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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第三章 禍神ーまがつ神々ー

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7 神鳴


 図書館に着くと、すでに荒ぶる神は職員用の玄関にいた。


「来たな」


 美咲は習慣でセキュリティを解こうとして、カードボックスに手を伸ばした。


 だが、荒ぶる神がそれを止める。


「必要ない。入るぞ」


 そのまま、扉を開ける。


 鍵など最初からかかっていなかったかのように、扉は滑らかに開いた。


 警報も鳴らない。


 美咲は玄関内のチェックボックスを見るが、

 異状のないことを示す緑のランプが綺麗に並んでついているだけだ。


「――」


 美咲は恐る恐る玄関に入るが、

 何の音もせず、ひっそりと静まりかえっている。


 美咲は慎也とともに館内へと入り、中央の柱の前まで来た。


 暗闇の中でも淡く光る柱は、それだけで神々しい。


「柱に、触れればいいの?」


「ああ。八尋殿に通じている。そこは伊邪那岐と伊邪那美しか入れない。

 二神だけの神域だ」


 美咲は、慎也を見上げる。


 優しく微笑んで、慎也は美咲の手を握った。

 指を絡めて、離れないようにとしっかりと。


 それだけで、残っていた躊躇いが消える。


 慎也と一緒なら、きっと大丈夫。


 美咲と慎也は柱の前に立ち、繋いでいない方の手で柱に触れた。


 触れた瞬間、自分達の身体も淡い光に包まれ、視界が淡く滲んだ。


 滑らかな木肌の感触が一瞬消えた。


「――」


 目を閉じていないのに、何も見えない。


 繋いだ手の温かさだけが、辛うじて現実だった。


 淡かった視界が一瞬だけ強い光を放つ。


 眩しさに、美咲は目を閉じた。


 閉じた目蓋が光を感じ、それから、不意に消えた。





 そこは不思議な空間だった。


 図書館と同じ、中央に太い柱が聳え、自分達は柱を背にしている。


 床は一面板張りだ。


 四隅の円柱を囲んでいるのは光沢のある白い壁だ。


 柱の近くには褥が設えてある。


 空気が澄み渡り、静謐だけがそこにある。


 ここが、神の住まう場所だったのだ。


 懐かしいような、それとも見知らぬような、

 相反する感情がわき起こる。


 思わず一歩踏み出したとき、澄んだ空気がさらに澄み渡り、大気を震わせた。


 耳鳴りがする。


「――」


 終わらない耳鳴りに、美咲は繋いでいた手を放し耳を押さえた。


 だが、体中に響く激しい音は鳴りやまず、

 軽い目眩とともに美咲はその場に倒れ込む。


 倒れた衝撃はなく、ただ身体に力が入らない。


 金属を打ち鳴らすような美しく高い音は、

 痛みはなくとも未だに鳴り響いている。


 この音は一体――


 やがて音はもっと優しく、

 大気を震わせるように緩やかになる。


 まるで、弔いの鐘のように。


 振り子のように、波打つ音。


 同じように美咲の身体を優しく震わせる。


 意識を失うことも出来ず、

 美咲は目を閉じたままその音を聞いていた。


 慎也も倒れているのか、動く気配がしない。


 目を開けたくてもできず、声を出そうにも唇は動かない。


 不意に、自分の傍らにかがみ込む気配。


 慎也は倒れていなかったのか。


 この音は、自分にだけ聞こえているのかと、美咲は思った。


 だが、傍らにある気配はしばし動かない。


 美咲は不思議に思った。


 いつもの慎也なら、すぐに声をかけるはずだ。


 なぜ黙っているのだろう。


 温かな手が、美咲の肩に触れた。

 カーディガンが脱がされる。


 そのまま抱き上げられ、運ばれる。


 むき出しの肩に柔らかく触れた感触で、

 自分が褥に横たえられたことがわかった。


 不可思議な音の響きを聞きながら、

 美咲はされるがままだったが、

 不思議と恐怖や嫌悪を感じなかった。


 衣擦れの音がして、それから、自分の上に影ができた。


 何かが重なった。


 触れるというより、溶け合うような感覚だった。


 揺らぐ神気に包まれる。


 身体ではなく、もっと奥底で、神威が静かに満たされていく――

 

 すでに身体の感覚ではない。


 もっと内部の――魂の重なりを感じている。


 虚ろな器を満たすように湧き上がる感情。


 耳鳴りとともに美咲の内部を震えが満ちていく。

 何かが溢れてしまう――そう感じた。


 耳を塞ぎたい。

 なのにできない。


 あまりの快さに、涙が零れる。


 全ての感覚が流れるように過ぎていく。


 感覚はあいまいなのに、流れる涙は熱かった。


 言葉にならない想いが溢れ、心が震える。


 この想いを、前にも感じたような気がする。


 ふいに神気を――神の気配を感じた。


 もしや、これが伊邪那岐――?


 夢の中で、

 いつも自分を愛する、

 いつも自分が愛する、唯一の。


 記憶がないのに、嬉しかった。


 この特別な場所で、身体の自由はきかなくても気配だけで満ちていく。


 慎也を想う気持ちとは別の愛しさが湧き上がる。


 それとも、この気持ちが――これが記憶なのだろうか。


 確かめたいのに、身体は動かない。


 気配しか感じられないのに――それなのに、嬉しい。


 心が、自分ではない別の何かが、喜んでいる。


 ああ、この存在に、再びこうして抱かれたかったのだと。


 自分も抱きしめたかった。


 もう二度と、離れていかないように。


 それは、正直な気持ちだった。

 重く動かぬ腕を、必死で持ち上げる。


 そして、ようやくその気配に腕を回せたとき、

 言いようのない幸福感に、心を震わせた。


 もう二度と放さないで。


 囁くように、唇を動かす。


 放さない。もう二度と。


 囁きが、返ったように感じた。


 同時に想いが溢れた。


 呼応するように、一際響いて、耳鳴りが止んだ。


 何かが壊れたような感覚。


 それは、隔てられていた現世(うつしよ)と神代の境界だったのかもしれない――





 耳鳴りが止んだとき、美咲の身体に力が戻った。


 先程までは感じなかった自分に重なる身体の重みが突如戻る。


 腕が、慎也の背中にまわってシャツを掴んでいた。


 まだ重なっている慎也が、腕をついて突然上半身を起こした。


「くそっ」


 らしからぬ乱暴な物言いに、美咲は驚いて慎也を見る。


 苛立たしげな表情が自分を見下ろしていた。


「何だよこれ。誰かに勝手に身体を使われたような気がする」


「――覚えて、ないの?」


「覚えてない。耳鳴りがしたとこまでしか。美咲さんは覚えてるの?」


「――」


 何と答えていいか咄嗟に迷う。


 だが、勘のいい慎也はすぐに気づいた。


「俺が知らない間に、美咲さんは俺じゃない俺に抱かれてたんだ」


 返答に、美咲は困る。


 意識はあっても自分の身体も思うようにはならなかったのだ。


 だが、慎也は不満らしい。


 記憶がないなら、それは自分ではないのだろう。


 そんな別の自分に美咲が抱かれたのは納得がいかないようだ。


 だが、二人は服を着たままだった。


 不可思議な体験であったが、

 身体的接触ではなく、もっと違う――魂の触れ合いだった気がする。


「前世だろうが、神様だろうが、美咲さんに触れていいのは俺だけだ」


「慎也く――」


 言いかけた美咲の唇を塞いで、黙らせる。


 いきなりの深いくちづけに、美咲は驚きながらも今度は応える。


 実際に触れる感覚に、新たな想いが湧き上がる。


 幸福感に、心が満ちていく――


 唇が僅かに離れて、慎也が囁く。


「もう一回。今度は俺だよ。いい?」


 返事を待たずに再び唇が重なり、確かめるように頬に触れる。


 いつもの慎也だ。


 優しいけれど強情で、

 大人びているのに我儘な。


 今、自分が――好きな人。


 触れる手も、唇も、美咲の知っている慎也に、

 安堵とともに先ほどまでとは違う確かな喜びがある。


 夢の中のような場所での、夢の続きのような交わりではなく確かな現実感。


 そして、また鳴り響く、静かで穏やかな響き。


 幸福な余韻に、鼓動と響きが重なり、心と身体が震える。


 美しく響く音が共鳴りする。


「いいわ……」


 深く優しいキスの合間に短く答え、美咲はそのまま身を任せた。




 全てが終わり、身支度を整えて御柱に触れると、そこはいつもの図書館だった。


 カーテンの向こう側がうっすら明るくなっている。

 夜明けが近いのだろう。


「……」


 どのような御業なのか美咲には理解できなかったが、

 閲覧者用のソファーに腰掛けていた荒ぶる神が僅かに満足そうな顔をしていたので、

 彼の目的――現世と神代を繋ぐ――は上手く果たされたのだろう。


 自分達がしてきたことを知られているのは恥ずかしかったが、

 荒ぶる神は気にしたふうもない。


「――これで、あんたの思いどおりか?」


 慎也の問いに、荒ぶる神は唇の端を上げた。


「ああ。上出来だ。境界の壊れる音がここまで響いた。

 美しい神鳴(かみな)りだった――」


 そうして、立ち上がる。


「戻ろう」


 短く言うと、歩き出し、

 だが、気づいたように足を止め、振り返る。


「――記憶は戻らなかったのか? 神気も神威も感じない」


 慎也と美咲は一瞬顔を見合わせ、それから首を横に振った。


「ホントに俺達なのかよ」


「間違えるわけがない。確かにお前達だ。何が邪魔してる?

 二人とも戻らないとは……」


 荒ぶる神は首を傾げ、だが、諦めたように肩を竦めた。


「まだ、その時ではないということか――

 今日のところは戻って休め。車を用意してある」


 そうして、美咲達は図書館を出た。


 夜明け間近の館外の敷地はただ静かでひっそりとしている。


 少しだけ肌寒い外気に触れ、

 美咲はさっきまでのことが夢のように思えた。


 職員用の玄関の前には、以前乗った車が横付けされている。

 運転席にいるのも前と同じ男のようだ。


 彼は一体誰なのだろう。


 ふとそう思ったとき、


「――」


 背後に何か、奇妙な感覚を覚えた。


 振り返るとすぐ後ろには慎也がいる。


 彼の後ろに、何か、懐かしいような、

 けれどひどく変わってしまったような――そんな気配がする。


「どうしたの? 美咲さん」


「美咲?」


「何かが、後ろに……」


 その言葉に、慎也が振り返る。


「!?」


 次の瞬間、慎也の背後で、芝生が鈍い光を放った。


「美咲!!」


 咄嗟に荒ぶる神が美咲を引き寄せる。


 後ろから抱きすくめられた美咲は、

 慎也の背後から不思議な紋様が伸びてくるのが見えた。


 図書館で襲われたときのように、

 美咲はその紋様が自分に向かってくるのではと咄嗟に身を強ばらせた。


 だが。


 それは美咲ではなく、真っ直ぐに、迷いなく――慎也へと向かっていった。


 美咲は、悲鳴をあげた。




 地に描いた悪しき言霊の創る禍つ紋様が蔦のように慎也に絡みつく。


「慎也くん!?」


「美咲さん、来ちゃダメだ!!」


 紋様は慎也を捕まえると地に描かれた円陣に慎也を取り込んでいた。


「建速、救けて!!」


「――あれは、禍つ言霊で創られた呪詛の紋様だ。破れない。今は手が出せん」


 荒ぶる神が舌打ちして呟く。


「慎也!」


 言うなり、荒ぶる神の手が上がり、神威が放たれた。


 紋様の隙を縫い、慎也に絡みつき、吸い込まれる。


 途端、抗っていた慎也の身体から力が抜ける。

 がくりと膝をつく。


「必ず救ける!! 待っていろ!!」


 膝をついた慎也の身体が、徐々に沈み込んでいく。


 建速の腕の中で、美咲はそれを見ているしかなかった。


「いや……」


 慎也を呑み込み、紋様が消えていく。


「いやぁ――――――!!」





 荒ぶる神は、

 腕の中で美咲が崩れ落ちるのを留めた。


 膝をつき、意識のない身体を抱きかかえる。


「建速様!」


 先ほどの異変に、すでに車を降りていた男が駆け寄ってくる。


葺根(ふきね)、美咲を車に」


 荒ぶる神から美咲を受け取ると、

 葺根と呼ばれた随神は美咲を車の後部座席に横たえる。


 静かにドアを閉めたところで、異変が起こる。


 白み始めた空が、不自然に光量を増していく。


 夜明けにはまだ早いはずだった。


 空を視上げた葺根は、荒ぶる神に視線を移す。


「建速様、この光は――」


「葺根、目を閉じていろ。憑坐には強すぎる」


 荒ぶる神の言霊が終わらぬうちに、

 光はその光量により、全ての視界を白く染め上げた。


 だが、この凄まじい光量の中でも、

 荒ぶる神は目を逸らすことなく一点を視据える。


「天照――」


 静かに呟いた彼の声音は、微咲(わら)っているようにもとれた。





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