44 願い事はひとつ 下
ズキンズキン――と、身体に響くくらい痛い。
足が痛い。ぶつけたのか、肩も痛い。というより、全身どこもかしこも、痛い。
額から目の横をひとしずく、滑り落ちていったのは、汗なのか、血なのか?
息苦しいけど、口だけは動いて、不安をかき消そうと、言葉を紡ぐ。
「……はぁ……失敗しちゃった。……蜘蛛の巣ばかり、気にしないで、足元も、確かめて歩かなきゃ、だめだった、ね」
雑草の丈が高くて、それをかきわけながら歩いていた。
拾った木の枝で、蜘蛛の巣をはらいつつ、一歩足を踏み出したら、当然、あると思っていた地面がなかった。
「!」
悲鳴をあげる余裕もなかった。
足から滑り落ちていった。
なにか掴もうとしても、手を伸ばしても掴めなかった。
勢いを増し、落ちていく。ぶつかる、岩や木や、いろんなものに。
そのたびに、衝撃と痛みが走る。
助けを求める相手はいないから、ただ、落ちていく。
大人しく、家にいて、悲しみにひたっていればよかった?
正座して、あなたの抜け殻のはいった白い箱をみつめて、泣いていればよかった?
笑っている貴方の、大きな写真。
きみの笑顔が好きだよといっていたあなたに、泣き顔しかみせられない自分が、嫌いになっていた。
これ以上、自分を嫌いになりたくなかった。
だから、あなたが行きたいといっていた神隠しの樹海と呼ばれてる場所に来た。
かつての都市があった廃墟に行けば、そこから違う世界へ行くことができると、いわれていた。嘘か本当かは知らない。たぶん、眉唾ものの、怪談話だろう。
でも、それだけが、何をする気にもなれない私を動かした。
樹海のなかにはいってから、かなり歩いたと思うのに、廃墟なんて見当たらない。歩き出してすぐに、くずれかけた廃屋と朽ちかけた神社があったくらいで、後はずっと手つかずの自然しかみていない。
雑草だらけ、鬱蒼とした木々、歩きにくい獣道とも言えないような場所を、苦手な虫を避けながら歩いてたら、足元がおろそかになってしまい、滑落するなんて――我ながら、ばかとしかいいようがない。
かなりの高さを落ちたと思う。少し気を失っていた。
動けないし、どうしよう。
スマートフォンは画面が割れてしまって、電源がはいらない。助けを呼べない。
こんな形で、彼のあとに続くことになったら、きっと、怒られる。嫌われるかもしれない。
彼は私に生きてほしいと言ってたから。
少し休んだら、なんとか立ち上がって、来た方へ……もとの道に戻ることができるだろうか?
落ちるときも握りしめていた棒は、奇跡的にそばに転がっている。
それをつえ代わりに、たてる?
痛みさえ我慢すれば、きっとできるよね。
それにしても、私は本当に馬鹿だ。
なんでこんな、無謀なことしちゃったんだろう。
彼のところへ逝きたいと何度も思ったけど、いざ、そうなりそうになったとき、心は恐怖で震えてる。
こんなどこともしれない場所で一人で、こんな森の中、熊とか出てきたらどうしよう?
食べられてしまう? それは、いやだ。
そんな怖い想像を、身体を動かせない絶望的な状況でしていた。
涙がにじむ。
その水分でみえにくくなった視界が、白いものをうつす。まばたきをする。
私の周りを囲っている。
霧? 天候はからりと晴れていたはずで、霧のでそうな気配はなかったのに。
……――。
声が聞こえた。
彼の声ではない。
だけど、なぜだか、懐かしさを感じる声が、頭の中に直接語りかけてきた。
――なぜ、還ろうとするのか?
――ここに戻ろうとするのか?
あまりに愚かで、哀しいことだ。
違う。私はそんなつもりなんてなくて、ただ、……彼の行きたかったところへ、かわりに行こうとしただけ。
――行かなくとも、みえなくとも、あれは、そなたのそばにいる。
不思議とその言葉はストンと私の心に落ちた。
疑わなくとも信じられた。
「…っ」
とまっていた涙があふれだした。
いつだって、きみのそばにいるよ、そう聞こえた気がした。
頭の中に聞こえる声は、続けた。
――無謀な行いが、そなたとそなたの中の生命を消そうとしている。
「……え?」
生命? 生命って……。
――そなたのなかに、生命がみえる。
――今にも消えそうな、そなたと共に消えていく生命だ。
「! 嫌だ」
叫ぶ。
嘘でしょう? ウソだ。そんなことって。
知っていたら、気がついていたら、こんなところに来なかった。
無謀な、無茶苦茶なことをして、あるのかわからない廃墟を探して、樹海になんてこなかった。
大事に大事に、彼の分まで、大切に大切に、この子を守り、育てた。
震える腕を、自分の腹部に伸ばす。
失いたくない。私はどうなってもいいから――助けてください。
「―――様」
私はかつて知っていたその尊い名を呼び、救いを求めた。
硝子が割れたように、激しく刺さるかのように、私の中で、遠い昔の今ではない記憶が蘇った。
すべてではない。だけど、姿は違えど、そのなかにも彼はいた。
「お願いします。助けてください。お願いします」
口端から血がこぼれても、何度も、願う。
ため息が聞こえた気がした。
――……かつての愛し子よ。私は、死を司るものではない。死の国におちる魂をふたつも救うことはできない。
だが、創ることはできる。
そなたの残りの生命で、その、小さな生命の壊れかけた身体を治すことならできよう。
そなたの魂は、消えるかもしれぬ、いいのか?
「お願いします」
ためらう必要なんて、少しもなかった。
私の生命で、救えるというのなら、それでいい。
私のばかな行動がこの結果を招いたんだから。
私の生命で贖う――それでいい。
「……ごめんね、もう、来世では会えないかもしれない」
そばにいるという彼に謝る。
大丈夫、僕も一緒だよ、と声が聞こえた気がした。
私たちは、前世も今世も、来世でも、何処でも一緒だよ。
「……」
身体を白い霧が包む。
意識が消えていく。
身体が冷えていく。
だけど、お腹はあたたかい。
願い事はひとつ。
私の願いは、この子に生きてほしいということ。
健やかに、伸びやかに。
人の生命は、唐突に、いつ、どうなるかわからないね。
昨日までの私は、こんなことになるなんて、かけらも思わなかった。
生命は儚い。
「……ばかな、お母さんでごめんね」
つぶやきのあと、私の意識は消えた。




