15 いつも通りの日常
私こと、アザレア・エル・サベージの朝は早い。
鳥すらまだ眠っている日の出前に起床し、素早く身支度を済ます。すっかり着慣れた運動着に袖を通して、騎士団の訓練場へと向かう。このとき注意すべきことは、侍女たちを起こさないよう静かに歩くことだ。
まず訓練場に着いたら、すでに訓練を始めているクリーク様とロータス殿下に挨拶。それから準備体操だ。手足の筋肉を伸ばし、怪我をしないように備える。十分な時間をかけて筋肉をほぐし終えたら、今度は訓練場の周りを三周走り身体を温める。もうこの程度では息切れをおこさない。二年間も体育の授業を続けてきた賜物だ。
準備が終わったなら、クリーク様を呼びに行く。彼は私が走っている間に、ロータス殿下と手合わせを行っているのだ。訓練用の剣で衝撃波を生み出しながら打ち合っている二人を遠巻きに眺め、まるで師と弟子の稽古みたいだなと感想を抱く。
ただこの場合、師であるのは殿下の方だけど。
「——っ!」
打ち合いの最中、突然クリーク様が目を見開き、殿下から距離を取った。しかし殿下はそれすら見切ったように、間合いを一瞬で詰め喉元へと突きを繰り出す。クリーク様はそれを剣で逸らそうとして、失敗する。殿下が途中で剣の軌道を変えたのだ。狙いを喉元からクリーク様の手首へ。正確にいえば、彼の持っている剣を空に向かって飛ばすよう突き上げた。
まともに攻撃を食らったクリーク様は、衝撃に耐えきれず剣を手放す。木の剣が宙を舞う。弧を描いて地面に落ちる頃には、クリーク様の喉元に剣が突きつけられていた。
彼は苦い顔をして「参りました」と殿下に告げる。
「まんまとフェイントに引っかかりました。これでは騎士団長の座を譲ることも考えないといけませんね」
殿下は苦笑いをして、剣を下げた。
「それではずっと空席になってしまうな。其方の後任を務められる者は、あと十年は現れまい」
「ハハハ、ご冗談を。私程度の実力者で十年ならば、ロータス殿下のようなお方は今後百年は現れませんよ」
クリーク様が手首をさすりながら笑う。
そろそろ声をかけても大丈夫そうな雰囲気だろう。私はクリーク様を呼んで、二人に近づいた。
「アザレア様。お待たせしましたか? 申し訳ありません」
「気にしないでください。今日はちょっと早く準備が終わったので、二人の手合わせを参考がてら見学していましたの」
「ふむ、では今度アザレアも余と手合わせしてみるか?」
「いえ私は結構です」
一秒で勝敗がつくのが目に見える。
だいたい木剣で衝撃波を生み出している時点で二人ともちょっとおかしいのだ。殿下に負けてクリーク様はたまにひっそりと落ち込んでいるけれど、彼と打ち合えること自体が常人ではあり得ないと自覚してほしい。その人、鍛錬代わりに魔王を倒すお方ですよ? 己の努力が足りないとかそういう話ではないと思います。
その二人相手に手合わせをお願いしたらどうなるか。私どころか騎士団の団員がこぞって逃げ出すだろう。命は一つしかないのだから。
私の態度に殿下は「そうか」と残念そうな顔をして、クリーク様に言った。
「余はこれからクウロの様子を見てくる。クリーク、アザレアを頼むぞ」
「はい。お任せください」
クリーク様が頭を下げて殿下を見送った。
クウロは二年前から宮廷に住みついている。というのも、ジュター伯の事件後、彼女はロータス殿下から離れようとしなかったのだ。普段なら殿下の用事が済めばさっさと帰るそうなのだが、その時に至っては訓練場に居座ってうんともすんとも言わなかった。見かねた両陛下が急遽クウロ用の小屋を用意できたから良いものの、それがなかったら長い間騎士団の人に迷惑をかけていただろう。まったく、大人しく山に帰れば良いのに。どうしたっていうのかしら。
しかし、クウロは為政者にとって都合の良い存在だ。彼女が王族に従っていることでそれなりの権威が発生する。殿下も私も乗り気では無かったが、仕方なくクウロを宮廷で飼うこととなった。
飼う、と言っても、彼女の世話は殿下か私にしかできないけど。
だってクウロ、私たち以外の人間が鱗に触れようとでもすれば炎を吐いてくるんだもの。しかも腹が立つことに、殿下が彼女の身体を洗っているときは大人しくするのに、私のときはいたずらをする上に文句が多い。鱗の隙間までしっかり洗わないと尻尾を使って抗議してくるのだ。おかげで何度水浸しになったことか……。
まあ、苦労も多いが彼女に助けられたことも多い。そのことに関しては感謝すべきだろう。
「では、アザレア様。遅くなりましたが、今日の授業を始めましょう」
「ええ。今日は何をするんですか?」
尋ねれば、クリーク様が授業の内容を話す。今日は護衛術も少し習うようだ。それ以外は昨日と同じ。もっというなら、いつも通りだ。
そう、いつも通り。あの二年前のジュター伯の事件があっても、カボス王国は——少なくとも、私が知る限りは平和な方だった。
国内の有力者に魔王軍側のスパイがいたことは衝撃で、一時期はどこもかしこも疑心暗鬼で内戦の心配もあったが、それは杞憂に終わり次第に落ち着いていったのだ。
もちろん、問題がなかったわけではない。領民の領主への不信感による反乱や、魔物の大軍が王都に押し寄せてくるといった噂で市井の生活が混乱したりなどした。しかし、どれも小規模なものだったので、大きな問題にはならなかったのだ。
……もしかしたら、私が重要視していないだけかもしれないけど。
正直、疎遠な政治や市井の生活よりも、身近なロータス殿下の言動の方が私には大きな問題だったからだ。
特にあの時期は色々と凄かった。
殿下に「クウロと散歩をしてくる」と言われ見送れば、何故か敵国であるグンニルの皇帝と仲良くなってきて、後日和平条約を結ぶ親書が送られてきたり。
殿下に「明日は違うところで鍛錬してくる」と言われ了承すれば、何故か聖剣を土台ごと持って魔王を倒してきて、その三日前に選ばれた勇者殿と聖女様に手柄を押し付けたり。
殿下に「世紀の大発見をした」と魔法で告げられ何事かと尋ねれば、何故か精霊界にいると返され、帰り道を見つけるまで時間がかかるからしばらくこっちに戻れないと言われたり。
あれは大変だった。学者総出で書物や論文を引っ張り出し、縁を辿れば人間界に帰ってこれるかもしれないと推測し、殿下と縁が一番深い私が代表で精霊界に送り込まれ何とか彼を連れて帰ってきたのだから。おそらく、あの騒動が無かったら学者さん達と仲良くなっていなかっただろう。
まあそのとき、殿下と一緒に大量の精霊がこっそり付いてきて、人間界に満足するまで帰らないと駄々を捏ねられた結果、ひと月ほど国内を旅する羽目になったのですが。
そんな感じの日常を過ごしていると、あっという間に二年が経ち、もう私も十四歳だ。
心臓が飛び出るような思いを幾度もしてきたためか、並大抵のことでは驚かなくなった代わりに世情に鈍感になってしまった。これはいけないと思いつつも心の底から焦っていないあたり、殿下の影響を受けているのかもしれない。
二年後には前世では行ったことがない学校に通うことになるのだが、この調子でやっていけるのだろうかと不安になる。
……でもきっと何とかなるだろうと、楽観視している私もいる。
未来のことを考え過ぎるのは良くないのかもしれない。もともと考えるのは得意じゃないのだ。今はとにかく、目の前の授業だ。ロータス殿下に付き合うには体力と何より気力が大事だと、ここ二年間で十分身に染みたのだから。クリーク様の教えをありがたく授かろう。明日のことは明日考えれば良い。未来の私に任せれば良いんだ、と。
私は頭を振り思考を隅へと追いやって、授業に集中した。