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水面に映るは  作者: 風花てい(koharu)
いくいくひさしく
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7.

 茅蜩館ホテルは、通りを2本ばかり隔ててはいるが皇居に対して正面を向いて建てられている。方角でいえば南西を向いている。

 日没から夜に向かう今頃のホテルの窓からの眺めは、これまでに何度も、ここを定宿としている多くの文豪たちによって称えられてきた。おかげで茅蜩館ホテルは広告が要らない……とは、ここで働く者たちのお気に入りのジョークである。


 披露宴がお開きになったのは、ちょうど日暮れ時で、窓から外を眺めるには、うってつけの時間であった。しかしながら、特に眺めの良いスイートルームに足を踏み入れた紫乃は、素晴らしい景色に目をくれることもせずに、まずは、最初に目についた座り心地の良さそうな椅子に弘晃を座らせると、その後も慌しく働き続けた。

「すぐに休みますか? それよりも汗だけでも流したほうがスッキリするかしら? でも、お湯につかったほうが温まりますよね? でも、入浴って意外と疲れるんですよね? やめておきましょうか?」

 思いついたことを思いつくままに口にしながら、弘晃の上着とタイ、ついでにシャツのボタンも外してやると、紫乃は彼をバスルームへと追い立てた。彼がシャワーを浴びている間も、彼の着替えなどを用意するために、頭につけたベールを翻しながら、スイートルームを駆けずり回った。


 そうこうしているうちに、シャワーを終えた弘晃が紫乃が用意した着替えを身に付け、タオルで髪を拭いながら現れた。

「湯冷めすると大変だから」

 紫乃は、クローゼットの中で見つけ出したホテルのロゴの刺繍が入った紺色のガウンを弘晃に着せ掛けた。ついで、窓のほうを向けて置かれているソファーに彼を座らせると、背後から彼の髪にドライヤーの風を勢いよく当てた。


「あのぉ?」

 髪の毛がドライヤーの熱風でなびくほどに乾いた頃、この部屋に入ってからずっと紫乃にされるがままになっていた弘晃が、発言を求めるように遠慮がちに手を上げた。  

「なんでしょう?」

「今更言うのもなんですが、普通は、逆、ですよね?」

「逆って?」

 紫乃は、ドライヤーのスイッチを切った。

「今日は結婚初日でしょう? そういう時って、花婿のほうから、花嫁が身につけているものを取り去るのが一般的ではないかな……なんてね」

 弘晃が苦笑しながら、自分自身と紫乃とを見比べた。そのまま寝室へ直行できそうな弘晃に対して、紫乃は、そのまま披露宴会場にUターンしても何の違和感もないほど、化粧もドレスも乱れていなかった。


「僕のことを心配して一生懸命になってくれるのは嬉しいですけどね。でも、そんな高いヒールの靴で走り回ったら、足を捻ってしまいますよ」

 弘晃は、紫乃を自分の隣に座らせると、自分は彼女の傍らに跪き、紫乃の足から片足ずつ靴を引っこ抜いた。それから、「手袋だって着けっぱなしだし」と咎めながら、彼女の手から繊細なレースでできた手袋を外した。


「さて、次は……と、この頭痛を引き起こしそうなほど、しっかりと頭に巻きついている薄布ですが……」

 弘晃が、紫乃の背後に回ると、彼女の頭に無数に突き刺さっているヘヤピンの数本を引っこ抜いた。すると、それまでは、糊付けしたかのように彼女の頭にしっかりと張り付いていたベールが、スルスルと床に滑り落ちていった。

 更に数本のピンが彼女の髪から外される。頭頂部近くでキッチリとまとめ上げられていた髪が一気に解け、紫乃の肩を覆うように広がった。ヘヤスプレーでしっかりと固定されていた髪は、ごわごわとしていて、まだ何十本もの真珠のついた飾り用のピンがくっついていた。そのピンも、弘晃が、1本1本慎重な手つきで外してくれる。ピンを外すのを手伝おうとした紫乃が手を伸ばすと、「ダメです。僕の楽しみを奪わないように」と弘晃に叱られた。


「弘晃さん、お小言ばっかり」

 紫乃が笑いながら文句を言うと、「ほら、動かない」と、弘晃に、また叱られる。だが、叱る弘晃の声も笑っているから、紫乃は、怖くもなければ腹も立たない。

「だって、くすぐったいのだもの」

 披露宴の主役という大役を終えた直後だからか、紫乃は、いささかタガが緩んでいるらしかった。彼女は、弘晃の作業をわざと邪魔するように頭を動かしたり、文句を言ったりしながら、クスクスと笑い続けた。

「いいから。 紫乃さんは、景色でも見ていてください」

 珍しく落ち着きのない紫乃を持て余した弘晃が、彼女の耳の辺りに両手を添えて、窓の方に向かせた。


 高層のビルとビルとの隙間に見える薄墨色の空は、まだほんのりと夕日の色を残していた。視線を下方に向けると、目の前のビルの根元辺りに、切れ端程度にだが皇居の緑が垣間見えた。

「だいぶ咲いてきましたね」

 紫乃は、腕を伸ばすと、遠目には、ほんわりと白っぽく見える桜の木々を指差した。

「そのようですね。満開になるのは今週末ぐらいですかね」

 ピンを引き抜きながら相槌を打った弘晃が、「今年こそは紫乃さんのお気に入りの桜のトンネルに行けるといいのだけど」と呟く。


 彼が言う桜のトンネルというのは、紫乃の母親の実家の近くにあって、紫乃が毎年のように満開の時期に訪れている桜並木の坂道のことである。

「あら? 去年も一昨年も一緒に行きましたよね?」

「行きましたよ。でも、僕はまだ、貴女が僕に見せたかった景色を見てないでしょう?」

「そうね。毎年、ちょっとだけ違いましたね」


 弘晃は、未だに、桜のトンネルの満開の時季に行き会っていない。

 3年前は、風邪を引いた弘晃の熱が下がらない間に、桜の季節が終わっていた。

 一昨年は、熱はなかったもの彼はしつこい咳に悩まされていて、ようやくふたりでここに訪れたときには、葉桜になりかけていた。

 去年は、弘晃が風邪をひかないうちにと早めに来たら、桜はまだ蕾だった。帰宅後に弘晃が熱を出して一週間ほど寝込んだため、その年も、彼は満開の桜を見逃すことになった。


「今年は、一緒に見られるといいですね」

「そうですね」

 ピンを抜き終えた弘晃が、後ろから紫乃に腕を回して、彼女の髪に頬を摺り寄せた。紫乃は、回された弘晃の手に自分の手を、そっと重ねた。

 

 しばらくのあいだ、ふたりは言葉少なに、窓の外の暮れていく景色を眺めていた。

 みるみるうちに空が暗くなっていく一方で 光を失った空を逆に照らしてやろうと言わんばかりに、地上を走る車のライトや黒いシルエットだけになったピルの灯りが、分刻みで輝きを増していく。


「ところで」

 窓から見える景色にさしたる変化がなくなってくると、弘晃が紫乃に話しかけた。


「次は、ドレスですが」

「は?」

「どうします?」

 弘晃が、人の良さそうな笑みを満面に浮かべながら、申し訳程度についている細いドレスの肩紐に指を引っ掛けた。


「どうしますって…… こ、、、ここから先は、わたくし独りで大丈夫ですわ」

 紫乃は、肩紐を押さえながら慌てて立ち上がると、弘晃の手の届かないところまで離れた。

「本当に? そのドレス、かなり複雑そうな作りをしてますけど」

 弘晃が、真顔で問いかける。本気で心配して言っているのか、それとも紫乃をからかって面白がっているのか、彼のその表情だけではわからない。この男の、そういうところがタヌキだと紫乃は思う。


「ご、ご心配なく。 自分でなんとかしますから」

 声を上ずらせ、バスルームがあるほうに後ずさりしながら、紫乃は品良く微笑んだ。

「そ、、、それから、今日は『そういうことは』やめておきましょうね。なんといっても、弘晃さんは今日はお疲れだもの。これ以上無理をして、熱でも出したら大変……」

「ほう? ところで、『そういうこと』とは、どういうことでしょう?」

 弘晃が、笑いを堪えるような顔で紫乃に質問した。

 紫乃は、弘晃が自分をからかっていることを確信した。

「知らないっ!」

 紫乃は踵を返すと、バスルームに向かって憤然と歩き出した。

「あ、紫乃さん」

 数歩行ったところで弘晃が呼び止める。紫乃が振り返ると、弘晃が、「では、明日ならばいいんですか?」と、大真面目な顔で、たずねた。


 紫乃は、数秒間、固まった。


 それから、顔を真っ赤にしながら手近にあったクッション掴むと、「もう! 弘晃さんの#\\%’&@#$#※’%@※@$%=※~=っ!!!」と、意味不明の喚き声あげながら力一杯に弘晃に投げつけ、バスルームに駆け込んだ。



「慌てなくていいですから。よ~く、温まってきてくださいね」

 ドレスの裾をからげてバスルームに逃げてく紫乃に、弘晃は笑いながら声をかけた。

 弘晃としては、放っておくと彼を無事に寝付かせるまで晴れ姿のまま甲斐甲斐しく世話を焼きかねない紫乃に、自分を労わって欲しかっただけなのだが、どうやら、彼女をからかい過ぎてしまったようである。


「ちょっとばかり、調子に乗りすぎてしまったな」

 弘晃は、夜の街を映すガラス窓に映っている自分の姿に、厳しい顔をしてみせた。しかしながら、目の前に映っている男は、ほんの僅かな間だけ反省するような顔をしてみせただけですぐに相好を崩し、いかにも幸せそうに、そして、ちょっとばかり浮かれた微笑を浮かべた。

 普段の自分に比べて現在の自分が、かなり調子に乗っていることを、弘晃は充分に自覚していた。今日の披露宴で、つつがなく花婿としての役割を果たすことができた安堵感もある。それに加えて、やっと名実共に紫乃を手に入れたという喜びで、彼は自分の感情を持て余していた。


「だって、仕方がないじゃないか」

 弘晃は、ガラスに映る自分に言い訳した。


 彼がずっと見守ってきた勝気で生命力に溢れた美しい少女……紫乃。

 ただ見守るだけの自分の存在に彼女が気が付く。そんな可能性さえ、昔の弘晃は考えたことがなかった。


 昔の弘晃にとって、紫乃は空にあるお月様と同じだったのだ。

 月は、空を見上げれば誰でも見ることができるけれども、月が下界にいるたった一人の人間に注意を向けることなどない。それほど、彼にとって、紫乃は眩しい存在だった。


 その彼女と縁あって見合いをすることになっても、彼は、まだ自分の幸運を信じきれていなかった。

 水面に映った月のように、ふたりの距離がどれほど縮まったところで、弘晃が紫乃を手に入れようした途端に、彼女は指の間をすり抜けていってしまうに違いない。そんなふうに始めから諦めて、彼女と別れようとしたことだってあった。彼女と婚約した後でも、彼は、まだ夢見心地だった。


「それが、本当に、結婚できてしまうなんてね」

 弘晃にしてみれば、かぐや姫を嫁にしてしまったようなものだ。『冷静でいろ』というほうが無理である。

「本当に僕で良かったのかなあ……」

 弘晃は、ソファーの背もたれに頭を預けると呟いた。彼が、この台詞を言うのは、本当に久しぶりだった。紫乃が鬼のような顔をして怒るから、言わないようにしているのだ。埒もないことで悩んでみせて彼女を怒らせるぐらいなら、彼女を幸せにする努力をしたほうが、弘晃としては余程いい。さし当たって彼にできることといったら、あまり紫乃に心配と迷惑をかけないように、自分の健康管理を徹底することぐらいだろうか。

「では、手始めに、自力でベッドに行くとしますかね」

 弘晃は、ソファーの手すりで体を支えつつ、ゆっくりと立ち上がった。やはり彼は疲れているようで、体が重かった。このままだと、ソファーで眠ってしまいかねない。もしも、うたた寝している弘晃を紫乃が発見したら、彼女は、彼を担ぎ上げてでもベッドに連れて行って休ませようとするに違いない。紫乃に服を脱がされただけでなく寝室にまで抱き上げて連れて行かれたら、花婿としての弘晃の面子は丸つぶれである。

「それに、僕がここにいると、出てきづらいだろうしね」

 弘晃は、バスルームのほうに目を向けると微笑んだ。弘晃の愛しのかぐや姫は、今ごろ、彼の冗談を真に受けて、バスルームから出られずに困っているに違いない。



『さきほどは、からかってすみませんでした。やはり疲れているようです。先に休みます』

 弘晃は、紫乃にメモを残すと、寝室に引き上げた。






『先に休みます』


 独りでドレスを脱ぐのに四苦八苦し、のぼせる寸前まで湯に浸かり、バスルームに併設されている脱衣所兼洗面所で湯冷めするまで身づくろいすることで延々と時間を潰した紫乃が、おずおずと部屋に戻ってみると、弘晃の姿はなく、このメモだけが残されていた。


 メモを読んだ紫乃は、正直、ホッとした。


 キスぐらいならば紫乃も何度もしたことがある。もちろん相手は弘晃だ。それ以上の……映画の中で恋人どうしが交わすような情熱的なキスも経験したことがないわけでもない。だが、それ以上のこととなると、紫乃にはまだ、心の準備ができていなかったらしい。

「だって、いきなり、おかしなことを言い出すのだもの。 ビックリしてしまうじゃない?」

 紫乃は、窓ガラスに映っている戸惑った顔をした自分に訴えた。

『でも、あなたもおかしいと思うわよ』 と、ガラス窓に映った自分が目で言い返す。

「そうね」 と、紫乃は素直にうなずいた。婚約してから3年間もあったというのに、今さら何を照れることがあるのやら。 

 紫乃は自分自身に呆れていた。


「まさか、怒っちゃったり……してないわよね?」

 紫乃は、寝室へ目を向けた。

 足音を忍ばせ、つま先立ちで寝室を覗いてみる。灯りが付けっ放しになっていたものの、4人で寝てもまだ余裕がありそうな大きなベッドの真ん中では、弘晃が深い寝息を立てていた。

「やっぱり、疲れていたんじゃない」

 紫乃は、勝ち誇ったように呟くと、安心して弘晃に近づいた。彼を起こさぬように額に手を当てると、指先にヒンヤリとした冷たさを感じた。熱はないようである。 弘晃は、もらった祝電を読みながら眠ってしまったようだった。紫乃は、掛け布団の上から膨大な量の祝電の山を取り除いて、下敷きになっている彼の左手を救い出してやることにした。


 全ての祝電をベッド脇のサイドテーブルに移動させてみると、弘晃の手の下には、茶色に金の飾りがついた小箱が残っていた。

「あら、これは」

 紫乃は、そっと弘晃の手を持ち上げると小箱を取り上げて、ふたを開けた。小箱の中に入っているのは、小粒のチョコレートだった。色の濃いのと薄いのの2種類が3つずつ市松模様を作るように行儀よく並べられている。

 このチョコレート。実を言えば、3年前に迷惑をかけたお詫びと結婚式の祝儀とを兼ねて、中村と六条の社員全員にひと箱ずづ行き渡るように、紫乃が父親に頼んで用意してもらったものである。原料の調達からチョコレートの制作に携わってくれたのは、須田という中村物産の社員だ。須田は、会社でカカオ豆の輸出と販売に携わっており、日本でこれ以上の人はいないだろうと思うほど、チョコレートに詳しい。


 弘晃は、チョコレートが入った小箱と一緒に、須田からのメモも握っていた。そのメモによると、配られたチョコレートは大変好評だったそうだ。中村家から振る舞い酒が出たので、紫乃が心配していたような、甘いものが苦手な者が不満を口にするということもなかったらしい。また、甘いものが苦手ながら、もらったチョコを気になる女性社員に譲ることで、おすそ分け以上の幸せを享受していた若手の男性社員もいたようだと須田は書いていた。


 『チョコレートは甘いもの。多くの人々が、そう思っているようです。

   ですが、チョコレートの原料となるカカオ豆は、苦いものです。 

    苦いカカオに、砂糖やミルク、香料などを加えることで、極上の甘味となるのです。 


   結婚も同じだと思います。 

    結婚が甘いものだというのは、私に言わせれば、ただの勘違いでしかありません。

    

   ですが、互いへの愛情と思いやり、そして創意工夫を重ねることで、 

    結婚は、どのようにも甘く優しく芳しいものになる可能性を秘めています。 


   そして、二人で長い年月を重ね、

    いつの日にか、甘さだけではなくその苦味さえも愛おしむことができるようになる。


   そのときになってようやく、人は、結婚の醍醐味を知るのです。 




  ……なんて、柄になく格好つけたことを書こうと頑張ってみました。  

  お二人の結婚が、どうかそのように息の長い素晴らしいものになりますよう、

  心よりお祈り申し上げます』

  

 須田からのメモは、そんな言葉で結ばれていた。


「はい、ありがとうございます。 頑張ります」

 紫乃はメモに向かって小さく頭を下げると、チョコレートをひとつ、口の中に放りこんだ。チョコレートの甘さが紫乃の口いっぱいに広がる。その甘さのおかげで、朝から張り詰めていた神経が緩んだのか、紫乃は大きな欠伸を漏らした。

「まだ早いけど、わたくしも寝ちゃおうかしら」

 気持ち良さそうに寝ている弘晃を見ながら、紫乃は呟いた。


「だけど……」

 紫乃は困惑したように、寝室を見回した。

「やっぱり、わたくしも、ここで休むのかしら……ね?」

 ベットは、大きさは充分すぎるほどあるものの、弘晃が使っているひとつしかない。

「ソファーで寝るといってもねえ……」

 なんといっても、ここは茅蜩館ホテルのスウィートルームであるから、窓際に置かれたソファーも、もう1セット置かれているソファーも、どちらも一晩ぐらいなら、快適に眠れそうではある。だけど、喧嘩をしているわけでもないのに、そんなところで結婚初日の花嫁が一晩過ごすのも奇妙な話だ。

「……となると、やっぱりここよね? 奥さんなんだから、いいのよね?」

 紫乃は、自分に確認するように呟いた。しかしながら、彼女が『失礼いたします』という堅苦しい挨拶と共にベッドの端っこに滑り込んだのは、ベッドとソファーの間を何度も行ったり来たりした挙句、別の部屋で意味もなく片づけをしたり電報を読んだりして、散々時間を潰した後だった。


 布団の中は温かく、今までどうして入ることをためらっていたのだろうと思うほど居心地が良かった。

 弘晃は良く眠っているようだ。ベッドが広すぎるので、紫乃が手を伸ばしても彼に届かない。紫乃は、少しばかり大胆になって、体をずらしながら自分から彼に近づいていった。


 彼の寝息が、すぐ傍で聞こえる。

 彼の温かさが、布団を通して、ほんのりと伝わってくる。


 すっかり安心した紫乃は目を閉じた。


 眠りは、あっという間に訪れた。




 真夜中を過ぎた頃。


 紫乃が、ふと目を覚ますと、すぐ傍に弘晃がいた。

 彼は肘をつき、壁際の淡い間接照明の明かりを頼りに、覆いかぶさるようにして彼女を見ていた。


「どうしたの?」

「うん? 月を手に入れてしまったな……なんて、しみじみと感慨にひたっていたところです」

 弘晃が、はにかんだような笑みを浮かべた。


「月?」

 紫乃は眠気眼を窓に向けた。

 寝る前に暇を持て余した紫乃が部屋中のカーテンを閉めて回ったため、月が空にあったとしても、ここからは見えない。


「そうじゃなくて、決して手に届かないものの喩えといいますか……」

 貴女のことですよ。そう言いながら、弘晃が紫乃の髪を撫でた。


「わたくし? ここにいるのに?」

 小さな欠伸と共に、紫乃は微笑んだ。


「これからは、ずっと、弘晃さんの傍にいるわ」

「そうですね。これから、ずっと一緒ですね」

 弘晃は微笑むと、布団から出しかけた紫乃の手を取り、その甲に唇を寄せた。 


「ところで、もう『明日』になりました。 けど?」

 『どうします?』と、弘晃が、悪戯の共犯をもちかけるかのような顔で紫乃に笑いかける。

「はい?」

 彼が何を言わんとしているか、すぐには理解できなかった紫乃は、パチパチと瞬きをした後、笑い出した。


「もう! 弘晃さんったら!」

 紫乃は笑いながら両手を伸ばすと、彼女の鼻先で笑っている弘晃の背中に回した。それから、目を閉じて、彼のキスを受け入れた。





(『いくいくひさしく』 おしまい) 

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