第一三話 学び舎の恐怖
怜治が驚いて辺りを見回してみると、そこは学校の教室の中だった。
がたっと椅子を鳴らして立ち上がり、自分の姿を見れば身に纏うは制服だ。寝間着代わりのTシャツに短パンという姿ではない。さっきまで聞こえていたキラー・ビーの曲も全く聞こえなくなっている。あたりはしんと静まり返っているばかりだ。
「なんだ、これ……?」
呆然として辺りを眺めていたが、手にしていた本を不意に机に叩き付けるように置くと、慌てて教室を飛び出した。クラスを示すプレートを見れば、それは怜治のクラスを示している。
こんなことがあるわけがなかった。つい今し方まで確かに健一の部屋にいたはずなのだ。それを思うと同時に、夢に引き摺り込まれた、と思った。思考がどんどん混乱していく。夢とは言え、こんな場所に放り込まれるとは思わなかったのだ。さっきまで一緒にいた健一の姿を捜して、彼のクラスまで走っていって中を覗くが、そこも無人だった。誰の姿もない。
それどころか、辺りには人の気配すらなかった。
「健ちゃん! 健ちゃん!」
廊下で健一の名を呼ぶが、それに応える声はない。
不気味なほどに静まり返った教室の群れと長い廊下。その様に暫し呆然とする。数瞬躊躇ったが、恐る恐る手の甲をつねってみた。痛い。夢とは思えないほどリアルに痛みが手の甲から駆け上がってくる。
けれど、これは間違いなく夢だ。
窓から差し込む光が普通ではない。陽の光ではなく、異様に白い光なのだ。だからといって、照明器具の明かりとも違う。窓から外を見ても光源は分からなかったが、少なくとも自然の光ではないことは確かだった。周りの風景は学校から望める風景そのものなのに、光だけが全く違う。
その中で辺りを見回しながら、とにかく移動するしかなかった。どこに健一がいるかも分からないのだ。
いや、本当に健一はここにいるのか?
夢に引き摺り込まれたのは自分だけではないのか?
そんな疑問が胸の中で膨らんでいく。
もし健一が現実で起きているのだとしたら、いずれ叩き起こされるはずだ。そのはずだ。約束したのだから。どちらかが眠ってしまったら起こすと。
それでも健一がここにいないとも限らない。また二人揃って夢の中に引き摺り込まれているかも知れないのだ。
否。たとえ二人揃って夢に引き摺り込まれたとして、また同じ夢に引き込まれているかどうかすら分からない。それぞれに違う夢かも知れないのだから。
考えは幾通りも現れた。それでもじっとしていることが出来なかった。もし現実で健一までもが眠っているのだとしたら、ここでやることは一つだけだ。
自力で目を醒ます方法を見つけること。
どこにその鍵がある?
そう思い、怜治は歩き出した。無人の教室が続き、渡り廊下に差し掛かった。
そこで見たことのある姿を見つけた。
それは薄青い振り袖の中に金魚を泳がせている女の姿だった。
雪野だ。
それを見止めた瞬間、怜治は身を翻して脱兎の如く駆け出していた。雪野が滑るように、すうっと渡り廊下を移動してきたからだ。
感情を映さぬ硝子玉の目を見開き、笑みの形にぱっくりと口を開けて。
怜治は廊下を全速力で走った。雪野の追ってくる速度はあまりにも速い。少しでも気を抜けば、あっという間に追いつかれてしまうだろう。
廊下を走って走り抜け、階段までやって来た。それを三段飛ばしに駆け上がる。また廊下を駆け抜けて、渡り廊下で曲がる。雪野を撒くためにそのまま渡り廊下を渡りきると、今度は上ってきた階段とは別の階段のある方へとすぐに曲がっていった。そうして再び階段前まで来ると、今度は下へ下へと駆け下りる。
一階まで下りたところで、隠れる場所を探そうと廊下を走り抜けた。
幾度か背後を振り返るが、雪野の姿はどこにもない。上手く逃げ切れたとの安堵が胸の内で持ち上がる。
一階の廊下の一番端にあるのは保健室だった。もし入ることが出来れば中から鍵をかけることが出来る。そう思って、鍵がかかってないことを祈りながら保健室まで行って扉に手をかけた。
途端、がらりと開く。
何も考えずに中に飛び込むと、扉に鍵をかけてベッドを囲むカーテンの中に怜治は姿を隠した。
呼吸は乱れきって、気管がひゅうひゅうと音を立てて煩い。喉も渇き切って、呼吸をするたびに痛みを訴えてくる。汗も噴き出していた。こめかみから頬を伝って顎から滴り落ちる。両手もじっとりと湿っていた。
怜治は煩い呼吸を整えながら、カーテンで汗を拭った。
もう疲れ切っていた。いきなり学校に放り込まれ、その上、雪野に追われて走り回ったせいだ。
汗を適当に拭い終わると、真っ白いシーツに覆われたベッドに両手をつく。喉が痛くて空気と一緒に何度も唾を飲み込む。そうするうちに、膝が笑い、立っていることすら困難になってきた。今更ながら恐ろしくなったのだ。
膝をつき、ベッドに顔を埋める。暫くそうして呼吸を整え、随分息が楽になった頃、怜治は天井を見上げて深く呼吸した。と同時に、怜治はカーテンレールにあり得ないものを発見した。
雪野の首が覗いていたのだ。
保健室から怜治の悲鳴が響いた。
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気付いた時には制服姿で体育倉庫の中にいた。鍵がかかっているらしく、扉は開かない。体育倉庫は、内側からは鍵を開けたり閉めたり出来ないのだ。
薄暗い中で、健一は扉を叩きながら幾度か怜治の名を叫んでみた。けれど、なんの反応も返ってこない。誰の足音もしないのだ。
さっきまでは確かに自分の部屋だった。時計を見て、怜治に声をかけたあと瞬きをしたらここにいた。何がなんだかわけが分からなくて混乱したが、それでも夢の中に飛ばされたことだけはなんとか理解した。そうでなければ、こんなことはあり得ないのだ。
体育倉庫はしんとしていて、聴いていたはずの曲はどこからも聞こえてこない。
今までは夢の中に飛ばされても自分の部屋の中だったが、今夜は違う。ここが学校の体育倉庫なのは分かったが、今夜に限って何故こんな場所に飛んでしまったのか理解できなかった。しかもこんなところに閉じこめられては、健一は手も足も出ない。
怜治はどうしているのだろうかと、ふと思った。怜治もこの夢の中に飛ばされているのか、それとも現実にいるのかは不明だ。とにかく今は、どうやって目を醒ませばいいのかと、そればかりが頭を回る。何しろここは、あの人形達が作った世界だ。おそらくそのはずだ。
健一は折り畳まれたマットの上に腰を下ろし、磨りガ磨りガラスをじっと睨め付けた。そんなことをしても、扉が開くわけではないのは分かっている。だが、僅かでも何かしらの変化が起こるなら、それを見逃したくないとの思いからだった。
誰でもいいから扉を開けれくれ、と強く思わずにはいられなかった。
たとえそれが雪、月、華のいずれかでも構わない。
どうすることも出来ずに暫く体育倉庫の中でじっとしていると、不意に人の声が聞こえた気がした。その声はとても小さいが、体育館の中に微かに響いている。慌てて扉の下部に飛びつき、そっと耳を押し当てる。立ち上がらずに扉に耳をつけたのは、本当に雪、月、華が来たときに厄介だからだ。何をされるか分からない。だから、扉の下部に耳をつけたのだ。
広い体育館に響く声はどうやら女の笑い声のようだった。それが近付いてくる。それに気付いた健一は、咄嗟に扉から離れた。また扉越しに捕まっては堪らないと思ったからだ。
そのまま健一は、音を立てないように注意深く跳び箱の陰に隠れた。雪月華の誰が来るのかは分からないが、相手が扉を開けたと同時に外に飛び出そうと考えたのだ。
じっと身を固くして扉を盗み見る。すると、けらけらと笑う声がはっきりと聞こえてきた。扉の前にまで誰かがやってきた。
磨りガラスの向こうに、何者かの影が現れた。そして、こつ、こつと扉が小さく叩かれる。
「ねぇ、いるのでしょう?」
どこかふわふわとした声は月姫のものだった。声だけでなく、彼女の着ている薄黄色の着物が磨り硝子に透けていたから分かった。
「ここから出してあげる」
こつ、とまた扉が叩かれる。言葉は更に続いた。
「ねぇ、れいちゃんが今頃どうなってるか知りたくなあい?」
その言葉に健一は思わず息を詰めた。怜治が今どうなっているのか、健一も知りたい。けれどここから出られず、どうすることも出来なかった。しかし月姫は知っているのだろうか? 怜治が今どうしているのかを。
「今ね、雪野お姉様が追いかけてる」
こつ、こつ、と小さく扉が叩かれ、月姫はそのまま言葉を続けた。
「今頃、れいちゃんは目玉を刳り抜かれてるかも……嫌よね、ねぇ」
その言葉に健一は思わず声が出そうになったが、敢えて口を噤んだ。声が出ないように唇を真一文字に引き結ぶ。
「返事をして。れいちゃんがどうなってもいいの? あたくしなら貴方をここから出してあげられるわ。一緒にれいちゃんを助けに行きましょう」
全ては甘言だと思った。僅かでも声を出せば、月姫がここに押し入って目玉を刳り抜こうとすると。だから口を噤み続けた。
その間も月姫の言葉は続いたが、全て無視した。
確かに怜治がこの夢の中にいるのなら危険な目に遭っていないとも限らない。が、まずは己を護ることから成さねばならない。自分が無事でなければ、怜治に何があっても助けることすら出来ないのだから。
次々と続く月姫の甘言がふとやんだ。いなくなったのか、とも考えたがどうもそうではないらしい。扉の向こうにもう一つ気配が現れたのだ。
「姉様、ここにもう一人いるの?」
その声は月姫の声に比べると甘やかで、僅かにあどけない。
「華緒。お前まで来たの」
甘言を垂れ流していた月姫の声音がトーンダウンして、冷たく響く。冷たいと言うよりも、急に現れたらしい華緒をあからさまに邪険にしている風だ。
「ここにもう一つの目があるなら、すぐにでも抉り出してしまいましょう? 私がやってあげる。慈海様の目を抉り出して殺したのと同じようにして」
甘やかであどけない声が恐ろしい言葉を吐き出す。
慈海──。確かあの寺で会った住職は慈海と言った。そして、ニュースで見た殺人事件の被害者も慈海だった。やはりあれをやったのは華緒だったのだ。それを思い知らされて、健一の全身の産毛がぞうっと総毛立つ。
「せっかく三人揃ったんだもの。ここに引き込んだのも私たちの力じゃない」
ここに引き込んだ? 私達の力?
それは一体なんのことかと思う。彼女ら三人が揃うと学校に引き込まれるということか? ならば何故、学校なのだ? わけが分からない。
華緒がそこまで言った直後、めきっと音が倉庫内に響き渡り、健一の思考は中断された。
はっとして扉を見ると、無理矢理に扉がこじ開けられようとしているのに気付いた。鍵の部分が軋んで音を立てている。硝子もぎりぎりと嫌な音を立てていた。月姫か華緒かは分からないが、どちらかが強引に扉を開けようとしているのだ。
扉がぎしぎしと音を立て、鍵がめきめきと音を立てる中で、突然扉ががたんと派手な音を立てて開かれた。次に耳に飛び込んできたのは、硝子の割れる音だった。扉が外れて、倒れた拍子に磨り硝子が割れたのだろう。鍵がかかっていたのに、とてつもない力だった。大の男だって、鍵のかかっている扉を開けるのには何か道具がなければ無理だろう。
扉が開け放たれた瞬間、健一はそのまま無謀に飛び出すのではなく、咄嗟に跳び箱の陰に隠れた。




