4 神言
「事代、しっかりしろ。もうすぐだ」
界と界を繋ぐ狭間の領域で、兄神は弟神を座らせた。
「兄上……申し訳ありませぬ……」
「何を言う? 私のためにそなたは命すら差し出す。
そのようなこと、するな」
荒ぶる神から逃れる際に神威を使ったため、
弟神の傷口からは再び血が流れていた。
兄神は己の神威でその血を止めるので精一杯だった。
風の神の神威は、凄まじかった。
荒ぶる神が止めなければ、
きっとこの憑坐の身体は死んでいただろう。
封じられた神々が豊葦原に降り立つには、
憑坐である人間が必要だった。
神々の神威と神気を受け入れられる者は簡単には視つからない。
この貴重な憑坐を殺すわけにはいかなかった。
もうすぐ根の堅州国に着く。
そうすれば、ゆっくり傷を癒せる。
兄神は弟神を抱き寄せ、回復のための神気を分け与えた。
「……なりませぬ……兄上。兄上の神気が」
「黙れ、私に断りなく死ぬなど、許さぬ。神代でも申したであろう。
そなたは我が弟。今生でも私の傍を離れるなど決して許さぬ」
何一つ上手くいかない。
父神が死んでから、本当に、何一つだ。
天孫の日嗣の御子が随伴神とともに天降ってきてから、
全てはおかしくなっていった。
自分は天津神に捕らわれ、弟神は兄の命と引き替えに
この国を明け渡すと誓約しなければならなかった。
そうして、母神は根の堅州国に追いやられ、自分達は封じられ、
ようやく解き放たれたと思ったら、この様だ。
「何故、こんな――」
兄神が言霊を震わせる。
今生でも、高天原の天津神には太刀打ちできぬのか。
あの圧倒的な神威に、屈するしかないのか。
屈辱感で胸が痛い。
何を間違えたのだ。
何が悪かったのだ。
母神に、何と伝える?
もう何度も失望させた。
これ以上、母神を悲しませることなどできない。
弟神を抱きしめながら、
兄神は途方に暮れていた。
目を覚ましたとき、
一瞬、美咲はそこが何処なのかわからなかった。
心配そうに自分を見下ろす慎也の顔が見える。
その背後には見慣れた天井。
自分のアパートのベッドに寝ている。
「どうして――」
そう思って、はっと思い出す。
帰り際の図書館で、見知らぬ男にされたことを。
恐怖が甦り、咄嗟に自分の身体を抱きしめる。
そこで、掛け布の中の自分は下着以外
何も身につけていないことに血の気が引いた。
「いや――いやっ!!」
「美咲さん!?」
自分を守るように手足を引き寄せる美咲を、
慎也が掛け布の上から抱きしめる。
「大丈夫。服を脱がせたのは俺だよ。大丈夫」
優しく抱きしめてくれる慎也はいつもどおりだが、
美咲の心は未だに混乱していた。
図書館での怪異。
見知らぬ男の復讐まがいの行動。
そして、不可思議な夢。
夢に現れた神――建速の語った、突拍子もない古の物語。
「――どうやって、ここに帰ってきたの?」
「ああ。建速が、車を出してくれた」
その言葉に、美咲が驚いて顔を上げる。
「建速を、知ってるの?」
「美咲さんと俺を救けてくれたんだよ。
図書館を出ていきなり後ろから殴られたんだ。
気がついたら図書館の中で、美咲さんが気を失ってた」
「――」
時計に目をやると、すでに日付が変わっていた。
身体がひどくだるく、頭が重かった。
「シャワー、浴びたい。身体を洗いたいの」
「わかった。お湯、出してくるよ」
慎也が、そっと身体を離してバスルームへと向かった。
美咲は掛け布にくるまったまま身体を起こし、
着替えを持ってキッチンで立ち止まる。
明かりがついていなかった。
美咲は明かりをつけた。
それから脱衣所へ向かう。
闇が怖かった。
バスルームから慎也が出てくる。
「何かあったら呼んで、すぐに行くから」
「ええ……」
脱衣所のドアが閉まると、途端に不安になる。
呼び戻したい衝動に駆られるが、我慢する。
掛け布を落として下着を脱ぐと、
温かなシャワーを頭から浴びた。
ふと胸元に視線を落としてぎょっとする。
慌てて曇った鏡を手で拭い、胸元を見る。
そこには、
見知らぬ男がつけたであろう鬱血の痕が散っていた。
「……いや……」
美咲は慌ててスポンジにボディーソープをのせると、
赤く残る痕を擦り落とす勢いで洗い始めた。
何度擦ってもとれない鬱血の痕に、
美咲は堪えきれずに胸を隠すように手で覆い泣き出した。
慎也ではない男に触れられたことで、
自分が穢れたような気がした。
服を脱がせたのが慎也なら当然この痕も見られただろう。
このまま、消えてしまいたい。
「――美咲さん、大丈夫?」
脱衣所のドアが開いて、
バスルームの薄いドア越しに慎也が声をかけてきた。
シャワーの音に紛れて、
美咲は何とか大きく息を吸い、普段通りに答えた。
「大丈夫。すぐあがるわ」
「わかった」
美咲はもう一度顔にシャワーをかけ、身体を流した。
胸元を視界に入れないよう身体を拭き、身支度を済ませる。
ドライヤーの熱で髪の水分が飛ぶのをぼんやりと感じながら、
美咲はふと意識を失っている間のことを考えた。
「――」
夢を見ていた。
建速が自分達の前世だと言った男神と女神の夢を。
そして、別な女神の夢も。
なぜ、二つの夢を見るのだろう。
そして、どちらの女神も、不幸だった。
愛した男に裏切られて。
そして、自分は――?
自分も、そうなるのか。
行き着く思考に、ドライヤーの熱と裏腹に心が冷えていく。
頭を強く振ると、急いで脱衣所を出る。
部屋のベッドサイドに慎也が背を預けて座っていた。
美咲を見て立ち上がるのと、
美咲が慎也へと駆け寄るのは同時だった。
慎也にしがみつくと、強い力で抱きしめ返してくれる。
「具合、悪くない?」
しがみついたまま、美咲は首を横に振った。
「もう寝よう。明かり消すよ」
その言葉に、美咲は悲鳴のように叫ぶ。
「いや、明かりは消さないで!」
恐怖に震える美咲に、慎也は宥めるように背中を撫でる。
「わかった。明かりはずっとつけておくよ。
美咲さんが眠っても。それでいい?」
慎也の胸に顔を埋めたまま、美咲は頷く。
明かりをつけたまま二人でベッドに入る。
慎也は眠るまで、美咲の背を優しくさすってくれた。
抱きしめられても、抱きしめても、いつか引き離されそうで、
美咲はいっそう強くしがみついた。
「ああ――」
暗闇の中に、その姿をとらえたとき、女神は歓喜の声をもらした。
迎えに来てくれたのだ。
喜びで、女神は男神へと飛びつく。
受け止めた勢いで男神の身体が傾き、二人は倒れ込んだ。
それでも、離れようとはしなかった。
男神の上になった女神が身を乗り出し、男神にくちづける。
男神も女神の背に腕を回し、応える。
「お逢いしたかった……」
珍しく視上げる女神の美しい瞳は涙に溢れていた。
その眦に触れ、頬を引き寄せて唇で涙を拭う。
「我もだ。そなたを忘れることなどできなかった。
この腕に抱きしめたくて、そなたに触れたくてしかたなかった」
「触れてください。私も貴方に触れて欲しい」
「ここでか?」
僅かに驚く男神に、
女神は縋り付くように身体を寄せる。
「ええ。ここで。今すぐに」
離れていた間の虚しさを埋めるように互いに触れ合う。
男神の上で、女神の身体が震えている。
男神は堪えきれずに何度もくちづけた。
喜びに咽び泣く女神の静かな声が暗闇の回廊に満ちる。
やがて、女神の心と男神の心が共鳴りし、
対の命はようやく再会に安堵した。
重なった鼓動と想いがようやく落ち着いた頃、
男神は女神を視上げた。
「ともに還ろう。そなたを迎えに来たのだ」
「ああ――嬉しゅうございます」
女神の瞳に、また涙が溢れる。
男神は頬を引き寄せ、くちづけては視つめ合い、
またくちづける。
女神の涙が、男神へと落ちる。
それでも、
男神は飽くことなく女神を視つめ、
互いの神気も神威も呑み込むかのように、
終わりなど来ないかのようにくちづけは続いた。
ここで待つよう女神は言った。
生者はこの門より中へ入られない。
だから、自分が往ってくると。
黄泉国の暗闇の回廊で成りませる神、
黄泉日狭女と八雷神を置いては往けないと、
女神は門の内側へと戻っていった。
門に消える愛しい姿を視送って不安になる。
また、離れてしまうような気がした。
二度と、逢えないような――そんな気が。
頭を振って、そんな考えを追い払う。
離れてなど、生きられるわけがない。
自分達は対の御霊。
対の命。
ともにいられぬなど、有り得ない。
「何をしに来た」
不意にかかる声に、男神は驚いて顔を向けると、
美しい琥珀の瞳をした闇の主が立っていた。
「女神を、迎えに来たのだ。連れて返る」
その言霊に、闇の主はうっすらと嗤った。
「これはおかしなこと。
女神は神去り、すでにその身は死の女神と成られた。
返ることなどできぬ」
「では、我もここに残る。
女神といられるなら黄泉国だろうと何処だろうと構わぬ」
闇の主の明らかな侮蔑を含んだ嗤いが暗闇の回廊に響き渡る。
「誓約は成されたのだ。覆すことはできぬ。疾く去れ。
ここは死の国。生者の穢れを持ち込むな」
「女神を残しては去れぬ!!」
「いいや。
去るのだ。
去らねば、我が黄泉国の黄泉軍が、
そなたを嬲り殺すであろう。
それだけではない、そなたが誓約を守らぬのなら、
我が黄泉軍はその代償を豊葦原に求める。
女神のためだけに豊葦原の中つ国を黄泉の領界とするなら
それもよい」
「!!」
返すべき言霊を探せぬ男神は、青ざめたまま膝をつく。
「疾く去れ。
暗闇の回廊の終わり、黄泉比良坂に到るまでの時は与えよう」
「――せめて、せめて最後にもう一度、女神に……
一言、別れを……」
「くどい」
狼狽える男神に、黄泉神の鋭い言霊が響く。
「猶予は与えた。黄泉比良坂で黄泉軍に捕らえられ嬲られようと、
それは我の与り知らぬところだ」
「……」
冷たく男神を視据える黄泉神は、それ以上微動だにしない。
男神はよろめくように立ち上がった。
閉ざされた門を、遠い目で視つめ、
「伊邪那美――愛しき我が那邇妹命」
一言呟いて、走り去った。




