10 闇襲
週末の放課後、すでに閉館時刻を過ぎ、
美咲と慎也は帰り支度をしていた。
カウンターを片づけている美咲のところに近づいた慎也は、
カウンターの上にある積み重なった本に目をとめる。
「美咲さん、この本戻してこようか?」
「あ、いいの。それ戻せないの」
「? 書庫行き?」
「違うわ。それ、図書館の本じゃないの」
美咲は困ったように積み重なった本に目を向けた。
「夜間の返却ポストにここ最近二冊ずつ入ってるんだけど、
うちの蔵書じゃないの。誰か、勘違いしてるみたい」
言われて、慎也は本の裏を確かめる。
確かに、ここの図書館の本ではない。
図書館の蔵書であるなら当然のように貼ってある
バーコードシールがなかった。
それ以前にブックコートもされていない。
「いたずら?」
「わからないのよ。
古い本だから寄贈本としても扱えないし、
忘れ物としてエントランスに置いておくべきなのか、
山中先生と相談しなくちゃ――さ、もう帰りましょう」
カウンターの片づけが終わって、美咲が声をかける。
慎也は手に持っていた本をそのままカウンターに戻した。
鞄を持って一般用の玄関から出て行く。
美咲はそれを確かめて、鍵をかけた。
明かりを消すためにカウンターに向かったその時、
背後で、カタンと音がした。
美咲はぱっと振り返る。
今の音は、返却ポストに本が入れられた音だ。
急いでエントランスに戻ると、
玄関脇に備え付けられた返却ポストの蓋を開ける。
「――」
やっぱりだ。
ポストの中には本が入れられていた。
手に取るとやはり、バーコードシールはない。
だが、今回は一冊だ。
いつもは二冊なのに、今回は一冊。
合計で七冊。
一体、何がしたいのだろう。
美咲は首を傾げるが、さっぱりわからない。
取りあえず、カウンターに置いておこう――明日山中と相談しなくては。
本を片手にカウンターへ戻る。
積み重なった本の一番上に、今日の一冊を重ねる。
そうして館内の明かりを消そうと
カウンター脇の柱のスイッチに手を伸ばす。
明かりが、消えた。
「え?」
美咲は驚いた。
自分はスイッチに触っていないのだ。
しかも、館内の明かりのスイッチは一つではない。
全てが一斉に消えるなど有り得なかった。
しかも、図書準備室の明かりも消えている。
ここの明かりとはスイッチは別なのに。
非常灯は点いている。
「停電――?」
横でドサドサと本が落ちる音がした。
びっくりして音の方を見ると、
非常灯の淡い光の中で、
先ほど積み重ねたはずの本がなくなっていた。
一冊残らず全てカウンター内の床に落ちていたのだ。
円を描くように、七冊の本。
「――」
何だか嫌な感じがした。
きちんと重ねて置いたはずなのに、
なぜ、全部落ちたのだろう。
しかも、円を描くように。
拾いに行く気に、なぜかなれなかった。
動けない美咲の目の前で、信じられないことが起こった。
床に落ちた七冊の本の表紙が、ひとりでにめくれたのだ。
ハードカバーなのに。
風でめくれることなど有り得ない。
無論、閉め切った館内に風が吹くはずもない。
それなのに、表紙だけではなく、次々とページがめくれていく。
中ほどで止まったそのページから、
「!!」
突如、煙のように闇が現れ、美咲に向かって飛んで来た。
その動きの素早さに、
美咲は動くことも叫ぶこともできなかった。
両手首に巻き付いた闇が、
もの凄い力で美咲をカウンターに引き寄せる。
上半身が俯せに倒れ込む。
そのまま左手が背後に引かれて、くるりと身体が反転する。
美咲はカウンターに両手を広げて仰向けで磔られた。
カウンターより低めに設置された天板に座るような格好で、
足は宙に浮いているものの、足首を手首同様闇に戒められ、
動くことができない。
あっという間の出来事だった。
腕を起こそうとしても全く動かない。
「暴れても無駄ですよ」
この場にそぐわない穏やかな声がした。
美咲は声の方に顔を向けた。
頭は拘束されていないため、視線の先に男の姿を捉える。
「誰……?」
男の身体の輪郭からは、
陽炎のように揺らめく神気が見えた。
男は、優しげな顔立ちをしていた。
そして、美しい声をしていた。
「死者は黄泉国で飲み食いすると、
現世での記憶が全て消え果てると聞く。
女神殿、貴女様もそうなさるがよろしかろう」
男は手に何かを持っていた。
ゆっくりと美咲に近づいてくる。
「これをお食べなさい。
そして、懐かしき黄泉国へお戻り召されよ」
口元に当てられる物を、美咲は唇を噛みしめて拒む。
これを口にしてはいけない。
口にしたら、戻されてしまう。
あの暗く寂寥とした死の国へ――
自分のものではない記憶がわきあがる。
「困ったな」
頑なな美咲の態度に、男はあっさりと黄泉の食物を離した。
「女神殿、手荒な真似はしたくないのです。
貴女様は我らの命の母。
貴女様なくして我らは現象しなかった。
ですが、すでに貴女様は黄泉国の死の女神と成られた。
天津神が甦る前に、黄泉国へ還っていただきたい」
「何を言ってるの……?」
男がなぜそんなことを言うのか、美咲にはさっぱりわからない。
恐怖と混乱で、どうにかなりそうだった。
そんな美咲を、男は憐れむように視下ろしている。
「ああ、黄泉返ったために、神代の記憶が失われているのですね。
ですが、ちらとも思い出せぬのですか?
神気も全く視いだせぬとは。
どのようにして御帰還なされたのか是非とも知りたいものです」
男は、美咲の頬に優しく触れた。
そのまま、じっと目を覗き込む。
男の身体から、神気が揺らめいた。
何かを探っているように見えた。
目に視えぬ何かを――
「――」
穏やかだった男の眼差しが、訝しげに揺らぎ、
それから、何かを悟ったように視開かれた。
不意に、美咲に触れていた手が放れる。
「そうか――通りで神気を感じぬはずだ。
そのように隠れるとは、さすが女神殿」
先ほどのような慇懃な態度が消えた。
男は一度目を閉じ、開いた。
「だが、そなたは違う」
視下ろす男の眼差しに、凄まじい憎悪を感じた。
男の豹変ぶりに、美咲は恐怖した。
「そなたの男は、兄上の敵。我らまつろわぬ国津神の敵ぞ」
憎しみに満ちた眼差しが、美咲を冷ややかに視つめている。
「恨むなら、そなたの男を恨め」
美咲の着ているVネックのシャツの胸元に、
男は人差し指を近づけた。
すっと指を下げると、
「!!」
触れられてもいないのに、
シャツは音も立てずに裂かれていく。
美咲は混乱した。
先ほどまで敬意さえ持って美咲に接していた男が、
なぜ急にこんなことをするのかわからない。
「やめて……」
震える声がもれた。
男の冷たい視線が、美咲の身体をたどる。
視線の動きに合わせて、避けた部分が捲れていく。
「!?」
唇の端を上げ、男は冷たい笑みを浮かべた。
「そなたの男は、別の男に穢されても、
そなたを愛しんでくれるか?」
「――!!」
その言葉が、美咲の中の何かを抉った。
殴られたかのような衝撃に、美咲は動けなくなった。
男が美咲の胸元に静かに近づくのも
わからなかった。
――たった一夜の交合いで、身籠もるわけがない。
冷ややかな眼差しが、自分を視て告げた。
溢れんばかりの愛情を込めて視つめてくださった
あの方は何処に?
――その子は私の子ではない。国津神の子であろう。
あまりの衝撃に、目の前が真っ暗になった。
なぜそのようなことをおっしゃるのですか。
あんなにも優しく私を愛しんでくださったのに。
国津神の子。
私が、貴方以外の方に身を任せたとお思いなのですか。
貴方の妻でありながら、不義をはたらいたと。
――そなたの顔を、今は視たくない。帰るがいい。
去っていく背の君。
あんなにも幸せだったのに。
喜んでくださると思っていたのに。
どうして。
どうして――
「――」
見開いた目から、
涙がこめかみを伝ってカウンターに落ちた。
無遠慮な熱が、肌に触れている。
絶望に、美咲は絶叫した。




