物語の始まりに向けて終わります
静かな静かな、美しい夜になった。
雪は降り止み、滲むように鮮やかな濃紺を重ねた夜の色を乗せ、晴れた冬の夜空には星が煌めく。
一秒一秒を大事に過ごそうと思っていたのに、時間はあっという間に過ぎていってしまい、晩餐を終えたネア達は、飾り木を見に外に出てきた。
ディノが魔術で寒さを軽減してくれているのだが、さすがに夜は冷えるからと、ネアは魔物がどこからか取り出してきた紫紺色の美しい毛皮のコートを羽織らせて貰った。
素晴らしい手触りにうっとりしているが、借りている指輪も含め、帰り際のどこで返せばいいのだろうか。
ネア達の滞在している棟から中庭を抜けて本棟の方へ抜けると、リーエンベルクの正面に立てられた大きな飾り木の尖塔が見えた。
木の上に水晶細工のキャップを乗せ、その上に魔術で固めた月光と陽光の星飾りが乗っている。
昼も夜もよく輝くので、遠方からもこのリーエンベルクの飾り木を見に来る人々が沢山いるらしい。
「……………まぁ。誰もいませんよ。もしかして今夜は、貸し切りなのです?」
「いや、飾られたばかりの夜だから、色々なもの達が集まっているようだね。今は、ここだけ切り分けてあるんだよ」
リーエンベルクの大きな飾り木の周囲には、本来であれば様々な者達が集まっているのだそうだ。
二人きりの静かな夜に首を傾げたネアに、魔物は、影絵という現実の景色を写し取った一層別の場所を作ったのだと明かしてくれる。
少しだけ覗いてみるかいと言われて影絵ではない方を見てみれば、小さな毛皮の生き物達や、尻尾おばけのような奇妙な生き物、薄布を夜風に揺らしている妖精達など様々な生き物が集まっていた。
警備の為に近くに立った騎士達も、美しい飾り木を満足気に見上げているようだ。
少しだけパーシュの小道や戦場で見た死者の行列を思い出したが、飾り木の下に集まっている人ならざる者達は、皆おとぎ話の優しさで幸福そうに目を輝かせている。
小さな藍色の赤ちゃん狼のような生き物が小さく弾んでいる姿に、ネアは口元が緩んでしまったし、美しい妖精の乙女達がうっとりと飾り木を見上げている姿には、淡く煌めいた羽のあまりの美しさに見惚れてしまった。
魔術の潤沢な土地に飾られた飾り木には上質な魔術が添うらしく、この時期に限って、害のない小さな妖精達や、祝祭にまつわる魔物達であれば、飾り木のところまで入れるようになっているらしい。
飾り木の周囲を特別な結界で覆い、その中に転移をすることが限定的に許可されており、誰かが来る度に門周りの警備に騎士を割く必要もない効率的な展示方法だ。
逆に言えば、そんな招き方をしても警備に支障が出ないような守護がこの土地にはあるのだろう。
門の外のリーエンベルク前広場にも、大勢の人達が今年のリーエンベルクの飾り木を見に来ていた。
「……………まずは、大事な買い物の荷物を出しておきますね。金庫が使えなくなってしまうと、取り出せなくなってしまいますから」
「……………そうだね。でも、その心配はないかもしれないよ」
「……………む。もしかして、私が暮らしていたところでも、この金庫は使えるのでしょうか?」
「多分ね……………」
小さく微笑み、ディノはそれでも、ネアが荷物を並べるのを手伝ってくれた。
魔術仕掛けで雪の上に綺麗なテーブルを出してくれ、ネアはその上に買ったものを並べてしまうと、強欲な人間のしたたかさを発揮して、絶対に無くさないように紙袋の持ち手を紐で繋いでおく。
更には、絶対に無くしたくないお土産は、しっかりと市場で買った肩掛けの布鞄に入れておいた。
全てが終わると、ネアはディノにテーブルの上に腰かけさせて貰い、隣に座った魔物と清廉に輝くリーエンベルクの飾り木を堪能することにした。
白みがかった青緑色の木には薄っすらと雪が積もり、かけられた泉結晶や雪結晶のオーナメントが落とす煌めきを湛えている。
白緑の素晴らしい飾り木は、元々がくすんだ青緑がかったえも言われぬ色合いの素晴らしい木を、祝祭の魔術でところどころ白っぽく結晶化させて使っているのだそうだ。
なので、葉っぱの部分はところどころが結晶化してきらきらと光り、飾り付けられた魔術の火を内側で燃やす結晶石や、飾り木や他のものを燃やさないように指定魔術をかけられた蝋燭の炎に煌めく。
各種のオーナメントは歴史の古いものも多く、そのようなものが価値のないものとして戦後もリーエンベルクの倉庫に残されていたことに、ウィーム領主になったエーダリアはとても喜んだのだそうだ。
それまでの領主は、なかなかに節約家で、このリーエンベルクの飾り木も適当にしか飾っていなかったらしい。
見るに見かねた人外者達が、結晶石や魔術の火を寄付はしてくれたそうだが、前領主が彼等を怒らせてしまったとある年は、その僅かな輝きも失われてしまったのだとか。
(……………あ、)
ぽつぽつと話をしていると、指先が淡く光り始めたことに気付き、ネアは息が止まりそうになった。
痛みや熱を感じることはないが、細やかな粒子になってゆっくりと崩れてゆく。
この世界に留まれる時間に、とうとう終わりが来たのだ。
ネアは思わずディノの手をぎゅっと掴んでしまい、その愚かさに気付いて眉をへにゃりと下げた。
体が崩れていってしまうのだから、手を繋いでいても意味はないだろう。
「……………大丈夫。物語が明けるだけだから、怖くないよ。君の荷物は君と魔術基盤を繋いでおいたから、一緒に持ち帰れる筈だ」
「……………はい」
見上げた水紺の瞳には菫色やパライバグリーンの様々な色味が散らばり、どこか、この飾り木の下の祝福や恩寵を彷彿とさせた。
きらきらと滲む色彩に、はらりと真珠色の艶やかな髪がこぼれる。
ああ、この美しい魔物は帰るべき家に帰るのだと思うと、寂しくて苦しくて胸が潰れそうになった。
(あなたが宝物をくれたから、私は元の世界に帰っても、この宝物を抱えて生きてゆける………………)
ばらばらと優しいものが剥がれ落ち、無残な苦しさしか残らない人生は暗く悲しい。
星も見えない夜闇の中を、歩いてはごつん、歩いてはごつんとぶつかりながら、涙を堪えて歩いてきた日々は、堪らなく惨めで恐ろしかった。
(でも今はもう、目を閉じればウィームの森が見える……………)
夜の光にきらきらと光り、奇妙で美しい生き物たちが息づく不思議なこの世界の彩りで胸を温め、ネアの暗い道はきっと明るくなる筈だ。
だからきっと、向こうに戻ってまた一人ぼっちの毎日が戻ってくるのだとしても、ネアは悲しげにこちらにやって来て、髪の毛を三つ編みにして欲しいと言う美しい魔物の事を思い出して笑顔になるのだろう。
「ディノ、一つお願いがあるのですが…………」
大きな覚悟を胸に、ネアは少しだけ伸び上がって大切な魔物の瞳を覗き込む。
目元を染めてずるいと呟く魔物の姿に、柔らかくなった心がほろほろと崩れそうだ。
ああ、ずっとこの生き物と生きていけたらいいのに。
どこまでも、どこまでもずっと、この優しい魔物と手を繋いで生きてゆけたら、どれだけ幸せなのだろう。
でもそれは出来ないから、ネアは最後のお願いを口にする。
「ディノ、このブーツを私にくれませんか?」
「…………ブーツを、かい?それはもう、君の物だよ…………?」
「この、物語のあわいの最初の頁の夜が明けて、私が元の場所に戻った後も、ここで過ごした日々を忘れないように、宝物を身に付けていたいのです。…………ブーツなら、もしここで過ごした事を私が忘れてしまったとしても、強欲な私は出所が分からないにせよ有り難く履くでしょう」
「ネア………………」
覚悟を決めてお別れした後の事を語るネアに、悲しげに目を瞠っておろおろとした魔物を、ネアは手を伸ばしてそっと撫でてやる。
「この頼もしいブーツを履いていたら、不幸せもばすんと踏み滅ぼせるかもしれませんよね。それに、………こちらが一番の理由なのですが、もしかしたらまた、………この素敵な世界に迷い込めるかもしれません…………」
「ネア、私はずっと…………」
「ディノ、あなたはどうか、正しい場所に帰ってあげて下さいね。どうか、この不思議であたたかな日々を共に過ごしてくれた優しい魔物が、ちゃんと自分のお家に帰れますように」
「ネア、………………」
金色のテープを投げ込むようにして、淡く嫋やかな夜を切り裂いて不思議な魔術の光が差し込んできた。
しゅわりと細やかな光の粒子が解け、目の前のリーエンベルクや美しい飾り木の輪郭がゆっくりと解けてゆく。
(………………終わりだ)
この物語のあわいが完全に閉じる瞬間が来たのだと、魔術の事など何も知らない筈のネアもその終わりを知った。
指輪を外してディノに返そうとしたのだが、帰り道が危ないといけないから持ってゆくようにと言われてまた泣きそうになる。
指輪とブレスレット、それにブーツがあれば、もし、こちらでの事を忘れたとしてもどれか一つくらいは大事に手元に残せるだろう。
ざあっと崩れた指先に、ネアは込み上げてくる恐怖を飲み込んで笑顔を保った。
もう少しなのだ。
だから、もう少しだけはどうか。
だけど心は、凛々しく背筋を伸ばした筈なのにとても未練がましくなる。
最後にほんの少しだけでいいから、自分がどれだけここを愛おしく思っていたのか、目の前の魔物に伝えてしまいたくなった。
「……………ディノと出会えた事が、物語などではなく本当の事だったら良かったのに。………でも、私はそれを願い事にはしません。私の大事な魔物が、お家に帰れなくなったら困りますから」
堪えきれずにぽつりと呟いてしまったネアに、ディノが宝石のような瞳を揺らし、何かを言いかけたような気がした。
はっとしてその最後の声を聞こうと体を寄せたネアを追い返すように、ざあっと温度のない風がさざめき、きらきらと暗い藍色に光る夜の魔術の残滓を洗い流してゆく。
(…………………ディノ!)
繋いでいた手が崩れて解けて、真珠色の三つ編みが見えなくなる。
もう会えなくなるのだと思えば、わあっと声を上げて子供のように泣き喚きたくなった。
手を離さなければ良かった。
ああ、手を離さなければ良かった。
ネアは、すぐに後悔した。
ディノには帰るところも、待っている人もいるかもしれないが、それでもあの手を離さずにいて、どれだけ惨めでもディノのいる世界のどこかに置いていて貰えば良かった。
これからまた、蜂蜜に金貨が迷い込まず、古いカーテンが咲かない世界に戻る。
雪の中には太った兎のような妖精がいなくて、上等なインクから結晶石の花が咲かない。
もう二度と、あの優しい魔物の、三つ編みを結んでやれない寂しいところ。
(……………あ、コート!脱いで返すのを、忘れてしまった……………)
そんな事を思い出しあっと思ったが、もうあの魔物はここにはいない。
それどころか、もう二度と会えないのだ。
そう思ったら、ずっと我慢していた涙が零れた。
息が止まりそうになって、悲しくて悲しくて、ネアは体を丸める。
そして、指輪に唇を押し当てるようにしてくぐもった声を上げ、ひとしきり泣いた。
ざざん。
大きな魔術の風が音を立て、豊かな森の木々がさざめく。
ふっと瞼を揺らしたのは、ふくよかな薔薇の香りだった。
いつの間にか眠っていたらしい。
ネアは、ぱちぱちと瞬きをして、零れ落ちそうな満点の星を見上げた。
夜は深い紫と瑠璃色の艶やかさで、さらさらと夜風に崩れる砂丘の音が、どこか歌声のようだ。
風に揺れるのは、オアシスを彩る不思議な林檎の森だろうか。
ここはかつて崩壊した林檎の魔物の墓標のように、新代の林檎の魔物が派生した今でも、見事な林檎のオアシスが残っている。
「……………目が覚めたかい?」
そう尋ねられ、目の下にそっと柔らかな口づけが落ちた。
触れた温度の柔らかさに、なぜだか胸がいっぱいになって泣きたくなる。
こちらを見ていたのは、ネアの大事な魔物。
この指輪を贈ってくれた、大切な大切なネアの伴侶だ。
「ディノ…………?その、…………ぐっすり寝ていたようです。どうして私達は、お家のあるウィームではなくて砂漠のオアシスにいるのでしょう?」
「この本を開いて、物語のあわいに迷い込んでいたんだよ。お帰り、ネア。私はずっと、君の側にいるからね」
「………………ディノ」
光を孕むような真珠色の三つ編みが、夜風に揺れている。
水紺色の瞳は愛おしそうにこちらを見ていて、ネアは何だかとても幸せな気持ちになって微笑みを深めた。
「何だか、不思議な夢を見ていたような気がします。私の大事な魔物を、ぎゅっとしてもいいですか?」
「…………ずるい。可愛い…………」
「むぅ、恥じらって逃げずに、ここにじっとしていて下さい!」
「……………くっついてくる………」
ネアは、たくさん撫でられてしまってへなへなになった魔物に三つ編みを差し出され、どうしてだかとても凛々しい気分で、この魔物からはぐれないようにしっかりと握り締めた。
(ずっと昔の夢を見ていたような気がする……………)
まだ意識のどこかには、微睡みの気だるさが残っているようだ。
ひんやりと冷たい夜の砂漠の風を頬に感じながら、ネアは、この世界に呼び落とされたばかりの頃の事を考えた。
それは、この世界に呼び落とされてディノと出会ったばかりの日々。
けれども、つい今さっきまでネアが歩いていたのは、実際にネアが辿ってきた道筋とは少し違う、物語に改編された不思議な日々だ。
ああそうか。
意地悪な作家の魔術に大切な魔物の歌乞いという居場所を奪われないよう、二人で物語のあわいの中に入ったのだと、漸く思い出した。
物語の描写を完成させる為に、ネアは暫くの間こちらの世界に落とされてからの記憶を失っていたのだ。
そうして、ネア自身の物語によく似た、けれどもまるで違う物語の中を歩いて来た。
物語から外れるといけないからと、ネアに記憶をなくしているだけなのだよと言うことも出来なかったディノは、どれだけ怖かっただろう。
「ディノ、指輪が増えてしまいました。元々貰っているものがあるのですが、あわいの中で貰ったものはどうしましょうか?…………実はこれももう宝物なので、ずっと持っていたいです」
伸ばしてみせた手には、最初に貰った指輪と、今回のあわいで貰った指輪が煌めいている。
それが何だか不思議で、少しだけ新鮮な気持ちであった。
「…………そうだね。この指輪ももう君のものだから、元の指輪と合わせておこうか」
「ふふ。何だか宝物の指輪が二倍になったようで素敵な気持ちですね!では、そうしてくれますか?」
「……………ずるい。可愛い」
「むぅ。ディノの狡いは、相変わらず用法が行方不明なのですね…………」
この世界に呼び落とされたネアは、ずっとこの大事な魔物と一緒に歩いてきた。
貰った指輪はただのお守りから婚約者の指輪になり、今は伴侶の指輪になって、ネアにとって決して手放せない宝物である。
(……………ウィームの森に迷い込み、大切な大切なこの魔物と出会った)
最初はなかなか距離を縮められなかったエーダリアとも今は家族のように暮らしているし、ヒルドは、もうずっとエーダリアの側にいるだろう。
アルテアは、色々あってネアの使い魔になり美味しいパイを焼いてくれる。
ウィリアムも、疲れ果ててリーエンベルクにやって来て泊まっていったりするようになった。
それでも今も、目を閉じると、家族で暮らしたあの懐かしい屋敷を思い出す事もある。
一人ぼっちで朝食を食べた静かな朝を思い出し、ネアは、今はもう家族になったディノを見上げた。
瞳を瞠って優しく微笑んだディノが、そっと体を屈め、唇に淡い口づけを落とした。
見上げた先にほろりと滲んだ微笑みは、幸せそうな無垢さと、はっとする程に甘く魔物らしい老獪さが滲む。
「ネア。君はずっと、私だけの歌乞いだ。私の歌乞いは、ずっと君だけだよ」
そう囁いた美しい魔物に、二人が腰掛けた敷物の上に置かれた一冊の本が、ぱたぱたと風に頁を揺らした。
「ええ。私のお家はもう、ディノのいるところで、あの大好きなリーエンベルクなのです。…………どこかのあわいで、本編の物語が始まってしまう前に、この沢山のお土産を持ってウィームに帰りますか?それとも、綺麗な砂漠の夜ですので、近くのオアシスでのんびりしてゆきたいですか?」
「……………リーエンベルクに帰ろうか。きっと皆、君の帰りを待っているだろう」
「はい!」
ネアは、微笑んだままの幸せと安堵に緩んだ口元を両手で押さえた。
そこはもう、お帰りと言われて帰るところ。
ネアにとっての新しい住処で、終わってしまう物語の頁ではない。
それは、なんて幸せな事なのだろう。
風に捲られていた頁を、ディノの美しい手がぱたんと閉じた。
「さぁ。この物語はもうお終いだ。私達の家に帰ろう」
淡く微笑んだディノが、もう一度ネアに口づける。
けれども、ネアがえいっと伸び上がってその頬に口づけたところ、儚い魔物は、くしゃくしゃになって蹲ってしまったのだった。
薬の魔物と物語の婚約者は、このお話で完結となります。
最終話までお付き合いいただき、有難うございました!