↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/12

(7)茫漠とした荒野


 初枝の悲痛ぶりは、山内の目から見ても気の毒なほどだった。

 泣き腫らした目は充血し、目の下にはくまができた。つねに手入れしていた髪はつやを失ってほつれ、明らかに動作が鈍くなった。

 山内の愛読書、カーネギーの「道は開ける」に、「避けられない運命には調子を合わせよう」という章がある。

 自分の力ではどうにもならない事態に陥った場合、悩んだり、じたばたしたりせず、従容(しょうよう)とそれを受け入れることで、ある種のエネルギーが放出されて前向きかつ創造的になれる、という主旨を述べている。カーネギーはさまざまな事例を用いてこの心構えの効用を説明している。

 かつてこの章を読んだ山内は、わが意を得たりとばかりに膝を打ち、該当箇所にいくつも傍線を引いた。その後も折に触れて何度もその箇所を読み返してきた。

 ところが、浩一を失った当時、その箇所を読み返してみても、何の癒しにもならなかった。字面がただただ白々しく感じられるだけで、避けられない運命に調子を合わせる気になどとてもなれなかった。

 それでも、山内はまったく気乗りしないまま、工場への出勤を続けた。当初はそれがとてもつらかったが、無理矢理にせよ意識を仕事へ向けている時間は、浩一を失った悲しみを忘れることができた。山内は、結果的にそれが精神の休息になったのかもしれないと思った。

 その一方、専業主婦である初枝は、ほとんど外出せずに家へ引き籠り、四六時中、浩一を失った悲しみと向き合う毎日だった。ずっと通っていた手芸教室へも行かなくなった。気持ちが休まる閑暇すらなく、文字通り悲嘆に明け暮れる日々を送っていた。

 今になって、山内は後悔していた。あのとき、初枝の心の負担を少しでも和らげるべく、すぐに何らかの行動を起こすべきだったと。

 例えば、初枝にメンタルクリニックを受診させるとか、パートタイムの仕事に就かせるとか、本人が嫌がってでもそうしていたら何かが違っていたのではないか。

 それから約半年後、初枝は買い物に出たスーパーマーケットの店内で倒れ、病院へ救急搬送された。

 医師の診断は、極度の神経衰弱と不整脈であった。

「息子さんを失ったショックで、心身のバランスを喪失したのが原因ではないかと推察します」

 知らせを受けて真岡から駆けつけた山内へ、医師はそう説明した。

 初枝は、そのまま入院した。

 山内は、少しでも初枝のそばに居るために、会社へ三島工場への転勤を願い出た。もしそれが叶わなければ、山内は会社を辞めてでも三島へ戻るつもりでいた。

 会社は山内の申し出を了承し、異例な時期ながら、山内を三島工場へ異動させた。

 それも、工場長としてである。

 驚いた山内は、

「自分から転勤を願い出たのに、昇進人事になるのは本意ではありません」

 と言い、現状の課長職での異動を会社へ要請した。だが会社は、

「山内さんはすでに工場長、部長職への昇進基準を満たしており、今度の定期人事異動で昇進予定でした。今回、それが若干早まっただけです」

 と説明し、工場長としての異動を取り消さなかった。

 まるで浩一の死と、初枝の発病とが招来した昇進人事という感が拭えないまま、山内は三島へ戻った。山内は一人で暮らしながら三島工場へ出勤し、仕事が終わるとほぼ毎日、初枝の病室を見舞った。

 初枝は言葉を発するのも切れ切れな状態であった。内蔵機能が衰え、日を追って食が細くなっていった。山内は自分自身も脱力感に苛まれてどうにかなりそうだったが、初枝の手を握り、耳元で言葉をささやき、背中をさすって初枝を励まし続けた。

 春になり、例年通り桜が咲き、やがて散った。初枝は、寒い日の朝に逝った。享年五十二。浩一の後を追うかのような旅立ちであった。

 山内と初枝とは、桜が満開の日に初めて出会い、それから年月を経て、桜が散り終わってまもなく、今生の別れとなった。

 山内は自分の人生行路において、これほどまでに厳しい運命が待ち受けていたなどとは想像すらしていなかった。

(いったい何がいけなかったのだろうか? これまで自分がどういう悪事をしでかしたというのだろうか?)

 それとも浩一、あるいは初枝が、神の逆鱗(げきりん)に触れる何らかの悪業を働いたとでもいうのだろうか。さらには自分たち家族ではなく、身内の誰かしらに帰すべき致命的な問題があり、それがこのような不幸を招いた原因なのだろうか。

 そんな自問自答を、山内は何度も繰り返したが、答えが出るはずもなかった。

 丘の上の霊園の墓には、浩一に続いて初枝も納まった。

(もう、浩一と初枝に会うことも、会話を交わすことも金輪際(こんりんざい)ない)

 かつて、三島の湧水で育てられた脂の乗ったうなぎを三人で食べに行ったことや、新緑の夕暮れ、源兵衛川のホタルを家族で見に行ったことなどを思い浮かべて、涙を流した。

 山内は、自分の未来には茫漠(ぼうばく)とした荒野がただただ広がっているだけだと感じていた。

 山内は会社を辞めるつもりだった。異動要請が通り、三島へ戻ってきたものの、浩一に続いて初枝までも失い、もはや一人生きていくために会社であくせく働く必然性がなくなった。それに加え、悄然とし、抜け殻のようになった自分が工場長として居続けるのは、従業員の士気を下げるだけであり、会社にとって迷惑だろうとも思ったからである。

 だが、姉の敏子が強く反対した。

「会社を辞めちゃ絶対駄目。今辞めたら、貞夫自身がどうにかなってしまうから。会社を辞めて、家にぽつんと一人でいたら、あなたはきっとつまらないことを考えてしまうわ。会社に迷惑をかけるなんてことを気にする必要はないのよ。今は、つらくても仕事を続けて、日々をやり過ごすことが何よりも大事よ」

 敏子の言う通りかもしれない、と山内は思った。会社勤めの目的も張り合いも失い、抜け殻のようになってしまった自分だが、このまま仕事を続けることは、自分の精神が完全に参り切ってしまうのを回避する効用があることは間違いない。

 結局、山内は会社を辞めなかった。

 初枝がこの世を去ってから、はや二年が経過した。山内は三島工場への精勤を続けていて、ようやく独り身での生活リズムができつつあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。