(5)浩一の誕生と、成長
二人の交際は順調に進み、翌年、結婚した。初枝は銀行を退職し、山内の任地、茂原で新婚生活を送ることとなった。
山内は、自分も人並みに妻帯できたことに安堵した。同時に、万事控えめな初枝のことが愛おしく、生涯大事にしようと心に誓った。
二人が茂原で生活を始めた次の年、初枝が妊娠した。初枝は妊娠八ヶ月のときに三島の実家へ帰り、男の子を産んだ。これが長男の浩一である。
山内は父親になった。一時は生涯独身かもしれないと半ば覚悟していた山内だったが、白いおくるみに包まれた小さな浩一を初めて自分の腕に抱いたとき、世の中に対する責任とでもいうべきものを痛感した。
(この子が将来、大人になったとき、生きづらい世の中であってはならない。これから俺は、この子の父親として、少しでも世の中を良くするためにがんばらなければ)
そんなことを思うようになるとは自分でも意外だった。山内は元来、真面目な性格であり、仕事をサボったり、酒やギャンブルに溺れたり、法律を犯したりするような生活をしてきたわけではない。
だが、世の中が良くなるとか、悪くなるとかいった問題には無関心だった。と言うよりも、世の中の流れや趨勢は、個人の力でどうこうできる問題ではなく、自分のあずかり知らぬことであると割り切っていた。
浩一が生まれて、山内の考えが変わった。父親として、あるいは一人の大人としての責任、といったものを自覚するようになった。
茂原で家族三人の生活が始まったが、浩一が一歳の誕生日を迎えてまもなく、山内は愛知県にある安城工場へ異動となった。三島から東へ約二〇〇キロの茂原から、今度は三島から西へ約二〇〇キロの安城への転勤である。このとき三十五歳の山内は主任に昇進した。
初枝と浩一を帯同しての赴任である。安城工場は、紙パックとPETボトル飲料の製造を行っており、従業員数は約二八〇名。製造箱数も多く、社内最大の製造拠点である。山内は品質課主任として製品分析や出荷判定業務に従事した。
浩一は三歳のとき、幼稚園へ入園した。生まれたばかりのときは体重が三キロちょっとしかなく、山内が片手で悠々と持ち上げられるほどだったが、三歳になった浩一は体重が十五キロを超えていた。
「おとーちゃん」
舌っ足らずな浩一は、山内をそう呼んだ。山内は、ちょこちょこと後ろから追いかけてくる浩一が可愛くて仕方がなかった。
山内と初枝の夫婦仲は円満だった。山内は浩一の育児に積極的に関与し、仕事が休みの週末は浩一と一緒に外出して、初枝にしばしの一人時間をもてるように配慮した。初枝は浩一を出産して以来、久しく遠ざかっていた手芸を再開し、近所の手芸教室へも通った。
安城工場へ赴任して三年後、山内の父、武彦が亡くなった。享年七十四。脳溢血であった。
それから二年後、四十歳になった山内は、東京本社購買部へ異動となった。
家族三人で東京に住むことも考えたが、今後も山内には間違いなく転勤があること、また浩一が六歳になり、翌年、小学校へ入学するため、あちこち転校することになるのは得策ではないと考えた。
そこで、母の君子が一人で住む三島の実家に同居して、山内は三島から東京へ新幹線通勤することにした。
東京本社は新橋駅の近くにある。三島駅から全席自由席のこだまを使えば、自宅から会社までドアツードアで約一時間半で行くことができる。そのため、朝六時に起床し、七時過ぎに家を出れば、始業の九時前には十分間に合った。
(あの頃はよかった)
山内の東京本社への新幹線通勤は九年間続いた。
生まれ育った三島での実家暮らし。ちょうど浩一の小中学生時代に相当し、浩一は小学三年生からサッカー部へ入部し、ずっとレギュラーとして活躍していた。成績も良く、何度か学級委員にもなった。
初枝と君子との仲も特に問題はなかった。俗に嫁と姑と言われるため、山内は君子との同居に一抹の不安を抱いていたが、結局それは杞憂に終わった。
週末にはときどき家族四人で楽寿園や白滝公園、それに山内と初枝が初めて出会った三嶋大社へ散策に出かけた。
山内が四十四歳のとき、東京本社の生産企画部へ異動となり、同時に課長へ昇進した。同期の中で課長昇進は最速ではないが、早い部類であった。
(ようやく一区切りがついた)
山内は感慨深くそう思った。地元から会社へ通い、家族ともどもつつがなく暮らしていて、自分は管理職になった。この時期の山内は気力、体力ともに充溢していた。
その二年後、君子が亡くなった。享年七十八。肺炎であった。
山内と初枝、浩一の三人での暮らしが始まった。初枝は手芸をやるほかに、鉢植えを楽しんでいた。浩一は中学生になり、部活でサッカーを続けていた。成績も良く、明るく快活で、どちらかと言えば引っ込み思案な質の山内にも初枝にも似なかった。山内は浩一の成長に目を細めた。
山内が五十歳のとき、栃木県にある真岡工場へ異動となった。ちょうど浩一が高校へ入学するタイミングと同じだった。山内は単身で真岡へ赴任した。
真岡工場はレトルトのカレーやパスタソース、それに缶詰の調理食品を製造しており、従業員は約百名、山内は品質課長として工場の品質管理業務を統括した。
浩一が入学した公立高校は県内有数の進学校である。浩一は高校でもサッカー部へ入部し、元気にグラウンドを駆け回っていた。
山内はほぼ隔週で三島へ帰っていた。金曜日の夕方、仕事を終えると、いそいそと車で真岡を出発し、三島まで約二三〇キロの道のりを約四時間かけて走った。三島の家へ到着すると、一気に緊張が解けて、じんわりと心に灯がともるような感覚を山内は好んでいた。
その一方で、日曜日の夕方、三島から真岡へ向かうときは、後ろ髪を引かれる思いだった。そんな思いを何とか断ち切って車に乗り込み、ようやく三島を離れるのがいつものことだった。
墓前での祈りを終えた山内は立ち上がり、手水桶とひしゃく、それに取り除いた花を持って墓を後にした。丘からの眺めはかすかにかすんで見えた。
家へ帰った山内は、昼食にそばをゆで、スーパーで買った天ぷら盛り合わせも電子レンジで温めて食べた。気分がどんよりしていて、あまりおいしく感じられない。




