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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第十一章 ◆

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九. 慶事

 


 浩然ハオラン静麗ジンリーが皇都へやって来てから、もうすぐ一年が経とうというある日、後宮は今までに無い、大きな慶びに包まれることとなった。


 皇帝の正妻である皇后のヂュ 薔華チィァンファが、他の側室達に先んじて皇子殿下を無事に出産したのだ。


 その事が後宮から朝廷へと伝えられると、その場に居た多くの者が喝采の声を上げ、喜びに沸き立った。

 皇帝の初めての子が、後宮で一番身分高い皇后から生まれた男児であったことから、この皇子が将来皇帝の地位を継ぐべき皇太子となることはほぼ確定した。


 朝廷からの発表に、後宮で誰が一番初めに男児を産み落とすのかを静観していた皇都の貴族達は、慌ただしく動き始めた。

 ある家では皇后の生家である朱家へとおもねる為に、どの貴族よりも高価で珍しい贈り物を用意する為に奔走し、後宮に側室として娘を送り込んでいた家では、情報を集め今後の対策を練る為に親族で集り不穏な動きをする者達もいた。

 また、寧波ニンブォに潜む各国の間者達も、それぞれの国へと情報を送っていた。

 水面下のそうした動きを知らない平民達は、疫病の影響を振り払う様にこの慶事に沸き立ち、お祭り騒ぎに興じていたが、何処かざわついた雰囲気が皇都を覆っていた。





 ◇◇◇





 国中が慶びと妬みに包まれるその日よりも、少し前。


 皇后の出産が近いと聞かされていた浩然は、落ち着かない日々を過ごしていた。

 皇帝の後を継ぐべき男児を切望しているが、子供は欲しくないという矛盾した気持ちが浩然の胸に渦巻いている。

 そして、もし皇后が生んだ子が女児であれば、もう一度閨を共にするように強要されるだろうという懸念がある。


 皇后や高位の側室が複数懐妊してからは、朝廷も浩然の懐柔の為か伽を強制する事が余り無かった為、当初望まれていた程には皇帝の子を孕んだ側室の数は多くなかった。

 そしてイェ貴人にお渡りしたのを最後に、例え夜に後宮を訪れようとも誰とも閨を共にする事はなかったが、これでもし男児が生まれなければまた苦痛の日々を送らなければならない。


 それに、生まれてくる子に対して愛情を持てない自分が、実際に子を前にした時にどういった感情を抱き、どう対応するのかが分からない不安もある。

 皇帝の責務である後継ぎは必要だが、皇后や側室との子が欲しい訳では無い。



 ―――どうか、皇后の子だけでも男児であってくれ。朝廷の奴らも皇后の子を皇太子に出来れば文句もないだろう



 それどころか、要らぬ諍いを起こさない為にも、もう後宮の女達との伽を強要する事も無くなるかもしれない。

 浩然は千々に乱れた複雑な心境を抱えて政務に励む日々を過ごしていたが、とうとうその日が訪れた。






「陛下、たった今蝶貝宮より使いが参りました」


 官吏が慌ただしく天河殿にある皇帝の執務室へと駆け込んできた。


 今朝早くに皇后が産気づいたと連絡があった為に、内廷も外朝もピリピリとした緊張感が漂っていた。

 そして朝議を終えた浩然が執務室へと戻ってきて、程なくして官吏がやって来たのだ。

 部屋に居る全ての者が注目する中、官吏は息を整えると浩然に向かい頭を下げた。


「陛下に申し上げます。皇后娘娘が先程皇子殿下を無事に御出産なされました。皇后娘娘、皇子殿下共に問題無く、陛下のお越しをお待ちしておられます」


 官吏の言葉が執務室に響いた途端、歓声が起こった。


「皇子殿下であったか! 何と喜ばしい事であろう!」

「あぁ、天は寧波ニンブォを祝福されたのだ!」

「初めての御子が、皇后娘娘からお生まれになり、さらに男児とは! あぁ、これで一安心だ」


 周りの者達が笑みを浮かべて喜ぶ中、浩然は執務机の下で固く手を握り締めていた。


「陛下。皇子殿下の御誕生を心よりお慶び申し上げます」


 一人の文官が椅子から降りてその場で跪き、浩然に対して叩頭する。

 周りの者達もそれに倣い次々に平伏し、皇帝に対して祝いの言葉を述べていく。


「陛下。本日の執務はこれで終わりと致しましょう。どうぞ、皇后娘娘の元へお行き下さいませ。娘娘もきっと陛下をお待ちで御座います」


 執務室の中で一番の年配者で、此れまでも浩然に対して様々な事を教示してきた穏やかな気質の高級官吏がそう言うと、皆が同調する。

 浩然は顎を引く様に小さく頷くと椅子から立ち上がり、静かに執務室を後にした。

 その後ろからグゥォ 俊豪ジュンハオと二人の近衛武官が付き従う。





 輿を使わずに、浩然は歩いて後宮を目指した。

 だが銀星門が間近に迫った所で立ち止まると、その威容を仰ぎ見た。


 ひどく現実感が無く、何処か茫然とした気持ちで、何度となく潜ってきた銀星門を見上げる。

 皇子殿下の誕生だと寿ぎ、騒いでいた官吏達の様子を思い出し、浩然はぽつりと呟いた。


「皇子殿下…………そうか、男児か……」



 ―――……これで、俺の役目は、終わった……のか?



 浩然は俯き目を瞬かせた。



 ―――これで、俺が解放されれば……静麗に会いに行く事も、出来るのか?



 そう考えた浩然は、直ぐに自嘲の笑みを浮かべる。

 子を決死の思いで生んだ皇后に感謝するでも、生まれてきた自分の子を喜ぶでもなく、真っ先に思い浮かべるのが自分の要求だとは、と浩然は嗤った。



 ―――こんな俺が、生まれてきた子の父親になれる筈がない






「陛下、参りましょう」


 足を止めたままの浩然に俊豪が静かに声を掛ける。


「……あぁ、分かっている」


 浩然は銀星門を抜けた先にある、皇后の宮へと歩を進めた。



 中では皇后の侍女達が皇帝を待ちわびていた。

 皇后薔華は出産の為に用意されていた部屋で横になり目を閉じていたが、皇后の筆頭侍女が声を掛けると直ぐに瞳を開いた。

 そして部屋の入口に立つ浩然の姿を認めると、花が開く様に綺麗な笑みを浮かべた。


 起き上がろうとする薔華に手を上げてそのままでと示した浩然は、固まったような足を意識して動かし、部屋の中へと入った。

 中は既に綺麗に整えられており、此処がお産の場であった名残は何も無い。


 薔華は口元を綻ばせながら近づいてくる浩然を見詰めている。

 浩然も近くまで行くと上から寝台に横たわった薔華を見下ろした。

 薔華の向こう側に、生まれたばかりの嬰児が柔らかい布に包まれているのが僅かに見えた。


 薔華は疲れを滲ませながらも母になれた喜びに満ち溢れた顔をしている。

 浩然の顔をじっと見詰めていた薔華が微笑みながら静かに告げた。


「陛下。浩然様。……皇子です。……お慶び下さいますか?」




 たった今、皇帝の子を生んだばかりの女性だ。

 浩然は皇帝として、優しい労わりの言葉を掛けなければならないと思うが、顔が強張り言葉が出てこない。


「……浩然様?」


 薔華は皇帝であり、愛おしい自分の夫である浩然の返事を待った。

 浩然は皇帝の正妻の言葉に、重い足を動かして寝台の横に行くと、その場でゆっくりと膝を折った。


「皇后。良くやった。其方そなたの産んだ男児は、この寧波の後継ぎとなるべき大切な皇子だ。これで皇家の存続は果たすことが出来よう。全て其方のお陰だ。感謝する」


 浩然の返事を聞いた薔華は小さく口を開くと何かを言いかけて、やがて閉じた。

 部屋の中に奇妙な沈黙が続く。


「浩然様は……」


 薔華が目を伏せながら迷う様に呟いた。


「……如何した」


 浩然は乾いたかすれ声で答えた。


「いいぇ、……何でも、ございません」

「……左様か」


 居心地の悪い空気が漂う。

 部屋の入口に控えている皇后の筆頭侍女が、訝しむ様に二人の様子を伺っている。

 浩然は居たたまれずに立ち上がると、もう一度薔華に労いの言葉を掛けて部屋から出ようとした。

 生まれたばかりの皇子には、一度も顔を向けることも出来ずに。


 しかし浩然が踵を返した時、薔華がその背に小さく声を掛けた。


「陛下、……浩然様。貴方様は国の為ではなく、御自分の御子が生まれた事を、喜んでは下さらないのですね」


 薔華の密やかな言葉は、浩然以外の誰にも届くことは無かった筈だ。

 だが、その小さな呟きは、浩然の罪悪感を刺激する棘として心に残った。





 皇帝の宮に戻って来た浩然は、暫し一人にしてくれと言い置いて寝室へ入り、椅子に座ると重い溜息を吐き出した。


 皇帝である自分が、まるで逃げる様に皇后の宮から立ち去ってきたのだ。

 浩然は両手で顔を覆い深く俯いた。



 ―――まるでじゃない。俺は逃げてきたんだ。皇后や側室、それにこれから生まれてくる子達にも、俺は夫や父親を与えてやる事は出来ない。家族として愛してやる事が出来ない



 浩然は唇を噛みしめた。



 ―――子が生まれたら、もしかしたら愛おしいと感じるかもしれないと思っていたが、やはり無理だ。―――俺の愛は、一つしかない







 その後、貴妃や妃等の高位の側室達も相次いで皇帝の御子を無事に出産することとなる。

 後宮の銀星門の辺りの殿舎では華やかな祝いの場が多く設けられ、嬰児の泣き声が響き渡り、更なる慶びの雰囲気に包まれ華やかになっていった。

 後宮に皇帝の血を継ぐ男児が複数生まれたことで、表面上は穏やかに和やかな様を装いながら、しかし見えぬ場所では女の妬みが渦巻いていた。






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