第一九話 捕縛
隣で真っ暗な空を見上げながら大きく息を吸い込む音を聞き、怜治はその横顔に目を遣って話しかけた。
「健ちゃん、さっきの話なんだけど……」
「さっきの話?」
月から目を離すと、怜治の方を見てきょとんとする。
「ほら、母さん達に雪月華のことを聞くって話」
「あぁ、あれか。どうした?」
怜治は健一を見て言葉を零すように言った。
「やっぱり聞いてみようか。夢のことだってどこまで信じて貰えるか分からないけど……」
その言葉に、健一は慌てて首を振る。
「夢の話までするつもりはねぇよ。ただ、人形と目について話を聞こうってだけだ」
「夢のことは話さないのか?」
「話したって頭がどうかしたとしか思われねぇからな」
視線を逸らして、健一は苦く笑んだ。
そんな健一を見て、そっか、と小さく呟く。
「だけど、怜ちゃんもお袋達に話を聞く気になったってことだな?」
逸らしていた視線を元に戻し、聞き返してきた。
「まぁ、それが一番いいんじゃないかと思って」
健一は怜治に軽く頷いてみせた。頷いてから、それよりも、と続ける。
「まず今は、どうやって音楽室に行くかの方が大切だ。あそこが現実に一番近いなら、行かなきゃならない」
「……うん、それは分かってるけど、あいつらが彷徨いてるのを考えるとな……。それに、廊下が間延びするって現象も解決してない。そんな時にまた襲われたらどうする?」
「まぁなぁ……」
健一は吐息に乗せて零す。
「でも、やっぱりいつまでもここにはいられねぇよ。怜ちゃん、もう一度行ってみよう。駄目だったら、また考えればいいさ」
健一の提案に怜治は僅かばかり考え込んだが、確かにいつまでもここにはいられない。小さく頷くと、
「じゃあ、戻ってみようか」
言って返した。
屋上の扉前まで行くと、健一が扉に耳をつけて中の様子を窺った。扉の向こうからは、笑い声も話し声も聞こえない。身を起こし、
「誰もいないみたいだ」
怜治にそう伝える。そして把手に手をかけて、ゆっくりと回した。
扉は細く金属音を立てたが、その音に反応する者は誰もいないようだった。
校内に入ると、また昼間に戻っている。外を振り返れば夜なのに、全く不可思議としか言いようがなかった。
そこに再び足を踏み入れ、二人は扉を静かに閉める。
それから階段を下りていくが、音楽室は四階なのでそのまま廊下を抜ければいい。
階段を下りて四階まで戻ると、廊下を窺い見る。見える範囲では、やはり誰の姿もなかった。健一はそっと足音を立てないように一歩を踏み出す。そのあとに怜治も続いた。
二人は足音を殺しながら、恐る恐るゆっくりと進む。
と、突然、怜治は背後に引き倒された。驚いて、短い叫びが上がる。
それに振り向いた健一は、背後から羽交い締めにされてしまった。怜治を引き摺り倒したのは華緒だった。と言うことは、健一を羽交い締めにしているのは月姫だ。
健一は拘束から逃れようと暴れたが、月姫の腕はびくともしない。月姫の方が健一よりも一回りも背が低いというのに、その力は酷く強かった。
引き倒された怜治の上には、華緒がのし掛かる。怜治も暴れていたが、片手で頭を押さえられて、動きがままならなかった。それでも頭を押さえ付けている手を引き剥がそうと、両手に渾身の力を込める。
「動いちゃ駄目。雪野姉様が貴方の目を狙っているから、それを防いであげる」
あどけなさを残した華緒の声が言う。
「何言ってる! 離せ!」
「雪野姉様はかんかんよ。顔を傷つけられたからって、仕返しをしようとしてるわ。貴方を八つ裂きにしてでも名前を聞き出すつもりらしいの」
「……え?」
そう漏らしたのは健一だった。
「それは……怜ちゃんは関係ない! あれは俺がやったことだ!」
その健一に、月姫が冷たい吐息でふわふわと語りかける。
「知ってる。だからこれは、貴方に対する見せしめでもあるの。あたくし達だって目が欲しいんですもの。でも雪野お姉様が少しでも溜飲を下げてくだされば、あたくし達にも血が通う。片方の目だけでもいいの。それで我慢するわ」
「巫山戯ろ! この腕を離せ!」
叫んで藻掻くも、やはりびくともしない。
その間に、華緒は袂から針を取り出していた。針には黒い糸が通されている。吐息で笑って、華緒はそれを怜治の顔に近付けていった。
「これで、瞼を縫いましょう。そうすれば、雪野姉様だって簡単に目玉を抉り出せない。針に通してある糸は特別なものだから」
「やめろ!!」
華緒の言葉に、健一と怜治の声が重なった。
しかし、それに頓着する様子も見せずに瞼に針を近付けていく。
怜治は咄嗟にその手を掴んでいた。押し退けようと力を込めるが、全く意味のないことのように針先はどんどん近付いてくる。
全く生きた心地がしなかった。瞼を閉じることも出来ずに、それどころか瞬きさえ出来ず、怜治は近付いてくる針の鋭さを凝視するばかり。
その様を見て、健一を取り押さえている月姫がけらけらと笑った。
それを耳元で聞きながら、
「やめろ! 化け物!」
健一が叫ぶ。
その健一を振り返り、華緒はあどけない声で言い遣った。
「この子が傷つくのは嫌? だったら貴方の目をちょうだい。そうすれば、この子は解放してあげる。……大丈夫よ。片目でも生きていける」
「名前を……教えればいいのか?」
どこか覚悟を飲んだ声音だった。
それを耳にして怜治が叫ぶ。
「駄目だ、健ちゃん! やめろ!!」
しかし健一は怜治の言葉を無視して、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「俺の名前を言ったら、怜ちゃんは助けてくれるんだな? 目を奪わないな?」
「うん、私はね。月姫姉様はどうするか知らないけど」
それは腹立たしいほど、あっけらかんとした返答だった。
その言葉に被せるように、月姫が冷たい息を吐き出しながら言う。
「あたくしも目が欲しいわ。華緒がこの子の目を貰うなら、あたくしはその子の目を貰うことにする。それであたくし達は人間に近付けるんですもの。大丈夫。なんの力も持たない目はいらないから残してあげます」
「それじゃあ、どっちにしろ俺も怜ちゃんも片目を失うってことじゃないか。なんの交換条件にもなってないぞ」
「そう言えば、そうね」
月姫がけらけらと笑う声が廊下に響いた。
そこに突然、一つの声が届いた。
「お前達、そこで何をしているのかしら」
地を這うような低い声だった。まるで怒りを堪えているような。
その声に、月姫も華緒もびくりと身体を震わせた。
健一の背後で月姫が振り返る気配がする。華緒も肩越しに振り返ったまま、月姫のその向こうに目を遣っている。
そして恐る恐る月姫が声の人物に声をかけた。
「雪野お姉様……」
「月姫、華緒。まさか、わたくしに無断で目を奪おうとしていたのかしら」
それに対し、月姫も華緒も何も言わなかった。
彼女らがさっき言っていたように、雪野は健一のしたことに対して酷く立腹しているようだ。
健一もなんとか首だけで振り返ってみる。
廊下には、初めて表情らしい表情を晒した雪野の顔があった。
罅割れた雪野の面にあるのは憎悪。柳眉を跳ね上げ、両眼には憎々しげに怒りの色が激しく燃え立っている。
雪野がすぅっと健一の前に移動してきた。そして健一を真正面から睨め付ける。
健一もまた雪野の両眼を睨め付け、
「よう、べっぴんさん」
言って口元を皮肉に笑ませた途端、横っ面を思い切り張られた。
その拍子に雪野の罅割れた肌が崩れる。
「お前のせいで、わたくしは……わたくしはもう人間になれなくなったわ! お婆様がいない今、もうわたくしを直してくださる方がいないんですもの!」
健一は殴られた時のまま、僅かに顔を俯けて聞き返した。
「お婆様って、婆ちゃんのことか?」
目だけを雪野の方へ向ける。
けれど雪野は怒りに震える吐息を零すだけで何も答えない。答えない代わりに月姫に命じた。
「いいこと? しっかりと押さえているのよ。暴れても逃げられないようにね」
それから怜治を押さえ付けている華緒の元へと移動した。
「華緒、その針と糸をわたくしに」
怜治の目の前にあるものを寄越せと手を伸ばしてくる。
その様に、怜治は思わず声を上げていた。
「何する気だ」
そんな怜治を楽しげに見遣って、
「ほほ……わたくしの顔をこんなにしたお礼に、あの子の瞼にお裁縫をしてさし上げるのよ」
言う間にも、また漆喰の肌がぱらぱらと崩れ落ちる。崩れた漆喰の下には黒々とした木目が見えていた。
「よせ! やめろ!」
雪野の言葉を聞いて、怜治が叫ぶ。
怜治は針を持った華緒の手を更に強く握り締めた。華緒の手にある針と糸を渡すわけにはいかない。
その言葉が聞こえないかのように、雪野は華緒に向かって更に手を突き出した。
「さぁ、お寄越し!」
流石に語尾が荒くなる。
華緒は雪野に逆らえないのか、怜治に捕らえられている腕をいとも容易く振り解き、雪野の手に手を伸ばす。
その時、怜治は往生際悪く華緒の袖に手をかけた。そのまま力尽くで引っ張ると、びりと袖が小さく裂ける。
その途端、袖の中で舞っていた桜の花びらが宙に舞い上がった。




