6 蜜月
「闇の先触れが、女神を見つけたぞ。
国津神に阻まれたがな」
暗闇の中で、美しい琥珀色の瞳が瞬いた。
視線の先には、大柄な国津神と随伴神が控えている。
「それで? 目覚めた我々を呼び出したのは何故だ」
暗闇にいることが不本意なように不機嫌な神が、
闇の主に問う。
神気が暗闇の中で揺らめき、怒りを露わにしている。
「取引を。
私は約定に従って、女神を取り戻したいだけだ。
我が遣いだけでは心許ない。
故に、そなたたちに我が遣いの手助けを頼みたいのだ」
闇の主の禍々しい気が、神気に呼応し、揺らめく。
「天津神が目覚める前に、女神を連れ戻すこと。
私の望みはそれだけだ」
「見返りは?」
「豊葦原を。
再び、あの国を取り戻したいのだろう?
女神が黄泉国に戻されれば、
女神を護る中つ国の国津神は再び眠りにつくしかない。
天津神々は、未だ豊葦原には干渉できぬ。
そうなれば、あの中つ国は
そなたたち忘れ去られた神々のものだ」
「豊葦原をほしいと思わんのか?
そなたたち黄泉神々は」
その問いに、闇の主は声なく嗤う。
「我々は闇の領界を司りし神。
ここより何処へも往けぬ。
豊葦原の光は、我々には強すぎる」
女神さえ在れば、それでいいのだと、闇の主は思う。
あの美しき、つれない女神が傍に在ってくれれば。
「――」
闇の主の言霊を信じきれぬ国津神は、頭を一つ振った。
「戻って、考える。返答は、その後だ」
「それがよかろう。よい返事を待つ」
国津神と随伴神は、暗闇の回廊を抜けて戻っていった。
「さて、戯れはもう終わりだ」
ゆらりと、闇の主は立ち上がる。
闇の先触れはすでに中つ国の領界へと着いた。
忘れられた神々の協力があれば、
程なく女神を連れ戻すことはできる。
天津神々によって中つ国を追われた神々だ。
再び中つ国を取り戻すために協力するだろう。
忘れ去るには、
豊葦原の中つ国は美しすぎるらしい。
神々にとって、手に入れずにはいられぬ国。
還りたいと思わせる国。
闇の領界でしか生きられぬ自分にはわからぬ思いだが。
だからこそ、女神も去った。
捕まえたら、
もう二度とここから出すまい。
待つこともしない。
女神を待つのに慣れすぎていた自分がほんの一時、
心をよそに移し、目を放した隙に、
女神は闇の領界から逃げ出してしまった。
それからずっと、女神は何処にも現れなかった。
だから、捜し出せなかった。
だが、女神が再び男神と出逢ったことで
あらゆる神々が目覚め始めた。
神々が集うところに、女神がいる。
今度こそ、逃がさない。
この手を放せば、
二度と戻ってこないことはすでに思い知ったから。
「終わりにしなければ――」
後には、また独り、闇の主が残される――
誰かが自分を呼んだような気がして、
美咲は半覚醒のまま目を開けた。
「――」
薄ぼんやりとした部屋の中、
すぐ近くに慎也の顔が見える。
小鳥のさえずりが聞こえた。
そこでようやく、美咲は昨日の夜を思い出す。
思わず身じろいだとき、
体が甘い喜びで満たされた。
慎也とのことは、夢でも幻でもなかった。
優しく、大切にしてくれた。
そのせいか、初めてなのにとても幸せだった。
まるで、何度もそうしてきたように。
そっと顔を上げると、慎也は目を閉じて眠っている。
無防備なその顔は、年相応のあどけなさが残る。
今年で卒業とはいえ、まだ高校生なのだ。
ほんの少し、後ろめたさが心をよぎる。
小さく息をつくと、
美咲は起きあがろうと静かに肘をついた。
が、伸びてきた腕が美咲の腕を引き寄せ、
「きゃあ!」
美咲はまたさっきまでの場所に引き戻される。
すぐ傍には慎也の顔がある。
「おはよう、美咲さん」
「――お、おはよう」
あまりの近さに美咲はとっさに顎を引いて顔を下げてしまう。
だが、腕に触れていた慎也の手が美咲の頬に触れる。
「なんで顔下げちゃうの?」
「――」
「身体、平気? 大丈夫だった?」
気遣うような眼差しに、美咲は慌てて首を横に振る。
「よかった。
美咲さん、昨日気を失ったみたいに寝ちゃったから、
心配したんだ。
何度呼んでも目ぇ覚まさないし。
女の人の初めてって大変なんでしょ?」
「え?」
慎也の気遣う言葉で気づく。
自分がワンピースを身につけていることに。
「なんで、服……」
「俺が着せたから。
そのままだと嫌だろうから、身体も拭いといた」
さらりと言われた言葉に、美咲が絶句する。
「あ、念のため言っとくけど、見てないよ。
美咲さんが嫌がると思ったから、明かり点けなかったから」
「――」
「美咲さん?」
「――やだ、もう!」
美咲は寝返りをうって慎也に背を向けると
掛布を頭からかぶった。
恥ずかしくて、顔から火が出そうだ。
「美咲さん、こっち向いて」
慎也の手が優しく掛布を美咲の頭から捲り取る。
だが、美咲はますますシーツに顔を押しつけて慎也から隠れる。
「ホントに見てないよ。だから怒らないで」
そう言って、美咲の背中に触れる。
「――っ」
肩甲骨に沿って優しく触れられ、
思わず震えてしまう。
続く背骨に触れる指先の感触。
「……だめ……」
「じゃあ、こっち向いて」
観念した美咲が、
ゆっくりと肩を下げて慎也を振り返ると、
「――」
慎也が美咲の唇を優しく塞いだ。
昨日のように甘く、優しく、
美咲はまた温かな感覚に包まれていく。
キスの合間に、慎也の手は美咲をさらに引き寄せる。
「……もう、朝だから……」
起きないと。
だが、最後まで言えなかった。
「もう少し、このまま」
慎也の手が背中を撫でる。
温もりが服越しに伝わり、幸福感が満ちていく。
「昨日もホントはもっと触れていたかったけど、
美咲さんが寝ちゃったから我慢したんだ。
今日はもういいよね」
すでに美咲には拒む気力もつもりもなかった。
慎也は愛しさを隠さずに触れてくる。
恥ずかしさもまだまだ残っているが、
美咲は満足そうな慎也の表情に
切ないような感情を覚える。
「――美咲さん、最高に可愛かった。
今も可愛い」
美咲とのこうした触れ合いが、
慎也にとって大切なのだと
今さらながらに気づく。
互いが満足するまで、
離れがたいように触れ合った。
「美咲さん、お腹減った」
真剣な声でそう言う慎也に、
美咲は先ほどの甘やかな時間が嘘のようで、
思わず吹き出してしまった。
時計に目をやると、まだ六時だ。
「ご飯作るまで三十分くらい待てる?」
「そのくらいなら待てる」
「じゃあ、先にシャワー浴びてきて。
その間に作っとく」
「了解。タオル貸してね」
「脱衣所の戸棚に入ってるから好きなの使って」
慎也は起きあがってデイパックから
着替えを出すとそのままバスルームへと向かった。
美咲は水の流れる音が聞こえると、
身体を起こしてキッチンへ向かった。
炊飯器には、
タイマー予約で炊きあがったご飯が保温してあるから、
あとはおかずだけだ。
冷蔵庫を開けて食材を見ると、
鮭の切り身と絹ごし豆腐、
昨日の朝漬けておいた浅漬けと
卵、納豆、カットフルーツに
サラダ用の野菜が目に入る。
「食べ盛りの高校生って、こんなものでいいのかしら……」
先に好き嫌いを聞いておけば良かったと思ったが、
空腹なら何でも食べられるだろうと、
美咲はとりあえず鮭の切り身を
コンロに備え付けられているグリルに入れた。
味噌汁用の鍋を出して火にかけ、
出汁パックを入れて、蓋をする。
サラダ用の野菜はすでに切っておいてあったものを
サラダボウルにきれいに盛りつける。
豆腐は冷や奴用なので、
小鉢に入れて小口切りのネギを散らす。
残ったネギは溶いた卵に混ぜ、
味を調えて卵焼き用の小さなフライパンで焼いて巻いていく。
切り終わって皿に盛ったところで
味噌汁用の鍋がほのかに湯気をだしていた。
出汁パックを取り出して味噌を溶き、
乾燥具材を入れ、一煮立ちさせて火を止める。
鮭を手早くひっくり返して焼き目をつけると、
卵焼きの横に添える。
浅漬けを取り出し小皿に盛る。
テーブルを拭いて食卓を整えると、
ちょうど慎也も頭を拭きながら出てきた。
「わお、もうできてる。すごいな」
「お茶碗、炊飯器の横においといたから先に食べてて。
シャワー浴びてくる」
「じゃ、サラダだけ食べて待ってる」
「先に食べてていいのよ?」
「ご飯は一緒に食べたいから」
笑ってそう言う慎也に、美咲も笑い返す。
「じゃあ、すぐに出るから」
「慌てなくていいよ」
素早く脱衣所で部屋着を脱ぐと、
美咲はシャワーのコックをひねった。
熱いお湯が顔を濡らし、すぐに髪を洗う。
そうしてスポンジにボディソープをつけて
まず腕をこする。
胸元に視線をやって手が止まる。
赤い鬱血の跡がほのかに散っている。
慌てて鏡にシャワーのお湯をかけると、
曇りのとれた鏡に映る胸元だけではなく、
鎖骨のあたりや首筋にもついているのがわかる。
顔が赤いのはシャワーのせいだけではないだろう。
「やだ、これじゃ襟付きしか着れないじゃない……」
この跡はいつぐらいまで残るのだろうか。
打撲の青あざでも消えるまでには時間がかかる。
明後日までに消えるとはとても思えなかったが、
薄くはなるだろう。
今週の土日が休館日で良かったと美咲は安堵した。
気を取り直そうとしたが、
昨日と今朝のことを思い出してしまう。
「――もう」
頭を横に振ってもう一度気持ちを切り替え、
身体を流し終えると、美咲はシャワーを止めた。
脱衣所で手早く身体を拭き、
髪はドライヤーで軽く乾かし、
櫛で梳かして身支度を整える。
「お待たせ。ちょっと待ってね」
「うん」
脱衣所からまっすぐご飯をよそいにいく。
味噌汁は温め直さなくても十分な熱さだ。
手際よくお盆に二人分を乗せて食卓に並べた。
「いただきます」
礼儀正しく手を合わせて、慎也は箸に手をかけた。
「魚、温め直さなくてもいい?」
「そんなに冷めてないから大丈夫」
サラダだけでは足りなかったのか、
あっという間におかずとご飯が減っていく。
「おかわり、いる?」
「いる。お願いします」
ご飯を多めに炊いておいてよかったと美咲は思った。
手渡すと嬉しそうに受け取る慎也が、
可愛らしく見える。
勢いは衰えず、普段そんなに食べない美咲は
自分の卵焼きと切り身の半分を慎也にあげた。
「そんなにお腹減ってたのなら、
先に食べててもよかったのよ」
「一緒にいるのに一人で食べるのやだよ。
うち、両親とも共働きで食事はほとんど一人だから。
美咲さんと一緒にご飯食べれて嬉しい」
「――いつも、ご飯どうしてるの?」
「平日は親が雇った家政婦さんが
俺が帰る前に作っておいてくれてる。
土日はコンビニかな」
「――」
思ったよりも慎也の家庭環境が恵まれていないようで、
美咲はなんだか切なくなった。
「好き嫌い、ある?」
美咲の出したものを美味しそうに平らげている慎也は、
少し考えてから、
「好き嫌いは、特にないけど、
揚げたてじゃない揚げ物はちょっと嫌かな」
と言った。
「揚げたてじゃない揚げ物?」
「うん。コンビニの弁当に入ってるやつとか。
レンジで温め直すと弁当の揚げ物ってしんなりするじゃん。
衣がサクサクしたのが食べたい」
「じゃあ、夜トンカツにしてみる?」
「ホントに? すごい嬉しい。ありがと、美咲さん」
「衣つけて揚げるだけよ」
「そうじゃなくて、夜ご飯も食べさせてくれるなら、
今日も夜まで美咲さんと一緒にいていいってことだよね」
「――」
そこまでは考えていなかった美咲が返答に困っていると、
「ごちそうさまでした」
手を合わせて礼儀正しく言って、
慎也は食べ終えた食器をシンクへと運んでくれた。
それどころか、一緒に洗うとまで言い出した。
「美咲さんと一緒にしたいんだ。
美咲さんとするなら、何でも楽しい」
そんな甘い言葉に、美咲の心が温かくなる。
新婚夫婦のように仲良く並んで食事の片づけをした後も、
慎也は何かとしたがるものだから、
土曜の早朝から、二人は洗濯や掃除機がけやら
キッチンのタイル拭きやら風呂掃除まで
付かず離れずですることになった。
それでも、全て終えてもまだ九時を少し過ぎた時間だ。
「お疲れ様」
温かい緑茶を出すと、
ベッドサイドに背を預けて慎也は嬉しそうに受け取る。
「楽しかった。またしたい」
「じゃあ、次もお願い」
「うん」
窓は開いていて、
梅雨明けのきれいな青空と、
流れていく雲が見える。
爽やかな風が入ってきて、
洗い立てのシーツが風に揺れる。
遠くで小さな子供の笑い声がする。
切り取られたような空間の中で、
二人はただ寄り添っていた。
幸せとは、
こんなささやかなもので十分なのだと、
美咲は思った。




