第八章(二)
次の日曜日、俺は駅舎の前でベンチに腰を下ろし、ぼんやりと、ときおり通りかかる人を眺めていた。バス乗り場とロータリー脇に立つ時計は、9時45分を指している。
約束より30分も早く来てしまってから、はや15分。
約束の時間に遅れてはならないと気がはやった。家にいても落ち着かなかったので、そのまま出てきた結果がこれだ。
待っているあいだ、朝宮と遊園地へ行って何をするのか、ずっと考えていた。遊びに行くのだから、遊べばいいのだろう。ただ、それでモデルとしての朝宮と、そうではない朝宮の違いをどう確かめるのかは、見当もつかない。
思っていると、肩を軽く叩かれた。
顔を上げると、朝宮が見下ろしている。
「早いね、五百蔵くん。もしかして、待った?」
「……いいや」
朝宮は白い半袖のブラウスに、鮮やかな赤みがかったオレンジ色のスカート姿だった。肩にはトートバッグをかけている。髪も、いつものポニーテールではなく下ろしていた。合宿のときに思ったとおり、濡れ羽色の髪は腰まで届いている。
「なに? 今日の私、変?」
「いつもと違う」
「それはそうだよ、おしゃれしてるもん」
おしゃれをすると、朝宮はこうなるらしい。
「どう? 感想は」
朝宮は半歩下がって、身体をひねって見せた。スカートの裾がひらりと揺れる。
「そうだな……」
「あ。モデルじゃない視点で感想が聞きたい」
む。
髪を下ろしていると印象が違う。スカートも似合っている。だが、モデルとしてではない感想と言われると、それ以上の言葉が浮かばない。
朝宮がじっとこちらを見てくる。
「……見ていて飽きない」
「ふ〜ん? ずっと見てたいってこと?」
「それは言い過ぎだ。……否定はしないが」
「わかった、見てていいよ」
朝宮は満足そうに笑う。
「ジロジロはやだけどね」
「ジロジロ?」
それから俺と朝宮は、駅前から出る路線バスに乗った。
遊園地までは、およそ1時間。並んで二人掛けの席に座りながら、さっきの「見てていい」を考える。ずっと見ていいという意味ではない。ジロジロは嫌だと、条件がついた。
どの程度なら見てよくて、どこからがジロジロになるのか。
仕方がないので一日のうちに朝宮を見られる回数を決めることにした。
とりあえず10回。いや、30回くらいか。意味のある数字とは思えないが、ただ、無制限よりはましだろう。
遊園地へ向かうあいだも、朝宮は楽しそうに話していた。俺は前を向いたまま相槌を打つ。笑い声が聞こえるたび、つい隣を見てしまった。
そうして朝宮と話しているうちに、遊園地に着く頃には、30回の半分ほどを使っていた。
駄目だ、これは。やめよう。
バスを降りると、少し離れた場所からでも観覧車が見えた。
入場ゲートの向こうには色鮮やかな看板が立ち、その奥では空中ブランコがゆっくりと回っている。どこかから軽快な音楽が流れ、風に乗って甘い菓子の匂いまで漂ってきた。
日曜日だからか、午前中から園内はかなり賑わっていた。
小さな子どもを連れた家族や友達同士で来ている学生、俺たちと同じくらいの年齢の男女も多い。
「行きたい場所はもう決めてあるんだよね」
「どこだ」
「まずはコースター!」
朝宮に促され、俺たちはコースターの乗り場へ向かった。
近づくにつれて、車輪がレールを走る硬い音と、乗客の悲鳴が大きくなる。頭上を車両が駆け抜けるたび、並んでいる人たちが揃って顔を上げていた。
列の最後尾に並んで、朝宮が紙の園内マップを開く。
「コースターに乗ったら、このへんでご飯たべよ」
マップを覗き込むと、指さされたのは園内の端にあるピクニック広場だった。
「なにもない」
「ベンチとテーブルがあるでしょ」
「ここで昼を食べるってことか」
「うん。作ってきたから」
「なに」
「だから、お弁当作ってきた」
朝宮が肩にかけたトートバッグを軽く叩いた。
「朝宮が作ったのか」
「朝ちょっと早く起きただけ。そんな大したものじゃないし」
朝宮が作った弁当。
フィギュアの制作中にもおにぎりを作ってもらった。だが、今日は俺と遊園地で食べるために、朝早く起きて作ってきたらしい。俺には大したことのように思える。
「聞いてる?」
朝宮がこちらを向く。いったん深呼吸して、
「聞いてる」
とだけ返す。
「それで、お昼食べたらショーに行って、そのあと観覧車も乗りたいんだけど——」
朝宮は次の予定を話し始める。俺は相槌を打ちながら聞いていた。
聞いていた、はずだ。
ショーへ行くことと、観覧車に乗りたいらしいことは覚えているが、そのあいだに何を話していたのかは、ほとんど頭に残らなかった。
「五百蔵くん?」
「聞いてる」
「さっきからそれしか言ってないよ」
「……悪い」
順番を呼ばれ、俺たちはコースターの座席に並んで座る。係員が安全バーを確認すると、車両はゆっくりと動き出した。
からからとレールを噛む音を立てながら、車両が急な坂をゆっくりと上っていく。
さっきまでのやり取りと、いつ落ちるのかわからない緊張が押し寄せてきて、俺は無言のまま開けた空を見つめていた。
「ねえ」
隣から、朝宮の声がした。
「来たくなかった?」
「え?」
「バスに乗ってるときも、ずっと前ばっかり見てたし。さっきも上の空だったから、嫌だったのかなって」
いま、この状況でなんてことを聞くんだ。もうあと十数秒もすれば落ちるんだぞ。
バスでは、ジロジロ見ないようにしていただけだ。さっきだって、朝宮が作った弁当のことを考えていた。どちらも、来たくなかったからではない。
「そ、そんなことはない」
「そう? 五百蔵くんも楽しんでるならいんだけど」
少なくとも今は、楽しさより緊張のほうが勝っている。朝宮が暗い顔をしているのも焦る。何かを言わねばならないと思うが、この状況では何も思いつかない。
考えているあいだにも、車両は容赦なく上へ上へと進んでいく。
フィギュアのことなら、時間がなくても、何をどう作るべきかは冷静に考えられるのに。いまの朝宮を作るなら、少し下がった眉と、こちらを窺うような目をどう形にするか——。
なにを考えてるんだ。いまそんなことを考えている場合か。
もう、なんでもいいから、朝宮がとにかく、変な心配をしなくて済むことを言うしかない。
そこで車両が頂点まで来て、ぴたりと止まった。
「た、楽しい!」
「ほんと?」
朝宮の顔がパッと明るくなる。
「嘘ついてどうする! 嫌なわけが——」
そして視界が傾いたかと思うと、ガタンという音とともに急降下した。
「な、ぁぁああああああぁあ」
「きゃあああああっ!」
朝宮の声も聞こえる。
視界の中で、空と地面が目まぐるしく入れ替わる。その合間に、「ほんと?」と表情を明るくした朝宮の顔が頭をかすめた。
朝宮の顔が明るくなったのなら、それでよかったのではないか。よかった、はずだ。
コースターが一周して乗り場へ戻ったとき、俺は魂が半分抜けたような気分だった。速さも落下も、想像していた以上だった。しばらく、まともに話せそうにない。
安全バーを上げながら、朝宮が言う。
「ねえねえ、さっき言ってたの、続きは?」
「……つづき……?」
「だから、さっきの! コースターのてっぺんで言いかけてたやつ!」
「覚えてない」
「うそ! 絶対覚えてるでしょ!」
「落下の衝撃で忘れた」
朝宮が頬を膨らませている。この顔は本気で怒ってはないと思う。というかすごく元気だ。同じコースターに乗ったとは思えない。
「なんてスピードと揺れだ。今日はもう乗らなくていい」
朝宮はふふっと笑った。
「楽しい?」
「……楽しい」
「じゃあ、お昼にしよ」
向かった先は、さっき朝宮が指さしていたピクニック広場だ。芝生の脇にある大きな屋根の下には、長いテーブルとベンチがいくつも並んでいて、俺たちは空いていたベンチのひとつに座る。
朝宮はテーブルの上に大きめの弁当箱を置くと、ゆっくりと蓋を開けた。
俵型のおにぎりが6つと、卵焼き、唐揚げ、赤いウインナー、ブロッコリー。それから、隙間にはミニトマトと、うさぎの形に抜かれたにんじんが入っている。
「すごく弁当だ」
「なに、その感想」
「俺も弁当を作れと言われたら、こういう造形にする」
「それ、粘土で作るってことだよね。……ありきたりだった?」
「だがそれがいい」
「褒めてもらったってことにする」
その中に、一品だけ、ほかとは系統の違うものが入っていた。
弁当の一角、ひとくち大に切られたさつまいもが、飴色に艶々と光りながら紙カップに収まっていた。それぞれに、色の違う小さなピックが刺さっている。
「これは」
「大学芋。甘いものも欲しくなるでしょ?」
「ふむ?」
ピックをつまみ、そのうちのひとつを口に入れる。
「甘い」
「デザートのつもりだったんだけど」
それから弁当を食べはじめた。俺がおかずを口に入れるたび、朝宮が聞いてくる。
「卵焼きは?」
「うまい」
「唐揚げは?」
「うまい」
「……それしか言わないね」
「どれもうまいからな」
朝宮は笑っていたが、実際、どれもうまかった。
——楽しい。
さっき自分で口にしてから、朝宮と向かい合って弁当を食べているだけでも、その言葉はよく当てはまった。




