第一五話 見えてきたもの
朝、怜治が顔に傷をつけてリビングに行った時は、母の菊代も伯母の文代も大層驚いていた。しかし怜治は二人に、「顔を引っ搔いた」とだけ簡単に説明しただけで、傷薬も受け取らなかった。放っておけば治ると言って。
だがそれ以上に、健一も怜治も朝食にほとんど手をつけなかったことが母親達を更に驚かせていた。昼になっても二人の食欲はないままだった。朝食同様、全く箸が動いてくれない。
「二人共、どうしたの? 全然食べてないじゃない」
文代が怪訝そうに声をかけてくる。
「……夏バテかな。あんま食べたくねぇんだ」
健一がどこか突っ慳貪に返す。
それを聞いて、
「怜治もなの? 昨日まではなんともなかったのに」
菊代が怜治に声をかけた。
「うん。食欲ないな。……ごめん。ごちそうさま」
言って、箸を置いて立ち上がるのに続いて、健一も「ごちそうさま」と小さく呟いて席を立った。
母親達は顔を見合わせるばかりだったが、健一も怜治もそれに構う余裕はなかった。朝、歯磨きと洗顔に立つ折りに、忌まわしい人形に触るのも嫌だったが、それでもなんとか木箱にしまって、物置部屋で人形の箱を押し入れにしまう段に二言三言、言葉を交わし合うだけで精一杯だったのだ。そのあと、会話らしい会話はなかった。
二人共すっかり憔悴していた。夢のことだけでも精一杯だったのに、人形までここに帰ってきたのだ。
パソコンから流れる洋楽を耳にしつつも、何度も部屋の中に溜息が落とされる。もう数え切れないほど二人は溜息をついていた。口から漏れるのはそれ以外にない。胸の内では言葉は幾度も持ち上がったが、それらを口に出して言えないのだ。
何を言っても、それは悲観的にしかならなそうで怖かった。
だから黙っていたのだ。
今日は窓から入ってくる風が少なかった。その代わりとばかりに扇風機が首振りをしながら、交互に二人に風を送る。だが、その風も酷く生温い。
怜治は風を送ってくる扇風機をぼうっと見ながら、続いて机の上に置いてある目覚まし時計に目を移した。デジタル表示の数字が午後二時を示した時、思い切って口を開いた。
「健ちゃん、外いかないか?」
その声に、ベッドの上で大の字に寝そべっていた健一が怜治に顔を向ける。
「外?」
それに頷いてみせる。
「家で籠もってるより、ずっとましだと思うんだ。このまま夜になったら、また夢を見る。次の場所がこの部屋の中なのか、また別のところなのか分からないけど、ちゃんと考えておいた方がいい」
「考えるって何を」
怜治は真剣な顔で、
「少なくとも、前に考えたことは正しかった」
名前のことだよ、と言って、きっぱりと顔を上げると健一を見遣る。
「あぁ、怜一って名乗ったことか」
それに対して、こくりともう一度頷く。
「朝、健ちゃんが言ってただろ? 名前を教えたら、それは目をくれてやる了承の意味になるって」
「あぁ、言った」
「あの時……、雪野に追い詰められた時、あいつは執拗に俺の名前を聞いてきた。目を抉るならいくらでも出来たはずなのに、名前を言えって迫ってきたんだ。顔にゆっくりと爪を立てながら」
健一は怜治の頬についた傷を見た。
怜治は右目の下の傷を指先でなぞる。
「あいつ、俺の首を押さえ付けてきた。いや、絞めてたって言った方が正確かな。なのに、俺が怜一って答えた瞬間、弾き飛ばされた。まるで、偽の名前に拒絶されたみたいに。それって俺の『真名説』と健ちゃんの偽名を名乗るってことと一致してる」
そこで健一がむくりと起き上がった。
「やっぱり、本当の名前を知らないと手出しできねぇのか?」
「そうはっきりと言えるほどの確証はないけど、状況的に考えてそうなんじゃないかって思う」
それを聞いて健一は考え込む風に目を閉じたが、やがて目を開くと、
「よし、外行こう。怜ちゃんの言う通り、こんなところで考え込んでてもいい知恵でねぇ」
ベッドから飛び降りる風にして言い遣った。
パソコンをスリープモードにして、二人揃って公園まで出掛けた。
外は生憎の曇天で、湿気のある重く生温い風が僅かばかり吹いているだけだった。それでも公園では子供達が賑やかしく遊んでいる。
それを横目に、二人はコンビニで買ってきたジュースを手にベンチに座った。そして揃って冷たく冷やされた飲み物を喉に流し込む。冷たい飲料が喉を通っていくのは気持ちがよかった。それまで抱え込んでいた緊張と不安が、僅かばかり軽減される。
しかし、それも長くは続かなかった。怜治が口火を切った途端、また重々しく心にのし掛かってきたのだ。
「俺達、いつまで夢に引き摺り込まれるのかな?」
それを聞いて、健一は俯いた。
「健ちゃんの家にいる間だけなのか、それとも、俺が家に帰ってもこのまま続くのか」
「分かんねぇ……。分かんねぇけど、あいつらは俺達の目が欲しいんだよな?」
「うん」
怜治はペットボトルをぎゅっと握り込んだ。そして言う。
「でも名前を教えない限り、俺達からは奪えない。健ちゃん、絶対に名前を知らせちゃ駄目だ。どんなことがあっても」
それに対して、健一は無言で頷く。頷いて、
「今日、俺達、音楽室に入ったところで目が醒めたよな?」
確かめるように口にする。
「ん? うん」
「だったら、今夜からずっと音楽流しておく。もしまた学校に引き摺り込まれたら、音楽室に逃げ込もう」
「……学校か」
ぽつりと呟いた怜治に、健一は横目でちらと見た。
「どうした?」
「いや、うん……。本当に次も学校なのかな、って思って。もしかしたらまた違う場所かもって……」
どこか考え込む風の怜治を、今度は健一が真正面から見遣る。
「言っただろ? 華緒の言葉」
言われて怜治の頭の中に、『ここに引き込んだのも私たちの力じゃない』と言う言葉が過ぎる。それは健一から聞かされた言葉だ。華緒がそう言ったのだと。
それは『学校』という場所に引き込んだという意味にとれる。だから健一が次にまた二人が引き摺り込まれる場所が、家でなければ学校だと考えるのは不思議なことではない。
「怜ちゃん、今は考えられることを考えよう。やられっぱなしで振り回されるのだけは嫌だからな、俺は」
「それは俺だって同じだよ」
言い切って、怜治もまた健一を真っ向から見据える。
それを目にして、健一は深く頷いた。
「ともかくだ。音楽室からキラー・ビーの曲が聞こえてきたってことは、なんでか知らねぇけど、現実と繋がりやすいのかも知れない。だったらそこが脱出口だ。現実で音楽を流しておけば、またきっとそこから出られると思う」
「上手くいくかな?」
「やってみないと分かんねぇ。それから、集合場所も決めておこう。……まぁ、俺が閉じ込められたみたいに、どっちかがどこかに閉じ込められたら終わりだけどな」
怜治はその言葉に、健一から数瞬目を逸らした。が、逸らした目を元に戻すと、
「それこそ、音楽室がいいんじゃないか?」
そう言ったが、
「いや、それはやめておいた方がいい。音楽室は最後の砦にとっておこう。どうにもならなくなった時に逃げ込む場所だ」
健一は否定した。
「じゃあ、どこがいいかな? なるべく隠れられる場所がある方がいいと思う」
そこで健一は、う~ん、と唸った。暫く唸り続けて、はっとしたように怜治を見遣る。
「図書室は?」
「図書室……。そうか、あそこなら本棚があるっ。隠れられるな」
僅かばかり元気の出た声で応えた。
「今夜もまた学校だったら、図書室で落ち合おう。俺の部屋じゃないんなら、またばらばらにされんだろうからな」
二人は真剣な顔で頷き合った。
それから暫くの間、会話はなかった。ジュースのペットボトル片手に、二人は子供達の遊ぶ姿を見遣っていた。
そんな中、大粒の雨滴がばたばたと落ち始める。さっきから妙に重く湿った生温い風が吹いていると思ったら、雨が降る前兆だったようだ。
「雨だ。帰るか」
健一が言った途端、ざあっといきなり雨脚が強くなった。いや、強くなったと言うよりも、いきなり土砂降りになったのだ。言葉通り、バケツをひっくり返したように。御陰で雨滴が地面で撥ね飛び、途端に足下は泥だらけになる。道路でも雨滴が大きく撥ねていた。公園で遊んでいた子供達も、わっと蜘蛛の子を散らすように姿を消してしまう。
健一と怜治も慌てて家に帰ったが、その時には頭から足の先まで全身ずぶ濡れになっていた。帰ってきた二人の姿を見た文代が、風邪を引いては大変だと急ぎ風呂を沸かしてくれたほどだ。
突然の豪雨は午後十時頃まで続いていたが、十時過ぎには小雨程度にまで収まっていた。
夕飯には相変わらず食欲のない二人にあわせて、これなら食べられるだろうと、冷や麦にしてくれた。健一も怜治もいまいち食指が伸びなかったものの、何も食べないのは親に心配をかけるからと、なんとかそれを口にしていた。




