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第一章(二)

 俺は棚からスケッチブックと鉛筆、練り消しを取って美術室へ戻った。壁際に畳んであったイーゼルを作業机の横に立て、その前に椅子を置くと、あとをついてきた朝宮に言う。

「そこに立ってほしい」

 朝宮は俺が指さした黒板の前に立つと、「あ」と声を上げた。

「言い忘れてたんだけど。私、助っ人するときはルールがあって、1回手伝ったら飲み物1本おごってもらうの」

「……それなら、今日のモデルも助っ人に入るな」

 さきほど受け取っていたスポーツドリンクは、その1回分だったのか。

 旧校舎には自販機も購買もない。まずは新校舎まで買いに行く必要があるということだ。

「終わってからでもいいよ。なんでもいいけど、選べるなら1位はいちごミルク、2位は飲むプリン、3位はレモンソーダね。スポーツドリンクはいつでもあり」

 2位はなんなんだ。プリンを飲み物に含めていいのか。

「少し待っててくれ。買ってくる」

「あー、待て待て。連れてきた本人が置いてくなよ。初回分はオレが買ってくるわ」

 快吏が立ち上がった。

「……いいのか」

「制作動画になるんだから、オレにも関係あるし。ついでにオレのも買ってくる。朝宮さんの分はあとで返せよ」

 美術室を出る前に、快吏が俺の肩に腕を回して声を潜めた。

「余、いいか。お前、すごい人連れてきてるからな。朝宮さんって、2年じゃちょっとしたスターだぞ」

「そうなのか」

「なんっで同じクラスのお前が知らないんだよ! 運動できて、人望もあって、しかも美人。そんな朝宮さんに途中で呆れられて、モデルやめるって言われるようなことはすんな!」

 朝宮がそれほど有名だとは知らなかった。しかしモデルとして頼むことに、それがどう関係するのか。

「約束はした。朝宮が納得するものを、最後まで作る」

「……そういうとこは心配してねえよ」

 快吏は俺の肩を叩いて、美術室を出ていった。

「ここでいいんだよね。ポーズはどうしたらいい?」

 朝宮が黒板の前で足元を指さして聞く。

「まずは自然体で」

「自然体……立ってるだけってことだよね」

 朝宮は一度、両手を上げて伸びをすると、そのまま右脚に重心を預けるようにして立った。

 ——ただ立っただけのはずだが、やはり様になっている。

 夏服の半袖から伸びるしなやかな腕に、膝丈のスカートから伸びる長い脚。運動部の助っ人をしているだけあって、細いだけではなく、全身にバランスよく筋肉がついている。肩の丸みから、膝頭の両脇にできる浅いくぼみまで、形がいい。

 重心を預けた側の腰がわずかに上がり、肩から腰、脚まで、全身に自然な流れができていた。

 俺はイーゼルの前に座り、スケッチブックへ鉛筆を走らせる。

「絵から描くんだね」

「まずアタリを取る必要があるからな」

「それ、なに?」

「粘土を触る前に、頭や胴体がどこにくるか、簡単な線で描いておくものだ。全体のバランスを見て、作るポーズを先に決めておく必要があるからな」

「……なんか、じっと見られながら立ってるの、初めてだからちょっと落ち着かないね」

 言いながら、朝宮は両手を背中へ回し、片足を引く。

「動くと形が変わる。いまの姿勢でいてくれ」

「あ、ごめん」

 それから、美術室には鉛筆が紙を擦る音だけが響いた。

 しかし数分もしないうちに、朝宮は左脚へ重心を預けた。俺はページをめくり、その姿勢を新しく描き起こす。

 しばらくすると、今度は右脚へ重心が移った。

「もう少し、同じポーズを保ってほしい」

「……ごめん。何もしないでいるから、動いちゃうんだよね。じっとしてるより、動いてるほうが楽かも」

「それなら、ひとつのポーズを3分ずつにする。俺が合図したら、ポーズを自由に変えてくれ」

「せっかくだし、こういうポーズしてほしいとか、リクエストない?」

「む」

 朝宮の言うことはもっともだ。モデルが目の前にいるのだから、作りたい形に合わせて動いてもらえばいい。

「立っている姿にするつもりだ。具体的なポーズはまだ決めていない」

「そうなの? てっきり、もう考えてるのかと思ってた」

「朝宮を見ながら決めるつもりだった」

 これまで作ってきたのは、快吏が選んだキャラクターばかりだ。衣装も表情もポーズも、元になるイラストを再現すればよかった。

 今回は、朝宮のどの姿を作るかから考えなければならない。

「朝宮の思うかわいいポーズがあるなら参考にする」

「えっ、私の? う、うーん」

 朝宮は考え込んだあと、両手の人差し指を頬へ向け、わずかに首を傾げた。

「こういうの?」

「……それは?」

「あ、もういい。ぜんぜん刺さってないみたいだし。……私がやってもね」

 朝宮はすぐにポーズを崩して、両手で顔をぱたぱたと扇ぐ。

「いや、いまので描いてみる。もう一度やってくれ」

「ええっ」

 かわいいかどうかはさておいて、さっきまでの立ち姿とは違う形になっていた。描いておいて損はない。

「3分でいい」

「3分もやるの!?」

「だめなのか」

「そういう、わけじゃないけどさ……」

 朝宮は辺りを警戒するように美術室の入口を見て、次に窓の外へ目をやった。最後に俺を見ると、ゆっくりと両手を上げ、左右の人差し指を自分の頬へ向けた。

 さっきと同じポーズのはずなのに、顔は赤く、表情は妙に硬い。唇を真一文字に結び、眉間にもわずかに力が入っている。

 何かに耐えているようにしか見えないが、これが朝宮の思うかわいいポーズなのだ。

 俺はその姿を、できるだけ速く線にしていく。

「もう3分経った?」

「まだだ」

「うー……」

 最後の線を引き終えて「終わった」と告げると、朝宮はすぐに両手を下ろし、大きく息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。

「いまの、フィギュアのポーズに使う?」

「まだ分からない。候補には入れる」

 イーゼルに載せたまま、これまで描いたページを1枚ずつめくる。

 どれもしっくりこないが、初日ならこんなものだろうか。

「……やっぱり、いまの使わないで」

 しゃがんだまま、朝宮が言った。

「絶対、私には似合ってなかった」

「そんなことは、完成させてみなければ分からない」

「じゃあ、いまの絵見せて」

 朝宮は勢いよく立ち上がると、こちらへ近づいてきて、イーゼルに立てかけていたスケッチブックへ手を伸ばす。その手が届くより先に、俺はスケッチブックを掴み取った。

「あ、隠した」

「急に手を伸ばされたら警戒するだろう」

「見るだけだってば」

 朝宮が俺の右側から、もう一度スケッチブックに手を伸ばしてくる。俺は左へ逃がした。

 すると今度は、左側へ回り込んでくる。俺が右へ戻せば、朝宮もまた右へ。

 埒が明かない。俺は立ち上がり、スケッチブックを頭の上へ掲げると、朝宮がむっとした顔になる。

「届きますから!」

 そうだった。俺より背が高い人間を相手に、上へ逃がすのは愚の骨頂だ。

 朝宮がさらに身を乗り出し、距離が一気に縮まる。

 ふわりと、甘い匂いがした。何の匂いだ。いや、それよりもスケッチブックの方が問題だ。

 朝宮の指先が、端にかかった。

「待て」

 俺はさらに一歩、後ろへ下がろうとした。だが、踵がさっきまで座っていた椅子の脚に引っかかった。

「あっ」

 朝宮の声と同時に、俺は後ろへ大きく体勢を崩し、そのまま盛大に尻もちをついた。朝宮も、勢い余ってこちらへ倒れ込んだ。

 その時だ。

 美術室の外から、ぱたぱたと板張りの廊下を踏む足音が聞こえてくる。快吏らしい声と、もう一人の声もする。

「余が朝宮さんをモデルにしてるだけだって」

「みなもちゃんをモデルに? あらぁ、何を企んでいるんです?」

「別になんも変なことしてないって! 朝宮さんだってオーケーしたんだよ」

「そうですか〜。確かめさせてもらいますね」

 瞬間、美術室の引き戸が開いた。

 入ってきた小柄な女子生徒は、美術室を見回し、床にいる俺たちを視界に入れた途端、笑顔のまま目だけを丸くして固まった。

 その後ろから、ペットボトルを数本抱えた快吏が入ってくる。

「ほら、やましいことなんてなにも——」

 同じように固まった。

 俺は片肘を床につき、半ば仰向けになっていた。もう片方の手でスケッチブックを抱えている。朝宮は倒れ込んだ勢いのまま、俺の肩の横へ両手をついていた。ほとんど覆いかぶさられているような格好だ。

 快吏は隣の女子生徒へ向き直り、深々と頭を下げた。その拍子に抱えていたペットボトルが1本、床に落ちる。

「椿原、ごめん。オレ、間違ってた」

「ちょっと! 違うから!」

 朝宮は顔を真っ赤にして、ばっと俺から離れた。

「五百蔵くんの絵を見ようとしただけだから!」

 椿原彩羽(つばきはら・あやはね)は、生徒会長で、快吏のクラスメイトだ。ふんわりとした栗色の髪を耳にかけ、丸みのある目をさらに細めた。

「絵を見るだけで、こんな格好になるんですねぇ」

「……制作上の攻防だ」

 朝宮が両手で顔を覆う。

「彩ちゃん、違うってば……」

「快吏くんが普段飲まないいちごミルクを持っていたので、誰の分か聞いたら、みなもちゃんが旧校舎にいるというじゃないですか。友達として様子を見に来てみれば、これです」

「オレがいちごミルク持ってちゃ悪いのかよ」

「悪いとは言ってませんよ〜。珍しいと思っただけです」

 飲み物を買いに行った快吏は、新校舎から戻る途中で椿原に見つかったらしい。

「俺はなにもしてない」

「本当に違うから」

 朝宮も言う。

「椿原、オレも一瞬疑ったけど、冷静に考えたら余がそんな器用なことできるわけないわ。事故だって」

 椿原は快吏を見ると、こほん、とひとつ咳払いをした。

「しかたないですね。それで、みなもちゃん。来る途中に快吏くんから聞きましたけど、全国展のモデルを頼まれたって、本当ですか?」

 朝宮は頷く。

「そうだよ。これも助っ人」

「五百蔵くん、全国展に応募はしたんですか?」

「してない。これから応募するつもりだ」

 応募よりも、まずはモデルの確保が大事だ。

「全国展の校内締め切りは明日ですよ。担当の先生も、もう帰られましたし」

「大丈夫だ。明日先生に言う」

「明日は終業式ですが?」

「大丈夫だ。明日先生に言う」

 椿原は笑顔のまま、瞳を大きくする。怖い。

「では、明日ご自分で聞いてみるといいですね。それより、完全下校まで、もう時間がありません。ここのルールは知っていますよね〜?」

 俺たちは部でも同好会でもない。放課後は空いている旧校舎の美術室を、自主制作の場所として借りているだけだ。使えるのは完全下校までの時間に限られている。

「帰る」

「はい。今より活動しやすくしたいなら、同好会として申請する方法もありますよ。生徒会としても、生徒の自主的な活動はできるだけ支援したいんですけれど」

「でもオレら二人しかいないしな」

「困ってない」

 この話をされるのは、初めてではない。椿原は以前から、俺たちに同好会を作らせたがっていた。だが、設立には四人以上が必要だ。俺たちは二人でフィギュアを作っているだけで、困ってもいなければ、人数を増やす理由もない。

 片づけを済ませ、四人で学校を出た。校門の前で椿原と別れたところで、快吏からペットボトルを押しつけられた。

「これ、朝宮さんの分」

 朝宮が好きだと言っていた、いちごミルクだ。

 少し先を歩いていた朝宮を呼び止める。

「朝宮」

「なに?」

 振り返った朝宮へ、いちごミルクを差し出す。

「モデルを引き受けてくれた。ありがとう。明日も時間があれば来てほしい」

 朝宮は少し目を丸くしてから、ペットボトルを受け取った。

「ありがと。……うん」


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