第一四話 真名
「どこにいるのかしら?」
月姫が声をかけながら体育倉庫内に入ってくる気配がした。それに引き続き、もう一つ別の気配もする。多分、華緒だ。二人の気配は扉付近にあった。このまま飛び出して捕まるわけにはいかなかったが、いつまでもじっとしているわけにもいかない。今なら二人の隙を突いて弾き飛ばせるのではないかと頭のどこかで思った。
緊張のために荒くなりそうな息を極力抑えて、静かに深く呼吸する。身体も震えたが、それも無視した。
「姉様、ここに本当にいるの?」
華緒が問う。
「よく聞いてごらん。息をする音がするから」
その言葉にはっとして、鼻と口を両手で覆って息を止めた。
健一が呼吸を止めたことによって、倉庫内はしんとしている。
「……そんな音、しないわ」
華緒が不貞腐れたように言い遣る。
「おかしいわ。だって、震える呼気が聞こえたもの」
「姉様の聞き違いじゃなくて?」
そうしている間にも息がどんどん苦しくなってきた。心臓は早鐘を打ち、身体は酸素を求める。
もう、今しかないと思った。
健一は呼吸を再開したのと同時に飛び出していた。
蝶が舞う振り袖と桜が舞う振り袖を確かに目にしたが、それも一瞬のこと。その二つの舞いに向かって健一は突進していった。
不意を突かれて、女二人は弾き飛ばされた。女達の短い悲鳴と、ばたばたと倒れ伏す音が背後から聞こえ、健一は一目散に倉庫と体育館を走り抜ける。
校舎へと続く渡り廊下を抜けて、上階へと続く階段までやって来た。今はとにかく怜治を捜すために階段を駆け上がった。月姫の言葉が本当なら、怜治も校舎の中にいるはずだからだ。一番いそうなのは教室だ。
階段を駆け上がり、廊下を走り抜けて怜治のクラスまでやって来た。扉を乱暴に開け放つと、怜治の席に本が置かれているのを見つけた。教室に入り、席に近付いて置かれている本を見ると、それは部屋で怜治が手にしていたものだった。それを確かめて、確かに怜治は校舎内にいるのだと悟る。
だが、一体どこに?
一応、健一は自分のクラスも覗いてみたが、そこにもいない。
もう一度廊下に出て、上がってきた階段とは反対側にある階段を下りていった。そのまま一階まで下りれば、すぐに保健室がある。そこなら内側から鍵がかかるはずだった。それを思い出して、一階まで下りた。
健一は一階まで下りて、一応辺りを警戒する。月姫と華緒が彷徨いているかも知れないからだ。しかし、辺りはしんと静まり返っている。彼女らが身に纏っている振り袖の影もない。
それを確かめて保健室の前まで来たが、扉が開きっぱなしになっていることに気付いた。
中をそっと覗くと、ベッドを囲っているカーテンはカーテンレールの半ばまで引き千切れて、ベッドが横倒しになっているのが目に入る。
それを見止めて慌てて中に入り、倒れているベッドに近付くと傍に血が数滴落ちているのに気付いた。
その有様に、怜治と雪野が争った跡だと理解するのに一秒とかからなかった。
「怜ちゃん……」
思わず声に出ていた。
もう月姫と華緒に見つかることさえどうでもよくなっていた。健一は怜治の名を叫びながら廊下を、階段を駆けた。隠れられそうな場所の多い特殊教室を中心に捜し回る。
そうして一つのことに気付いた。
本当の校舎なら、常にはかかっているはずの特殊教室の鍵がどこもかかっていないことに。体育倉庫は例外としてもだ。
同時に閃くことがあった。屋上へ続く扉はどうなっているのかと。普段なら開いていないが、どの教室の鍵もかかっていないのであれば、屋上へも行けるのではないかと思ったのだ。
それに気付いて、健一は屋上に続く階段へ向かった。
けれど、その階段前まで来て健一は逃げなければならなかった。
華緒がいたのだ。
黒い硝子玉のような瞳が健一を映し、唇が裂けるように笑みの形に開く。そして桜の花弁が舞う袖を翻して襲い掛かってきたのだ。
健一はその場から一目散に逃げ出した。身を翻し、来た道を逆戻りする。背後からはきゃらきゃらと笑い声が響いてきた。
華緒の笑い声だ。
それは実に楽しそうな笑い声だった。獲物を見つけた喜びに満ちている。
健一は廊下を駆けながら、頭の隅でこの夢から醒めるにはどうしたらいいか考え始めていた。これはどこまで行っても夢でしかないのだ。華緒から完全に逃げ出すためには目を醒ますほか手はない。
階段を駆け下り、廊下を抜け、また階段を駆け上がる。
そうして廊下を曲がった時、聞き覚えのある音が耳に届いた。それは音楽だった。廊下を闇雲に突き進むと、その音楽は徐々に大きくなってくる。
間違いなくキラー・ビーの楽曲だ。
ふと、健一の目に音楽室のプレートが飛び込んできた。今、彼の耳に聞こえている曲はそこから流れているようだった。
背後を振り返ると、まだ華緒が笑いながら追ってきていた。それでも音楽室に飛び込む。
そこがゴールのような気がして。
後ろ手に扉を閉めた瞬間──。
「健ちゃん!」
目の前に、右目の下──頬の辺り──から一筋の血を流した怜治の顔を見つけた。
いきなり現れた怜治の姿に、健一は大きく息を吸い込んで、咄嗟にその両腕を掴んでいた。
「健ちゃん、大丈夫か?」
言う怜治の表情は必死だった。
「怜ちゃん! 今までどこに……」
そこまで言って、健一は自分の格好に気付く。もう制服姿ではなかった。Tシャツと短パン姿だ。
そして辺りを見遣ると、そこは自分の部屋だった。スピーカーからはキラー・ビーの曲も延々流れている。リピートにしておいたままだ。
肩には怜治の指が深く食い込んでいた。
「目が醒めたか? 大丈夫か?」
怜治が心配そうに問いかけてくる。
あぁ、と溜息とも吐息ともつかない声を出し、健一は幾度か瞬きを繰り返した。その時になって始めて気付いたが、健一はベッドの上に仰向けに倒れていたのだ。
「あ、れ……?」
怜治の腕を掴んでいた手を離して、起き上がる。
改めて怜治の怪我を目に止め、
「俺は大丈夫だ。怜ちゃんこそ、目の下……」
真一文字に引っ搔かれたような傷口から、一筋血の流れる跡を指摘した。
そこで怜治はようやく健一の肩から手を離し、目の下へ指を這わせる。
頬を汚す血がまだ生乾きなのか、怜治の手まで汚した。指先で血を擦り合わせながら、
「雪野にやられたんだ」
怜治は何を思い出したのか、忌々しげに呟く。
「怜ちゃん、眠ってる間に一体何があったんだ?」
それを受けて、怜治は雪野に追われたことを話し出した。
健一に時刻を告げられた直後、学校の教室にいたこと。健一を捜している最中に雪野に見つかり、保健室に隠れたが、雪野に追い詰められたこと。そこで雪野が襲い掛かってきたことを。
「雪野に見つかって、襲い掛かられたんだ。物凄い力で押さえ付けられて……右目を弄りながら、俺の名前を聞いてきた」
「それで?」
勢い込んで健一は聞き返した。
「なんか、凄くしつこいんだよ。お前の名前を教えろって。だから……ほら、健ちゃんが言ってただろ? 名前、偽ろうって」
それに対して健一は頷いた。
「首を押さえ付ける手をどうしても外せなくて……、そのうち頬に爪を立てられて、そのまま目まで抉り取られそうだったから、言ったんだ。雪野に『怜一』って。そうしたら、雪野が吹っ飛んだ」
「吹っ飛んだ?」
「うん、まるで電流でも流されたみたいに弾かれて、壁まで吹っ飛んだ」
健一はごくりと唾を飲み込んで、更に聞いた。
「それで? それからどうしたんだ? そのまま目が醒めたのか?」
怜治は目を瞑って首を振る。
「目は醒めなかった」
大きく息を吸い込むと、瞑った目を開けて続けた。
「俺、とにかく雪野から逃げ出すのに必死になって、屋上まで行ったんだ」
「屋上に行ったのか?」
「うん。……でも、変だった」
「何が?」
「屋上に出たら、外が真っ暗だったんだ」
それを聞いて、健一の眉が怪訝そうに寄せられる。
「とにかく真っ暗で……夜なんだよ。学校の中は明るかったのに。星も月も出てた」
「どういうことだ?」
「分からない」
言って、首を振る。
「でも、夜だった。で、俺、暫く屋上に隠れてたけど、そのままもう雪野は出てこなかった。暫く待ってみたけど、誰も来ないから、いるかどうか分からなかったけど、健ちゃんを捜すのにまた校舎の中に入ったんだ。そうしたら、また昼間に戻ってた」
夢だから整合性が合わないのは仕方がないけど、奇妙だったな。と怜治は語る。外は夜なのに、学校内は昼間だったというのだ。
不可思議そうに言うが、更に怜治は続けた。
「屋上から中に戻ったら、今度はギターの音が聞こえてきたんだ。ほら、キラー・ビーのギター。最初はどこから流れてくるのか分からなかったけど、音を辿っていったら、音楽室から聞こえてきて、慌てて中に入ってみたら、そこで目が醒めた」
「音楽室……」
考え込むように健一は呟いた。
「うん、音楽室。それで目が醒めて、健ちゃんを見たらベッドの上に倒れてたから、急いで揺さぶってみた。……もし健ちゃんの目が醒めなかったらどうしようかと思ったよ」
瞬間、怜治は泣き笑いの顔になった。
「俺はすぐに目を醒ましたか?」
「うん、声をかけたらすぐ」
「そっか」
言って、溜息を落とした。
「健ちゃんこそ、どうしてたんだ?」
怜治は心配そうに訊ねた。
「夢でどんな目に遭ってた? 夢、何か見たんだろ?」
「俺は……」
怜治に促されるままに夢の中でのことを語った。気付いた時には体育倉庫に閉じ込められていたことから、どうやってそこから逃げ出したか、保健室の有様を目にしたことも全て。そして、怜治と同じように音楽室から音楽が聞こえてきて、中に入ると目が醒めていたと。
「なんで今日は学校だったんだろう……。それも二人揃って。しかも、ばらばらな夢だ」
怜治は怪訝そうに口にする。
「それは……分かんねぇけどさ、華緒が妙なこと言ってたな」
「妙なこと?」
僅かばかり考え込む風にしてから健一は言った。
──せっかく三人揃ったんだもの。ここに引き込んだのも私たちの力じゃない──
その言葉を。
「なんだ、それ?」
「俺にもよく分かんねぇよ。ただ、華緒がそう言ってたんだ」
それを耳にして、怜治は横目に目を眇めて口を開いた。
「それって、あの三人が揃ったことで俺達を学校に引き込むことが出来たって意味?」
「……多分な。なんだって学校だったのかは分かんねぇけど」
「ともかくとして、俺達は引き摺り込まれた。あの三つの人形の力ってやつで。そして引き摺り込んで、逃げ回る俺達を追い詰めて……遊んでるのかな?」
怜治は自分でも嫌なことを口にしていると思った。それでも、そんなこともあるかも知れないと思った。
それを肯定するように健一も口を開く。
「華緒だけど、俺を見つけて凄く嬉しそうだった。笑いながら追いかけてきやがった」
「笑いながら?」
「うん……。怜ちゃんの言ってる、遊んでるって表現、あながち間違いじゃないのかも知れねぇな」
答えて、あの時の華緒の表情を思い出し、粟肌を立てた。
それは怜治も、全く同じ思いだった。雪野が自分を見つけた時、彼女は硝子玉の瞳を見開いて笑みの形に口をぱっくりと開いていたのだ。その表情のまま怜治を追いかけてきた。カーテンレールに雪野の顔を見つけた時も全く同じ表情をしていた。それを思い出して、思わず自分の腕を自分で抱いていた。
それぞれに嫌な思いをしていたが、健一は更に嫌なことを言わなければならなかった。
「なぁ、怜ちゃん」
「うん?」
「確かさ、殺された坊さんの名前だけど、慈海って言ったよな?」
「そうだよ」
「じゃあ、やっぱりそうなんだな」
「何?」
怜治の問いに、健一は一度何かを納得するように頷いた。
華緒が慈海の名前を知っていたことだ。そして雪野が怜治の名前を知りたがっていたこと。偽の名前を告げた時、雪野は拒絶されるように弾き飛ばされた。
つまりそこから導かれる解は、己の名を知られると彼女らに自分達の目を抉り出すことを許してしまうということだ。
それをそのまま健一は怜治に話して聞かせた。
「それじゃあ、健ちゃんの案がなかったら、今頃、俺、目を刳り抜かれてたってことか?」
「実際、坊さんは名前を知られて、華緒に目を刳り抜かれてる。華緒も坊さんの名前を知ってた。……そう言うことだろ?」
「じゃあ、健ちゃんは俺の恩人だな」
怜治が静かに言って、二人ぞっと身震いをしたその瞬間、目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。
揃って飛び上がり、机の上を見る。
そして凍り付いた。
目覚まし時計の隣に、寺に預けてきたはずの人形が置かれてあったのだ。
雪月華。
ご丁寧に木箱も置かれている。




