4 護神
夕暮れが終わる、薄闇の満ち始めるその刻。
闇に蠢くものの、声なき声がする。
――女神ヲ、視ツケタカ
――主ガ捜シテイル、女神ダ
――神気ヲ探レ
――コノ近クニイル
――確カニイル
――捜セ
――捜セ 主ガ待ッテイル
――主ノモトヘ 連レモドセ
禍々しい気が揺らぐ。
女神を求めて、それは闇の中へと消えていった。
放課後、そろそろ5時を過ぎる頃、
図書準備室に内線が入った。
基本的に内線は山中がとる。
美咲は外線担当なので、
山中が受話器をとるのを横目でとらえて作業に戻ろうとした。
「はい、図書準備室――はい、私です。
え? 今日、今から?」
途中から山中の声音が険しくなる。
顔をあげて、美咲は山中を見た。
「わかりました。すぐ行きます。はい」
受話器を置いた山中は、すぐに立ち上がる。
「どうしたんですか?」
「今日の見回りの先生が急な出張でいないから、
明日の私達が繰り上がったって。
私立高校ってこういうとこ杜撰なのよね。
出張なんて一週間も前にわかるじゃない。
急とか言い訳しないでほしいわ。
忘れてたのよ、絶対」
言いながらも、
山中は手際よく机を片づけてコーヒーカップを給湯室へ持っていく。
「先生、おいといてください。私洗っておきますから」
「ホント? ありがとう!
じゃあ、このまま行くから、戸締りよろしく」
ロッカー室からバッグを取り出すと、
山中は慌しく校舎に通じる渡り廊下へと消えていった。
「山中先生どうしたの?」
カウンターにいた慎也が準備室を覗いて聞いた。
午前中のことなど何も無かったかのように、いつもどおりだ。
美咲も、さりげなさを装って答える。
「見回りが今日になったって」
「ああ、あの七不思議真似た悪戯ね。先生方も大変だ」
「そう――やだ、山中先生ったら、鍵忘れてる」
山中の机の上には、
たくさんのストラップがついた鍵がちょこんとのっている。
美咲は鍵を取ると、カウンターの慎也に声をかける。
「職員室に、鍵を届けてくるわ。悪いけど、戻るまでお願い」
「いいけど、俺が行こうか?」
「大丈夫」
振り返らずに、渡り廊下の鍵を開ける。
そのまま渡り廊下を走り、
校舎へと入ると、美咲は2階の職員室へと向かった。
山中は見回りに行ったらしく、
すでに職員室にはいなかった。
美咲は残っている教諭に鍵を預けて
職員室を後にした。
階段を下りて、もと来た廊下を戻ろうとするが、
来るときには点いていた廊下の電気が消えていた。
「やだ、見回ったから電気消しちゃったのかしら」
廊下の電気がどこにあるか、美咲は覚えていなかった。
校舎の方にはほとんど来ないし、
来るとしても日中だったので、
電気のスイッチまでは気にかけていなかったのだ。
うっすらと渡り廊下までの道はわかる。
美咲はこのまま進むことにした。
階段の明かりが段々と背後に遠くなり、
やがて暗闇だけになる。
障害物が無い廊下の真ん中を美咲は足早に歩く。
静まり返って誰もいない校舎は、
それだけで薄気味悪い。
暗闇にも目が慣れると、
廊下の先の渡り廊下への曲がり角が見えたのでほっとする。
あそこを曲がれば図書館の渡り廊下の扉が見える。
その時、不意に、朝の男の言葉を思い出した。
暗闇には近づくな。
美咲の足が止まる。
今まさに、自分は暗闇の中にいる。
背筋が震えた。
急に、背後の温度が低くなったような気がした。
禍々しい気配を感じて、
美咲はゆっくりと振り返った。
暗闇の中に、いっそう暗い闇がある。
揺らめき、蠢く、深い闇だ。
黒い黒い――闇の凝ったような、それは水だった。
――視ツケタ
それは、耳には聞こえなかった。
けれど、聞こえる。
音にならない、低く、暗い思念が、
美咲の中に響いた。
――女神ヲ、視ツケタゾ!
脳裏に、美里と莉子の話していた怪談話が閃いた。
誰かを探すように机と椅子を濡らしていく、奇妙な現象。
山中が言っていた、見回っても犯人を見つけられないと。
瞬時に悟った。
犯人などいない。
これだ。
この水だ。
闇のように黒い水が、廊下を這うように近づいてきた。
見つけたと言った。
自分を追ってきたのだ。
暗闇には近づくな。捕まったら戻れなくなる。
男の言葉を思い出した。
逃げなくては。
美咲は急いで図書館への渡り廊下の扉を目指した。
だが、角を曲がって扉を視界に捕らえたとき、はたと気づいた。
駄目だ。
図書館には逃げ込めない。
あそこにはたくさんの本がある。
水に濡れたら、取り返しがつかない。
美咲は渡り廊下の扉を通り過ぎ、普通棟へと向かって走った。
ほぼ直線の廊下を真っ直ぐに奥へと走る。
いつもなら非常口の絵文字の見慣れた緑と白が見えるはずなのに、
今日に限って見えない。
美咲は自分が何処を走っているのかわからなくなりそうだった。
振り向けば、
自分を追って黒い水が床を這ってじわじわと進んでくる。
恐怖に駆られてただひたすら美咲は進んだ。
本来ならば、右側には中庭に面した窓があるはず。
左手側には、教室が。
けれど、まるで地下への一本道のように
ただ真っ暗な道が前へとあるだけだ。
まるで、黄泉へと続く道のように。
「誰か、助けて!」
美咲は叫んだ。
けれど、答えはない。
見回りの先生は――山中先生は?
校舎を見回っているはずなのに、足音さえ聞こえない。
そこで気づく。
自分の足音もしない。
美咲は足を止めた。
ここはどこなのだ。
自分は今どこを走っているのだ。
学校内のはずなのに。
怖い。
「誰か……慎也くん……助けて、お願い……」
涙がこぼれた。
それが、暗闇で今は見えない床に落ちた。
その時。
――上へ!
澄んだ、心を震わせる思念が、美咲の頭に響く。
涙がこぼれた足元に、廊下の床が見える。
不意に風が美咲の髪を揺らした。
促されるように美咲は顔を上げる。
外へ出るための非常口が見えた。
そして、扉の向こうには確か非常階段もあったことを思い出した。
美咲は響いた思念に従って非常口の扉を開け、
階段を上がった。
踊り場を曲がり、さらに上がる。
先にはすでに階段しか見えない。
美咲はどんどん階段を上がった。
息が荒くなり、足が震えて辛かったが、
それでも、見える限りどんどん駆け上がる。
屋上まで来ると、それで最後だった。
暗いが、完全な闇ではなく、
景色が見えることに安堵した。
しかし、広い屋上は隠れるところが無い。
校舎から通じる屋上への扉と、
非常階段の横に大きな貯水タンクが備え付けられているだけだ。
さらに駆け寄り貯水タンクと屋上を遮る柵を越えると、
下を見ないように貯水タンクの後ろへ回り込み、隠れる。
床から続く膝まで高さのコンクリートの囲いしかないその隙間は、
身を乗り出せばすぐ落ちてしまいそうだ。
それでも、隠れられたことにほっとする。
音を立てないように、必死で息を押し殺す。
自分の心臓が、やけに大きく響いているように感じた。
だが、禍々しい気配はそんな美咲をさらに追い詰める。
――女神ガイタゾ
心臓が、どくんと大きく震えた。
足元を見ると、じわじわと黒い水が這い寄ってくる。
美咲は慌てて下がろうとしたが、
膝の後ろが囲いにぶつかって止めた。
それ以上の逃げ場は無い。
これ以上は、逃げられない。
「――嫌……」
呟いたその時、風が、ふわりと美咲を取り巻いた。
懐かしいような、切ないような
あの感覚がしたような気がした。
跳べと、風は促した。
声に従って、
片足を囲いのコンクリートの上にかけてさらに上に上がる。
「美咲さん!?」
慎也の声がした。
視線を向けると非常階段の手すりから
身を乗り出してこちらを見上げている慎也が見える。
泣きたくなるほど安堵した。
来てくれた。
自分を追って。
それだけのことが、ただ、嬉しかった。
黒い水が追ってくる。
美咲は、囲いに立っていたその身体を、宙に預けた。
あの声と、慎也の気配だけを信じて。
落ちる。
直前まで、不思議と恐怖はなかった。
「美咲さん!!」
屋上まで間に合わず、
三階の非常階段の鉄柵から跳んだ慎也が、
落ちていく美咲を抱き寄せた。
抱きしめられて、にわかに現実に返る。
下に叩きつけられる――そう思った。
だが、衝撃は来なかった。
大気が、二人を重力に逆らって止めた。
ふわりと、身体が宙に浮いた。
そのまま優しく二人の身体は
真下の水のないプールの縁の傍に下ろされる。
「――」
あの時と同じだ。
美咲は咄嗟に思った。
書庫で足を滑らせたときと、同じ感覚。
勘違いではなかった。
あの時感じた懐かしさと愛しさが
再び強く、戻ってくる。
溢れる思いを、
美咲は抑えることもできずただ泣いた。
「美咲さん、大丈夫?」
そんな美咲に慎也が声をかける。
「……大丈夫」
答える美咲は、はっと上を見る。
つられて慎也も見上げる。
黒い水が追ってきていた。
咄嗟に慎也が美咲を抱きしめる。
覆いかぶさるように、黒い水が二人に迫ってきた。
だが。
突然、水を張っていないプールから水が顕われ、
意志を持ったようにうねりながら持ち上がり、
美咲達に襲い掛かろうとする黒い水を弾き飛ばし、
絡めとった。
「うわっ!!」
「きゃあ!」
水圧と風圧がいっぺんに二人を弾き、
二人は水しぶきをあげてプールの中へと落ちた。
落ちた衝撃で離れかけた二人の距離を、
慎也が引き寄せて近づける。
水が、二人を優しく包み込んでいた。
だが、呼吸ができる。
薄い膜に包まれているように、
何かが水と身体を隔てていた。
水に触れているのに、
奇妙にも濡れた感触は無かった。
揺らめく視界の中、
水が、黒い水を包み込み、
ねじ伏せ、浄化していく。
中心が黒く澱んでいた水の球体が、
徐々に透度を増していき、
やがて、完全に透明になった。
そして、はじけた。
砂が散るように、
細かい飛沫となって霧散した。
水がそれを待っていたかのように
二人を優しく押し出し、
プールの縁へと運んだ。
先ほどのように、
二人はプールの縁のコンクリートの上に立っていた。
大きくて暖かな――神威。
頭の中に、そんな言葉が浮かんだ。
わけもわからない愛しさに胸がつまる。
だが、不意に、厳かな霊威は途絶えた。
「美咲さん、虹だ」
「え――?」
水銀灯の明かりの下、
霧散した球体の名残が、
完全ではない虹を浮かび上がらせていた。
だが、やがてそれも消える。
あとには、静かに現実が戻ってくる。
水は、ただの水だった。
立ち込める塩素のにおい。
それさえも幻のように、においも、水も、
静かに消えた――
静まり返った空のプールの縁に佇む二人は、
先ほどまで水の中にいたというのに、
露ほども濡れていなかった。
今までの出来事など、まるで夢のように。
美咲と慎也は互いに顔を見合わせたが、
何も言えずにただ立ち尽くしていた。
先ほど起こったことに触れるのは、
何故だか今はできなかった。
自分達では説明のつかないことだらけだからだ。
暗闇に近づき、危機に陥った自分。
水と風。
それが自分達を助けてくれた。
あの黒い水の正体がなんなのかはわからなかったが、
何かに護られている事は確信できた。
一番わからないのは、
なぜそうされるのかということだ。
一体何が自分の周りで起こっているのだろう。
ここで働き出してから、
本当にいろいろなことが起こっている。
美咲には、何か大切なことを忘れている
もどかしさだけが残った。
「帰ろう、美咲さん。送ってくよ」
声をかけられて、美咲は慎也を振り返る。
慎也は美咲に向かって手を差し伸べていた。
伸ばされたその手を美咲は素直に繋いだ。
温もりが伝わる。
いろいろな出来事の中で、
最たるものは、慎也との出逢いだ。
この手を、放したくない――強くそう思った。
「今日、アパートによってく?」
「いいの?」
驚いたように問い返す慎也に、
美咲は頷いた。
「いいわ」
「よってくだけじゃ済まないけど、
それでもいいの?」
慎也の声音は真剣だった。
だから、美咲も真面目に答えた。
「今日はよってくだけ。
泊まるのは――明日よ」
死ぬかもしれなかったのに、
自分を追って3階から跳んでくれた気持ちは、
嘘じゃないと思えたから。
繋いだ手に力をこめる。
慎也は、一瞬動きを止めたが、
繋いだ手を優しく握り返し、
嬉しそうに笑った。




