第一六話 夢の待ち合わせ
食事を終えて二人は今夜もやってくるだろう夢に警戒心を抱きながら、部屋でテレビを見つつ時間を潰していた。それでも十一時に差し掛かる頃にはテレビを消した。健一はスリープモードになっているパソコンを立ち上げ、昼間聴いていた洋楽の続きを流し始める。
生温く湿気った重い空気が扇風機から送られてくる中で、怜治はなんの気なしに布団に寝そべった。別に眠るつもりはない。ただ、身体が怠いのだ。今夜はもう本に目を通す気にもならない。それは健一も同じようだった。机前のゲーミングチェアにぐったりと座り込み、背凭たれに凭れている。
「あと一時間か、二時間後か……」
健一が呟く。
夢の始まる時間のことだ。
「いい加減疲れてきた。本当にいつまで続くんだろうな」
「そんなこと言ったって……なんとか解決策を探さなきゃならないよ」
健一のぼやきにも似た言葉に怜治が返す。
「せめて諦めてくれたらなぁ」
「怜ちゃんを襲っておいて、今更諦めると思うか?」
椅子の軋みも上がらぬまま、健一が椅子ごと振り返る。
「一体俺達のこの目に何があるんだ? それさえ分かればな」
言いながら健一は自分の左の目元を触る。
それを受けて、
「ただ色が薄いだけじゃないのかな? 母さんも同じ目だけど、特に話を聞いたことないしな。ただ、婆ちゃんからの遺伝だってことしか知らない」
怜治も自分の右目を触り、その下につけられた傷を辿った。
「なんなんだろうな、俺達の目」
「果たして婆ちゃんさえ知ってたのかどうかって話だな」
どこか投げ遣りに健一が言う。
そこで怜治がむくりと起き上がり、とんでもないことを言いだした。
「いっそ聞いてみるか。俺が雪野でも誰でもいいから捕まって」
「何言ってんだ、怜ちゃん」
がたんと椅子から立ち上がる。
そんな健一を見遣って肩を竦めた。
「やっぱり、駄目かな?」
「当たり前だろ! 馬鹿なこと言うな」
「ごめん。悪い冗談だな」
「冗談にもなってないぞ」
言われて、改めて怜治は目の下の傷に指を這わせる。
その仕草を見止めて、
「傷、痛むのか?」
今度は囁くように聞いた。
「いや、痛くない。……思い出すんだ。雪野の目を。硝子玉みたいになんの感情もないのに……両目を見開いて、血走らせて、俺の名前を知ろうとした時のあの目」
あれはただことじゃなかった、と付け加えるように呟く。
最後の呟きに健一は言葉を詰まらせかけたが、敢えて聞いてみた。
「そんなに気になるのか?」
「正面切って話してみたいくらいには」
「人殺しなんだぞ? 怜ちゃんだって、何されるか分かんねぇ」
「でも……」
そこまで言って、怜治は言葉を切ってしまった。
それがなんだか恐ろしいことのような気がして、健一は怜治に念押しした。
「もし、また学校に飛ばされたら、ちゃんと図書室に来るんだぞ」
「大丈夫。ちゃんと行く。俺だって怖いから」
「無茶しねぇって約束できるか?」
その言葉に、怜治はふと健一を見た。見返された健一は真剣な顔をしている。
それに対して怜治は強く頷き返した。
「なら……いいけどさ」
溜息混じりに言って、椅子に腰掛け直す。そのまま健一はパソコンを弄り始めた。すると、それまでかかっていた曲が突然止まり、別の曲が流れ出す。
ジャズだった。
怜治は健一がジャズを聴くことが意外で声を上げた。
「健ちゃん、ジャズなんて聴くのか?」
それに振り向くと、苦笑気味に返す。
「落ち着かない時、時々な」
その言葉に眉を曇らせた。
「やっぱり落ち着かない?」
「まぁな。昨日ってぇのか今朝ってぇのか……。とにかく、突然学校になんか飛ばされただろ? 今夜だってどうなるのか分かんねぇ。落ち着かないし、不安だ。いつまでこうして喋っていられるのかも分かんねぇんだしな」
怜ちゃんは? と聞かれて、怜治は言葉に詰まった。思わず俯いてしまう。
正直、不安も恐れもあるが、あの人形達に質したいことがあるのも事実だ。どうして自分達の目に執拗なまでに執着するのか。そして、もし目を手に入れたら彼女達はどうなるのか。分からないことだらけなのだ。だからそれが知りたかった。知ってどうするかと問われれば、その答えはない。ただ、知りたいと思う気持ちは多大にあった。
暫し沈黙して、顔を上げる。
と、そこに健一の姿はなかった。それどころか健一の部屋ですらなくなっている。そこは埃っぽく、薄暗い場所だった。
怜治が座っているのは、少々湿り気のある体育マットの上だった。
目をしばたたかせて辺りを見回す。
また飛ばされた、と頭の隅で言葉が上がった。
「何が一体どうなってるんだ……。なんだって言うんだよ」
知らず、怜治は言葉を吐き出していた。
今いる場所に見覚えはないが、ロッカーが並んでいる上にマットまであるところから、どこかの運動部の部室だということが分かる。
服を見下ろせば、また制服になっていた。
怜治は生唾を飲み込むと、マットの上から立ち上がり、そろりと扉に近付いてみた。扉に鍵はかかっておらず、そっと力を入れれば、かららと軽い音を立てて開く。
扉を薄く開け、辺りの様子を窺った。
人の気配はない。しんとしている。
なるべく静かに扉を開け、部屋のプレートを見上げると、体操部と書かれてあった。怜治はそれを見て、「あぁ、なるほど」と思う。室内に埃とはまた違う、そこはかとなく甘い匂いが漂っていた気がするのだ。体操部は女子の部活動だからだ。彼女達の匂いなのだろう。男子だけの部室とは匂いが違う。頭上のプレートから向こうのプレートには、柔道部と書かれていた。
と言うことは、ここは校舎から渡り廊下で繋がっている運動部の部室だけが存在する一棟だ。
怜治は音をなるべく立てないように、そっと扉を開いて廊下に出る。健一との約束を思い出して、足音を立てないように出来るだけ静かに走った。
確かに人形達には会いたい。会って話を聞いてみたかった。
しかし、今捕まるわけにはいかないのだ。せめて健一と合流してからだ。
ここへの渡り廊下は二階にしかない。階段を駆け上がって、渡り廊下から本校舎に入る。ここからだと図書室までかなりの距離があるが、雪月華に遭遇せずにいられるかどうかが問題だった。
すぐ傍の角を曲がると、階段と真っ直ぐに伸びる廊下が続いている。その途中に渡り廊下が存在するが、昨日のように渡り廊下に誰がいるかも知れなかった。けれど、下手に時間をかけるわけにもいかない。まずは三階へ上がらなければならなかった。図書室があるのは三階だ。しかも、ここからでは真逆の位置にある。つまり、かなり離れた場所に飛ばされたということだ。
怜治はまず階段を駆け上がった。それから廊下を盗み見る。
辺りにはやはり人の気配も何者の気配もない。それでも辺りの気配を窺いながら一歩を踏み出した。
途端、女の笑い声が響いた。
──見つかった!?
そう思うが、声は近付いてこない。むしろ遠くへ消えていく。
それにほっとしながら、足音を立てないように小走りに駆け出した。しかし渡り廊下に差し掛かるときには立ち止まった。そこに誰かいやしないかと。
が、幸いなことに誰の姿も見ることなく図書室まで辿り着くことが出来た。
その時、また女の笑い声が聞こえてきた。さっき聞いた声とは違うが、今度はこっちに近付いているようだった。辺りを見回すが、姿は見えない。怜治は急いで図書室の扉を開けると中に滑り込み、静かに扉を閉めた。
扉を閉めてそれに凭れ掛かると、はぁ、と大きな溜息が独りでに出た。そのままずるずるとへたり込みそうになったが、それを堪えてそっと健一の名を呼んでみた。
それに返る声はない。図書室の中は静まり返ったままだ。
「健ちゃん、いないのか?」
声を潜めたままもう一度声をかけるが、やはり反応はない。誰もいないようだった。
怜治は足に力を入れると、図書室の一番奥へと向かった。雪月華が来ても一目では分からないような書架の陰に怜治は腰を下ろした。あとは健一が来るのを待つだけだったが、さっきから廊下で聞こえていた女の笑い声が気になっていた。
彼女らに足音はない。地を滑るように移動する。少なくとも雪野はそうだった。昨日、彼女の足音一つ、怜治は聞かなかった。それなのに、物凄いスピードで追い縋ってきたのだ。
それを思い出し、ぞっとする。
一つ身震いすると、それを紛らわせるように、手近にあった一冊の本を手に取った。誰の、なんという本かも確かめずに手に取る。そしてページを捲って驚いた。
夢の中だからなのか、紙に印刷されている文字が、それぞればらばらに泳いでいるのだ。文章を追うことが出来ない。否。文章にすらなっていない。ページの中で泳ぐ文字が、雪野の振り袖の中で泳ぐ金魚を連想させて、慌てて本を閉じる。そして本を書架に乱暴に突っ込んだ。
怜治は両手を組み合わせて、早く健一がここに来ることを願うばかりだった。
何分が過ぎただろう。五分か、十分か。それとも十五分は経っただろうか。待ちに待って、もう結構な時間待っている気がしていた。それなのに、健一は一向にやって来ない。
怜治の胸中は不安で満たされていた。
もしかしたらさっきの笑い声は健一を追いかけている時の笑い声ではなかったか、と思い始めたのだ。
女達が三人一組で健一を追い詰め、名を問い詰め、目を抉り出そうとしているのでは? と。
あり得ない話ではない。いくら待ってもここに来ないのは、追われているからなのかも知れなかった。来たくても来ることが出来ないのだ。
怜治は覚悟を決めて図書室から出ようと思った。まずは、扉の前で外の様子を探ってみる。しんとしていた。今はもう、女の笑い声一つ聞こえてこない。それを確かめて、ゆっくりと静かに扉を開けてみる。
やはり誰の姿もなかった。
怜治は図書室の扉を閉めて、廊下を歩き出した。




