第六話 悪夢の爪痕
二人がもそもそと布団に潜り込んでから健一が明かりを消すと、部屋の中は真っ暗になる。
怜治は自分で言っていたとおり、寝不足だったのか幾許もしないうちに寝息を立て始め、健一も早々に眠りに落ちていた。横になってすぐ、強い睡魔に襲われて眠ったのだ。
二人の規則正しい寝息だけが暗い部屋に満ちている。全く静かな室内だった。
だがそこに、けらけらと、どこからともなく笑い声が響いた。女の声だ。それが暗く静かな室内に、最初は小さく、そのうち徐々に大きくなって響き渡る。
突如、明かりが灯った。
唐突な明かりに、健一の瞼が二、三度痙攣して開く。それは、眠りの淵から強引に引き摺り戻されたようなものだった。
「……怜ちゃん?」
ぼんやりと怜治の名を呼ぶが、それに返る返事はない。
目を擦りながら起き上がってみると、ベッドの端に始めて見る女の姿を見つけて声を詰まらせた。
陶器のように真っ白な肌。切れ長の色気を漂わせる瞳。薄い唇にはすっと紅が引かれ、濡れたような艶やかな黒髪は流れるように背を渡っている。薄黄色の振り袖を身に纏い、着物の中には蝶がひらひらと泳ぐように飛んでいた。しかし、女の年の頃はまるで分からない。十代の少女のようにも、成人した女性のようにも見える。
あまりのことに声を出すことも身動きすることも忘れた健一に対し、女は口を開いた。
ゆっくりと口元だけを笑ませて。
「あたくしは月姫です。何卒、よしなに」
口元はこれでもかとばかりに笑っているのに、切れ長の目はまるで笑っていない。健一を見詰める黒目は硝子玉のように無表情だった。
健一は怜治の夢の話を思い出して、途端にぞっとした。
──いや、これは夢だ。
頭のどこかでそんな声が上がる。
健一は怜治に言った。
『今夜は俺が変な夢を見る』と。
だからこんな夢を見ているのだと思った。夢の中で「夢だ」と思う時は大抵すぐに目が醒める。
そう、すぐに醒めるのだ。
だと言うのに、月姫と名乗った女は身を乗り出して健一に迫ってきた。
健一は慌てて後退ったが、すぐにヘットボードにぶつかってしまう。
そんな健一に女はじりじりと迫ってくるばかりだ。
「うわっ! こっちくんな! 怜ちゃん、怜ちゃん! 起きてくれ!」
思わず震える声で怜治に助けを求めていた。
「……誰?」
女がふわふわとした譫言のような声を出す。その時にはもう、鼻がくっつくくらいに顔が迫っていた。健一の顔面に、月姫の凍てつくような呼気が吹きかかる。それなのに、健一は目を閉じることが出来なかった。逸らすことすら出来ない。その考えが思い浮かばなかったのだ。
──夢なんだから、すぐに醒めるはずだ。
そう思っても、目が醒める気配はない。
ただじっと、間近にある硝子の目玉を見詰めるのみ。
月姫は小さな吐息を零すと、一言呟いた。
「貴方の左目、綺麗」
呟いたかと思ったら、次の瞬間には手をそっと伸ばしてくる。
そこでようやく健一は怜治の夢の内容全てを思い出した。怜治は言ったのだ。目を閉じたら雪野が消えたのだと。
それを思い出して、月姫の手が顔に触れる前に目を固く閉じた。そしてじっと待つ。月姫が雲散霧消するのを。夢から醒めるのを。
と、冷たく細い指先が健一の左目の目元に触れた。
──消えてない!
一瞬でパニックに陥った。怜治の時には消えたのに、自分の時には消えないのだ。
──だとしたら、これは夢じゃない? 現実なのか?
何がなんだか分からなくなる。もしこれが夢などではなく現実なのだとしたら、自分は一体どうなってしまうと言うのだろうか。
不安が足下から頭のてっぺんまで突き抜けていった。
そして思わず目を開けると、その途端、
「この目、あたくしにちょうだいな」
恐ろしい一言が月姫の口から発された。
下瞼を触られて、反射的に健一は目を堅く瞑った。すると、瞼をぺたぺたと触ってくる。そうしてから、目玉の形を探るように動き始めた。
そのうち、ぐっと指に力が入り、目玉に圧がかかる。
混乱と恐怖のうちに、健一は咄嗟に月姫と名乗った女の腹を力任せに蹴飛ばしていた。
途端、線の細い悲鳴が聞こえ、続いてどたんとフローリングの床に落ちる音が響く。
その音にはっとして目を開ける。見ると、月姫がベッドの足下の方へ転がり落ちて、起き上がろうとしているところだった。
だが、おかしい。怜治の方に目を遣ってみたが、怜治は何事もないかのように眠り続けているのだ。健一の叫びにも、月姫がベッドから転げ落ちた音にも、部屋の明かりがついたことにも気付かずに。
今起こっているこれが現実なのだとしたら、怜治が起きないわけがない。
そこに声が響いた。
「酷いわ。あたくしはその左目が欲しかっただけなのに」
「な……なんでだ!」
叫ぶも、声が震えていた。気がつくと、奥歯ががちがちと鳴っている。身体も震え上がっていた。
そんな健一に月姫がまた近寄ってくる。ベッドの足下に左手と右膝を乗せて這い上がってきたのだ。
「その目が欲しいの。けれど、お婆様はくださらなかった。あたくしにはくださらなかった。だから自分で手に入れるしかないの。ちょうだいな」
言って、右手を差し伸ばしてきた。その白く細い指先がぐねぐねと蠢く。
その様に慌てた。息を飲み込むように吸い込むと、健一は月姫の手を蹴り付けるように足をばたつかせた。
そのばたつかせた左足首を、月姫の冷たい右手が掴む。
「いけない子だわね」
月姫は細い線にそぐわず、ぎっちりと力強く足首を掴んで離さない。
「は、離せ! この化け物女!」
叫んで、闇雲に足をばたつかせたが、月姫の細い指は足首に食い込んで少しも離れる気配がなかった。まるで、女の掌と足首の肉が癒着してしまったように。
左足は完全に取られていたので右足で月姫を蹴り付けようとした時、
「あら?」
急に月姫が何かに気付いたように、左足から手を離した。それに合わせて健一は足を引っ込めたが、次の瞬間、ぞっとするものを見ることになった。
月姫がベッドの上から、眠る怜治に目を移していたのだ。
「この子は誰なのかしら?」
今気付いたとでも言うように、月姫はベッドから身を乗り出した。
ヘッドボードにへばりつくようにしながら、健一は大声を張り上げた。
「お前には関係ない! 近付くな!」
そんな言葉にもかかわらず、月姫はベッドを降りようとする。
「怜ちゃんに近付くな!」
「れい、ちゃん……?」
そこではっとした。迂闊に怜治の名を月姫に教えてしまったことに気付いて。
「お姉様が欲しがっていたのはこの子の目なのかしら」
ふわふわとした言葉を呟き、唇に弧を描きながら月姫は感情のない硝子の目玉を怜治に向ける。
「貴方が駄目なら、この子の目を貰う。……ねぇ、れい、ちゃん?」
そっとベッドを降りて、怜治の足下に座った瞬間、健一はベッドから飛び出していた。
「怜ちゃん!」
勢いのままに怜治の頭に頭をぶつける。途端、目の前に星が散ったが構わなかった。怜治の頭を掻き抱くように月姫から怜治を護る。
「い……ってぇ。何……?」
健一の耳に怜治の寝惚けた、それでいて、不機嫌な声が響いた。
「怜ちゃん、目が醒めたか!」と、そう言いたかったが、何故か健一の舌は上手く回らなかった。頭の奥が酷く重く、痺れているようだった。その重ったるい頭を巡らしてみると、朝の光が遮光カーテンを僅かに透かしている。
そして、自分の姿に驚いた。
ベッドから転げ落ちて布団に頭をぶつけ、怜治の肩から胸にかけて身体が覆い被さっていたのだ。
それに、怜治に興味を示していた月姫の姿もどこにもない。辺りはしんとしている。第一、照明すらついていなかった。
「健ちゃん、ベッドから落ちたのか? 寝相悪いなぁ」
どこか呆然としている健一の耳に、怜治の不機嫌な声がもう一度被った。
その声にはっとして立ち上がり、もう一度辺りを見回すが、室内には特別変わったところはない。怜治も無事で、誰かがいた形跡もないのだ。
そのことに安堵して、健一はベッドにどすんと腰を下ろす。知らず、溜息まで漏れていた。
「どうした?」
様子のおかしな健一に、起き上がった怜治が頭を掻きながら声をかける。
怜治の一言に、健一は鈍い反応を示した。
「ん? いや、夢だ。……夢、見ただけだ」
「夢?」
だが怜治は、ふと真剣な顔になる。
「まさか、女の出てくる夢じゃないよな?」
「なん、で?」
「だって、昨日の今日じゃないかっ。昨日は俺が変な夢を見た。今日は健ちゃんが見たんじゃないのか?」
そこで、もう一度健一は溜息を落とした。それから口を開く。
「うん、変な夢見た。……でも、ただの夢だった。変な夢見て、ベッドから落っこちて目が醒めた」
「そうじゃないだろ? さっき健ちゃん、俺を見て凄い顔してたぞ」
怜治は酷く冷めた目で健一を見ていた。
その目から、健一は思わず視線を逸らし、両手を膝の上で組んでいた。それでも怜治は組まれた両手の上に手を置き、尚も聞いてくる。
「なぁ、健ちゃん。正直に言ってくれよ」
そこで急に怜治の声が上擦る。
「なんだ、これ……?」
その声を聞いて、健一は怜治に目を遣った。怜治の目は健一の足下に向いている。それを怪訝に思って、健一は自分の足下に目を落とした。
途端、全身が粟肌立つ。
左の足首に赤紫色の痕があったのだ。薄暗い中でははっきりとしなかったが、それは何故か手の形をしていると思った。その為か、カーテンを開けて確かめるのが恐ろしくなる。
「健ちゃん、これ、なんだよ」
それに答えることは出来なかった。あまりにも恐ろしすぎて。未だに月姫の冷たい手がそこを掴んでいる気がしてならない。
慌てて左足をベッドの上に引き上げ、足首を擦った。だが、痕は全く消える気配がない。それどころか、濃くなっていくように感じられた。
必死に痣らしきものを擦っていたが、その時突然、目覚まし時計がけたたましい音を立てた。
健一も怜治もびくりと身体を跳ね上がらせた。同時に、机の上に置いてある目覚まし時計に目を遣る。
瞳に恐怖の色を乗せて。




