【参考文献】佐久間善司『原初のアブジェクトとしてのヒルコ神:恵比寿信仰に思いを寄せて』
恵比寿信仰の本質を捉える上で避けて通れないのが、異形の神・水蛭子の存在である。
ヒルコは『古事記』の国産み神話において、伊邪那岐・伊邪那美の二神間に生まれた最初の子であった。しかし悲運にも、その命は「不完全な形」として生み落とされる。神話はその具体的な造形を明かさないが、二神が「吾が生める子良くあらず」と述べた記述が残るのみである。
産み落とされたヒルコは直ちに葦船に乗せられ、茫々たる大海原へと流棄された。神の系譜に連なりながらも、ただただ「排除されるべき不浄」として生を奪われたのである。
なぜヒルコはこのような禁忌の存在とならざるを得なかったのか。
古典神話の解釈においては、女神であるイザナミから男神に求愛の言葉をかけたという「順序の不徳」が原因と説明される。これは即ち、神話が政治秩序の正当化と不分明に結びついていた左証とも言えるだろう。
葦船に乗せられ、水界へと漂流したヒルコ、――それは神話的文脈における実質的な「死」を意味する。最初に生まれた長子でありながら、忌避すべき忌み子として世界から抹消されたのだ。
興味深いことに、こうした「海=死と再生の境界」という観念は神道のみにとどまらない。仏教(密教)においても、観音菩薩の降臨する浄土は南海の果てに存在すると信じられ、僧侶が生きたまま還らざる船出へと旅立つ「補陀落渡海」という凄惨な棄身行が存在した。
即ち東アジアの基層信仰において、海とは常世・死の世界であり、船とは二つの世界を繋ぐ死送りの媒介に他ならないのである。
だが、ヒルコの伝承はここで途絶えるわけではない。
中世以降の民間信仰(特に摂津国西宮神社等の伝承)において、この流し去られたヒルコは「海の彼方(常世)へ漂着し、絶大な霊力を得て恵比寿として蘇生した」と再解釈されるに至る。
一度は「死」や「廃棄」を経験して境界の外側へ排除された存在が、完全なる神としての神威を帯びて帰還する。これは典型的な貴種流離譚であり、同時に「死と再生」を巡る神話構造そのものである。
だが、この民間信仰におけるヒルコは、もはや単一の神としては存在していない。
海へと棄てられたヒルコは、特定の海岸に定着したのではなく、海という巨大かつ不定形な異界の霊力と融解・一体化し、無限に増殖・拡散を遂げたと考えられるのである。
海の果てには「常世の国」、生死の境界が曖昧な異界が存在すると信じられていた。ヒルコ神とは、即ち「現世と異界を繋ぐ境界線そのもの」へと変貌を遂げたのだ。
海から漂着する全てのものは異界からの恵みであり、神の顕現であるとする「寄神・マレビト信仰」は日本各地の沿岸部に色濃く残る。
とりわけ九州、四国、日本海沿岸の漁村においては、漂流木や異石のみならず、「海岸に漂着した水死体(ご遺体)」をも「エビス様」と呼び、引き揚げて手厚く祀る風習が存在した。
これは、海で命を落とした者が、海中でヒルコ神の霊威と一体化したという信仰に基づくものであろう。
すなわち、「流された者」「死した者」が海の向こうの異界を経由することで生命力を更新し、新たな「福をもたらす存在」へと昇華・反転するという思考構造である。
言葉を換えれば、日本各地の海岸線に打ち上げられ続ける不気味な漂着物や無残な死とは、神話の時代に棄てられたヒルコ神の無数の欠片、――「千切れた肉片」や「骨片」が増殖を繰り返し、時代を超えて現世へと流れ出し続けている姿に他ならないのではないだろうか。
では、流れ着いたこの「ヒルコ神の欠片」は、果たして生きているのか、死んでいるのか。
神の生死を問うこと自体、本来は不敬の極みであろう。しかし、常世の異界を経て戻ってきた存在であるならば、それは「死」を克服し、我々の知る生とは別の位相で“生きている”と言わざるを得ない。
ならば欠片という、不完全な肉の姿のまま今なお海を漂うヒルコ神は、果たして何を望んでいるのだろうか。
人々は恵比寿に「大漁」を祈る。だが、人間にとっての豊かな獲物とは、海に蠢く生命たちにとっては無差別かつ過酷な大量虐殺と同義である。
一度は親に棄てられ、死を強制された不完全な神が、海の底で肉を肥やし、本当に望んでいるものは何なのか。
あるいはそれが欠片となった己の肉を完璧な一つの形へと統合することであるならば……。
海の深淵を見つめるとき、私はそこに、悍ましい救いと、抗いがたい安らぎを感じてしまうのである。




