第二三話 絶望と希望
「お姉様っ」
「姉様、どうしたの?」
女達が雪野に交互に声をかける。しかし雪野は目を見開いたまま何も答えない。いや、答えられないのだ。
それを見て、怜治は冷たく言い遣った。
「この六日間、お前達がしてきたことは最初から全部無駄だったんだ。健ちゃんにしたことだって、人間になれなかったことに対する復讐じゃない。全く見当違いな逆恨みで、人間に憧れるだけの、ただのやっかみだ」
だからって、俺はお前らを許さない。最後に呻くように付け加えた。
怜治はいきなり雪野の胸倉を掴んで引き摺り立たせると、その顔に拳を打ち込もうと腕を振り上げた。
その瞬間。
──怜治──
頭の中に静かな声が響いた。
怜治の振り上げた拳がそのまま止まる。慌てて辺りを見回すが、人形達と健一の他に周りには誰もいない。
そこではっとする。
雪野が感情のない面で怜治を見ているのだ。瞳は無表情を通り越して虚無を映し、何を考えているか全く分からないが、ただじっと見ている。
その様を僅かばかり見詰めていたが、胸倉を掴んだ手をいつの間にか放していた。
雪野はよろりと蹌踉け、また頽れそうになったところを月姫と華緒に支えられる。
怜治の怒りは収まらなかったが、ふと健一の存在を思い出し、怪我を負った従兄弟の方を見た。すると、健一は両膝をコンクリートの床について、両手で目元を覆っていた。
「健ちゃん!」
思わず走り寄った。
「目、目は……?」
「駄目だ……完全に瞼を縫いつけられてて、開かない。……痛ぇ……」
そう言う間にも、指の間から真っ赤な血が滴り落ちる。
「とにかく、下に下りよう。ロッカーの中にカッターが入れたままなんだ。もしかしたらこの学校にもあるかも知れない。いや、きっとある。それで糸切ってやるから」
その声に被さるように、月姫の声が響いた。
「その糸は普通の刃物では切れなくてよ」
肩越しに振り返ると、無表情の月姫と目が合った。
雪野から、怜治と健一の目は『月の瞳』ではないことを聞いたのだろうか。もう笑う気配すらなくなっていた。さっきの雪野と同じ、何を考えているのか分からない表情をしている。それは華緒も同じだった。
今まで消したことのない笑みは今、彼女達から完全に消え去っていた。
もう二人には興味すらないという風に。
その女達を見据えて、怜治は言葉を放った。
「どうやったらこの糸を切れる」
「無駄。どうやったって切れないわ。その子、一生そのままね」
華緒が突き放すように言う。
その言葉に怜治の顔がみるみる青褪めた。
「一生? じゃあ、健ちゃんはもう目が見えないって言うのか!」
「そうよ」
怜治を見もしないで華緒は言い放った。そして雪野に声をかける。
「姉様、行きましょう。月の瞳はまた探せばいいわ」
月姫と共に雪野を支えて、華緒は滑るように移動し始めた。
その後ろ姿に、怜治は咄嗟に言葉を投げつけた。
「待てよ、お前ら! こっちはお前らにいいだけ振り回されたんだ。今度はこっちに付き合って貰うぞ」
怜治の強い言葉に雪野が振り返った。
「……なんですかしら?」
「ちょっと待ってろ」
言って、健一に「歩けるか?」と小声で聞く。
それに対し、健一は頷いてみせた。怜治の手を借りて、蹌踉けながらも立ち上がる。そして怜治に肩を抱かれて、導かれるようにゆっくりと歩き出した。
怜治は人形達を追い越すと、「ついてこい」とだけ言って、あとは目の利かない健一の歩く速度に合わせて先に導いた。
階段でも怜治は健一に、
「ここから階段だ。数えながら下りるからな。……一、……二、……三……」
そうしてゆっくり下り始める。踊り場で曲がる時にも声がけするのを忘れなかった。
その後ろを人形達は黙してついてくる。屋上から四階まで下りるのに、七、八分かかっただろう。それでも人形達は誰も不平不満は口にしなかった。ただ淡々とあとをついてくるだけだ。
階段の踊り場から廊下に出ると、そこでもまた怜治は健一に声をかけた。
「ここからずっと廊下だ。ただ歩けばいいから。音楽室まで頑張れ」
そこで健一が怪訝そうな声を出す。
「音楽室? 戻るのか?」
「いや、用があるんだ。だから、そこまで、な?」
「……分かった」
釈然としない様子を見せたが、そう答えた。
階段から音楽室まで、また十分近くかけて健一はゆっくりと歩いた。
とうとう音楽室の前まで来た時だ。
歪な楽曲が小さく流れ出る、白い靄で覆われた音楽室の中から声が聞こえてきた。
『雪野、月姫、華緒、入りなさい』
その声に、人形達は雷に打たれたようにびくりと震えて立ち竦んだ。
同時に、健一も反応する。
「婆ちゃん……?」
「え?」
健一の言葉に、怜治は驚きに目を見開いた。思わず靄の奥へ目を向ける。けれど、微かな人影しか見えない。
『「雪月華」、何をしているの? 早くこちらへ来なさい』
静かだが、強い響きの声だった。
それに逆らうことが出来ないのだろうか。人形達は音楽室の真っ白い靄の中へと進んでいった。
その時、怜治は奇妙な感覚に囚われた。人形達の何かが違ったのだ。初めは何が違うか分からなかったが、彼女らが靄の中に完全に消えてから気付いた。
歩いていたのだ。
それまでは地を滑るように移動していた人形達が、急にしずしずと歩いて音楽室の中に入っていった。それが怜治には奇妙に映ったのだった。
人形達が靄に飲まれた途端、扉がばんっと大きな音を立てて閉じた。
思わず怜治は声を上げていた。
「本当に婆ちゃんなのか? おい、婆ちゃん!」
その怜治に、健一が声をかける。
「あの声、婆ちゃんだ。間違いねぇ。一緒に住んでたから覚えてる」
しかし怜治にはぴんと来なかった。祖母は長いこと寝たきりで、怜治にとっては会う機会が少なかった。健一の家に行けば挨拶はしたが、怜治の覚えている祖母の声はもっと弱々しかった。だから気付かなかったのだ。
今ひとつ納得できなかった怜治の耳に突然、耳をつんざく悲鳴が飛び込んできた。それも三連続で。
その叫びには健一も驚いたようで、身体がびくっと一瞬震える。
怜治は驚きのあまり、扉に飛びついていた。
「婆ちゃん!」
扉を開けようとした時、
『開けては駄目』
鋭い声が届いた。
その鋭さに、扉の取っ手にかけていた手を思わず引いてしまう。
それから暫くは、歪んだ楽曲だけが小さく流れてくるだけだった。
そんな中で、健一も怜治も次に何が起こるのか固唾を飲んで待った。
待った挙げ句、扉が唐突にがらりと開く。
音楽室の中に立ち籠めていた靄は晴れ、気付けばそこは和室になっていた。それも、今では物置部屋になっている部屋が整然として存在していたのだ。それにさっきまで歪んで聞こえていた音楽はなりをひそめていた。どんな音もそこには存在しない。
ただ和室の中には布団が敷かれ、その上に祖母の美津代が浴衣の寝間着姿で正座している。その両隣には、人形まで正座していた。
ただし、瞑った両目から夥しい血を流して。
よく見れば、祖母の手には血塗れのノミが握られていた。
『この子達は人を殺めたわ。二度とそんなことが出来ないように、目を削り取りました』
祖母は平然として言い遣った。そして続ける。
『この子達を連れて行きます。二人にはお願いがあるの。「雪月華」を私のところに持ってきて。必ずよ。忘れないでね』
あまりのことに健一も怜治も言葉を発せなかった。
美津代は健一の様を痛ましげに見遣り、
『健一、酷い目に遭わせたね』
労りある言葉をかけてきた。それから美津代は手を差し出した。
その掌の上には糸切り鋏がある。
『雪野、これをあの子達へ』
美津代の隣に座っていた雪野が目も見えないはずなのに、その手にある糸切り鋏を取り上げると二人の元へ真っ直ぐやってくる。そして怜治に向かい、鋏を差し出してきた。
「婆ちゃん、これ……?」
『黒い糸は私の髪。それを切るには私の鋏が必要なの。怜治、それで健一の糸を切ってあげなさい』
怜治は差し出された鋏と美津代とを見比べ、鋏を手に取った。それからその鋏を健一の目元に持っていく。




