第六章(二)
美術室へ戻り、引き戸を開ける。
「おかえりー」
そこには、昼間先生がいた。
作業机のそばで、当たり前みたいな顔をして手を振っている。
「準備、できてるから」
「先生、俺はフィギュアを」
「あと雰囲気づくりのために、2階と3階の電気は全部消しておいたよ」
聞いていない。
「段取りさすがっすね」
「先生だからね」
昼間先生は、授業を始めるように黒板の前に立ち、即席の生徒会机に両手をついた。
「では、ルール説明をします。えー、スタートはこの美術室。3階奥の女子トイレ、その突き当たりの窓の下に、古い鍵を2本置いてきました。それを1本ずつ取って、この美術室まで戻ってきたらクリアです」
もともと昼間先生の発案で合宿になったのだ。最初から制作は二の次だったのではないかとすら思えてくる。
「二人一組で行ってね。女子トイレだから、鍵を取るのは女の子。男の子は入口の外で待機」
男子が女子トイレに入ってはいけない。なぜそこだけは正しく判断するのか。
「つまり、快吏くんと椿原さん。五百蔵くんと朝宮さん」
「待ってください。勝手に決めないでください」
「でも、椿原さんには先に安全確認してもらいたいんだよね。みんなを行かせて大丈夫か、見てきてくれない?」
「は、はあ。安全確認……」
不本意そうに眉を寄せたあと、快吏をちらと見た。
「わかりました。私たちが先に行きます」
「お、椿原、勇ましい」
快吏はけらけら笑いながら、椿原の後について美術室を出ていった。
「じゃあ先生、職員室にいるから。終わったら教えてね」
先生はひらひらと手を振って、美術室を出ていって、俺と朝宮だけが残された。
今回も、始めるだけ始めてあとは俺たちに任せるのか。
急に静かになった美術室の真ん中には、ビニールシートをかぶったフィギュアがある。
快吏と椿原が戻ってくるまで、時間はあるだろう。
シートを外して、もう一度見てみるか。手をつけられるところがあるかもしれない。
「作りたいなら、作っててもいいよ」
声を掛けられ、朝宮のほうを向く。
「……なに?」
「私、一人で行ってくるから。気にしないでいいし」
「一人で?」
「うん。もう夜だし、五百蔵くん、作りたいんじゃないかなって」
「否定はしないが」
朝宮はさっき、二人なら大丈夫だと言っただけで、一人でも大丈夫だとは言っていない。
このまま朝宮一人に行かせても、気になってフィギュアに集中できない。
「……行く」
「え」
「二人一組で行くと決まっただろう。フィギュアは戻ってから作る。俺が残ったら話が違う」
「……そっか」
朝宮は一度俯いてから、顔を上げた。
「やった。ありがと」
ふんわりと笑って、頬をかく。
「五百蔵くんの邪魔したくないのは本当だけどさ、一人って考えたら、やっぱりちょっとね。安心し——」
きゃああああ!
朝宮の言葉を遮り、旧校舎に悲鳴が響きわたった。
まさしく椿原のもので、二人同時に廊下を見た。
朝宮は微動だにしない。
「……快吏が、椿原にいたずらかなにかをしたんだろう。……そのはずだ」
「そ、そうだよね。うん。そうだよ」
朝宮の目が泳いでいる。
そうでなければ困る。まだ俺たちは行ってもいないのだ。
それからしばらくして、快吏と椿原が美術室に戻ってきた。
椿原は目元を赤くして、その後ろから入ってきた快吏は頬を手で押さえている。
「最低です。本当に。快吏くんが、後ろから急に肩を触ったんです。しかも、変な、すーっと撫でるみたいに!」
「そうなのか」
「違うって! オレ、なんもしてない! 触ろうととすらしてない! いきなり椿原にぶっ叩かれたの!」
朝宮が喉をひくりと鳴らした。
「下手な言い訳を! あの廊下には私たちしかいなかったでしょう!」
「だから怖いんだろ!?」
「怖がらせた本人が言わないでください!」
二人が言い争う間に、朝宮がじりじりと俺のそばに寄ってくる。
「え、えええ……怖すぎるんだけど」
ぐ。むぅ。
だが、ここでやめたら、本当に怖くて行けなくなったみたいになる。朝宮には一緒に行くと言ったのだ。そんな格好の悪いことをしてたまるか。
「……行くぞ」
「え、も、もう?」
「いま行かないと、余計に行けなくなる」
まだ言い争っている快吏と椿原を置いて、俺と朝宮は美術室を出た。
少し欠けた月が出ている。雲ひとつない。
先生のはからいで消灯された旧校舎の廊下を、月明かりが照らす中、俺たちは歩いていた。歩くたび、床板がぎぎぃ、ぎぎ……とひどく不安げな音を立てる。
後ろから、朝宮が息を潜めてぴたりとついてきているのがわかる。俺が足を止めればそのままぶつかる距離だ。
「朝宮、歩いているだけだ。もう少し離れても良いと思うんだが」
「無理。……やだ」
明らかに声が震えている。
二人なら大丈夫と言っていたはずだが、これは大丈夫ではない。
早く終わらせよう。
「目的はトイレに置いた古い鍵だったか」
「そっ、そう。そう。えと、女子トイレにあるって」
「昼間先生の言うとおり、鍵は朝宮に取りに行ってもらう必要がある」
「そうだけど……そうだけど……っ」
俺が代わりに女子トイレへ入るわけにもいかない。
再び黙って歩き出した。見えない何かに警戒して進んでいるだけあって、3階の女子トイレが遠い。
さっきの椿原と快吏のやりとりを思い出す。触ったという椿原と、触っていないという快吏。二人とも、嘘を言っているようには見えなかった。
それなら、誰が触ったんだ。
背筋がひやりとした。
……いや。そもそも、誰かが触ったとは限らない。暗ければ、何かに肩が当たっても見えない。服や何かが、引っかかっただけかもしれない。見えないのだから、触られたと決めるには——
「ぐえっ!」
俺の声が意図せず出た。
急に後ろに引っ張られた。
なんだ、なんだ!?
引っ張られる、ではない。思い切り首に腕を巻かれて、締め上げられている、といったほうが正しい。腕を振りほどこうとする間もなく、耳元で声がする。
「なんか音した! 音がした!」
声の主は朝宮だ。それはいい。
しかしこちらはそれどころではない。
「っ……」
「やだやだやだ、怖い怖い怖い〜!」
朝宮の力がどんどん強くなる。背中に何か柔らかいものが当たっている気もするが、本当にそれどころではない。
「朝宮……」
俺は必死に朝宮の腕をタップした。
「五百蔵くん、聞こえた!?」
「あ、朝宮」
「ねえっ、……あれ?」
そこでようやく朝宮の腕から力が抜けた。
俺は解放された勢いで前につんのめり、咳き込みつつ、なんとか体勢を整える。
「げほっ……朝宮に殺されるところだった」
「ごめんっ、抱きついちゃって……でもほんとに、なんか聞こえてっ」
俺には、なにも聞こえなかった。
抱きつかれた、というより締め上げられていたので、音を聞く余裕などあるはずもない。
しかし、振り返って朝宮の顔を見上げると、半泣きだった。このまま、そんなの聞こえなかった、気のせいだと言い切るのは、さすがに憚られる。
けほ、と咳をして、喉をおさえつつ朝宮に聞く。
「……どこから、どんな音がしたんだ」
「……あっち。あそこから絶対音した」
朝宮が俺の袖を引いて指さすほうは、さっき通り過ぎた音楽室だ。少しの距離とはいえ、戻るのか。
「怖いんじゃないのか。音の正体をわざわざ確認しなくてもいいだろう」
「でもこのあと3階の女子トイレまで行くんだよ? 気になるじゃん。原因わかれば怖くなくなるかもしれないし」
朝宮は音楽室を見たまま、俺の袖を握り直した。
「私一人で行くのは無理。だから一緒に確認しよ」
「……確認するのは良いが、また首を締められたくない」
朝宮は少しだけ黙った。
「じゃあ、手。手、繋いでおいて」
む。
手を繋げば、首に腕を回される心配はない。俺が求めたとおりだ。
俺は差し出された手を見ながら、ほかに方法はないか考えた。何も思いつかない。
「……わかった」
「ん」
俺はその手をとり、朝宮を連れて音楽室に入った。
ここも家庭科室と同様、旧校舎とはいえ、いまも授業で使われている教室だ。床に埃が積もっているわけでも、壊れた楽器が放置されているわけでもない。
月明かりに照らされた机と椅子、窓辺のカーテン、壁際に並んだ譜面台、黒板の横に置かれたピアノがあるだけの、ただの音楽室だ。
そのとき、音がした。きん、と高い金属のような音で、一瞬だが耳に残る音。
「ひっ」
朝宮の手に力がこもる。
「痛い」
「ご、ごめん。でも今の!」
「ああ。今のは聞こえた」
音は、窓際からだ。ピアノ側にある窓のカーテンが揺れている。
近づいてみると、窓がほんの少しだけ開いて夜風が入り込んでいた。そばの譜面台には、楽譜が置き忘れられている。
その隅に小さな金属のクリップが留めてあって、ときどき風で紙ごと浮き、戻るときに譜面台へ当たって、きん、と細い音を立てた。
朝宮、こんな小さな音を廊下から拾っていたのか。
空いているほうの手で窓を閉めながら、朝宮に言う。
「風で楽譜のクリップが譜面台に当たってるだけだ」
「……なっ、なーんだ」
二人とも黙った。原因はわかったのに、朝宮は手を離そうとしない。さっきは原因がわかれば怖くなくなると言っていた気がしたが。
——手は離さなくていいのか。
そう言おうとして目を落とすと、朝宮の指が目に入った。そのまま、言いかけたことを忘れた。
朝宮の姿はモデルとしていろんな角度から見てきたが、手をここまで近くで見たことはなかった。俺の手を握る指は、思っていたより細く、長い。曲げた関節から指先まで、目でたどる。
「五百蔵くん? ど、どうしたの」
「手を見てる」
「へっ?」
「指が長い。作るとき、少し短く見積もっていたかもしれない。戻ったら修正しないと」
「……もう!」
朝宮に思い切り手を振りほどかれた。
「そういうこと、手繋いでるときに言う!?」
「いま気づいたんだ。仕方ないだろう」
「そう、ですね! 早く女子トイレいこ!」
朝宮は大股で足音を響かせながら音楽室を出ていく。
なんなんだ。俺もその後を追った。
階段を上り、3階へ出る。女子トイレは、そこから廊下を進んだ先にあった。扉のすりガラス越しでは中の様子はわからないが、男子トイレは普段から使っている。新校舎と違って改装されておらず、床も壁もタイル張りだ。こちらも似たようなものだろう。
そのままの勢いでトイレに突入するのかと思ったが、朝宮は扉の前に立ったまま、すりガラスを睨みつけている。
「五百蔵くん」
「なんだ」
「開けとくから、見ててね。この入口から、見てて。鏡は、見ないようにしてくる」
鏡に何かが映っても、見てはいけない。快吏はそう言っていた。
「……分かった」
「絶対だから」
慎重に、女子トイレの扉に手のひらをついた朝宮。
一呼吸置いた瞬間、ばんと扉を押し開けた。
月明かりに浮かぶ女子トイレの間取り。まっすぐ進んだ先に窓があり、窓台の上に何かが乗っている。あれが鍵か。
それからの朝宮は早業だった。一歩、二歩、三歩。軽やかなステップで窓まで近づいていき、置いてあった鍵を取る。
そして無駄のない身のこなしで翻り、同じ調子で入口まで戻ってくる。俺の目の前で、体操選手のように両手を上げ、ぴたりと止まった。
「と、とったー!」
「すごい身体能力だ。動きがしなやかだった」
「これでミッション達成だね!」
朝宮が鍵を握ったまま、俺に笑いかける。さっきまで半泣きだった人間とは思えない。
まあ、怖くなくなったのならいいのか。




