねばならぬ」


「つれないことを――だが、それでいい。お前は何も変わらんな」


 敵を目の前にする眼差しではなかった。


 懐かしく、嬉しそうに、建速は太陽の女神を視上げる。


「お前の望みはわかった。

 だが、お前の手足となって働く天津神の憑坐は視つかるか?

 すでに国津神があらかたの憑坐を手にした後で」


「――そのようなことは思兼(おもいかね)が考える。

 建速、もう私の邪魔をするな。高天原に叛くな。

 でなければ、三貴神といえども許さぬ。殺すぞ」


「いかに俺を腹立たしく思おうとも、そのような醜い言霊を使うな。

 美しいお前には、美しい言霊のみが相応しい。

 我々神は、未だ言霊に囚われる。気をつけろ」


 神と違い、言霊はもう人間の御霊(みたま)を縛らない。


 それは世界が変化したとともに、

 人間が、誰もそれを意識しなくなったからだ。


 そして、美しい言霊に力がなくなり、悪しき言霊に力が在るのは、

 人の命と心が移ろいやすいものであるからだ。


 言霊の力を忘れた人間の語る(まこと)のない言霊――言葉を、

 荒ぶる神はさんざん耳にしてきた。


 神々の頂点に立つ太陽の女神に、そのような穢れた言霊は相応しくない。


 責めるでもなく淡々と言う荒ぶる神に、太陽の女神は苛立たしげに背を向けた。


 そして、次の瞬間には全ての白が視界から消えた。


 後には何事もなかったかのような夜明け前の静寂がある。


 先ほどとさほど変わらぬ白み始めた空の下、先ほどまでの風景。


 気を失った美咲を乗せた黒の車。

 傍らには葺根。


 荒ぶる神と、跪いたままの宇受売。


 揺らめく神気が辛うじて神の気配を留めていた。


「宇受売、ひとまず戻れ」


「……は、申し訳、ございませんでした……勝手な振る舞いを……」


 宇受売は泣いていた。

 先ほどまで太陽の女神がいたところを視据えながら。


「よい。すまんな。まだ返してやれんが、全てが終わったら、

 戻りたいところへ往かせてやる」


「私が望んだのです。この豊葦原に留まることを。

 私よりも建速様の方がずっとお辛いのに、これしきのことで、申し訳ございません……」


 それでも。

 天津神の巫女神は太陽の女神の下へ還りたいと思う心も持っていた。


「もうすぐだ。もうすぐ、全てが終わる。それまで、耐えろ――行くぞ、葺根」


 荒ぶる神は短く告げると、助手席に乗り込んだ。

 車がその場を離れてもなお動かぬ宇受売を残して。


 美しい天津神は止めどなく流れる涙を拭いもせずに、

 太陽の女神の姿を思い浮かべる。



 待つ身など何ほどのことでもない。



 封じられていた自分は目覚めるまで眠っていられた。


 あの荒ぶる神は、何ひとつ目を逸らさず、

 今日この時まで全てを視続けてきたのだから――






 天の浮橋を通って高天原に戻った時、

 太陽の女神の前には八百万(やおよろず)の神々が控えていた。


 皆跪き、高天原の主である天照の言霊を待っている。


「皆目覚めたか」


「美しい神鳴りとともに。

 封じられていた天津神は一番最後となりましたが」


「うむ。すでに国津神は民草に憑坐を得て、豊葦原に現象した」


「豊葦原に留まった天之宇受売は、今生でもついに戻りませぬ。

 神去ったのでしょう」


「宇受売は建速についた」


「天之宇受売が!? 真に御座りますか?」


「まだ、成すべきことがあると」


 美しき巫女神。


 誰よりも艶やかで勇敢な天之宇受売命は太陽の女神の一番の気に入りであった。


 だからこそ、瓊瓊杵を天降らせる時、共に往かせた。


 絶対に自分を裏切るはずのない宇受売が、何を思って豊葦原に留まるのか。


思兼(おもいかね)、憑坐なしでも豊葦原に降れるか」


「無理でございましょう。領界が隔てられ、豊葦原の中つ国も変遷しております。

 すでに下界は人間の領界。我々の領界ではございませぬ。天降るには憑坐がなくては」


 太陽の女神の美しい柳眉が寄せられる。


「憑坐となれる人間はあらかた国津神が得た。

 このまま黄泉神と国津神に豊葦原を奪われることだけは避けねばならぬ」


「ご安心ください。憑坐を得るための策はございます」


「真か」


「ですが、それには夜の食国(おすくに)の御方にご協力いただかねばなりませぬ」


「――」


 暫し、太陽の女神は物思いに囚われたが、

 それを振り払うかのように頭を振った。


「――よかろう。斑駒(ふちこま)を呼べ」


「御前に」


 控えている神々の間から、立ち上がった若き天津神。


 その姿は青年のまま、長い髪を後ろに高く結い上げ垂らしている。


 その瞳は金と赤の(まだら)であった。


 太陽の女神の前に進み出て、跪く。


「天之斑駒。そなたの神威が要る。宵闇を連れて参れ」


「御意に」


 天之斑駒の神気が揺らめく。

 跪くその体躯に神威が満ちる。


 澄んだ美しい震えが高天原の大気に鳴り響く。


 そして、その神鳴りにも似た美しい響きと共に、

 下界と同じく高天原を照らす太陽が傾きを弓なりに早めていく。


 神々は天空を視上げ待った。


 傾きと共に、青空は茜色へと姿を変え、視る間に宵闇が訪れた。


 時の流れを司どる神である天之斑駒は、瞬く間に時を操り夜とした。


 頭上に浮かぶは夜の月。


 冴え渡る美しい満月の顕われであった。



「夜の食国の主、月読命(つくよみのみこと)降りしませ」



 思兼の言霊に、八百万の神々が唱和する。


 神々の言霊が新たな神を召還する。


 月影が(きざはし)を創る。


 一筋のそれは、唱和と共に影を色濃くし、

 皓々(こうこう)と冴え、俄に美しき神が降り立つ。


 裾丈のやや短い衣に帯を締め、(はかま)足結(あゆい)


 天照大御神の装束のように、

 月光の煌めきによく似た不可思議な光沢を放つそれは白。


 三貴神の中つ貴神(うずみこ)――月読命である。


「――」


 ほう、と神々から嘆息の声が漏れた。


 その容は、麗しき太陽の女神とよく似ていた。


 艶のある豊かな髪は耳前の横髪を(みづら)にし、胸元へと垂らしている。


 後ろ髪は項で軽く結ったまま背へと流れ、額には月を象った美しい(かづら)


 形の良い耳朶を飾る耳輪。


 切れ長の美しい目に通った鼻梁。


 唇は紅を差さずとも魅惑的であった。


 (かんばせ)だけをみるなら、

 男神のように凛々しく、

 女神のように楚々とし、

 中性的でもある。


 太陽神が視る者を慄かせるほどの美貌なら、

 月神は視る者を惑わせる美貌ゆえに、

 相対した日月(ひげつ)の神霊に、神々は平伏した。



「姉上。私を喚んだのは、何故ですか」



 月神の高すぎず、かといって低すぎぬ澄んだ声音も麗しく響く。


 頭を垂れたまま、思兼が言霊を発する。



「麗しき夜の御方に、高天原よりのお願いがございます」



 つと、月神の視線が思兼に移る。


「――」


「月読」


 何をか告げようとした言霊は、太陽の女神に遮られる。


 もう一度月神が視線を向けると、

 そこには麗しい女神――高天原の、天津神々の主たる天照が在る。


「隔てられていた領界が再び重なった」


「ええ。私が喚ばれて高天原に足を踏み入れることが出来たのも、それ故」


「根の堅州国に、建速がいる」


「!?」


「建速は豊葦原から攫われた父上様の黄泉返りを取り戻すべく、

 同じく黄泉返られた母上様と共に根の堅州国へと往ったのだ。

 昔も今も変わらず、あやつは理を乱し、高天原に(そむ)く。

 私は許さぬ」


 太陽の女神の麗しい容が怒りに染まる。


 それでも、女神は愛しく、美しい。


 その愛しさ、そして美しさ故に、月神は逆らうことが出来なかった。


 神代でも、今生でも。


「月読。高天原の使者として、建速のもとへ往け。

 そなたなら、根の堅州国に憑坐なしで降臨できる。

 父上様を高天原へ、母上様は黄泉国へお戻りいただく。

 私の望みを叶えよ。往ってくれるな、月読」


 ほんの一瞬、その美しい月神の容が苦痛を堪えるように歪んだ。


 だが、頭を下げたために、その表情は誰にも気づかれることはなかった。



「――御意に」



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