第二四話 安堵
「健ちゃん、痛いかも知れないけど、ちょっとだけ我慢な」
その言葉に健一は一度小さく頷いて返した。
そして怜治は、そっと美津代の髪だと言われる黒い糸を切っていった。
ぱちん、ぱちん、と辺りに糸を切る音だけが響く。
糸が一本切れる度に、健一の瞼は震えた。同時に、針と糸を通された傷はすぐに癒えて、切られた糸は跡形もなく消滅していく。
怜治は時間をかけて、全ての糸を丁寧に切ってやった。全ての糸を切り終えて、
「健ちゃん、目、開けられるか?」
怖々と声をかける。
その言葉に、健一はゆっくりと目を開けた。目を開けて、恐る恐るぱちぱちと目をしばたたかせる。
その様子に、怜治はほっと息を落とした。言葉もない。
自分を心配げに見ている従兄弟を見遣り、目をしばたたかせながら健一は瞼を触った。
二人の孫の様子を見て、美津代は声をかけてきた。
『怜治、鋏を雪野に』
言われて振り返ると、両手を揃えて差し出した雪野がいた。その手に怜治は言われたまま鋏を置くと、女はすっと下がっていき、美津代に鋏を返してその隣に元通り正座した。
「婆ちゃん……」
二人の声が重なる。
『辛い思いをさせてごめんね』
そこで美津代はようやく微笑んだ。
『……さぁ、もう夢から醒める時間。「雪月華」を私のところに持ってくるのを決して忘れないで』
それだけを言い残すと、再び音楽室の扉は自動的に閉ざされた。
ゆっくりと。
何が起こったのか、怜治にも健一にも分からなかった。理解が追いつかぬまま数秒経ったあと、健一が音楽室の扉に飛びついた。
「婆ちゃん!」
がらっと扉を開け放つ。
だがそこにあるのは、グランドピアノが置いてある普通の音楽室でしかなかった。もう和室ではない。中に入り込んでみるが、どこもおかしなところはなかった。
吹奏楽部が使っているいつもの音楽室だ。
そのまま健一は呆然とその場に両膝をついた。
「婆ちゃん……」
その健一の肩に手を置いて、怜治は静かに言葉を口にした。
「終わった……、のかな」
「分かんねぇけど……これで終わり、か?」
まだどこか呆然としている声音だった。
その健一に怜治は突然硬い声を出した。
「健ちゃん、どうして俺が教えた通りにしなかったんだ。言ったはずだぞ。この世界の月は偽物だって」
その声に、健一は怜治を見上げた。
「うん……でも……」
言って、健一は怜治から視線を外し、床に目を落とした。
怜治は昼間、健一に言ったのだ。この世界は人形達にとっては現実でも、自分達にとっては偽物だと。だからここの月を見ても、『月の瞳』は光を宿さない。もし捕まった場合、それを利用して人形達の執着から逃れることが出来るのだと。危険なことは避けられるのだと説明した。
実際、昨日確かめたのだ。屋上に逃れた時に、月を見上げた健一の瞳は光を宿さなかった。それを奇妙に思ったことを怜治ははっきり覚えている。
怜治が人形達に名前を教える気になったのもそのためだった。全ては彼女らに二人の目を諦めさせるため。
なのに健一はそれをしなかった。瞼を縫われることを敢えて選んだのだ。
そのことに怜治は腹を立てていた。もし美津代が現れなかったら、華緒が屋上で言ったように、一生、健一は両眼から光を失うことになったはずだ。今回のことは不幸中の幸いとしか言えなかった。
健一の肩に置かれた怜治の手に、思わず力がこもる。
「怜ちゃん?」
目を上げると、怜治が険しく眉を寄せていた。
「俺がどれだけ心配したか分かってるか? 馬鹿みたいに人形のいいなりになんかなるな」
「あ……。ごめん、心配かけた」
健一の顔が急にしょぼくれたものになる。
「でもさ……罪悪感があったんだ」
「罪悪感?」
怜治が訝しげに口にする。
「あの人形、婆ちゃんが作ったって言うじゃないか。それを俺は傷物にした。あいつらに会った瞬間、婆ちゃんに申し訳ないなって気分になって、そうしたら怜ちゃんの言葉が頭から消えてた」
「だからってあんな……頼むから、もうあんな真似はやめてくれ。生きた心地がしなかった」
震える吐息を吐き出し、きつく目を瞑る。
「もうしねぇ」
言って、腕で顔の血を拭った。すると、腕が真っ赤に汚れる。
その気配に怜治は目を開け、
「目、もう大丈夫なのか? 痛くないか?」
心配げに声をかけてきた。
「うん、痛くないし、ちゃんと見える」
肩にある怜治の手を退けると、健一はゆっくりと立ち上がった。
「顔、洗わなきゃ駄目みてぇだな」
「傷は平気か?」
「もう目にも瞼にも痛みも違和感もねぇよ」
そう言って頷いてみせる。
それを見止め、
「じゃあ、手洗い場まで行こう。血塗れだ」
先に立って音楽室をあとにした。
手洗い場はトイレに面してある。音楽室から一番近い手洗い場に行くと、早速健一は顔を洗い始めた。水で顔を洗うと、流れていく水が忌々しいほどに真っ赤に染まった。
それを見ると、怜治は腸が煮えくり返りそうになる。よくもこんなことを、と。
そんな怜治に気づきもせず、顔と腕を洗い終わった健一が言う。
「さて、どうやったら目が醒めるんだ?」
「さぁ……。もう一度音楽室に行ってみようか?」
それを耳にして、健一は眉を寄せた。
「そう言えばさっき音楽が聞こえてきたけど、なんか歪んでなかったか?」
「うん。でも婆ちゃんが姿を見せた途端、音楽も消えた」
それを聞いて、健一が妙に得心した顔になる。
「そっか。そういや扉が二度開け閉めの音を立てたら、消えたな」
「でも、それまでは音楽自体は聞こえてた。音楽室にもう一度行ってみようか」
健一は頷き返すと歩き出した。
二人揃って静かな校内を歩いていると、どこかから聞き慣れた音が聞こえ始めた。それは昨夜パソコンでかけていた楽曲と健一の目覚まし時計の音だった。音の出所は音楽室の方らしい。思わず歩む足が小走りになる。
音楽室の前に辿り着くと、二つの音は確かに教室の中から聞こえてきた。しかも今度は音楽が歪んでいない。
健一が思いきったように扉を開くと、それまで昼間の光だったが、それが蛍光灯の光に変わった。
怜治は急に明かりの質が変わったことに気付いて、幾度か目をぱちぱちさせて首を巡らせると、隣で健一も目をしばたたかせていた。はっとして起き上がると、健一と一緒にベッドで眠り込んでいたことに気付いた。
リピートをかけていた音楽と目覚ましがけたたましくなる中で、怜治は健一を覗き込む。
「健ちゃん、目、大丈夫か?」
唐突なその声に、健一は瞬きを繰り返して目元を擦った。
健一はぼんやりとしながらも身体を起こすと、
「大丈夫みたいだ」
と返す。
怜治はカーテンを開け、陽の光の下で健一の顔をまじまじと確かめる。が、血の跡一つそこには残っていなかった。それを確かめ、怜治は健一の肩に両手を乗せると、そこに額を預けた。
「よかった……」
大きな溜息と共に言葉を吐き出す。
そんな怜治の頭を健一はぽんぽんと撫で叩いた。それからベッドを下りて音楽と目覚まし時計を止める。
時刻は五時半を示していた。
その時刻を確かめて、怜治は言った。
「全部、終わったんだよな?」
「うん、多分」
「そうか……」
怜治はほっとしたように、窓枠に背を預ける。
それに嘆息を落として、
「今日は墓参りだから、俺達も支度しようぜ」
健一が苦笑混じりに話題を変えた。




