1 余響
闇の中、美しく光る目が、
じっと空を視据えていた。
琥珀色のその瞳は、
地上に思いを馳せる。
取り囲む暗闇は、
命あるようにうごめき、
主の声を待っていた。
「男神が女神と出逢った。
密約は、今度こそ、果たされねばなるまい」
やがて響く低い声音に、
蠢く闇が震えるように呼応した。
――果タサレネバ
――密約ハ、イマダ果タサレテオラヌ
――今度コソ果タサレネバ
長い指が伸ばされ、地上を指した。
「黄泉より出でし同胞よ。
先触れはすでに中つ国の領界にたどり着いた。
出迎えを。
我が妻を、今度こそ我のもとへ連れてまいれ」
闇が大きく震え、
主の声に従って、
地上を目指した。
後には、主のみが残された。
「全く、悪戯にもほどがある」
放課後の職員会議から戻った山中が
渋い顔で図書準備室に入ってきた。
新刊のデータをチェックしていた美咲は、
パソコンから顔を上げた。
「どうかしたんですか? 山中先生」
「いやね、放課後校内の見回りをすることになって。
余計な仕事が増えて困るわよ、ほんと」
「見回りですか?」
「ほら、坂上と吉原が昨日言ってた
校内のお化け話、あれのせいよ」
美咲は、美里と莉子の話していた
幽霊話を思い出した。
「あの、朝来たら
机と椅子が濡れているってやつですか?」
「そう! 警備員さんが見回ってるはずなのに、
犯人を見つけられないのよ。
一週間も前から生徒達を帰してから
私達教諭も二人一組で校内巡回してるのにそれでもダメ。
見回ってるときはなんともないのに、
朝来て見ると濡れてるわけ。
警備員さんが朝点検しに行くとやられてるの。
何がどうなってるんだか。
私、明後日が当番に当たってるのよね。
藤堂さん、悪いんだけど、
明日と明後日、ここの戸締りよろしく。
明後日はここから直接行くから、
渡り廊下は私が鍵閉めるわね。
生徒達に連絡はしてあるけど、
明日からしばらく三時過ぎたら
一般用の玄関を使わせて」
「わかりました。大変ですねえ」
「全く、もし見つけたらただじゃおかないわ。
こんな手の込んだ悪戯して。
こっちはまだまだ手のかかる中坊の子供と
旦那の世話で手一杯だってのに」
憤慨する山中を見て、
内心美咲はほっとしていた。
やはり学校の怪談などというものは
誰かの悪戯なのだろう。
しかし、
夜間の警備員を出し抜いて机と椅子に水をかけるなど、
山中の言うとおり手の込んだ悪戯をする意図は何なのか。
一晩に一クラス約四十人分の机と椅子を濡らすことで、
何の得があるのだろう?
自分が高校生だったときを思い返してみても、
そんな悪戯をする者はいなかった。
ここが私立高校だからなのか。
独特の校風やカリキュラムのため、
自分が通っていた公立学校と全く違う生徒の様子にも
ようやく慣れてきたが、
やはりまだまだ美咲には理解不能だった。
美咲の勤務時間もそろそろ終わる頃、
それまで自習室で勉強していたはずの慎也が
カウンターに寄って来た。
手には分厚い本を持っている。
「美咲さん、これ借りるね」
図書カードとともに渡されたその本は
翻訳本ではあるが洋書だ。
題名を見ても、何の種類の本なのかはわからない。
NDCといわれる分類番号を見ると、
4が最初についている自然科学の本だった。
確か慎也は理系の大学の進学を予定しているはずだが、
勉強のためなのだろうかと内心美咲は思った。
「課題で使うの?」
「え? ――ああ、これ? 違うよ。
さっき棚見てたら題名が面白そうだったんで
読んでみようかと思って」
「――」
もう一度、美咲は題名を見るが、
堅苦しい題名で、
どう見ても面白そうには見えなかった。
だが、慎也はかなり頭もいいので、
このような本でも面白く読めるのかもしれない。
美咲なら、司書でない限り、
絶対に触れることも読むことも無い類の本だった。
バーコードを読み取るバーコードリーダで読み取りを終えると、
貸し出し完了の機械音とともにレシートが出てくる。
「はい、終わった――」
顔を上げて本を渡そうとした美咲の頬に
慎也が軽く触れる。
柔らかな唇の感触に
何をされたか気づいた美咲が一瞬固まってから、
我に返り、慎也から離れる。
「ちょっと、ここカウンターなのよ!」
「もう誰もいないよ。カーテンもしまってるし」
「そういうことじゃない!」
「じゃあ、書庫に行こうよ」
カウンターを回りこんで傍に来た慎也は美咲の腕を掴む。
「もっと嫌よ、お化けが出たらどうするのよ」
「出ないよ、そんなの」
「嘘、だって、学校の怪談は本物だって言ったじゃない」
「ああ――そう言えば美咲さんが怖がって
抱きついてくれるかと思って」
美咲は唖然とする。
「人が怖がってるの楽しむなんて!」
振り払った手で、美咲は慎也の肩をたたいた。
「いた、ごめん、美咲さん、いたいって――」
どこまでが本気かわからない慎也の言動に頭にきた美咲は、
力はそんなにいれないまでも何度も慎也をたたく。
「ちょっと、美咲さん、ごめんって」
「人のことからかってばっかりで、しらないっ。
学生は早く帰りなさい!」
慎也を押し退けると、
美咲は脇をすり抜けて奥の図書準備室へ向かう。
扉を閉めようとしたが、
慎也はその前に準備室に入ってしまう。
「ここは学生の立ち入りは禁止よ」
距離をとろうとする美咲を、
慎也は離さないよう両手を捉える。
繋がった両手から、
わずかな緊張が伝わる。
「ごめんね、美咲さん。
でも、すごく好きだから
美咲さんのそばにいつもいたいんだよ」
両手を繋いだ距離のまま、慎也は続ける。
「理由つけないと美咲さんといられないじゃん。
俺だって声かけてほしいし、美咲さんに触りたい。
図書館と帰り道だけじゃ、全然足りないよ。
一日中一緒にいたいよ。
正直言うと、今すぐ美咲さんと結婚したいくらいだ。
そうすれば、毎日一緒にいられるから」
「結婚って――」
驚く美咲に、さらに一歩近づく。
「美咲さんと同い年で生まれてたらよかった。
そしたら、ためらったりしないで
俺と付き合ってくれたでしょ?」
「……そう、かも……」
正直に、美咲は答えた。
慎也のことはすごく好きだ。
きっと、慎也が思ってくれているのと
同じくらい強い気持ちで。
だが、慎也より先に社会人になり、
働いている自分と高校生の慎也との間に
距離があることも確かなのだ。
好きだけれど遠い。
四年の差は、
学生と社会人ではあまりにも大きく感じる。
自分がせめてまだ大学生だったら、
戸惑いながらももっと素直に慎也を受け入れられただろう。
同い年だったら――そう思ったのは美咲も同じだった。
「ずっと一緒にいられるまであと一年もないよ、すぐだ。
だから、俺の気持ち疑わないで」
言葉をつくして美咲の不安をなくそうとしてくれる
慎也の優しさが嬉しかった。
「――わかった」
小さな呟きでも、繋いだ手に伝わった。
「よかった」
慎也はほっとして身体の緊張を解いたあと、
もう一度確かめるように
自分の手に優しい力を加える。
甘えるようなその仕草に、
美咲の気持ちも温かくなる。
「もう放して。図書館閉めて帰らないと」
繋がれた手を持ち上げて離そうとするが、
慎也は力を緩めてはくれなかった。
「慎也くん?」
「もう少しだけ……
一緒にいたいな」
「ちょっと、だめよ。
必要以上に明かりがついてたら――」
「じゃあ、このまま大人しく放すから、
美咲さんのアパートに入れて」
「ど、どうしてそうなるのよ!?」
「入れてくれるだけでいいよ。
変なことはしないから」
「変なこと、って――」
慎也の定義がどのようなものかと
確認したくなったが、
薮蛇になりそうだったので、
美咲はそれ以上口にはしなかった。
「――わかったわよ、入れてあげるから離れて」
あっさりと承諾した美咲に、
今度が慎也が問い返す。
「ホントに?」
「コーヒーぐらい入れてあげるわよ。
その代わり、大人しく飲んだら帰ってよ」
「わかった、じゃあ、はやく帰ろう」
そう言って身体を離すと、
慎也は上機嫌で美咲を見下ろして、
「ありがと、美咲さん」
今度は美咲の先程とは反対の頬に触れた。
「こら!」
笑って離れると、
慎也は一般用玄関へ靴を取りに向かった。
そうして、十分後、
二人はいつものように人目を気にしつつ、帰る。
それを離れて窺う影には、全く気づいていなかった。




