5 交神
一歩進むごとに、身に着けている衣を脱いだ。
簡易な衣は帯を外せばするりと床に落ちる。
結い上げた髪を押さえる髪挿しを抜くと、
長い髪がはらりと落ちた。
御柱に沿って男神と出逢うときは、
互いに、一糸纏わぬ姿であった。
顔を上げて男神を視ると、
熱い眼差しが自分を視返している。
なぜか、その眼差しに
今まで感じたことのない羞恥を感じた。
だが、伸びてきた大きな手が自分の手を取り
互いの距離がさらに近づく。
先ほどのように熱い視線が注がれる。
――……様?
その沈黙に耐え切れずに声をあげたのは、
自分のほうだった。
――……。そなたは美しい――
かすれた声が漏れ、
男神が自分をさらに優しく引き寄せた。
触れた熱に驚いたが、
すぐに自身も熱くなったので気にならなくなった。
あらゆる感覚が研ぎ澄まされ、
喜びの声が八尋殿に響く。
その度に
自分達の神気が溶け合うように
揺らめき、
大気へ散った。
これ以上は耐え切れないと思ったとき、
互いの神気が激しく揺らぎ、神威が満ちた。
同時に、器のみの神が産まれた。
激しい思いを秘め、揺らめき続ける――それは世界の全てを照らす、
姿無き、心無き、太陽と呼ばれる物になった。
切ない思いを秘め、揺らめき続ける――それは世界の暗闇を照らす、
姿欠け、心欠けた、月と呼ばれる物になった。
次の日も、変わらない日常は続いた。
美咲はいつもどおり図書館へ出勤する。
職員朝会を終えて準備室で仕事をしていた山中が
美咲が入ってくるなり手を上げた。
「おはよう。
藤堂さん、昨日は鍵を届けてくれてありがとう。
慌てて忘れていったのね」
「いえ、いいんです」
職員用玄関のすぐ脇のロッカー室にバッグを入れて、
美咲は自分の机に向かった。
出勤簿がわりのタイムカードを機械に入れ、
一連の作業を終える。
すでに作ってあるコーヒーをカップに注ぐと席に着いた。
「――ところで、先生」
「ん? なあに」
「昨日の見回り、どうでした?」
美咲の問いに、山中ははっとしたように顔を上げた。
「そうよ、聞いて!
今日は何と、あの悪戯がなかったのよ!」
嬉しそうに言う山中に、
美咲は内心やはりと思いながらも口裏を合わせる。
「そうなんですか? 犯人、見つかったんですか?」
「ううん。結局、誰かはわからないのよ。
でも、続いてた悪戯がやんだってことは、
もうあきらめたんじゃないかしら。
そう言えば、藤堂さんは昨日校舎に入ったけど、
誰か残ってる生徒とか見なかった?」
問われてどきりとするが、努めて平静を装う。
昨日の出来事を、山中に話しても信じてもらえるかどうか。
自分だって、未だに信じられないのだ。
「――いえ、全く見ませんでした」
美咲の返答に、山中も頷く。
「私達も、結局何も見つけられなかったわ。
見回りがようやく効を奏したのかしら。
不思議なこともあるものね。
さ、仕事しましょう。
今日はまた、午後から書庫の整理と廃棄本、
お願いできるかしら」
「わかりました」
それ以上、夕べの出来事に対する話はできなかった。
美咲も、気持ちを切り替えて仕事に集中した。
午後になり、昼食を終えて休憩してから、
美咲は山中に言われたとおり書庫で本の整理をしていた。
バーコードでの読み取りが導入されていなかった頃の本は、
すでに痛みも激しいので、借りる者も滅多にいない。
奥へ奥へと押しやられるだけの本を選別して処分するのは気が引けるが、
これも業務だと割り切る。
端にあった背表紙の題名さえ消えている本を手に取ったとき、
美咲はどきりとした。
古事記。
日本の神話と歴史が入り混じったその本は、
美咲に昨日の出来事を思い出させた。
自分を追いかけてきたあの黒い水は、
自分を女神と呼んだ。
ページの最初を何枚かめくると、
國産みの神話だ。
どろどろした泥をかき混ぜて島を生み出し、
あらゆる神々を生み出し、
世界を創る。
火の神を産んで死んだことで、
今度は黄泉を司る死の女神になった。
それに関わる女神は一人だけだ。
「――」
まさか――
「美咲さん」
「きゃあ!」
突然背後からかかった声に、美咲は叫んだ。
振り返ると、慎也が立っている。
「ど、どうしてここに? 授業は?」
「授業なら終わったよ。
図書館に来たら、山中先生が手伝えって。
だから来たんだ」
「――」
どうやら、山中は気をきかせてくれているらしい。
しかし、
いくら慎也を気に入っているとはいえ、
いいのだろうか。
図書館の書庫で、自分達を二人きりにさせるなど。
仕事をおろそかにするつもりは無いが、
何をしているかわからないではないか。
「何真剣に考え込んでたの?」
美咲は手に取っていた本を元の場所に押し込む。
そうして、慎也に向き直る。
「昨日のことよ。あの、黒い水のこと」
「ふうん、で、何かわかった?」
「全然。悪い夢でも見てた気分。
誰も何も騒いでない」
「じゃ、夢でいいんじゃない?」
あくまでも慎也は他人事だ。
自分だって、あの不可思議な出来事に巻き込まれて
3階から飛び降りたくせに。
「気にならないの? 一歩間違えば死んでたのよ?」
驚く美咲に、慎也は首を傾げて、答える。
「気にならないわけじゃないけど、
考えてもわかんないし。
結果として無事だったからいいや」
「そんな、簡単に割り切っちゃうの……?」
呆れ顔の美咲に、慎也は小さく笑った。
「今、俺の世界の中心は美咲さんだから、
基本、美咲さん以外はどうでもいい」
美咲の両手を掴んで自分へと近づける。
「美咲さんがいてくれれば、何にもいらない」
「そんなこと言わないで。
まだ高校生じゃない。
自分の好きなこと、何か無いの」
「特にない」
即答に、美咲は困ってしまう。
「俺、今が一番楽しい。
美咲さんに会うまでは、正直、何しててもつまんなかった。
特にしたいことも無かったし、全部どうでもよかった」
美咲は山中の言葉を思い出した。
感情を表に出さない、
淡々と一人本を読んで過ごす慎也。
自分は、今までそれなりに楽しく、
充実した毎日を送ってきた。
友達だっているし、
学生のときもそれなりに楽しんできた。
だが、慎也にはそんな思い出が何一つ無いというなら、
自分に逢うまでそんな寂しい生き方しかできなかったのなら、
可哀想過ぎる。
「美咲さんに初めて会ったとき、すごく嬉しかった。
それからは、毎日嬉しくて、楽しい。
少しでも長く美咲さんといたい。
いつでも、美咲さんを見ていたいし触れていたい。
早く、抱きたい」
ストレートな告白に、胸が熱くなる。
「赤くなってる美咲さんも可愛い。
ね、キスしていい?」
「――だから、そういうこと言わないで」
「じゃ、黙ってするけど怒らないでね」
言うなり、
慎也は美咲の頬を両手で引き寄せた。
そのまま二人の距離がなくなる。
以前とは違う深い触れ合い。
角度を変えて何度も優しく触れられる。
どこまでも優しく甘い触れ方で、
美咲はそれ以上抵抗できなくなる。
愛しさを隠さず求められて、
美咲もできるだけ応えた。
やがて、
慎也がようやく美咲から顔を離した。
震える声で、美咲はようやく言葉を搾り出す。
「もうだめ……仕事しなくちゃ……」
素直に慎也が頷く。
「うん。ごめんね。手伝うから、一緒にしよ?」
慎也が美咲の手をとって、指を絡める。
そうして、
床においてあった台帳を空いている左手で取った。
だが、慎也は繋いだ手をいつまでも離そうとしない。
「これじゃ、仕事できないわ」
「大丈夫、美咲さんは右手、俺は左手使えば一人分だよ」
あからさまな愛情に、
美咲は何だか切ない気持ちになった。
それ以上、言い募ることもできず、
二人で手を繋いだまま仕事をした。
繋いだ手は、温かく、愛しく、
書庫を出るまで離れることはなかった。
二時間後に。
そう言って、
慎也は勤務時間を終えた美咲をアパートの前まで送ると、
一旦自宅に帰っていった。
その間に、
美咲は夕食を終え、後片付けをし、
簡単に部屋を整えてからシャワーを浴びた。
髪を乾かすと、鏡に映った自分の姿を見た。
いつもはサイドを後ろに結い上げているが、
今はそのままだ。
いつもは薄くしている化粧もしていない。
洗ったばかりの部屋着のワンピースに素足。
これから慎也が来るなら、
もっときちんとした格好をしたほうがいいのだろうか。
だが、今更というような気もして、
それもためらわれる。
迷っているうちに、時間ばかりが過ぎていく。
時計を見ると、もうすぐ約束の九時だ。
慌てて、脱衣所を出ると、
もう一度部屋を見渡す。
ベッドのシーツは替えたし、
ドレッサーの小物も片づけた。
引き戸で仕切られたキッチンとトイレは
すでに片づけ終えた。
脱衣所の洗濯機は乾燥に切り替わっている。
ナイトモードにしておいたから、朝までは大丈夫。
もうすぐ慎也が来て、
この部屋ですることを考えると、
胸がどきどきする。
あのわけのわからない悲しみは今は感じないけれど、
別な意味で泣きたいような気分になってくる。
慎也と寝たからといって、別に世界が激変するわけではない。
これからたくさん続くだろう夜の、初めてというだけなのだ。
それなのに、この期に及んで、
何かが大きく変わってしまうような気がして、
このまま慎也に何か都合ができて来れなくなってほしいと
心の片隅で思ってしまう。
こんなに好きなのに、
なぜ、好きという思いだけで自分は満たされないのだろう。
何かが自分を堰きとめる。
夢だったり、訳のわからない感情だったり、
年上ということや社会人であるということなど、
様々な柵が素直に慎也への愛情を表わそうとするのを遮る。
「――」
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
美咲は驚いて部屋からキッチンに向かう。
シンクの横のドアへ進むと、もう一度控えめなノックと、
「美咲さん?」
小さな慎也の声がした。
チェーンを外すとドアが開いて、
するりと慎也が入ってきた。
たたきの上にいても、
慎也のほうが背が高い。
嬉しそうに見下ろされて、
美咲の鼓動がまた速まる。
「……上がって」
「お邪魔します」
礼儀正しくそう言うと、
慎也は屈んで靴を脱いだ。
「何か食べる? それとも飲む?」
美咲はキッチンに用意していたティーセットをとろうと
一歩踏み出したところで、
慎也に後ろから抱きすくめられた。
「――」
「何にもいらない。美咲さんが欲しい」
耳元でささやかれて身体が熱くなる。
「今すぐ?」
「今すぐ」
慎也の手が一瞬だけ強さを示した。
もう拒めない。
流される前に、美咲は声を出す。
「明かり、消させて……」
「いいよ」
慎也が手を放すと、
美咲はまずキッチンの明かりを消した。
そのまま部屋に進む。
後ろからは慎也が続く。
肩掛けしていたデイパックをベッドの脇に下ろす。
美咲がリモコンのボタンを押すと、
部屋が暗くなった。
「脱がせていい? それとも、自分で脱ぐ?」
「自分で脱ぐから、あっち向いてて……」
「了解」
暗闇でも恥ずかしかったので、
美咲は背を向けた。
ベッドに横たわり、
掛け布で身体を隠す。
暗闇になったことで少しは落ち着くかと思ったが、
鼓動は速いままだ。
替えたばかりのシーツが背中にさらりとして心地よい。
美咲に遅れて慎也が、
掛け布をめくって美咲の隣に入り込んでくる。
暗闇に目が慣れると、
カーテンの隙間からもれるわずかな明かりで、
慎也の輪郭をとらえた。
「お願い……ずっと変わらないで」
咄嗟に、口に出していた。
何かが変わってしまう不安に、
美咲は慄いていた。
慎也が安心させるように頬を撫でた。
「変わらないよ。こんなに好きでたまらないのに。
ずっと探してんだ、美咲さんのこと。
やっと見つけた。
こんなに苦しいぐらい好きな気持ちが、
変わるわけない」
美咲を宥めるように、慎也は優しいキスを繰り返した。
重なった温もりに、美咲は震えた。
熱い――まるで燃えているように。
それなのに、驚くほどに慎也の身体は美咲に馴染んだ。
まるで、そのためにつくられたかのように。
あらゆるところが優しく温かく包まれる。
繰り返される触れ合いに、
美咲は心を震わされる。
「――大丈夫、美咲さん?」
慎也が聞いた。
美咲は弱々しく首を横に振った。
あまりにも優しく、大切にされて、胸が痛い。
「……大丈夫」
背中に腕を回して縋りついた。
ゆっくりと慎也が美咲を気遣う。
あまりにも幸せで、
世界が揺らいではじけたように感じた。
「ずっとこうしていたい。離れずに、いたい」
まるでこれが最後のように聞こえて、
美咲は幸せなのに泣きたくなった。
そして夢見るように静かに眠り込んだ。
不意に意識がまどろみの中から引き戻されたように感じた。
目が開けられない。
金縛りにあったように、
自分の意志では身体は指一本すら動かなかった。
意識だけが薄ぼんやりとしていた。
優しく甘い余韻が続いている。
さっきまで満たされていた想いが
再び温かく包まれている感覚。
眠り込んだ自分を、
再び慎也が抱きしめているのかと、ぼんやり思った。
それでも。
自分の身体なのに、
そうでないような気がした。
自分に触れているのは慎也なのに、
慎也でないような気がした。
もっと懐かしく、切なく、
心が震えるような、
夢の中の愛しい人の腕に抱かれているような感覚だった。
もしや今、自分は夢を見ているのだろうか。
ここは自分の部屋なのか。
それとも、あの八尋殿なのか。
これは夢だ。
そう思い込もうとしたが、
自分に感じられる温もりは、夢と思い込むには温かすぎた。
甘く熱く自分の心を揺さぶるこの人は誰なの。
貴方は、誰なの。
何度も自分の心を揺るがされ、
沈んでいく意識とは反対に身体は満ちていく。
熱い想いを魂の一番奥で受け止めたとき、
自分ではない、自分の中の別の誰かが
よりいっそう満ち足りたように感じた。
そして、美咲の意識は完全に途絶えた。
――我らの神威が返った。
――女神の記憶は戻ったか?
――まだだ。
――まさか、封じられているのか?
――記憶を取り戻さぬ限り、女神の神威は返らない。
――女神の神威が返らねば、黄泉神々とは戦えぬ。
――いずれ天津神々が目覚めるというのに。
――何としてでも女神を護れ。
――再び我ら国津神が封じられようとも、女神は、黄泉神には渡さない。
現世での交合いによって、
忘れ去られていた国津神々の全てが目覚めた。




