第二二話 月の光
夕食の席で文代と菊代から、「明日は朝早くお墓参りに行くから、夜更かししちゃ駄目よ」と釘を刺された。
だが、もう深夜一時になろうとしている。今夜は夢の迎えが遅かった。しかし、その迎えもそろそろだと二人は思い、健一はベッドで怜治は布団で横になっていた。そして今夜は音楽をリピート状態でかけるのも忘れない。さっきから楽曲が何度も周回している。
二人は夢に引き摺り込まれたら、今夜もまた図書室で落ち合おうと取り決めていた。そしてその時を待っている。時々目を閉じてみるが、目を開けてもそこは健一の部屋のままだった。なかなか夢の中に誘われない。
健一は息を軽く吐き出し、目を閉じたまま怜治に語りかけた。
「遅いな」
「でも、そろそろのはずだ。あいつら……いや、少なくとも雪野は健ちゃんに仕返しがしたいはずだから、必ず迎えに来るよ」
「だな」
答えて、皮肉げに口端を持ち上げる。
それを聞く怜治は頭の後ろで手を組んで、それを枕にしながら天井を見上げていた。幾度か夢に誘われるのではないかと考えて、ゆっくりと瞬きをしてみる。それでもそこは健一の部屋のままだ。
そこで怜治はふと気になったことがあった。もしかして、すでに夢の中なのではないかということだ。今夜は二日ぶりに健一の部屋で夢を見ているのではないかと。
そう思い当たり、いきなり身を起こして健一の寝そべるベッドへと駆け上がった。
「なんだ。どうした、怜ちゃん」
それには答えずに窓から空を見上げてみる。空には月が昇っていた。その月の光を確かめる。
そこには普通の月が放つ光があった。当たり前の現実の月。あの偽物の月が放つ光ではない。それを確かめてベッドに座り込むと、俯いて溜息を吐き出した。
いきなり自分を跨いで外を見始めた怜治に驚いて身を起こした健一が、怪訝そうな顔で声をかけてくる。
「どうしたんだ? いきなり外なんか見て」
「いや……。もう夢の中にいるんじゃないかと思って、月の光を確認しただけだ」
「月?」
不可解げに言って、窓から空を見上げる。そこにあるのは月だけだ。夢の中で見た月と寸分違わぬ月。星は街灯の明かりに紛れてほとんど見えない。
「夢の中の月は、なんか違うんだよ。校舎を照らしてる光もなんか偽物じみてて、普通の光じゃないんだ」
レースのカーテンを閉めながら言う。
「そうか? 俺には同じようにしか見えなかったけどな」
「とにかく、まだ現実みたいだ」
吐息を落とし、目を瞑る。
と、尻に硬い感触を覚えた。はっとして目を開けると、教室の中で席についていた。服装も制服になっている。さっきから周回していた楽曲も全く聞こえてこない。
しんとしている。
怜治は椅子に座っているのだと認識した途端、席を立った。そしてそのまま扉に飛びつく。クラス表示のプレートを見ると、そこは一年の時の教室だった。
一年生の教室があるのは四階だ。図書室は一階下だった。怜治はもう名を隠すことはしないと決めている。だから人形達に見つかっても一向に構わなかった。
落ち着き払って図書室まで堂々と廊下を歩いていった。いつも学校で歩いているのと変わらずに。
しかし図書室までやってくる間、誰に会うこともなかった。図書室の前で立ち止まり辺りを見回してみても、人形達の影も形もなく、ましてや笑い声さえ聞こえてこない。
「いざ待ってみると、案外出ないもんなんだな」
ぽつりと言葉を落として、目の前の扉を静かに開く。
中は、昨日健一が力任せに蹴倒した机がそのまま倒れている状態だった。
「健ちゃん?」
昨日と同じようにそっと声をかけるが、返答はない。
仕方なしに怜治は蹴倒されたままの机を元に戻すと、その席について健一を待つことにした。
暫くそこで待ってみたが、健一が来るどころか人形達さえ現れない。当然、笑い声も聞こえてこない。
不意に胸騒ぎがした。
雪野は健一を恨んでいる。昨日の様子では、月姫と華緒は雪野の言いなりだ。もしかしたら人形達に捕まってしまっているのではないかと思えたのだ。さもなければ、昨日のように図書室に来たくとも廊下が間延びして辿り着くことが出来ないかだ。
それを思って、廊下に飛び出した。辺りには誰の姿も見えない。
怜治は健一の名を呼びながら、まず階段を駆け上がった。四階で健一の名を呼ばわったが、反応はない。それから階下に駆け下りた。四階と同じように、各階で健一の名を呼ばわってみるが反応はない。そうしている間に一階まで来てしまった。一応昇降口まで行ってみたが、鍵がかかっていて外に出ることは出来ないようだった。
今度はその足で体育館まで行ってみた。中はがらんとしていて人の気配はない。扉の外れた体育倉庫と更衣室にも行ってみたが、どこにも健一の姿はなかった。
体育館をあとにして、怜治は音楽室へ向かってみた。昨日と同じように出会えるかも知れないと思ったからだ。
急いで階段まで行き、三段飛ばしに四階まで駆け上がる。そして音楽室へと走った。
あちこち駆け回ったせいで身体はくたくただったが、ここで根を上げるわけにはいかなかない。健一の安否を確かめなければならないからだ。
それにしても妙だ。これだけ走り回り、健一を呼ばわっているのに人形達が怜治の前に現れないのだ。ずっと感じていた胸騒ぎが段々と確信めいていくのが怖い。
そんな思いに囚われながら、音楽室に辿り着いた。
中からはかすかに楽曲が聞こえてくる。
心臓は大きく早く脈を打ち、肺が破裂しそうなほど痛い。喉も擦り切れそうだった。唾を飲み込むだけで辛い。それでもなんとか音楽室の扉を真横に滑らせる。
途端、歪な音楽が小さく響いてきた。
だがそれだけではなかった。開いた扉の中は、真っ白な靄のようなものが立ち籠めていたのだ。その靄の中に微かに人影が見える。
「健ちゃん!」
呼吸が乱れて喘ぐように叫ぶが、影は動かない。それを奇妙に思って足を踏み入れようとした途端、
『来てはいけない』
女の声がした。昨日、切れ切れに聞いた声だ。
大声を出されたわけではないが、その声は強く鋭かった。踏み入れようとした足が宙で止まってしまう。
怜治はその声に促されるように、肩で息をしながら一歩後退った。
「……誰?」
『ここに雪月華を連れてきなさい』
誰何に対する答えはないが、声はそう言った。
雪月華。
雪野、月姫、華緒の三人だ。
彼女らを連れてこいと声は言う。
「誰だよ……、あんた」
怜治の誰何に、やはり声は応えない。微かに見える影も動かない。
怪訝な顔になりながら靄の中の人影を見極めようとするが、それも叶わなかった。見えそうで見えないのだ。
何者が雪月華を必要としているのか判然としないが、健一がここにいないのであればまた他を捜すしかなかった。
怜治は怪訝な心持ちを捨てきれないままに踵を返し、今度は屋上に向かった。
階段を駆け上がり、屋上に出る。外はいつものように真っ暗だ。月の細い光だけが辺りを照らしている。
「健ちゃん、いないのか!?」
扉を乱暴に開け放った途端叫んだ。
「怜、ちゃん……っ、来るな」
どこか弱々しい声が聞こえてきた。
「健ちゃん、どこだ!」
息を切らして呼ばわる。呼ばわって、給水塔の方へと向かった。
昨日、二人で月を見た場所に。
そこには四つの影があった。
一つは金魚を飼う女、雪野。
一つは蝶を侍らせる女、月姫。
一つは桜の花弁を舞わせる女、華緒。
最後の一つは。
──両瞼を縫い合わされた健一──。
「健ちゃん!!」
目を最大限まで見開き、息苦しいのも忘れて、怜治は腹の底から叫んだ。
健一は両脇から月姫と華緒に押さえ付けられて、縫い合わされた瞼から血を流して立っていた。縫合痕が痛々しかったが、それを更に痛々しく見せているのは、頬を伝って顎から滴り落ちる血の滴だった。
「怜ちゃん、来るな……逃げろ、早く音楽室に……」
「馬鹿野郎! 出来るわけないだろう!!」
怜治は四つの影につかつかと近付いた。近付いて、一番手前に立つ雪野の前で止まる。
「どうしてこんなことをした」
怒りに震える声で問うた。
そんな怜治に向かい、雪野は罅割れた面に熟れた唇だけで笑ってみせた。
「わたくしを壊して人間になれないようにされたからですわ」
「……お前達は、誰も人間にはなれない」
「なれますわ。わたくしはもう無理ですけど、月姫か華緒のどちらかは。だって、貴方様の右目があるのですもの。そしてもう一つはここに」
言って、健一の左瞼を押さえる。
「縫い合わせましたから、名前を奪って、瞼を引き千切って取り出しましょう」
想像するのも躊躇わせるようなことをさらりと言う。
「なら、俺の右目をこの月明かりの下でよく見てみろ」
その言葉に、雪野は両手で怜治の顔を挟むと、怜治の顔を引き寄せて右目を覗き込んできた。
相変わらず冷たい呼気が顔にかかる。
だが怜治は雪野の硝子玉の目から目を逸らさなかった。逆に、じっと見詰める。
雪野は食い入るように見た。しかし雪野の思いとは裏腹に、月の明かりに照らされるとうっすらと光るはずの瞳は全く光を持たなかった。ただただ左目より、僅かばかり色が薄いだけの瞳だった。
それに気づき、雪野は驚きに目を見開く。近付けていた顔も離れる。
「嘘……。光を持たない。これは、月の瞳ではないわ」
まるで譫言のような響きの声を上げた。
「雪野お姉様?」
「雪野姉様?」
月姫と華緒が不思議そうに声をかけてくる。
それを遮るように怜治は言った。
「俺の名前を教えてやる。怜治だ。これで目を抉り出せるだろう? こんな役にも立たない目でよければ持っていけ。誰にでも植え付けろ。でも、誰も人間になんかなれない」
雪野はその場に突然、頽れた。がっくりと落とした肩の辺りで金魚が波紋を作る。
月姫と華緒は頽れた雪野の元へと急ぎ近寄った。




