第一八話 追い詰め~脱出
「健ちゃん、駄目だ。音楽室には行けない」
「どうして」
「分からないけど、健ちゃんが図書室に行けなかったのと多分同じ理由だ。俺は音楽室に行くことが出来なかったんだ。それで雪野に捕まった」
そう言葉を交わしている間にも、再び怜治は息切れを起こし始めていた。それは健一も同じだ。息が切れかかっている。いくら走ってもきりがないからだ。
背後を見れば、罅割れた顔の雪野が追いかけてきている。
と、その時突然、健一の視界から怜治の姿が消えた。思わず足を止めると、怜治は渡り廊下にいた。
「こっちだ!」
言って、渡り廊下を駆けていく。
健一も慌ててそのあとを追った。
「どこに行くんだ?」
「分からない。とにかく雪野から逃げないと!」
その言葉を合図にしたように、息は切れかけだったが、二人は更に走る速度を上げた。
そのまま階段をあちこち渡り歩いているうちに、今度は女達の笑い声がどこからともなく聞こえてきた。
けらけらと、きゃらきゃらと姦しい。
けれど、その声がどこから聞こえてくるのか分からなかった。
怜治はそっと廊下を窺い見たが、女達の姿はどこにもない。二人は四階から三階を通り抜けて下りてきたばかりだ。一階の方を健一が階段を覗くも、そこにも人の気配はなかった。
二人は二階の踊り場で、いつどこから誰がやってきてもいいように、息を整えるにとどめた。
学校中をこんなに走り回ったことは未だかつてない。しかも、間延びする廊下を相手にしながら。
全ては夢のなせる業だ。
二、三分ほどそこで呼吸を整えていただろうか。全身汗みずくだ。休んだお陰で呼吸は随分楽になっていたが、女達の笑い声は消えることなく聞こえ続けている。遠くも近くもならない。等間隔の場所から響いてくるのだ。
「くっそ……。月姫と華緒、どこにいるんだ?」
健一が小さくぼやく。
「雪野はどうにか撒けたみたいだけど……」
「だな。でも月姫と華緒がいるんじゃ、迂闊に動けない。どっか行ってくれねぇかな」
健一のその言葉が聞こえたが如く、女達の笑い声が近付いてきた。
一階からだ。そこから階段の方に近付いてくる。
「やばい、逃げよう」
健一が小さく叫んで、足音静かに階段を上り始める。怜治もそれに倣った。
三階まで来て、怜治は健一に声をかける。
「健ちゃん、ちょっと待った」
四階への階段を上ろうとしていた健一が振り返る。
「図書室に行こう。雪野から話聞いたんだ。それに図書室なら、多分、見つからない気がする。ここからも近いし」
今二人がいる階段は図書室に近い場所にあった。人形達が二人を捜している間に、なんとか潜り込めそうだった。
「でも俺、図書室に行けなかったんだぞ」
「図書室は階段のすぐ傍だ。行けるかも知れない」
健一は怜治の言葉に小さく頷いて、怜治と一緒に階段近辺の廊下を窺った。階下からは月姫と華緒の声らしきものが聞こえてくるが、廊下に雪野の姿はない。それを確かめて、二人は図書室に向かった。
辺りを憚りながら図書室の扉を静かに開け閉めする。そのお陰か、なんとか見つからなかったようだ。健一と怜治は同時に溜息を吐き出した。
「俺、図書室に来られたんだな。さっきは全然近付けなかったのに」
「廊下が間延びするなんて、一体どういう仕組みなんだろう」
「夢の出来事だからな、分かんねぇよ。まぁ、それはいいや。取り敢えず、死角になる場所に行こうぜ」
健一は言って、図書室の奥へと移動を始めた。何列も並ぶ書架の間を通り抜けて、一番奥まった場所まで行く。図書室の扉を開けても一目では見えない場所だ。そこで床に直に座り込む。健一の隣に怜治も腰を下ろした。
二人共に暫く口を開かなかった。人形達から逃げ切って、人心地つきたかったのだ。
しかし、その沈黙を破ったのは怜治だった。小さく溜息をつくと、口を開いた。
「健ちゃん、俺達の目な、『月の瞳』って言うんだって」
「『月の瞳』? なんだ、それ」
唐突な怜治の言葉に、健一は怪訝な表情になって鸚鵡返す。
怜治は、うん、と頷き、雪野から聞いた話を健一にそのまま聞かせた。健一と怜治の目が揃うと、人形は完全な人間になれるらしいと。
「それに……これはよく分からないんだけど、あいつら、母さん達の目も狙ってたみたいだ」
怜治自身も思いもよらなかった話をし始めた。
「お袋達? じゃあ、お袋達もこんな目に遭ったってぇのか?」
そこで怜治は小難しい顔になって口を開く。
「はっきりとは分からない。でも、雪野が母さん達の名前を知ってたのは確かだ。文代と菊代の目は駄目だったとかなんとか……。でも何かがあって、母さんと伯母さんは難を免れたんだ」
それを聞いて健一は両膝に両肘をついて手を組むと、唇に押し当てて何か考え込み始めた。
怜治は急に考え込んだ風の健一を不思議そうに見詰めるばかりだった。声をかけても健一は返事もしない。自然と怜治も考え込む風になる。
暫く二人は沈黙を守った。
そらから漸く健一は口を開いた。
「なぁ、怜ちゃん。今日も無事に目が醒めたらさ、お袋達に人形のこと聞いてみねぇか?」
その言葉に俯いていた怜治が顔を上げる。
「え……? 一体なんて?」
「雪月華で怖い思いしたことないか、とか? いや、分かんねぇけどさ……とにかく聞いてみないか? あと、目のことも。正直言うとさ、俺達の目で人形なんかを人間に出来るなんて馬鹿な話、俺はあんま信じらんねぇ」
怜治は思わず考え込んでしまった。雪野は『月の瞳』を手に入れれば人間になれると信じ切っているようだったが、それが本当なのかどうかは分からない。本来から言えば、雪野自身でさえ未経験のはずだ。だから人形のままなのだ。そしてそれを実践しようとして、執拗に自分達を狙ってくるのだろう。
「健……」
健一の名を呼ぼうとした時だった。いきなり扉が大きな音を立てて開いた。人形達のいずれかが現れた。話し声はひそめていたはずだが、外に漏れ聞こえでもしただろうか。
二人は図書室の隅で身を強張らせた。心臓がばくばくと脈を刻み始める。
その二人に気付かずに、侵入者は立ち並ぶ書架の方へと移動してきた。けれど足音はない。それなのに気配はどんどん近付いてくる。
二人は静かに腰を上げ、書架に張り付くように身を隠した。
すぅっと流れるような気配の動きに合わせて、互いに目配せをし合う。
距離が縮んだらすぐに逃げ出そうと。
気配を読みながら、健一は怜治の手首を掴んだ。しかしその手は汗ばんでいる。緊張しているのだ。そのことに、怜治の緊張も一層高まる。
気配がすぐ傍までやって来た時、いきなり健一は走り出した。
怜治も合わせる。
「いた!」
どこかあどけない声が叫んだ。声の主は華緒だ。
「姉様、捕まえて!」
その声が響くのと同時に、月姫が二人の前に立ちはだかる。通せんぼをするように両手を広げていた。思わず健一の足も止まる。
月姫の黒い瞳は相変わらず少しも笑っていないのに、顎が外れたように口だけが笑みの形に開いていた。
「逃がさない。あたくしの目」
笑みを刻む薄い唇から、言葉が零れ出す。そして広げていた両手を健一と怜治に向かって伸ばしてきた。それに伴って、袖の中で舞っていた蝶が胸元にまで移動してくる。一匹、二匹、三匹と、蝶はひらひら薄黄色の振り袖の中で舞っている。その蝶のように、ゆらゆらと月姫の両手も揺れていた。
「私にも目をちょうだい。片方の目がなくても平気でしょう?」
怜治がその声に背後を見ると、そこには薄桃色の振り袖を纏った華緒がいた。こちらも月姫のように両手を差し伸ばしている。この間見た時、この差し伸ばされた手は血で真っ赤に汚れていた。あの時同様、華緒の目は大きく真っ黒だったが、そこに感情を乗せないままに血走っていた。口も大きく、かっと開いている。
二つの人形は手を差し伸ばしたままゆっくりと近付いてきた。
健一と怜治の両脇には机があって、前にも後ろにも、動くに動けない。だからといって捕まるわけにはいかなかった。
健一はおもむろに左脇にある机を足で力任せに蹴倒した。そしてそれを飛び越える。腕を引かれた怜治も慌ててそれに倣い机を飛び越え、人形達が驚きに目を見開いている隙に図書室から一目散に逃げ出した。
「待ちなさい!」
背後から声が聞こえたが、勿論そんなものは無視だ。怜治は健一に手を引かれるまま廊下を駆け抜ける。そして階段まで来た時、駆け下りようとする健一を引き留め、怜治は上を指さした。
「この上は屋上だっ」
小声で素早く告げる。
「おう」
怜治に返し、三段飛ばしで上階へと駆け上った。
四階を駆け抜け、更にその上を目指す。
屋上へと繋がる扉に鍵はかかっていなかった。階下から月姫と華緒の声が聞こえてきたために、扉はゆっくりと開け閉めする。
屋上に出ると、さっきまで学校の中は昼間だったというのに、外は真っ暗だった。怜治が言っていた通りだ。外は夜になっているらしい。しかも外は暗いのに、扉から内側へは昼の光が差している。校内からも外へ向かって昼の光が差していた。
まさに夢の出来事だ。整合性が全く合っていない。
学校の周りにあるはずの家々の明かりも街灯の明かりもなにもなかった。月は昇っているが、細く、明かりとしては心許ない。現実世界で雨が降っていたせいか、屋上は雨が降った跡を残している。
そんな中、まずはと二人は給水塔の陰に隠れることにした。
健一と怜治はそこで乱れた呼吸を整えた。一息に廊下や階段を走り抜けて、くたくただったのだ。それに、未だに月姫と華緒に挟み撃ちされた時の衝撃も残っていた。
正直に言えば、怖かったのだ。さっき感じた戦慄は、忘れようと思っても簡単には忘れられるものではない。彼女達の指一本でも身体に触れていたら、一体どうなっていただろうか。考えたくなかった。
恐怖と疲労から解放されたくて、二人は大きく息をついていた。
暫くそこで息を整えていたが、月姫も華緒もやってくる気配はなかった。無論、雪野も。三体の人形達は、健一と怜治が屋上へ出るとは思っていなかったのだろうか。
ともかく、ひとまずは逃げ切れた。
怜治は給水塔の柱に背中を預けて空を見上げた。校内の光も偽物じみていると思ったが、月も同じだった。それは昨日来た時も感じていたことだ。




