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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第三章 禍神ーまがつ神々ー

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5 上書


 暗闇の中、


「我が妹を、傷つけようとしたのはそなただな――」


 美しい、だが、強い言霊が耳に届いた。


「!!」


 弱った弟をさらに抱き寄せ、

 兄神は言霊の発せられたほうへと視線を移す。


 仄暗い領域の中で、穢れた神気――禍つ()が揺らめいていた。


 そして、妖しくも美しい女神がそこに在る。


 怒りと憎しみに満ちた呪われた神威――これは、霊異(くしび)だ。


 天津神を呪詛したことで、堕ちた比売神――禍つ神霊(みたま)


 その姿は、あまりにも美しく、あまりにも禍々しい。


 太古の女神に近い故に、

 その霊異(くしび)は荒ぶる神にも匹敵する強さだ。


 しかも、禍つ()を身にまとう比売神は、

 本来国津神が持ち合わせぬ霊異(くしび)も併せ持った。


 世代を重ねた神は、太古の女神より遠すぎる故に神気も神威も弱い。


 とうてい太刀打ちできなかった。


木之花知流比売(このはなちるひめ)――」


 禍つ神霊となった麗しき国津神――木之花知流比売がそこにいた。



 側に在るだけで、怒りに満ちた禍つ()霊異(くしび)の揺らぎが感じられた。


 堕ちた比売神は禍つ神威――霊異(くしび)を容易く扱う。


 何故比売神の怒りが自分達に向けられているのかはわからぬが、

 これだけは言える――逃げられない。


 兄弟神は絶望とともに悟った。


「……兄上、私から離れて、お逃げください……」


 弟神が、兄神の腕から離れようとする。


「無駄だ。そなたの言霊より、私の言霊の方が強い」


 比売神のほっそりとした腕が上がり、弟神を指さした。


 美しい唇が聞き取れぬほど幽かな言霊を呟いた。


 兄神の腕の中で、弟神が苦悶の声を上げた。


「事代!?」


 兄神の腕の中で、弟神は喉を掻きむしり、苦しんでいる。


「そなたの言霊は、封じた。私の許しなくその神威を使うことは許さぬ。

 妹にしたことを考えれば、生きたまま引き裂いて神霊を引きずり出すところだ」


 弟神の喉には呪詛の楔が紋様として刻まれていた。


 右手首と左手首にも、

 同様の紋様が刺青のように絡みついて肌の一部となっている。


 強すぎる。


 これが、禍つ神霊の神威なのか。


 憎しみで満ちあふれた霊異(くしび)

 禍つ神霊を通して大気に満ちていく。


「お待ちください!!

 我々は、太古の女神を黄泉国へ御還ししようとしたまで。

 何故それが、貴女様の妹比売を傷つけたことになるのですか!?」


 美しい比売神が、眉根を寄せた。


「そなたは――そうか、わからぬのか」


 ちらりと弟神に視線を移し、比売神は短く、


「許す、伝えよ」


 そう言った。


 弟神が震える手で兄神の手を掴んだ。

 そこから、弱々しい神威が流れ込む。


「なん、だと――」


 弟神を通して伝わる事実に兄神の形相がみるみる変わる。


 傷ついた弟神の肩を掴んで問うた。


「何故すぐに伝えなかったのだ!?

 私が引き渡したあの男が、天孫の日嗣だったのか!?

 ならば、この手で八つ裂きにしてくれたものを!!」


 怒りで、兄神の神気が揺らめいた。


 自分達から豊葦原の中つ国を奪った憎き天津神を手中にしていながら、

 みすみす荒ぶる神に手渡してしまった。


 弟神を救うためとは言え、この手に捕らえていたのに。


「どうして……どうして気づかなかったのだ!!

 せめて、腕の一本、脚の一本でも引き裂いてやれたら――!」


 自分自身に対する悔しさと怒りで、涙が滲んだ。

 兄神の悔しさと怒りに、弟神も涙を零した。


「そうか――そなたたちも、日嗣の御子を憎む者達か」


 不意に、木之花知流比売の禍つ霊が揺らいだ。


 きっ、と兄神が比売神を視据える。


「当たり前だ!! 我々の豊葦原を奪われたのだぞ!! 豊葦原は国津神のものだ!!

 創造神より引き継いだ國造りを成したのは我が父神ではないか!?

 父亡き後は、その末の私と事代が継ぐはずだったのだ、それを――!」


 兄神の言霊を、美しい手を挙げて比売神は遮った。


 麗しい(かんばせ)が冷酷な()みを刻む。


「ならば、か弱き女より、憎き男を狙うが良いのだ。そなたたちは間違えたのだ。

 豊葦原の中つ国を取り戻すのに、黄泉神の力など要らぬ。

 憎しみや怒りは、正しく向けるがいい。ならば、私もそなたたちに力を貸そう」


 禍つ霊が、いっそう揺らめき満ちる。


 堕ちた女神の、なんと麗しく、淫靡な妖しさか。


 目が放せない。


「この豊葦原は国津神のもの――黄泉神にも、天津神にも渡さぬ」




 次の土曜日、美咲は熱を出してベッドから起きあがれなかった。


 慎也が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて夜にはどうやら熱も下がった。


 だが、日曜の朝が来て体調は良くなっても美咲の恐怖は治まらなかった。


 月曜日の朝、

 自分はあの図書館で何事もなかったように働けるのだろうか。


「――」


 図書館に行きたくないと思ったのは、初めてだった。


 そんな美咲の心の動きを、慎也は見抜いていた。


 美咲がシャワーからあがると、


「美咲さん。外行くから着替えて」


 そう慎也は言った。


 アパートの前には、黒い外車が止まっていた。


 後部座席に乗り込むと、運転席にいた男がミラー越しに挨拶した。


 慌てて、美咲も会釈する。

 そのまま、車は静かに進み出す。


「何処に行くの?」


「着けばわかるよ」


 慎也はそれだけしか言わなかったので、美咲には訳がわからなかった。


 まず、この車は何なのだ。

 運転手の男は誰だろう。


 だが、運転席の男が聞いているのに、ここで質問するのも躊躇われる。


 そうこうしているうちに、車は見慣れた角を曲がり裏門から敷地内へ入った。


 学校だ、そして、この先に行くなら――図書館だ。


「なんで……」


 車が止まると、慎也は運転席の男に礼を言った。


「いつでもご連絡ください。お迎えにあがりますから」


 どこか嬉しそうな男に戸惑いながらも礼をして、

 美咲は慎也に腕を引かれて車を降りた。


 車が走り去ると、慎也は美咲の腕を掴んだまま職員玄関へと進む。


 慣れた手つきでセキュリティを解除してカードを戻すと、

 鍵を開けて中へと美咲を入れて、もう一度鍵をかける。


「あの車、何? 何でここに来たの?」


「建速が準備してくれた。

 昨日の帰りも、あれで美咲さんを運んだんだよ」


 そのまま図書準備室に入る。


 いつもの机。

 いつもの職場だ。


 ほっとしたのもつかの間で、

 慎也はさらに進んで館内へと続く扉へ向かっている。


 そこで初めて、美咲は足を止めて抗った。


「いやっ!!」


 慎也が足を止めて振り返る。


「もう金曜日みたいなことは起こらないよ。

 明日から仕事でしょ。ちゃんと見て、安心した方がいい。

 ずっと怖がってたのわかってる」


 慎也の気遣いはわかる。


 だが、襲われたときのあの恐怖と嫌悪――何より絶望を、

 思い出すのが嫌なのだ。


「……」


 泣きそうな顔で黙っている美咲を見て、慎也は大きく息をついた。


 そのまま、身を屈めて、美咲を子どものように抱きかかえる。


「慎也くん!?」


 館内へ続くドアを開けて、美咲を抱き上げたまま中に入った。


「ほら、何ともないよ。何もない。

 いつもの、美咲さんの大好きな図書館のままだよ」


 美咲は促されるまま館内に目を向ける。


 閉じたカーテンからもれる光で館内はうっすらと明るかった。


 きれいに整頓された書架の並びは整然としていて、

 閲覧用の机からは椅子の背もたれが等間隔で覗いている。


 いつもの図書館だ。

 美咲の愛する、静けさと穏やかな秩序を湛えた空間。


 身体から、力が抜けていく。


 だが、慎也がカウンターの中に入るとぎくりと身体が強ばる。


 金曜の記憶が甦って身体が冷えていく。


 慎也は美咲をカウンター手前の業務用机に下ろし、顔を近づける。


「まだ怖い?」


 美咲は頷く。

 ちらりと後ろを振り返るとカウンターが見えて、思わず身を竦ませる。


 そんな美咲の頬を両手で包み込むと、そっと慎也はキスをした。

 一度だけでなく、ゆっくり、何度も。


 強ばっていた身体から徐々に力が抜けていく。


 優しくもどかしいキスに、美咲の唇が薄く開く。


 待ちかねていたように、くちづけは深くなった。


 いきなり深くなった触れ合いに美咲の身体が後ろに傾ぎ、

 慌てて慎也のシャツの両脇を捕まえる。


 慎也の手が美咲の背中に回ってさらに覆うようにキスをする。


 辛うじて、美咲は声を出した。


「誰か来たら……」


「誰も来ないよ。休館日だし」


 キスをしながら、優しく胸元のボタンが一つだけ外された。


「いや――見ないで……」


 だが、構わず慎也は視線を落とした。


 肌に残る痕を見ているだろう。


「大丈夫」


 慎也はそのまま屈んで美咲に唇を寄せた。


「――!!」


 甘い熱に美咲の身体が震えた。


 一度では終わらず、慎也は何度も同じことを繰り返した。


 ようやく顔を放されて、視線を下げると、

 さっきよりももっと鮮やかな鬱血の痕が散らばっていた。


「ほら、俺の痕だ。しばらく消えないよ。

 これ見るたびに、俺にカウンターでされたってこと思い出すよ」


 羞恥で、顔が赤くなる。

 恥じらう美咲に、慎也が優しく笑う。


「そこでそういう顔するから、止まらなくなるんだ」


 背中に回した手を下げて、慎也は優しく美咲をカウンターに横たえた。


「ダメだよ、目を閉じないで」


 その声に、美咲はゆっくりと目を開けて慎也を見上げた。


 カウンターについていた慎也の手が、美咲の手に重なる。


「初めて美咲さんのアパートで触れたときみたいに、俺を見てて」


 指を絡めて、優しく美咲を拘束しながら、

 慎也は美咲を包むように身体を寄せる。


 決して重みをかけずに、ただ温もりだけを伝えるように。


「こんなところで……だめ……」


「ここだからだよ。だって、ここにいる美咲さんが好きだから。

 ここで美咲さんを見るたびにすごく嬉しくなる。

 好きだって気持ちが溢れてくるんだ。

 だから、いつも笑ってここにいてほしい。

 ほら、今美咲さんに触ってるの、俺だよ。

 触れるのは、俺だけだ――他の誰でもない」


 優しく、ゆっくり、慎也があやすように揺れる。

 その緩やかさに、美咲の心が甘くときめく。


 美咲の顔を覗き込んで、慎也は一度息をついた。


「すごく、気持ちいい。こうしてるの」


 美咲も同じだった。


 慎也と見つめ合っているというだけで、

 ただ抱き合っているというだけで、

 身体の全てが喜びと快さで満たされる。


 慎也以外ではだめだった。


 それはもう、決定事項なのだ。

 遙か遠い彼方に過ぎ去った前世からの。


「ここに立つたび、思い出すよ。

 俺といたこと。俺が抱きしめてること」


 暗示のように囁かれる甘い言葉。


 穏やかに抱きしめられて、甘い想いが何度も心を震わせる。


 慎也の背後に見える薄暗い木目の壁、

 視界に入る天井の照明。


 普段カウンターから見えている景色とは違うものが、

 愛しさともどかしさを感じさせる。


 世界が優しく揺れている。


 ゆりかごのように、

 美咲は慎也に抱かれて揺られて安心していた。


 同時に、強い眠気に、美咲の意識は霞んでいく。


「眠いなら眠っていいよ」


 耳元でささやく声。


 美咲は素直に頷いた。


 あくまでも優しく穏やかに美咲を抱きしめる慎也は、

 正しく美咲の恐怖を消し去ってくれた――




 美咲が目を開けたとき、

 館内はカーテン越しの日差しでずっと明るくなっていた。


「気がついた?」


「――」


 美咲はカウンターから離れた閲覧用のソファーに横になっていた。

 座っている慎也の脚に頭を横にして預けている。


 どうやらまた慎也が自分を運んでくれたのだと、曖昧な意識の中で思った。


 慎也の手は美咲の髪を撫でていた。


 その優しさが心地よくて美咲はもう一度目を閉じかけたが、

 視界の端に奇妙なものを捕らえて目を開ける。


「――」


 見間違いではなかった。

 美咲は、手をついて身体を起こした。


「美咲さん?」


「慎也くん……柱が、光ってる……」


「え――?」


 美咲の見ている方へ視線を流した慎也も動きを止める。


 図書館の中央にある太い柱が、

 陽炎のように揺らめきながら淡く発光していた。


「天の門が開き、天の浮橋が架かった――」


 低い声が、そう告げた。


 二人ははっと声のした方に顔を向ける。


 無造作に伸ばした髪。

 すらりとしているが、逞しい体躯。

 在るだけで、畏怖の念すら覚える荒ぶる神。


 そこに、建速須佐之男命が立っていた。




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