2 余韻
「ここが美咲さんの部屋か」
ドレッサーの小物を見回しながら、素直に慎也は感心していた。
「そんなのが珍しいの?」
「俺、一人っ子だから。女物の小物、あんまり見たこと無いんだ」
コーヒーを出されると、慎也は大人しくドレッサーから離れた。
「いただきます」
コーヒーを飲みながら、二人は互いのことを話し合う。
家族や生い立ち、いろいろなことがわかるたびに、
美咲は嬉しくなる。
この部屋に二人だけでいるときは、
歳の差も人目も気にしなくていいのだ。
こんなことならもっと早く部屋に入れてやればよかったと
美咲が思い始めたところで、
「美咲さん、キスしていい?」
慎也が明日の天気を聞くように問うてきた。
あまりにもさらりと問われて、
美咲は一瞬返答につまる。
「――どうして、今聞くかなぁ……」
「今、美咲さんにキスしたいから。
だって、図書館で言わずにしたら怒ったじゃん」
「――」
いつ人目に触れるかわからない職場だから美咲は怒ったのだが、
慎也には通じていないらしい。
なんと答えたものか迷っていると、
慎也が身を乗り出して美咲の横に来た。
「いい? 美咲さん」
「――だめって言ったら、やめてくれる?」
「うん。いいって言ってくれるまで、待つ」
真面目な返答に、美咲は少し笑ってしまった。
「何よ、結局するんじゃない」
慎也も少し笑って、さらに顔を近づける。
「でも、美咲さんの許可がほしい。
いつも俺一人だけがしたいんじゃなくて、
美咲さんもしたいんだって確認したいから」
慎也の指先が、美咲の頬にそっと触れた。
その触れ方があまりにも自然で、思わず胸が熱くなる。
「いい?」
「――いいよ」
誰かに見られる心配もない今なら、
美咲はようやく素直に答えられる。
慎也が頬を引き寄せて、唇を重ねてくると、一瞬、震えた。
部屋の静けさが、二人の距離をさらに近づける。
優しく触れ合うたびに呼吸が深くなり。
慎也が身を寄せてくると、美咲は自然と後ろへ下がり。
ベッドサイドに背中が触れた。
覆いかぶさるように重なる影。
慎也の気配がすぐそばにあるだけで、
胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
「……」
慎也の手が、美咲の胸元あたりで止まった。
その動きに気づいて、美咲は慌てて手を伸ばす。
「……ちょ、ちょっと待って」
止めようとしたときには、
もうボタンに手がかかってしまっていた。
「何してるの?」
「何って、キス」
「キスするのに、何でボタン外すの!?」
「ここにもキスするから」
胸元にそっと手が近づく。
服越しのその温かさに、美咲は息を呑む。
思わず口元を手で押さえたが、
慎也の手は迷いなく、美咲の服を整えるように動いていく。
「やだ――何で、そんなに――手馴れてるのよ……」
必死に息を整えて呟く美咲に、
「もともと器用だから。
美咲さんにキスしてる間、ずっと考えてた。
どうしたら喜んでくれるかなって。
初めてにしては上出来でしょ」
慎也の唇の熱が、胸元をゆっくりと辿る。
その優しい近づき方に、美咲の鼓動が速くなる。
その時。
すっと身体が冷えていくような感覚。
それまで確かにあった温もりが、不意に遠のく。
また、あの自分のものではないような感覚が
押し寄せてきた。
悲しくて、辛くて、胸が締めつけられる。
美咲は、泣きだしたい衝動を堪えた。
自分のものではないその感覚に翻弄されないように
目を閉じて必死に耐える。
だが、美咲の変化に慎也が気づいて、顔を上げた。
「美咲さん?」
呼ばれて、美咲はきつく閉じていた目を開けた。
心配そうに覗き込む慎也の顔が、すぐ近くにある。
慎也だ。
そう確認するだけで、張りつめていた感情が緩んでいく。
ほっとして、息をついた。
「――もしかして、誰かに無理やり触られたことでもある?
俺に触られると、そのこと思い出す?」
慌てて首を横に振る。
「でも、そんな感じがする。
最初はそんなんじゃないのに、
途中で何か思い出したみたいに身体が強張る。
図書館でもそうだった」
シャツの前を重ねて、慎也は少し身体を離した。
「無理矢理したいわけじゃない。何かあるなら話して」
「――」
美咲は、慎也に触れられると感じる
あの不可思議な感覚について話した。
あの書庫での体験のように、
自分には理解できない感覚が湧き上がることを。
「莫迦みたいでしょ。
自分でもどうしてこうなるのかわからないの。
触られるのが、嫌なんじゃないのよ」
「莫迦みたいだなんて思わない。
俺が触るの嫌じゃないって聞いて嬉しい。
今は、大丈夫?」
「ええ。全然しない」
少し考えるようして、慎也は美咲を見つめた。
「じゃ、ちょっと試してみてもいい?」
「? 試すって?」
慎也が美咲の手を取り、ゆっくりと体勢を変えた。
慎也がベッドサイドに背を預けて座る。
そして、その膝の上に美咲をそっと座らせる。
美咲のほうが、ほんの少し慎也を見下ろすかたちになる。
「俺を見ててね」
言われたとおり、美咲は慎也の顔を見た。
至近距離で見つめ返されて、胸がどきりとした。
だが、こんなに間近でじっくりと慎也を見る機会は、
初めてだと今更ながらに実感した。
少し切れ長の目元。
伸びかけた前髪。
通った鼻筋。
すっきりとした頬のラインーーどれも美咲の好きな慎也の顔だ。
頬に触れると、慎也がそっと微笑んだ。
「今、美咲さんに触れてるのは俺だよ。大丈夫?」
「……うん」
慎也の手が、美咲の肩に触れ、
服の上からそっと撫でるように動く。
そのたびに、美咲の呼吸が少しずつ乱れていく。
「今、嫌な感じ、しない?」
「……し、ない……」
慎也の視線に包まれるようにして、
美咲は目を離せなくなった。
触れられている場所よりも、
慎也のまっすぐな眼差しのほうが、
胸の奥を強く揺らす。
大切にされている。
それが眼差しで伝わる。
心が震えた。
泣き出したかった。
だが、それは先程とは違う。
何かが満ちていく――
あまりにも幸福感に満たされた感情だった。
そして、美咲は気づく。
自分だけではない。
慎也もそれを感じている。
見つめ合う瞳から伝わる感情が――切ないほどに
狂おしく、別ち難く、二人を包む。
時が止まった。
何も聞こえない。
互いに動けない。
この感覚を、どうすればいい――?
視線だけで、互いが揺らぎ、満ちる――
「――」
「――」
やがて慎也は、美咲をそっと抱き寄せた。
美咲はしばらく動けない。
不可思議な感覚に、酔ったような気分だった。
「美咲さん……今日はここまでにしよう」
「――いいの?」
「うん。これ以上いたら、俺、我慢できなくなるから」
言葉ではそう言いながら、
慎也は満ち足りたように笑い、
美咲の額に軽くキスを落とした。
「俺が出たら、ちゃんと鍵かけて。チェーンもね」
名残惜しげにもう一度キスすると、
慎也はドアを開けてするりと出て行った。
美咲は言われたとおりに鍵をかけて、
チェーンをかける。
その小さな音を聞いたのか、
遠ざかる足音が聞こえた。
ドアに耳を付けると
階段を下りていく密やかな足音。
ドアに触れると、
ひんやりとした感触が頬に心地よい。
それでも、
慎也に触れられた温もりは。
心震わすあの眼差しは。
満ち足りた想いは。
しばらく消えそうになかった。




