第七章(一)
一人になった美術室は、無音に近いくらい静かだった。
手に持った試作と、目の前の等身大フィギュアを見比べる。
はからずも、どちらも顔がない。
しかし朝宮は、試作を「私らしい」といい、フィギュアはそうではないという。
違うのは、顔ではない。
試作にあって、等身大にはないもの。
それは、朝宮が振り返る自然な姿――身体の動きだ。
試作では、踏み出した脚や振り返る身体の動きが見える。等身大のほうにも同じ姿を作ったはずなのに、大きなドレスや木に埋もれていた。
「俺は……朝宮を作るつもりで、遠ざかっていた」
いまさらこんなことに気づくのか。
気づいて、次にやることはひとつしかない。
俺はフィギュアの前に水の入ったバケツを置いた。
全身をビニールで覆って乾燥を防いでいたから、粘土にはまだ湿り気があり、ヘラで崩せる部分も多い。ただ、先に盛った部分は乾き始めたところもある。そこは水で湿らせながら、少しずつ削るしかない。
ヘラを手に取り、ドレスの裾へ当てようとして、止まった。
手をつければたぶん朝まで、いや、もっとかかる。ほとんど作り直しに近いことをやろうとしている。
それでいいのか?
この結論も、思い過ごしだったらどうする? 今も、かわいいフィギュアであることは間違いないはずだ。手を入れて、昨日と同じ失敗を繰り返してしまったら、今度は完成すらしない。
俺はフィギュアに近づいて、手をつけようとしては離れるのを、何度か繰り返した。
「違う。何を悩んでいる」
目の前のフィギュアは朝宮じゃない。俺が作らないといけないのは朝宮だ。
俺の思う朝宮を作れ。朝宮でなければ、いくらかわいくても意味がない。
ドレスも木も動物もなくした朝宮を作るとしたら、今ははっきりと、作りたいイメージがある。
それを形にしろ。
ドレスの裾に水をかけた。流れた水が、養生シートにぽたぽたと落ちる。これまで作ってきた木の部分、動物にもかけた。
ヘラを差し入れ、柔らかいドレス部分から取り払っていく。
ぼとり、と粘土の塊が養生シートに落ちた。ヘラを入れ直す。ドレスのひだが崩れ、また足元に落ちる。
次は木と動物。幹を覆う粘土を割り、枝の小鳥と根元のうさぎを外した。支えの角材だけが残る。
そうして粘土を取り除いていくうちに、最初に作っていた、人が振り返る姿が見え始めた。
美術室の引き戸が開いたのは、そのときだった。
「五百蔵くん」
「朝宮か」
「えっ……ドレス、取っちゃったの?」
「ああ」
意識を途切れさせたくなくて、返事がおざなりになる。
「……作り直すの?」
「ああ」
「……そっか」
それきり声がしなくなって、気づいたときには朝宮の姿はなかった。何をしに来ていたのか、明日にでも聞こう。
手を動かしていると、再び引き戸が開く。
今度は誰だ、と見ると昼間先生がいた。
「いやあ、遅れてごめん。もう1時半だねえ」
そういえば、昼間先生も来ることになっていた。手を動かしているうちに、すっかり忘れていた。
「何か用ですか」
「用はないけど先生としての仕事がねえ。あ、朝宮さんも応援したいって言うから一緒に来たよ」
「応援?」
昼間先生の後ろから遠慮がちに朝宮が顔を出した。
「応援っていうか……」
朝宮が両手で皿を差し出した。
その上には、海苔を巻いた三角形のおにぎりが5個、ひとつずつラップに包まれていた。
「夜食の差し入れ、みたいな?」
「朝宮が作ったのか」
「うん。中は梅干しと、おかか」
「先生は朝宮さんからおにぎりを分けてもらいました」
食べたのか。先に。
「ずっと作ってるから、合間に食べやすいほうがいいかなって思っておにぎりにしたけど」
昼間先生の言動はともかく、まさか差し入れがあると思っていなかった。それも深夜に俺のために握ってきたと思うと、うまく言葉が出てこない。
「……ありがとう」
結局、一言そう言うしかなかった。
「食べる?」
「食べる」
ラップをめくって、ひと口食べる。まだ温かかった。
「うまい」
「よかった〜」
「うんうん。じゃあ、生徒を一人で深夜作業させるわけにはいかないから、先生は隣の準備室にいます。扉は開けておいてね。危ない道具を使うときは呼んで」
「はあ」
昼間先生はそれだけ言うと、美術準備室へ消えていった。
「……ずいぶん変わったね」
朝宮がフィギュアを見て言う。
「まだ途中だ」
「モデル、本当に必要ない?」
元の芯や体は残っている。一から作り直すわけではない。
「大丈夫だ。ここからは、俺だけで作れる」
「……うん。がんばってね」
「ああ。朝までにはなんとか形にする」
再び一人、作業に戻った。
まずは支柱だ。
フィギュアの傾きを防いでいた補助支柱は、もう飾りはつけず、角材が剥き出しにならない程度に粘土を薄く盛ることにする。
次はドレスを取り除いたことで崩れた、胴回りに手を入れる。朝宮をイメージしながら、振り返るときの肩の傾き、捻ったときの背中から腰、脚への線を再現していく。
不思議と、粘土を盛り形を変えるたび、次をどうするか考える間もなく朝宮の仕草が浮かんで、そのとおりに手を動かせば思った形ができていく。
だんだんと、これから盛っていく粘土がどんな形になるべきで、そのためにどう手をつけていけばいいのかがわかるようになっていった。頭がぴりぴりと痺れるような、一種の全能感だ。呼吸も忘れそうなほど、粘土が思いどおりの形に変わっていくのが、面白い。
体の形を作り終えたあとは、髪に移る。高い位置で束ねた髪を、振り返る姿に合わせて、流す。
最後に、顔に取り掛かる。
何度作り直しても答えのわからなかった顔だ。
だが今度は、あの迷いはなんだったのかと思うくらい、驚くほどすんなりとできた。
ようやく手を離し、大きく深呼吸したのと同時に、ちちち、と鳥の鳴き声が耳に入る。そこで初めて、窓の外が明るくなり始めていることに気づいた。
「……もう朝か」
その瞬間、一気に力が抜ける。同時に、忘れていた空腹も押し寄せてきた。
即席の生徒会机に目をやる。朝宮にもらったおにぎりが、最初の1個を食べたきり4個まるまる残っていた。目に入ったと思ったときには、もう手に取っていた。かぶりつく。
ほどよく塩がなじんだ米と、中に入っている梅干しの酸っぱさが混じる。飲み込むなりまたかぶりつく。
うまい。最高にうまい。
結局3口で食べきって、すぐにふたつ目、みっつ目も同様に、気づけば腹の中に消えていった。
最後の1個だ。少しだけ冷静になって、フィギュアの前まで戻り、食べながら全体を見直す。
形は思いどおりにできた。だが、粗い。
表面の処理が追いついていない。とくに服の質感はまだ甘く、粘土が毛羽立ったままのところも残っている。
それでも、これが一番、朝宮らしい。
最後のおにぎりを食べ終え、窓の下の壁にもたれる。そのままずるずると背中を滑らせ、床へ座り込んだ。
「……疲れた」
すごい一日だった。まさか作り直すとは思わなかった。それでもフィギュアを見上げると、直したいところが目についてくる。まだやることはある。やれることがある。
立ち上がろうとしたが、体が重い。壁に背中を預け直すと、まぶたまで重くなった。
「……少しだけだ」
一度休憩したら、作業再開だ。まずは腕まわり。
そう考えながら目を閉じた。それきり、次に何を考えたのかは覚えていない。




