7 神揺
大気が喜びに満ちていた。
神々の言霊が溢れかえっている。
国津神が全て目覚めたからだ。
中つ国に封じられていた神々が目覚めた。
「神気が豊葦原に満ちている。これを、待っていた――」
荒ぶる神は、唇の端を上げ、咲んだ。
「馨しい神気です。
なんと懐かしい、まるで神代に戻ったかのように」
「まだだ。国津神が目覚めただけでは、足りぬ。
神々が女神を求めて集う――黄泉神々も動き出すだろう」
「男神と女神の神気は未だ感じませぬ。
交合いによって、
記憶と神威は戻らなかったのですか?」
「ああ。女神の記憶が戻らぬのなら、神威も戻らない。
女神の神威ならば、容易く黄泉神を退けられるだろうに」
「なぜ、女神の神威は戻らぬのですか?」
「女神の神意が何処にあるかはわからぬ。
だが、神代を再び甦らせるには、
男神と女神、二柱の神がどうしても必要なのだ」
「御身は神代を再び甦らせるおつもりなのですか?」
「ああ、そうだ。
国津神と中つ国だけでなく、天津神と高天原も甦らせる。
神代が戻りしそのときこそ、我が願いも叶うであろう」
荒ぶる神は、遠い眼差しで思いを馳せる。
「願いは二つ。
そのためだけに、
天を追われてより今日この時まで彷徨ってきたのだ――」
青白い月が浮かんでいる。
夜しかないこの国で、
月は唯一の慰めだった。
あの日まで。
初めての、
そして唯一の恋に落ちたあの日を、
どれほど悔やんでも時を戻すことはできない。
心を失ったまま、
夜ごと眺めるあの月は自分のよう。
欠けては満ち、満ちては欠け、
しかし、永遠に、満ち足りることはない。
だから、最後の望みだけは、叶えてみせる。
月を眺めたまま、女神は答えた。
「黄泉神が欲しいものをくれてやるがいい」
「母上、本当によろしいのですか?」
驚きを隠さずに男神が問い返す。
目覚めて、一番に戻ってきた子。
唯一の自分の血を受け継ぐ子だ。
「天津神に奪われた豊葦原が取り戻せるのなら、構わぬ」
この地に追いやられて、永い永い時が過ぎた。
すでに失うものなど何もない。
「豊葦原は、本来そなたが受け継ぐべきであったのだ。
忌々しい天津神によってそなたは封じられ、
私は根の堅洲国に追いやられたが、
もともと豊葦原は我ら国津神のものぞ」
ゆらりと、女神は立ち上がった。
「我らのものを取り返すだけだ。
何も心配はいらぬ。
天津神は未だ目覚めてはおらぬというではないか」
ゆっくりと、前に進む。
そうだ。
あの日、己から進み出でて運命を定めたように、
もう一度あの美しい豊葦原に戻ってみせる。
女神は、我が子を抱きしめる。
「案ずるな。
我らの豊葦原を再び取り戻すのに、
誰の許しがいるものか。
還るのだ、本来在るべき場所へ――」
それを視ているのは、月だけではなかった。
美しい双柱の女神が、向かい合い、手を取り合っている。
――今日よりそなたが私の名を名乗りなさい。
愛する方に望まれて、
今まさに咲く花のように美しいそなたに相応しい。
それが私からの贈り物よ。
――本当に、いいのかしら……私のような身体の弱い女が、
あの美しい方の嫡妻になっても。
お姉様の方が、あの方には相応しいのでは――
――何を言うの!
あの方は、一目でそなたに心を奪われたと言ったではないの。
私になど、目もくれなかったわ。あれは愛しい者を視る目よ。
わかるわ、私の愛しい方も、そのように私を視つめるもの。
きっとそなたは幸せになれるわ。
――お姉様……
――愛しい妹。
そなたが幸せなら、それでいいの。
そのように愛されて、そなたは幸せよ――
どちらもとても美しい女神だった。
姉比売は濡れ羽色の美しい髪と瞳で、
妹比売の瞳は、それよりはほんの少し淡い色をしていたが、
結い上げた髪の艶やかさは同じで、髪挿しも同じであった。
姉比売は淡い肌の色で、
薄紅の頬は微笑むと健やかな美しさで誰をも魅了し、
妹比売は透き通るような肌で、
薄紅の頬は微笑むと儚げな美しさで誰をも虜にした。
双子であるが故に面差しは似ていても、
美しさは天と地ほども異なっていた。
それでも、
対のような美しい比売神は国津神の幸わいであった。
姿を現すたびに、美しい花が咲き、舞い散る――
そのような女神達を、国津神の全てが愛しんだ。
週末が終わり、またいつもの月曜日がきた。
美咲はいつも通り図書館で
本の貸し出し業務を行っている。
土日が休館日だったせいか、
今日は一般の利用者の貸し出しや返却が多かった。
ようやく放課後になって、業務も落ち着いた。
「美咲せんせーい」
手を振って近づいてきたのは、美里と莉子だ。
「本は読み終わった?」
「うん。次の借りようと思ったら無くてぇ。
もしかしたら誰か借りてる?」
「調べてみるわ。ちょっと待って」
パソコンで莉子の借りたい本を検索する。
が、あいにく貸し出し中だ。
「残念ながら貸し出し中ね。
返却が一週間後になってるわ。予約しとく?」
「するする」
「じゃあ、返却されたらすぐに知らせるわ――どうしたの?」
予約の手続きをして、パソコンから顔を上げた美咲は、
美里と莉子がこちらをじっと見つめているのに気づく。
二人は探るように美咲を見つめて後、
「美咲先生、なんだかぁ、綺麗になったみたい」
おもむろに莉子が呟いた。
「な、なによ、急に」
「わかった!」
内心慌てる美咲に、美里がにやりと笑う。
「彼氏ができたな」
「えええ? 美咲先生、やだ、マジでぇ?」
「ちょっと、何言うのよ!」
慌てて否定するも、二人は全然話を聞いていない。
「何か肌艶違うし、絶対そうだな」
「そおかぁ、何かフェロモン出てると思ったんだよねぇ。
恋する女の子のフェロモンだぁ」
すでに彼女らの中で、美咲に恋人ができたことになっている。
「彼氏なんてできてないから!」
声を潜めて再度否定するが、完全に二人はスルーだ。
「美咲先生が幸せならそれでいいよ」
軽く溜息をつく美里に、莉子がうんうんと頷く。
「結婚してもやめないよね?」
「何言ってるのよ、彼氏なんていないし、
結婚なんて、まだまだしません」
「えー、結婚は早いほうがいいと思うなぁ」
莉子が口を尖らせて甘えたように言う。
美里が首を縦に振る。
「昔は、今の中学生くらいでもう結婚してたんだから、
それに比べりゃあたし達みんな
適齢期過ぎてるいかず後家ってことじゃん」
「やだぁ、美里。ちょー失礼。
あたしたち、まだまだ全然いけてるしぃ」
「こらこら、ここは図書館よ。もう、静かにして」
利用客は少ないが、いないわけではない。
これ以上喋らせていたら、
何を言い出すかわかったものではない。
「予約はしといたから、他の本借りるなら選んできて」
「今日はいいや。予約本待つから」
「あたしも返却」
美里が持っていた本をカウンターに置く。
「今度彼氏紹介してね」
莉子が小さく呟いて、
二人は手を振って図書館を出て行った。
「――」
美咲は小さく息をついた。
どっと疲れてしまった。
女子高生の観察眼は侮れない。
たった数日で、そんなに自分は変わったのだろうか。
あれから、
慎也は日曜の夜までずっと美咲のアパートで過ごした。
おしゃべりをして、
食事をして、
抱き合って、
眠って、
それだけのことなのに、
すごく幸せで。
日曜の夜も、本当は離れたくなかった。
ドアの前で何度も何度もキスをした。
ドアが閉められて姿が見えなくなったら、
もう逢いたくて泣きそうになった。
追いかけて引き留めたかった。
帰り道にくれる慎也からの携帯のメールは、
慎也が家について寝るまで返信が続いた。
いつも一人で眠っていたベッドは、
やけに広く、冷たく、寂しく感じた。
恋をして、幸せで、それだけでいいはずなのに。
切なさと切り離せないこの恋も、
来年には笑って思い返せるようになるのだろうか。
閉館間際に、
美咲はいつも通り館内の施錠を確認し、
カーテンを閉めた。
山中は、職員室で会議中だ。
そのまま帰ると言っていたので、
今図書館には美咲と慎也しかいない。
慎也は備え付けられた大きな机の端に座って
本を読んでいる。
よほどその本に夢中なのか、
いつもは伸びた背筋が前に傾いでいる。
長い指がページをめくる。
真剣に読みふけるその姿は、
いつもの大人びて飄々とした慎也を年相応に見せている。
知らずに、笑みがもれる。
その時。
慎也が顔を上げた。
「――」
一瞬、遠い目をして、
何かを捜しているようにも見えた。
が、美咲を視界に入れると
安堵した表情になり、
それから、
愛しさを隠さずに微笑んだ。
その笑みに、美咲は目を奪われた。
不意に、こみあげる愛しさが心を震わせる。
この人に、逢いたかったのだ。
そう思った。
ずっと捜してたような気がする。
やっと出逢えたような気がする。
嬉しいはずなのに、
泣きたくなった。
何かを伝えたかったはずなのに、
言葉にならなかった。
それを伝えるために、ここまで来たのに。
「――」
こみあげる様々な感情に、
美咲は逃げるように書庫に飛び込んだ。
内鍵を閉めて奥に走る。
叫び出したいのに、
何を言葉にすればいいのかわからないもどかしさ。
まるで自分の中に何人もいるように、相反する。
嬉しいのに、悲しくて。
愛しいのに、切なくて。
もどかしさで、胸が苦しい。
いっそ大声で泣いてしまいたい。
大切なことを忘れているような後悔で
どうにかなりそうだった。
「――」
鍵の回る音が小さく聞こえて、
続いて扉の開く音がした。
そこで、
慎也が以前山中から鍵を預かっていたのを思い出した。
近づく足音。
美咲ははっとして、
書棚の間に隠れ、
潤んだ目元を指先で拭った。
呼吸を整える。
「美咲さん? どうかした?」
背後からかかる慎也の声に、努めて明るく答える。
「何でもないの――」
振り返って、
制服のブレザーのネクタイに視線を落とす。
それから、足下に。
今その顔を見てしまったら。
その腕に縋り付いてしまったら。
もう放せない。
離れては、生きられない。
そんな気がした。
それなのに。
「美咲さん――」
迷うことなく触れてくれるその手を。
強く抱きしめてくれるその腕を。
どうして、いつか失ってしまうように感じるのだろう。
「キスして……」
小さな呟きを聞き逃さず、
慎也は上向いた美咲の唇に自分のそれを重ねた。
いつもなら幸福感に包まれるのに、
今日は違った。
温かな温もりを感じているのに、
心は凍えそうに寒かった。
慎也の首に腕を回し、夢中で縋りついた。
いっそこのまま溶け合ってしまえたら。
離ればなれになってしまうこともないのに。
足の力が抜けて、美咲は後ろに仰け反った。
支えてくれる慎也の腕がなければ
倒れていたかもしれない。
美咲が倒れないように壁に押しつけ、
首筋に顔を埋めながら、
慎也はそれ以上の動きを止めた。
「このままだと、止まらなくなる――」
熱い吐息が首筋にかかる。
「どうする?
俺は平気だけど、美咲さんが嫌でしょ?」
辛うじて、理性が押しとどめる。
「……ここじゃ、だめ……」
震える声で、美咲は言葉を絞り出す。
「――うん」
首筋を強く吸って約束のように印を付けると、
慎也は美咲から身体を離した。
「早く帰ろう。続きはアパートで」
腕を引かれて抱きかかえられるように美咲は書庫を出た。




