第六章(一)
旧校舎の家庭科室は、調理実習で使った本校舎の家庭科室と同じくらい設備が整っている。
ステンレスの調理台が並び、流しも蛇口も磨かれている。壁の「包丁の使い方」なるポスターが色褪せているくらいだ。
「みなもちゃんと私の二人で、お野菜を切っていきましょう」
「うん、任せて。五百蔵くん、お米研いだこと、あるよね」
「ある」
さすがに、それはできる。快吏は食器と飲み物の準備に回った。
俺が米を研いでいる間に、朝宮と椿原は野菜を切っていく。ザルににんじん、じゃがいも、玉ねぎが積み上がり、最後に朝宮が豚肉の塊に手を付けた。
「カレーのお肉は、大きいほうが好きなんだ〜」
鼻歌まじりに、笑顔で包丁を振り下ろす朝宮。豚肉がぶつ切りになっていく。
「好きなのか、カレー」
「好きだよ、もっちろん! え、嫌いな人いる!?」
朝宮の中ではカレー嫌いな人間は存在しないらしい。
それから米は炊飯器に投入し、切った具材は大きめの鍋に投入された。
煮立って野菜が踊る鍋を見下ろしながら、朝宮がボトルを取り出した。
「隠し味入れておくね」
赤いキャップで、オレンジ色の中身が入ったそれは。
「はちみつか」
「そう! はちみつ入れるとまろやかになって美味しいんだよ〜。朝宮家秘伝の味!」
朝宮はボトルの中身を回し入れている。何回も、何重にも。
「……隠し味ではないほど入ってるように見える」
「煮込むからそんなに甘くならないんだよ!」
そうなんだろうか。快吏は信じられないような目で見ているが。
「……味付けはみなもちゃんに任せましょう。秘伝の味だそうですし」
椿原もやや顔がひきつってるが、そんな俺たちなどお構いなしに朝宮は中身すべてを入れ終えた。
しばらく煮込んだあと、朝宮は赤や茶色の粉を数種類、最後にカレールウを割って鍋に入れる。茶色いかたまりが煮汁の中で少しずつ溶け、鍋の中身はとろみを帯びたカレーに変わっていく。
湯気に混じって、家庭科室いっぱいにカレーの匂いが広がった。
「ご飯を食べに来ました」
振り返ると、家庭科室の入口に昼間先生が立っている。
見計らったようなタイミングだ。同じことを思ったのか、椿原が言う。
「先生、いつからいたんですか」
「いま来たよ。いい匂いがしたから」
先生はまっすぐ鍋のほうに歩いてきて、朝宮の横から中を覗き込む。
「先生も食べるんですか?」
朝宮が聞いた。
「え? 先生だけ除け者?」
「え?」
しばし見つめ合う朝宮と昼間先生。朝宮のほうが背が高いので、若干見下ろす形にもかかわらず、昼間先生は朝宮の肩に手を添えると、諭すように言った。
「先生は……引率だよね。引率というのは、生徒の安全を見守る仕事ですね。それなら……食べるべきですね」
いまのはどうつながるんだ。
朝宮も「はい」と頷いていたが、次の瞬間には「あれ」と声を上げていた。
と思っているうちに昼間先生の分の皿も用意され、五人で調理台を囲んでいた。
「やっぱりカレーっていいねえ。いただきます」
誰より先に両手を合わせた昼間先生が、上機嫌に言った。
快吏と椿原はまだ食べずに、昼間先生をじっと見ている。はちみつの事情を知らない先生が、大口を開けて食べ、咀嚼する。
「うん、おいしい」
二人は息を吐いてスプーンを手に取った。
「みんな、信じてなかったの?」
朝宮の恨めしそうな声音に、快吏は目をそらした。
「いやあ、まあ、ほら」
椿原がひと口食べる。
「そんなことないです、美味しいですよ」
俺もそれに続く。
豚肉は朝宮が言っていたとおり大きめで、食べごたえがある。そして甘い。だが、あとからしっかり辛さも来る。あの赤や茶色の粉が効いているのだろうか。妙な感じだが、もう一口食べたくなる。
「うまい」
「秘伝だって言ったでしょ」
朝宮は得意げに片目をつぶった。
昼間先生はもう、おかわりがあるか聞いている。
「そういやさ。旧校舎の噂、知ってるか」
全員が快吏を見る。だれともなしに、「噂?」と返すと、快吏は調理台の中央に身を乗り出した。
「幽霊が出るってやつ」
「えっ……幽霊? きゅ、旧校舎に? そんな噂聞いたことないよ」
「あれ、ない? 旧校舎で何かを忘れて取りに戻ると、忘れた場所にはもうなくなってるってやつ」
「はぁ……思い過ごしじゃないですか〜?」
「そうだ。そうに決まっている」
これで話は終わりだ。終わりにすべきだ。
しかし快吏は、にやりと笑った。
「普通はそう思うだろ。だから探す。教室とか、廊下とか、階段とか。そうやって旧校舎をうろうろしてると、どこかから音がすんだって」
「音?」
「そう。一定のリズムで、こん、こん、って何かを叩く音とか、鈴みたいな音が聞こえるんだと」
朝宮はカレーを食べる手を止めて、快吏に釘付けになっている。
続きが聞きたいのか。俺はもういいのだが。
「その音を追っていくと、3階の奥に着く」
「……やめて」
朝宮が小さく言った。
「で、3階の奥ってのは、女子トイレがあるところだろ。そこから音がして……開けてみると、だあれもいない。かわりに、洗面台に、忘れ物が置いてある」
なんだってそんなところに。落とし物なら職員室に届ければいいだろう。
「で、安心して忘れ物を取ると、鏡に——」
「きゃああああ!」
朝宮の悲鳴で、俺も多少なりこわばっていた身体が跳ねる。
「誰かが映ったとか、映らないとか! って、そういう噂があんの」
「もういいって!」
「いやいや、これが重要でさ。鏡に映ったその何かを見たらだめなんだって。忘れ物を返してもらう代わりに、別のものを置いていかなきゃいけなくなる」
「ああー。そんな噂、あったねえ」
昼間先生がぼんやりと言う。3杯おかわりしたカレーも、すでに平らげていた。
「一時期、有名だったもんね。もう何年も前の文化祭冊子に、忘れ物返しの話として載ってたくらい」
何年も前から、と聞いて快吏の目が輝いている。
椿原はカラにした皿を脇へ寄せながら、笑顔で問う。
「快吏くん? 私たちはこれからここに泊まるんですよ? なんでそんな話するんです?」
「飯食ったら暇だし、腹ごなしに肝試しでもしようぜってこと」
「やめろ」
「余、お前、怖いの?」
「……怖いとは、言ってないだろ」
「じゃあいいじゃん」
「よくないですよ? 決めないでくださいね」
怖いからではない。断じて怖いからではないが、こういう実態のない話は苦手だ。いるならいるで、せめて見える形で出てきてほしい。見えないものに気配だけ出されるのが一番困る。
そこで、昼間先生が席を立つ。
「そうだねえ。暇だし、試してみよっか。忘れ物返し」
引率は生徒の安全を見守る仕事だと、ついさっき本人が言っていたのに。
俺たちの中で賛成しているのは快吏だけだ。椿原は明らかに反対しているし、俺もやりたくはない。朝宮はスプーンを握ったまま固まっている。
昼間先生はそんな朝宮の視界に入るように顔を寄せた。
「朝宮さん、先生の代わりに確かめてきてくれない?」
「え、私ですか?」
「うん。先生はもう生徒じゃないからね。ずっと本当なのか気になってたんだけど、この怪談は生徒じゃないとだめらしいんだよね」
昼間先生は急にしおらしい顔になって、朝宮を見つめた。
「いま思い出した、うん。そう、先生の唯一の心残りを、かわりに見届けてほしい」
「こ、心残り……?」
「みなもちゃん、ほだされちゃだめですよ〜? とんでもないお願いをされてますからね。いま思い出すのも変ですよ」
それでも朝宮は断らない。俺たちと昼間先生の間で、視線を行き来させている。
「でも、さすがにちょっと怖くて」
「あ、それなら大丈夫! 二人一組で行ってもらうから」
「二人一組?」
それだけで、朝宮の強張っていた表情が少し緩んだ。
人数が増えても、見えないものが見えるようになるわけではない。そこは考え直してほしい。
「朝宮、冷静に——」
「二人なら、大丈夫かな」
……なんてことだ。
「わーい。これで朝宮さんも賛成〜。多数決で決まりねー」
「よっしゃー」
快吏も一緒になって喜んでいる。
椿原は握りこぶしを机の上で震わせながら、
「先生のやることとは思えません」
と抗議する。
椿原の言葉には同意だ。だが、正しいことを言っても票は増えない。
「先生は準備してくるよ。きみたちはどの順番で回るか決めておいてね」
昼間先生は、やけに軽い足取りで家庭科室を去った。
窓の外を見ると、すでに日は落ち、暗くなっている。
夜だ。だったらもう、フィギュアには触れるはずだ。
「俺はフィギュアを作る」
「おいおい、肝試しやらないなんて選択肢あるか!?」
「なんでだ。俺の制作合宿じゃないのか」
「これもフィギュア制作に関係あるって」
「ない」
心霊体験なんて、造形の参考にはならない。見えないものをどう作れというんだ。
「二人一組ってことはオレらで2チームなんだからすぐだって」
「そういう問題じゃない」
「早くチーム分けしてちゃちゃっと回ってくるとか」
「ストップ、ストップ!」
朝宮が俺たちの間に入る。
「みんなごちそうさまだよね? とりあえず、後片づけ!」
それから大人しく、全員で後片づけをすることになった。先生が綺麗に平らげた皿も、もちろん片づけた。




