第一七話 瞳の意味
今はまず、女の声を捜さなければならなかった。自身が見つかるのはまずいが、女達が健一を追っているのならば、笑い声が目印だ。耳を欹てながら歩く。その耳に、上履きの音が異様に大きく響いた。自分の小さな足音でも、微かに響く女の笑い声が消えてしまいそうだとさえ思うほどに。
そうして廊下を端から端まで歩いたが、さっきは聞こえていた声はどこからも聞こえてこなかった。そのまま階段までやって来て、怜治は僅かばかり考え込んでしまった。果たして健一はどこへ行ってしまっただろうか、と。
その時ふと、音楽室、と言う言葉が脳裏を過ぎった。
そうだ、音楽室。現実に一番近いかも知れない場所だ。
もしかしたらそこに? と思った。
音楽室は四階にある。怜治は迷うことなく階上へと足を向けた。そして、段飛ばしに階段を駆け上がる。
四階に来て再び辺りを窺ったが、なんの気配も感じられなかった。それをいいことに、今度は音楽室を目指して走る。一刻も早く健一を見つけたかったのだ。
途中、渡り廊下を抜けて特殊教室のある側の廊下へと渡った。そうして一瞬だけ走る足の勢いを殺した瞬間だった。
いきなり背後から拘束されたのだ。抱きかかえられるように、二の腕を完全に押さえ込まれて身動きが取れなくなる。
己の身体を拘束したものを見ると、薄青い振り袖を纏った腕が見えた。着物の袖に金魚が泳いでいる。
雪野だ。
あまりのことに声も出なかった怜治の耳元に、冷たい吐息がかかった。
「どうして名前を偽ったんですの? わたくしは貴方様の名前が知りたいだけですのに」
しんねりとした、まとわりつくような声音だった。首だけを無理にねじ曲げて雪野の顔を目に入れると、真っ黒な両眼は見開かれ、唇は裂けるようにぱっくりと開いている恐ろしい形相だった。
怜治は悪寒を覚えつつも奥歯を噛み締め、拘束を解こうと両腕に力を込めた。精一杯の力を入れたつもりだったが、二の腕を押さえ込まれているために力が入りきらない。
それでもどうにかしてこの拘束を解かなくてはいけないのに、身体に思うように力が入らないのだ。
「離せ!」
遂に怜治は声を上げた。
それに対し雪野は、
「駄目。名前を教えてくださるまで離さない」
冷たい吐息を吹きかけながら言葉を返してきた。
「どうして俺の名前なんか知りたがる!?」
「貴方様の名前が分かれば、貴方様のその右目を手に入れることが出来るからだわ。その片目をいただければ、もう一ついただきますわ。もうお一人の目が手に入れば、わたくし、完全な人間になれますの」
その言葉に、怜治は深く俯いた。俯いて、
「巫山戯るな!!」
頭を思い切り後ろに倒した。後頭部での頭突きだ。
ごっと鈍い音が頭蓋の中に響いたと思うと、目の裏に星が散る。それと同時に雪野の短い悲鳴が聞こえ、拘束が緩んだ。
その気配を怜治は見逃さなかった。全身全霊で雪野の腕から逃れ、走り出す。
廊下は長い。音楽室までまだまだある。
その背後から小さく、「おのれぇ……」と地を這うような声が聞こえてきた。すぐに雪野が追いかけてくる気配がした。だから、ともかく走った。時折背後を見遣ると、雪野は髪をおどろに振り乱して追ってくる。まるで両眼が奈落の底のように真っ黒く見開かれ、そこに吸い込まれそうだ。
怜治はそれに捕まらぬよう、必死で走った。全速力で。
なのにおかしかった。音楽室に近付いているはずなのに、まるで近付かない。恰も廊下が間延びしてしまったかの如く、一向に教室へと届かないのだ。
しかし、確かに前進はしている。中庭を囲む窓は移動しているのだから。それなのに、音楽室には近付けない。
おかしいと思いながらも、暫くそのまま走ったが、徐々に肺が苦しくなってくる。いくら呼吸を繰り返しても、呼吸をしているように思えないのだ。ただ空気の出入りがあるだけで、酸素が取り込まれているように思えない。そのうち、酸欠で目の前が赤黒く変色していった。
あまりの苦しさに、怜治は走りながら目を閉じた。渇き切ってしまった口内で唾を飲み込もうとしても、それすら出来ない。
一度無理矢理に大きく息を吸い込んで再び目を開けた時、目の前に雪野の顔があることに驚愕した。いつもの感情を映さぬ黒い瞳を見開いて、口元には深く笑みが刻まれているあの顔だ。
心臓がばくんと撥ね、吸い込んだ空気を吐き出せなかった。
気がつけば怜治は押し倒され、喉輪を雪野の右手が掴んでいた。身体はくたくたで、撥ね除ける力さえ残っていない。
それよりも、いつの間に捕まったのかが分からなかった。
怜治は確かに雪野の拘束を振り解いて逃げ出したのだ。走った感触も未だに身体中至る所に残っている。
けれど今、こうして捕まっているのは事実だった。自分でも気付かないうちに転んでいたのだろうか。走っている途中で限界でも訪れたか? 心臓は早鐘を打ち、走った証拠を残しているのだから。
よく事態の飲み込めない状態を把握するのに、一、二分かかったかも知れない。あまりにも唐突な出来事に意識が追いつかなかったのだ。
「さぁ、わたくしに名前を教えておくれ」
雪野の低い声が言葉を放った途端、ぐっと喉を掴む手に力がこもった。
怜治の口から僅かに空気が吐き出された。
雪野は裾をはだけて怜治の上に乗り上げていた。白い腿が露わになっているが、それに色気を感じはしない。それどころか、病的な白さに怖気を覚えるほどだ。膝は怜治のみぞおちに深く沈んでいて、呼吸することさえままならない。元々苦しい呼吸が余計に苦しくなる。
「さぁ、名前を仰いな」
言いながら、雪野は左手で怜治の右頬を包み込む。
「言わないと、また顔に醜い傷跡が出来ますわ」
そこで急に猫撫で声を出すと、雪野の親指が傷跡を辿った。そして喉輪を更にきゅっと絞める。
その様に怜治は小さく噎せると、出ない声を無理矢理絞り出した。
「俺……の、目が……なん、だ、って……んだ」
「知らないの?」
雪野は感情のこもらぬ目で一つ瞬きした。それから熟れた唇に弧を描いて、大きく開けると言った。
「貴方様の右目は『月の瞳』というの。月の精を吸い込んで、魂宿ったものに生命を与えてくれるものなのですわ」
「い、のち……?」
「そうだわ。わたくし、人間になりたいの。せっかく、魂を手に入れたんですもの。でも……」
そこまで言って、急に雪野は表情をなくした。笑みを刻んでいた唇も引き結ばれる。
「お婆様はくださらなかった。文代と菊代の目も駄目だと言われたわ」
「かあ……さ、ん」
怜治がそう言った途端、でもねぇ、と雪野は再び口元をにやぁと笑ませた。
「今度は貴方様達がいるもの。今度はお婆様も駄目だとは仰らないわ。だから貴方様の右目、くださらない?」
言って、雪野が身を乗り出してきた。その拍子にみぞおちに膝が更に深く食い込んだ。
怜治がごほっと噎せる。
雪野はそんな怜治を慈しむように頬を寄せてきた。
「わたくしの肌、冷たいでしょう? 息も。けれどね、貴方様の目があれば、わたくしにも温かな血が流れるの。そしてもう一つの目も手に入れられれば、その時こそ人間になれますの」
「冗、談じゃ、ない……誰、が名前……言う、かよ」
怜治のその言葉に雪野は起き上がると、いきなり横っ面を張った。
「強情な子だわ」
「お前はしつけぇんだよ!」
突然男の声が響き渡り、その声に振り向いた雪野の顔面を椅子が襲った。がつっと鈍い音がして、怜治の上にのし掛かっていた圧がなくなる。
「怜ちゃん、大丈夫か!?」
健一が椅子で雪野を殴ったのだと知れたのは、健一に引き立たされてからだった。
急に呼吸が楽に出来るようになって、気管に入り込んだ酸素が怜治を噎せさせた。その背中を健一がさすってやる。
「健、ちゃん……今まで、どこにいた?」
ぜいぜいと息を切らしながら問いかけた。
「廊下を彷徨いてた。図書室に行こうと思ってたんだけど、いくら廊下を歩いても走っても辿り着けなかったんだ。それで音楽室に行ってみようと思ったらさ、怜ちゃんが襲われてて」
「そうか……」
「危なかったな……って言うか、まだ危ない。こんな女がいるんじゃ……!」
その時、雪野がゆっくりと起き上がった。髪はばさばさに乱れ、その合間から感情を表さぬ硝子玉の目玉が覗いている。自分を殴った健一を見上げているようだった。
「よくも、わたくしの顔を……」
そう呟いた途端、雪野の顔から何かがぱらぱらと零れ落ちた。そのまま、ばっと顔を上げた瞬間、雪野の顔が全て露わになる。
雪野の顔が罅割れていた。怪我をしているのではない。文字通り、椅子で殴られた場所から顔に罅が走っているのだ。血は一滴も流れていない。その代わりに罅割れた皮膚が細かく砕けてぱらぱらと零れ落ちていた。
「なんだ、こいつ!」
健一が悲鳴じみた声を上げた。それと同時に、怜治は健一の腕を素早く引っ張って走り出した。そうして走りながら、
「あいつは人形だ。だから顔が罅割れて……壊れた」
雪野の顔を思い浮かべながら、怜治は咄嗟に思いついたことを口にした。
だがそれは間違いではない。的を射た説明だった。
確かに雪野の顔は壊れたのだ。二度と修復できないほど無惨に。
雪野の顔から剥がれたのは漆喰だった。椅子で殴られた時に、肌の役割をしていた漆喰に亀裂が入って零れ落ちたのだ。
その雪野を置いて走り出した二人だが、怜治が走っていた時と同じように廊下が間延びしていた。いくら走っても目的地に辿り着かない。近付くことすら出来なかった。




