かってに源氏物語 第五巻 若紫編
少し地味な若紫編と思ったのですが中々どうして、紫式部の物語性には驚かされます。
やはり日本一の最高傑作ではないでしょうか。
かってに源氏物語
第五巻 若紫編
原作者 紫式部
古語・現代語同時訳 上鑪幸雄
一
源氏の君、十八の春の御年になり賜えれば、童病みに患い賜いて、よろずの貴族の風習に交じない、加持祈祷などをし参らせ賜えども、御回復のしるしなくて、あまた度々高熱の起こりに患い賜いければ、ある人、
「京の北山になむ、何がし寺という所に、賢き病を治す行い人が御住まいはべりける。去年の夏も世に何人かの病が起り出でて、人々御まじないに煩らい祈祷受けしを、やがてすこぶる元気に留むる人、たぐいなく大勢の方が余多おわしはべりき。
光源氏様も病が中々治しし切れんこらかしきつる時は、何かと今の治療をうたて疑いまつり、北山にお伺いはべるをも、よろしいかとも思いはべりき。とくとこの事をこそ、試み賜われはめれ」
など側近の進言聞こゆれば、光源氏様はこの気遣いをお気に召して、北山の寺へ使いの者を遣わしたるに、
「老い屈まりて腰も曲がれば、洞窟よりむろの外にも、まかり出る事ができず、御勘弁下さりませ」
と申したれば、源氏の君、
「そうなればいかがせむ。『いと忍びてでも参りものせん。その気があるならば、こちらから出掛けて来よ』と言う事か」
とのたまいて、馬を数頭準備させ、御供に睦まじき四・五人ばかりをを召して、まだ夜も明けきらぬ暁に、その北山の草庵に着きおわす。
やや深う入り組むる所なりけり。三月の末、月籠りとなれば、京の花も盛りは皆過ぎて、やや遅うになりけり。ただ山桜はまだ盛りにて、山裾から見上げれば、まだまだ見頃とも言える。気候は暖かくて程好い季節なり。
草庵に入り下男の持て成しおわするままに伺えば、春霞のたた住まいもおかしう風流に見えれば、掛かる荒れ果てた庭の有様も、見慣れならい賜わず面白き屋敷と思す。所狭き宮殿で暮らす御身にて、珍らしう変わった暮らしなりと思されけり。
寺の様も、いと貧しう哀れなり。案内人の話によれば、峰高く深き岩山の洞窟の中にぞ、聖の修行僧は暮らし入り給い居たりける。
光源氏様も案内人の後を追い、岩山を登り賜いて、御身の名前を誰とも知らせ賜わず、老人と向かい合わせれば、汗と泥にまみれて服もいと痛うやつれ賜えれども、知るき高貴な皇子の御様なれば、
「あな賢き王族の子や。何を当てにして一人一日費やし召して、こちらへはべりしにや、わざわざこちらへおわしますらむ。ここへ参られても、願いが叶うとは参らせぬぞ。
今はこの世の政治向きになどに関心を思い給えねば、私は世捨て人も同然。修験方の加持祈祷も棄て忘れて生きはべるを、いかでか、どう血迷わられたものか、こちらへ居わし奉らしつらむ」
と、わざとらしく驚き騒ぎ、源氏の君がどれほど自分を信頼しているのか、打ち微笑みつつ振り返り見奉る。いと気高く自信に満ちた多太き大徳の男なりけり。
さるべき厄除け護摩札らしき物作りて、灯明の明かりに透かせ給えれば、念仏を唱え奉る。加持祈祷なども惜しみなくし参るほどに、瞑想に惑わされている程に時間も過ぎて、気晴らしに外へ出てみれば陽高く差し上がり、昼近くになりぬ。
春風に吹かれて、少し道際に立ち出でつつ下界を見渡し賜えれば、祈祷の場所は高き所にて、ここそこかしこ、弟子の僧坊どもの住まいが露わに見下ろさるる。
ただこのつづら折りの道の下に、同じ小柴の竹垣なれど、うるわしう住まいを造り直し渡して、清げなる整然とした館、廊下など続けて大邸宅装い見ゆる。庭の木立、いと良しに剪定されあるは、
「何人の住む館にか」
と源氏の君問い賜えれば、御供なる人、
「これなん。あの噂に聞く何がし僧院の僧都の隠居住まいにはべりき。このふた年瀬の月日、ここに籠り御暮らしの方に間違いなんと思いはべるなる」
と答ゆ。
「世間を遠ざけ、心恥ずかしき人住むなる所にこそ、あながちに魅力なれめけれ。怪しうも、余りやつれし切れず整いたる住まいかな。帰りの際、是非ともお会いして、事情を聞き物すれ」
などと、のたまう。
さらに峰高き岩山から僧都の屋敷を見詰めていると、清げなる童など四・五人余た奥より出で来て、仏に阿伽水を奉り、仏壇へ供える花折りする者もそこからは露わに見ゆる。
「あそこかしこに、女どもこそ何人か有りはべりけれ、主の僧都はよもや『人前で騒ぎ立てよ。家の中は明るい方が良い。人々の注意を行くのだ』と、わざわざ左様には言い給わじを。警戒心の薄い童どもよ」
と光源氏様が言えば、
「この田舎にしては身なりの良い童ではないか」
「いかなる人ならむ」
と、口々に中を覗きながら言う。
中には山から下りて降りて、屋敷の中を覗く者もあり、
「おかしげなる女子供、若き人、童なん見ゆる。中に一人、清げに目鼻立ち整い、大物になる気配の賢き姫君有り。」
と、興味有り気に高笑いしながら帰って来て言う。
「それならば若君の世話女房にどうじゃ」
と別の者が言えば、
「それよそれ、若君の正妻に推薦したいほどじゃ」
と若君を見ながら言う。
「冗談も休み休み言え。光源氏妻には葵の上がすでに居るではないか」
「それはそうじゃ」
「それほど良い姫ならば、一度立ち寄ってお会いしたいものじゃ」
と光源氏様のたまえば、
「是非ともそうなさりませ」
と供の者は言う。
二
君は加持祈祷の行いし賜いつつ、日高くなるままに時間も過ぎてしまい、
「いかならん。この祈祷はいつ終わるものぞ」
と思したるを、供の者、「若い宮様にとって退屈でございましょう。
とかう読経が終わるまで外へでも出でて、気を紛らわせ賜いてお過ごしくださいませ。ここは私共が御勤めを果たします。
ともかくこの老僧は祈願に事の外、熱心に思い入れぬるなん。良く祈り、良くはべる」
と聞こゆれば。君は尻へ方向、木が茂った山に立ち出でて、眼下に広がる京の都を見賜う。はるかに遠くの山々まで霞み見渡さり賜いて、世物ある限り木々の梢こそは、そこ端かとなう遠くまで煙ぶり渡る程、芽吹きに覆われ給う。
「絵に描いた様な理想郷の風景に、いと良く似たるかな。この道に係わる所に住む人、これほど世を離れてのんびりと暮らせるならば、いつ死んだとしても、心に思い残すことは何もあらずかし」
と源氏の君のたまえば、供の者、
「これに満足なさいますとは、いと浅く思いはべり。他の人の国などに有りはべる海・山の、有様などを御覧ぜ旅行にはべらば、如何にここの風景の御絵に比べ、いみじう他の名所の方が勝らせ給わむと存じます。
富士の山、何がしの御嶽山、甲斐、信濃の遠くの雪山を御覧ぜ召されるならば、ここの景色も忘れるほど満足でございましょう」
など語り聞こゆるもあり。
「いやいや西の国、小豆島の岩山は山水画のごとく美しいと聞く。厳島の海や鞆の浦々など上々らしい。北国においては天の橋立、若狭、越前の磯、他に伊勢の海、虹ノ松原など、ここに比べれは、なかなか美しい景色だと聞くぞよ」
他にも、山よりもその上を言い綴る者もありて、よろずに世間話に退屈さをまぎらわし、雑談が聞こゆ。
「そうだとも。近き所にては、播磨の明石の浦こそ、ことに訪ね召しはべれけれ。何の至り深き隈の趣はなけれど、ただどこまでも続く海の面を見渡したるなん。心が晴れ晴れとなるぞ。
あそこの磯に座り海を眺めていると、都の出来事など一笑に値するぞ。怪しく荒れ狂う外洋の、あの異所に似ず、ゆったりと静かで、ゆほびかなる所にはべる。
かの播磨国の前の守、新発意入道の娘、賢づきたる家で暮らし、豊かに致しかし、何不自由なく暮らしていると聞く。
親は近衛の中将の身分を捨てて・・・・
三
家は大臣を輩出した家柄の後の子孫にて、出で立ちもて立派で権勢を振るいすべかり人の様相なれど、何分にも世のひがみ者の性分にて、世間との交じらいもせず、世捨て人の暮らしにして生きはべる。
近衛の中将の身分を捨てて、代わりに得た播磨の介を申し給わりける司なれど、かの国の地元の人にも少し侮づられて、何を思い立ったのか、
「何かの面目にか、また都にも帰らん日が来るらん。その時は帝にお願いして兵を引き連れ、そなたたちを成敗してくれようぞ」
と言いて、頭の髪も降ろしはべりにけるを、まだ世の中に未練があるのか、少し奥まりたる草庵に山住もせで、人目に付きやすい、さる海づら近くに出で、住まいを構え居たる。
ひがひがしき偏屈者ようなれど、げにかの国の内にも、さも満足すべき人の籠り居ぬべき見晴らしの良い所々は幾らも有りながら、深き山里は人離れ心すごく、
「これでは世間から忘れ去られてしまうのも悔しい」
とでも思ったのか、若い妻子の思い侘しいと悲しみぬべきにより、かつ一方では都の栄華も捨てきれないのか、宮中住まいに心をやれる住まいになんと暮らしはべる。
つい最先き頃、私が播磨の国にまかり下りて、役所に用向きを伝えはべりしついでに、新発意入道様の有様を見給へに寄りて様子を見はべりしかば、京にてこそやれなかった良い事が、所えぬよう多くなりけれ。
「都落ちも悪くないぞ」
と言う。
そこらかしこ屋敷をはるかに遠く見渡せるほど、敷地をいかめしう占めて造れるさま、地方へ下りし者しかできぬ贅沢なり。
「天下の右大臣家とも言えども、我がこの敷地の広さにはかなわぬだろう。わっ、ははは・・・」
と豪快に笑っておいででした。
さわ言えども、国の司にて仕置きけることとなれば限りがあり、残りの齢、豊かに経ちふべき心構えも二になく、準備万端にしたりけり。娘を養育しながら、後の世の勤めもいと良くして仏を奉り、
「熱心に経典を詠む姿、なかなか法師勝りの経読したる人になん、熱心な信者にはべりける」
と申せば、
「さてその娘は、なかなかの美人なのか」
と、問い賜う。
「氣しう、別にそれほど悪くはあらず。容貌形、心ばせなど、まあまあ人並み以上にはべりける」と言うなり。
「代々の国司など要職の身分の者が、用意事の外、周到にして婚礼の準備を万端に整えて、明石の君のさる心映え見透かすなれど、姫の気持ちは更に受け引かず、なかなか承諾しないようでございます。入道は、
『我が身の浅はかにて、かくいたづらに地方へ沈めたる左遷だににあるを、家の名声を取り戻すには、この人、姫の一人の活躍にこそあれ。娘は無難に国司に嫁ぐ意向のようだが、我と思う様異なり。
姫は帝の元へ行かねばならぬ。
もし我の願いに後れてのその志遂げず、我がこの思いに反して平凡な暮らしに甘んずる事起きつるなど、先祖の意向に宿世違わば、海に入りねて死ぬる』と常に遺言し置きて、言い聞かせはべるなる」
と聞こゆれば、源氏の君もおかしく興味有りげに聞き賜う。
そこに居た供の人々、
「娘にその気がないならば、二人して海に入り、海流王の妃になるべき宿命べき宿命ぞ。神にお仕え居付き、海の底で暮らすべき娘なるなり」
「親の心高さ、心苦しや。娘もさぞ、心の負担になろうに」
「そうぞよ。国司の身分にしては呆れて物が言えぬ。『娘を帝へ嫁がせるなど』もっての外」
とて言って笑う。
四
供の者が
「かく言うは、播磨守の子、蔵人を六年間勤め上げ、慣例により今年より叙爵五位をかうぶり得たるに成りけり。兄の口利きがあらば、宮中へでも参内できるとでも思ったのであろう」
と言えば
「いと娘が男を好きたる者なれば、かの入道の遺言を破り、国司へ嫁ぐつべき心もあらんかし。さてこの良清が新発意入道の屋敷にたたずみ、度々寄るべならむ」
と、言い合えり。
「いで、参ったぞ。何しに参る。妻夫とも田舎浸たらむ、無教養な親子なるぞ。幼くより、さる所に生いい出て、野蛮な暮らししか知らぬ。古めきたる親のみに従いたらむは、無教養な娘であろう」
と供の者が言えば、
「そうとは限らぬ。母こそ由緒ある家柄であるぺければ、なお母親が学問に猛れば子供も自ずと身に付く。
母親は学問に自信がないのか、よき若人、童などの、都のやむごとなき所々より暮らし振りを学びたいらしく、教材や遊び道具類、衣類などに触れて訪ねとりて買い入れ、それを知る者があれば家に招いて、まばゆくこそ持て成し、教えを請うなどすなれ」
と言う。
「情けを掛けて骨身『惜しみなき人に成りて教育に行かば、さて、心安く惚れられて、必ずしもえ、放って置きたらじ』をや。お前は財産目当てに、惚れた振りをするのか」
など言うものあり。君は、
「何心ありて海の底まで深う身を沈めてでも、宮中参内を思い入るらむ。海の海類芽も、物難しう体に巻き付いて、気味が悪かろうに。
海女の住む 底の見る目も 恥ずかしく 磯に生いたる ワカメを摘む
海女が取る 底のワカメに 恥ずかしく 磯に生いたる ひじきを摘む
いやいや関係ない。入道の参内の願い、海の底よりも深いと言うことだろう」
などのたまいて、ただならず『よほど悔しい思いをして都落ちしたのだろう』と思したり。
かのように於いても、なべてならず者が持てひがみたることを好み、覗き賜う御心なれば、何事も御耳に留まらず、光源氏様は、
『手出し奉らむや』と、見立て奉る。供の者は、
「暮れ掛かり日も沈みぬれど、若君の病が起らせ賜わず今にも発病成りぬるにこそは有れめ。早く二条院へ帰らせ賜いなん」
と、申し出あるを、ここの草庵の大徳、
「御物の怪など、夜道は鬼や狐、熊や河童など、更に恐ろしい物加われるさま、おわしけるを、今宵はなお此処に静かに留まりて、加持祈祷などに参りて祈り、明日の明け方居出でさせ賜え」
と申す。
「さもあること。物の怪に出くわすでもしたら、我々の命すらどうなるかも分からぬ」
「そうよそうよ」と、皆申す。
君も掛かる外泊の旅寝も、通常習い親しみ賜らぬ珍しい事なりねば、さすがにおかしく面白く感じて、
「さらば明日曙に出発致そうぞ」
と、のたまう。
五
日もいと長きに暖かく、連れづれに卯月の頃合いになれば、夕暮れのいたう霞み増したるに、光源氏様は旅の気の緩みが加わりて、外へ出掛けてみたくなりました。
自分の姿がおぼろげに人目に付きにくく、供の者も帰宅の日取りが延びた事で退屈さが加わり、草庵の周りを散策しております。光源氏様はどさくさに紛れて、かの昼間見た小柴垣の僧都の屋敷の元に立ち出で賜う。
「何々どうした」
「光源氏様、中に誰か好きな女でもいるのですか」
と供の子供たちが駆け寄れば、
「しっ、静かにせぬか。てめえらは草庵に戻って。寝床の準備でもしておけ」
と惟光が叱り飛ばす
「ちぇっ、つまんねえの。楽しそうな事がいっぱい有りそうなのに」と言って、童侍はしぶしぶ僧院へ戻って行きました。
人々は帰し給いて、惟光朝臣と光源氏様が屋敷の中を覗き賜えば、ただこの屋敷の西表に面した部屋に、お守りの持仏を懐より出して、床の間にすえ奉りて、念仏を行う尼なりれる人おわしけり。
床の間の簾少し上げて、花奉るに思えめり。尼君は少し具合でも悪いのか、部屋の中の柱に寄り持たれめいて、脇息の上に経典を置きて、いと悩ましげに読みたる尼君のようす。
ただ人とは見えず高貴な生まれのようで、四十余ばかりの歳にて、いと白う気品に満ち当て痩せたれど、面付きふくらかに優しく、真見目のほど物悲しげに見えたり。
髪の美しげに肩の辺りで削がれ落としたる端末の姿も、なかなかこよなう今めかしく新鮮で、
『これもそれなりに女性らしく魅力的ものかな』と、哀れに心を寄せられ見賜う。
清げに従うなる大人二人ばかりお近くに居りて、さてはその他に童べの召使ぞ、出入りして遊ぶ。その中に十ばかりにや、あらむと見えて白き布の内衣、山吹色などの重ね着、萎えたる柔らかな衣着て走り来たる女の子。
あまたこの近くに見えつる庶民の子供にに似るべうもあらず、あか抜けて生い先華々しう見え、美しげなる容貌形、背丈はしなやかに伸びて、顔の表情も聡明なり。
髪は扇を広げたたるように肩の辺りで切り揃え、内巻きにしてゆらゆらとして、顔は、いと色白ながらも目の周りを赤く擦りなして、泣きながら立てり。
「何事ぞや。童召使と喧嘩でもして、腹立ち給えるか」
とて言って、尼君は切り花を下に置きて、紫の君を見上げたるに、姫君は尼君と少し覚え似たる所あれば、その子なめりと思え見賜う。
「雀の子を召使の犬君が『可哀そう』と言って、勝手に逃がしつる。あれほど私が可愛がっていたものを。伏籠を庭に置きて、その内に閉じ込めたりにして置きつるものを」
とて言って、いと口惜しう残念に思えりのようす。
「そう泣かずとも、雀などどこにも居るわな。また捕まえれば良いものを」
とて言って、尼君は膝立ちに伸び上がり、片手を取り、抱き寄せながら優しく肩をたたく。
この屋敷に居たる大人、
「例の心なしの、意地悪な性格に係わる技をして、犬君はあれこれそなたを困らせる物よのう。だがこれ仕切りのこと我慢なさいませ。周りの者に際悩まるることこそ、この世の定めなのじゃ。いと心付きなけれ。
そなたもいずれ母の元を離れ、いず方へまかり参ることになりぬる。そちらに於いてもこのような意地悪は度々あるというもの。いちいち気にしていては身が持たぬぞよ。
このような事など、いとおかしう面白いと思いて、洋々はらはらして気晴らしになりつるものを。それほど悔しいのなら、カラスなどもこそ捕まえで身繕い、籠に入れて見せ付けてやれ」
とて言って、立ち去って行く。
この大人も髪ゆるやかにつやつやして、いと長く、目安き心を引く人なめり。この者は、宮中で名前を馳せた小納言の乳母とぞ、人言いふるめるは、この子の養育係として、後見人になるべし存在なり。
六
「いでで、困った者よのう、あな幼や紫の姫は。言う甲斐なう泣いてばかりもの、仕給うばかりでは先が思いやられる。何も解決しませぬぞえ。そろそろ自立して、敵に立ち向かえ給わんかな。
己がかく今日明日までに、いつ死んでもおかしくないと覚ゆる命をば、何とも思いしたらで、良く良く言い聞かせているものを。命ある物を大切になさいと言い聞かせているではないか。
雀の小さな命まで慕い給うほど気配りせねばならぬぞよ。籠に閉じ込めてむやみに死なせては、
『罪得ることぞ』と、常にそなたの耳に聞こゆるものを。常に心優しく、生き物に哀れの心を持たぬといけませぬ」
とて言って、
「こちや、近くに参れ」と、言えば手を握り、膝を突いて抱き寄せ居たり。
再び犬君が現れて、二人の邪魔をするように、
「見て見て、雀の子まだ外にいるぞえ。逃がしてくれてうれしいのか、楽しそうにチュンチュン鳴いておるぞえ」
とて言って、犬君が紫の君の手を引いて西の縁側へ誘えば、
「どこに居るとぞ、犬君。紫の姫も泣いてばかり居ないで、付いて参れ。逃がした雀を見ようではないか」
とて言って、姫君を誘う。
「はい」
娘はそれでも不満のようです。
「ほうれ、あそこ。梅の枝に止まりてこちらを見ております。私達に感謝してチュンチュン鳴いているのでございますよ。紫の姫君、これで良かったのです」
「本当だ、私の雀の子が鳴いている。あっち、あっちよ、御婆々様。御覧なさいませ、」
「どこぞえ」
「あっち」
犬君が雀の方向に手を向けると、御婆々様と孫は、それを見て嬉しそうに笑っています。
「本当にそうね、楽しそうだこと。ほうれ御覧なさい。犬君とて悪い子供ではなかったのです」
「はい」
三人は楽しそうに雀を指さしながら眺めています。
(源氏物語絵巻、若紫の巻参照)
面突き、いとろうたげにてあどけなく可愛いくくで、眉の渡り薄墨で描いたように打ちけぶり、言い訳なく小ざっぱりと髪を脇へ掻きやりたる額突き、ふざけて差した椿のかんざし、いみじう美し。
光源氏様は小柴垣の外で紫の姫を見詰め言います。この姫と、ねび行かむさま、この先の成長が楽しみで想像が膨らみます。
『もしこのような姫と心ゆかしき人となり、共に暮らせたらばどれほど幸せかな』と、目に留まり賜う。
さる出来事は、限りなう心を捧げ尽くし、母親とも聞こゆる藤壺御殿の女房様に似て恋しい人に、いと良う似奉れるが、光源氏様は姫君から目ををじっと離さず、見守らるるになりけり。
『十七になったとは言え、親の面影を求める源氏の君の姿は、何時までも幼子のままか』と涙ぞ落つる。
尼君、
「髪を解きけずることを、そなたはうるさがり、嫌い給えど、美しい女になるための、おかしの愛の籠った御櫛や、我慢なさいませ。いと女と言う者ははかなう宿命に流され仕給うこそ、哀れに見られて後ろめたけれ。
大人にかばかりなれば、分別をわきまえて、いと素直に係わらぬ人あるものを。そなたはまだあどれな過ぎる。故亡き母の姫君は、十ばかりの歳ににて大殿に贈られ給いしほどに、そろそろ覚悟なさいませ。
いみじう宿命というものは、不運であろうと避けられぬものと思い知り給えりぞかし。唯の今、おのれそなたを見捨て奉つらば、いかであの世で心残り居わせむと思すらむ。 そなたの成長こそが、楽しみと言うものぞえ」
とて言って、尼君がいみじく泣くを見賜うも、光源氏様は、訳もなくすずろに悲し。
姫君は幼心地にも、さすがに悲しみに打ち黙もりて、伏し目になり脇息にうつ伏したるに、背中にこぼれ掛かる髪つやつやと柔らかく、育ちの良さがめでたうに見ゆる。
七
老い立らむ 有りかも知らぬ 若草を 遅らす露ぞ 消えん空なき
老い立ちぬ 宿命知らぬ 紫に 遅らす旅ぞ 空は明け行く
尼君、たまりかねて、若紫を残したままこの世を去る宿命に和歌を詠めば、またそこに居たる大人、
「げに、そのような悲しことは、姫君にお話し下さいますな。再び元気に成らんとも限りませぬ」と、打ち泣けて、
初草の 老い行く末も 知らぬ間に いかでか露の 消えんとすらむ
紫が 老い行く末も 知らぬ間に いかでか親も 消えんとすらむ
と聞こゆるほどに、先々の不安を悲しめば、住職の僧都あなた奥より出て来て、
「そなたどもは露わにや、何故このような外から見える場所に立ちすらむ。今日に限りしも、外から目立つではないか。普段はこのようなことはないものを、何故に人目に付く軒端におわし召しけるかな。
この上の聖の御屋敷方に光源氏の中将、若君が、童病のまじないに物仕賜いけるに来訪なされける。好奇心の強い若君ゆえ、この屋敷にまかりお越しにならないとも限らぬ。
この話を唯今になむ、聞き付け、慌てて知らせにはべる。いみじう不吉に感じ給い、忍び若君の様子を伺いければ、すでに草庵を出たとのこと。この事を知り、慌てて伝え話しはべらで。
『ここの近くにに今夜お泊りに過ごしはべりながら、こちらの屋敷にお見舞いにとぶらい、今にもこちらへ詣で参りざりつる』とのことだ」
とのたまえば、尼君、
「あな、いみじや、困った事になった。雀の一件で紫が取り乱し、庭に出て眺めていた物を、いと怪しき無邪気なさまを人に見られつらむ。『養女に寄越せ』とでも言い出したら大変ぞえ」
とて言いつつ、簾を降ろしつ立ち去る。
「この世に悪くののしられ賜う光源氏、病が治れば再び色恋に目覚め、女を求めようとしようぞ。見舞いに係るついでに、紫を見奉り賜らんや。この世を棄て、欲望を断ちたる法師の心地にも、男の欲望は理解できる。
いみじう世の人々の愁え忘れ、女を我が物にしようとする。齢末永く生き延ぶる人の、明らかに横暴な御有様なり。光源氏様はこの程度ではなかなか死なぬ。恋の病に苦しみながら長生きしよえぞ。
いで、誰か来た。御消息、来訪を告げる声聞こえん」
とて言って、僧都の立つ音すれば、縁側から姿が消えて元居た部屋に帰り賜いぬ。
「あれっ、何か変です、光源氏様、僧都は我々の覗きに気付いたのでしょうか。あわてて奥へ消えてしまいましたぞ」
「いやいや、そうではあるまいぞ、良清。大方今頃、惟光が来訪の都合を尋ね、消息のほどを聞いているのであろう。僧都は慌てて東門へ参ったではないか。何と返事を寄越すか、たのしみじゃわい」
とて言って、光源氏様が見下しながら笑えば、地に膝を敷いて見上げていた良清は、
「いやあ、恐れ入りました、光源氏様」
とて言ってうなづく。
「はははは・・・」
「ふふふふ・・・」
待っている二人は落ち着かぬようすです。
八
「これはこれは光源氏様。哀れなる人を見つるかな。このような事に関心を示すなど、紫式部の丞は理解できませぬ。人との出会いに掛かれば、この好き者どもは、掛かる外出の歩きを女探しのみして、よくもさるまじき平穏に暮らす人をも、色恋の遊び道具にに身繕るになりけり。
たまさか運悪くに立ち出づる出会いのみだに、かくも思いのほか、人の運命を狂わす事になるを見るとは、呆れて物が言えぬぞよ・・・とおかしく思す。
さてもさてもこうした行動は、殿上人のみに許される、いと美しかりける稚児の思いかな。紫の姫君は何人ならむ。かの宮殿の思いで深い人の御代わりに過ぎぬ。
こうした果たされぬ恋の思いは、明け暮れの慰めにも見ばやと、藤壺の女御様を思う心、深う尽きぬ。御母君を早く失われてしまわれた光源氏様の思い、満たされぬ愛情の思いは、大人になってからも続くのかな。
光源氏様の使いの者は高欄干の庭に打ち伏し給えるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出で指図する。惟光の控える庭は、光源氏様がのぞき奉る通りより程なき所なれば、君もやがて惟光の近くへ走り寄り、年老いた取次の意向を聞き賜う。
「宵切りから、通り掛かりにこちらへおわし増しけるよし。ただ今なむ若い取次の人申すに驚きながら、若君様の御意向ならばとさぶらい従うべきを、この何がし表立って相手にはできません。
隠居の身にてこの寺に籠りはべりしとは、光源氏様も明白に知るし召してのはず。それを知りながら、こちらへ御忍び来り賜えるを、嬉わしく思えてなん。
草の御むしろのような寝床も、この宿坊にこそ設けはべるべきけれ。どうぞ御気兼ねなくお泊り下さい。私共には、いと何の策略も見返りも本意なきこと」
と申し給えり。
「往ぬる十余日前の程より童病に患い暮らしはべるを、他の気苦労もたび重なりて耐えがたう過ごしはべれば、人の教えのままに上の聖の草庵へも、にわかに訪ね入りはべりつれども、まだまだ満足できぬ。
かようなる評判の人のまじない、快方への印現さぬ時、はしたなかるべき効力も疑われてならぬ。ただなる何もしないよりは、愛おしう思い給えつつ、ようすを見てなむ。
多少時間があれば、痛う忍びにてこちらへ来りはべりつる。今そなたにも厄介を掛け申す」
と、のたまえり。
「それならば、御ゆるりと静養なさるのがよろしいかと思い給えり。昼は聖の館で加持祈祷をお受けなさるとしましても、どうぞ夜はこちらでお過ごし下さいませ。草案は不便な館なりや」
「それは有りがたい。それにしても僧都の意向無しに、そなたのみで決めても良いものか」
と、光源氏様が言えば、
「この何がしが言うからには、誰も逆らうことなどできません」
と、年寄りは言うなり。このことは、
すなわち僧都自ずからが参り賜えりのこと。
この僧都、高貴な法師なれど、いと心恥ずかしく謙虚な御方で、人柄もや んごとなく慈愛に満ちた方と、世に思われ給える人なれば、光源氏様の軽々しき訪問の御有様をはしたなう思す。
「この御方はここの主でございます」
と僧都に付き添う若い者が言えば、
「これはこれはぶしつけで失礼をば致しました。さすがは世に知られました僧都様だけのことはある。こんな若者が不意にお尋ねしても大らかに対応して下さるとは恐れ入ります」
と答ゆ。
「それにしても、天下一の僧院の僧都様が、こんな寂しい北山に御隠れになさいますとは、何かご事情でも御有りでしょうか」
と惟光が問えば、
「まあ仏に仕える仏門の世界にも色々事情はある。勢力争いの策略があってな。娘の病を期に、この静かな北山でゆっくり静養しようと思ったまでのこと」
と僧都が答ゆる。
「何なら駆る源氏様より帝に口添えいたしましょうか」
「なんのなんの、それには及ばぬ。私共の事は私共が解決する。今は上の聖にお願いして。娘の病が治るよう専念せねばならぬ」
と僧都か答えれば、
「もし、何ら困った事が御有りでしたら、どうぞご遠慮なさらずに私に御申し付け下され。きつと少しはお役に立つでしょう」
と、光源氏様、気遣い賜う。
「しかと心に留めておきましょう」
かくこのように僧都の籠れる程の御物語聞こえ賜えて、話が少し重苦しくなり掛けた頃、
「同じ柴の庵なれど、少し涼しき水の流れも御覧ぜさせん。この少し後ろの山近くに小さな川があって、その草庵なれば光源氏様も落ち着きましょう。風流に満ちた東屋でござる」
と切にお勧めする僧都の声聞こえ賜えば・・・・・
九
かくこのように僧都の籠れる程の御物語聞こえ賜えて、話が少し重苦しくなり掛けた頃、
「同じ柴の庵なれど、少し涼しき水の流れも御覧ぜさせん。この少し後ろの山近くに小さな川があってな、その草庵なれば光源氏様も落ち着きましょうぞ。風流に満ちた東屋でござる。是非ともそちらへ」
と切にお勧めする僧都の声聞こえ賜えば、かのまだ見せぬ家族の人々に、
「光源氏様がおいでじゃ。声を潜め姿を見せるでない。ここでの暮らしを悟られるでない、身を隠せ」
と、事々しう言い聞かせつるを、災いを避ける最善の方法だと慎ましう気がかりに思せど、哀れなりつる一行の女探しの好き癖のありさまからすれば、いぶかしく気の毒に思えておわしぬ。
げに、いと心事に細心を施した柴の庵は、真新しい檜の薫り、端正込めた造りの良し有りて、庭には本宅と同じ木草をも植えなし給えり。闇が深まり月も無き頃なれば、鑓水にかがり火灯し、向こう側の灯篭にも使いの者が参り明かりを入れる。
「さあ、こちらへお越しいただき、池の眺めをお楽しみ下され。今は弱い灯りしか見えませぬが、昼間ならば上の聖の山寺も眺められます」
と僧都が案内すれば
「おお、なかなかの名勝ではないか。ここには落ち着きがある。そこそこの京の寺もここには及ばぬぞ」
とうなづく。
「かたじけのうござる」
僧都か切にお願いして案内しただけのことはあって、近くの川から選び抜いた選りすぐりの石を並べ、松やサツキ、シャクナゲなどが植え込まれ、池の周りには菖蒲などが植えられている。
「どうぞこちらへ」
鑓水に面した南面、いと清げに夕食を仕つらい給えり。空焚きの心憎くくほのかな香り出で、みょうがの薫りなど匂い満ちたるに、君の衣に付いた香りと、いと異なれば、僧都にお仕えしている内の人々も、光源氏様の来訪に細心の心遣いすべかめり。
僧都、世の常なき興亡の御物語、繰り返された歴史の移ろい、後の世の天国と地獄の事など聞こえ知らせ賜う。
「我が罪の欲望のままに生きた若い頃のほど恐ろしう、何のために生きるのか、味きなき人生の事に反省の心を占めて、生きる限りこれを思い悩むべきこそ、充実した人生なめり。
まして後の世の、地獄に落とされるこの身を考えれば、天国に生きられるかいみじ、恐ろしかるべき思し苦悩を考え続けて、弱い女を苦しめてはなりません。
かようなる狭い住まいも、質素で狭ま欲しう覚え賜うものなど、けしからん事でございます。どうぞ清く正しく、謙虚にここでお過ごし下さいませ」
など仏門に従うものから、常に学問に精進する事、身分の低い貧しい者へ配慮など聞かせ賜う。
君は僧都の説法に耳を傾けながらも、昼の姫君の面影が心に掛かりてなお一層恋しければ、
「ここに我を物隠し給うは誰に遠慮してか。尋ね聞こえま欲しき、ならず者が来る夢を見給えしかな。隠し通そうと思ってもそうは行かぬ。尼君と幼い姫がおるのは百も承知の上。今日の今になむ。思い合わせつれ」
と、聞こえ給えば、僧都意図を見破られたのかと打ち笑いて、
「打ち付けなるならず者の夢物語にこそぞ、そのような姫君ははべるなる。こちらへ訪ねさせ賜いても、若君の御心に見劣りせさせ賜いぬ姫などおらぬと考えるべし。
故按察使の大納言は陸奥の国を治めていた者じゃが、あの世に亡くして久しく成りぬれば、光源氏様も、え、知るし召さじかし人物と思えり。その北の方なむ。何がし、この僧都が妹になりはべる。
かの按察使、隠れて後、世に背きて妹は尼になりはべるが、この頃病を患う事にはべるにより、かの京の家にも真下出ねばならず、この頼もしい所に籠りて、上の聖の祈祷ものして暮らしはべるなる」
と、嘆く声聞こえ賜う。
十
「かの大納言の御娘者とし育て給うと聞き賜えしは、好き好きしき浮気者の方ではあらで、真面目やかに暮らすと人の噂では聞こゆるなり」
と、尼君の娘を押し当てに御気遣いのたまえば、
「妹は唯一人、謙虚に生きてはべりし。大納言が失せて、この十余年にや成りはべり過ぎぬらん。故大納言、宮殿の内に孫娘を奉らむなど、賢う言い付きはべりしを、その願いを叶えてやりぬらん。
その本意のごとくも守り物しはべらで、無駄に過ぎはべりにしかば、尼君は悩みはべりし。ただこの尼君一人で持て扱い及ばず姫君を育てはべりしに、ある人物に教育をお願いしたなむ。
しかし、いかなる人の仕業にか、兵部卿の宮なむ人が、
『男が忍びて通っている。あれば愛人に違いない』
などと語らい、嘘を突き給えりけるあるを、親元の家に住む北の方、やんごとなく嫌がらせをして苦しみはべる。
二人とも心安からぬ事多くて、明け暮れの物、やることなすこと相手の仕業を思いてなん悩み、やがて兵部卿の妻は亡くなりはべりにし給える。
この事もの思い妹は尼に成りはべりしに、苦しみは治まらず病付くものと、私の目には近くから見給えし。実は妹の子供は、兵部卿の子供でござる。妹はそのことを心に病みぬ」
などと、僧都は申し賜う。
「さらば紫の姫君は、その愛人の子なりけり。大納言の北の方が好き好きし者とは本当であったのか」
と、のたまえば、
「いやそうではござらぬ。成り行きの一時の誤りでござる。世間知らずの妹は兵部卿に騙されたのだ」
と、僧都は弁解す。
「ならば紫の姫君は藤壺の女御様の姪ではないか」
と、思し合わせつつ、いずれにしても二人が先帝の側室の子供であるならば、王族の御子の御筋にて、かの藤壺の人にも通い聞こえるたる帝に献上させる血筋にやと、いとど哀れに見ま欲し御気の毒に思す。
人の気品に満ちた威厳のほども、当てにおかしう満ちたれば、中々の逆しら疑いの心なく素直で、打ち語らいて心のままに教え御欲し立てて、姫を教育し見ばや面白いと思す。
「いと哀れ者に、もの仕給う事かな。それは王族に留め給う印として、何らかの形見、守り刀とか、御櫛も無きか」
と、幼きつる姫君の行方の将来を心配して、なお確かに王族の証拠となる物が知らま欲しくて、更に問い賜えば、
「大納言亡くなり後に残されはべりしほどにこそ、生活に困りて暮らしはべりし、それ所てはござらん。それも女の身一つにてぞ。娘の将来を案じるのは親なら当然の事。
それに付けて、物想いの心配事をもよおしになむ。弱い娘の行く末に、今後どうなるか思い給え、嘆き悲しみながら暮らしはべるめる」
と、聞こえ賜う。
「さればよ・・・」と、源氏の君は思さる。
「怪しき雲行きの今後の事なれど、幼き姫の後見人に思すべく、今後の事に悩んでいると聞こえ給い、推測てんや。私に思う心ありて、娘の将来に共に行き掛かりづらうべき良き方も他に有りはべりしと思いながら、私の考えにも心の閉まらぬ援助の気持ちもあらん。
一人住みにての独身の身なむ。まだ似げなき馬鹿げたほどと、常の世の人に恥と思えし悩みなずらえても、我が気持ちにはしたなくなりやなどせん。構うものか。姫君を養育する事に覚悟を決めた」
などどのたまえば、僧都、
「いと嬉しかるべき・・・・
十一
「いと嬉しかるべき仰せの事なるを有難く思えど、無下にいはけなき気ままなほどに生きはべるめれば、戯ぶれにても御覧じ難く人前に見せられたものではあらんや。
そもそも女は人に持て成され、多くの人と交わり教えを受けて大人にも成り給うものなれば、御気に召される大物の女御に育つかどうかは、え取り立てて申さず。光源氏様の腕ひとつに掛かるでしょう。かの御婆婆に今の事を語らい、意向を伝えはべりて聞こえさせむ」
とすくよかに『お受け致しました』と言いて、ものごわき眉間にしわを寄せた嫌な様を仕賜えれば、若き光源氏様の御心に恥ずかしく、御身を責める心が生まれて、え良くも僧都の仰せ言を聞こえ賜わず
僧都立ち上がり、
「阿弥陀仏の元へ念仏仕給う堂に、やるべき事がありはべる時刻の頃になむ。そうや、午後七時を過ぎて過ぎてしもうたではないか。今夜は未だに一度も御勤め、お経を読みはべらず、雑用に追われて無駄に過ぐしてさぶらわむ。申し訳ござらぬ」
とて言いながら、急いで本宅の御堂へ上り賜いぬ。
君は若い姫君の話をしたことで、居心地も悩ましきに、雨少し屋根に打ち注ぎ、山風冷ややかに吹きたるに、滝の落ちるよどみの音も騒がしく混ざりて、音高う聞こゆ。
夜具に御身を沈めても、少し眠ぶたげなる読経の声、本宅から絶え絶えにすごく恐ろしゆう聞こゆるなど、自由奔放なすずろなる世間知らずの人も、所柄、山奥の寂しい旅寝の旅愁の心高まる不安なもの哀れなり。
まして抜け抜けと『僧都の孫を世話女房にくれぬか』などど、申し出したことなど思し廻らすこと多くて、図々しかる御身を責め立てるばかりで、なかなか暗くなってもまどろまれ賜わず。
早夜の日が暮れしばかりの時刻と言いし聞かせども、夜も痛う静かに更けにけり。宮中育ちの光源氏様にとっては、山奥の闇の静けさは不安でたまらなくなりました。
内に控えて客を世話する女中女房の人にも、人の寝抜けは非しるく気遣かいて、いと忍び静かに保ちたれど、数珠の紐を巡らす玉が脇息にぶつかりて、木を引き鳴らさるる音、ほのかに聞こえて、懐かう母の面影を思わせる打ちそよめく音なれば気分も高なり、とても寝てなどいられません。
何処となく聞こえる数珠の音を、上品に当てはかないと聞き賜いて、その音もほどなく近ければ、つなぎの廊下へ出賜いて本宅の方へ近づき賜う。
外に立て渡したる屏風の中を少し引き開けて、扇を『ポンポン』と鳴らし賜えば、
「不審な覚えなき心地すへかめれど、聞き知らぬようには出来ぬ」
とて言いて、膝を突きてゐざり出づる人あるなり。
「離れは寒く、滝の音もうるさい。何とかならぬか」
と、のたまえば、光源氏様を見た女房は、少し退きて、
「怪し、聞き覚えのない非が耳にや。そのような声の男はこの屋敷にはおらぬはず」
と、不審にたどる女中女房の声を聞き賜いて、
「僧都様の御計らいにより、離れに泊まる光源氏にあるぞ。内の者ならば誰でもご存じのはず」
と、のたまえば、
「宮中の育ちならば、易々と夜中にのたまわぬはず。女御のいる部屋に押し入るなど許されません」
と言う。
「仏の御道しるべは暗きに入りても闇の闇、更に救いを求める弱き者にここの私が違うまじか。そなたに救いを求めておるのだ。尼君の所へ案内致せ。仏に仕える慈悲深いお導きなる物を」
と、のたまう御声の、いと若う当てに高貴なる気配に打ち出でむ光源氏様の御口調は、言葉遣いも上品にて、女中女房はお答えすることも恥ずかしければ、
「いかなる方の御しるべにか。仏様にお仕えするこの身にはおぼつかなく分かりませぬ」
と、聞こゆ。
「げに、打ち付け横暴なりと覚めき給わむも承知の上、断りもなく突然なれど
初草の 若葉の上を 見つるより 旅寝の袖も 露ぞ乾かぬ
姫君の 若き仕草も 見つるより 旅寝の思い 胸も乾かぬ
と聞こえ給いて 尼君に是非とも取次頼むや」
と、光源氏様のたまう。
十二
「更にかようなる事の、大事な御消息を承り、夜中に取り次ぐべきか分くる人も、もの従がわ給わぬ様は、すでに若君様に印し召して伝えたりげなる意向のはず。不愉快なる引き合わせを、誰かにか」
と、聞こゆ。
「それでも一目会いたくてたまらなのだ。そこを何とか・・・」
「何を話しているのだ、そこに誰かおるのか」
と、奥からしわがれた尼君の声が聞こえて、
「あっ、按察使の大納言様、お目覚めでございましたか。光源氏様が御訪ねでございます」
と、女房が答ゆ。
「自ずから夜も眠れずさる用有りて『こちらへお伺いした』と聞こゆるに他ならん。これは帝の御子の頼みと、思い成し給えかし。紫の姫が気になってな。そちらが僧都の申した妹の尼君か」
と、のたまえば、
「さようでございます」
と、込み入りて困った様子で、『厄介なことになった』と嘆く小声が聞こゆ。
「あなあな、恐ろしゆう人を御捜し気配や。今めかしく差し迫った重大なお話が御有りの御ようす。この君や、世付いたるほどに『世間は何事も自分の思い通りになる』と考えおわするとぞ思すらん。
さるにては、かの若紫をいかで見聞き、話しを聞い賜える事にぞ。噂通り耳の早い男ぞ」
と、様々に怪しき予感に心乱れて、付き人女房に抱きかかえられるように倒れ掛かれば、床に臥して座り込み、しばらくして久しうなれば、情けなしとて従わなければならず諦めて、
枕結う 今宵ばかりの 露けさを 深山の苔に 比べざらなむ
枕置く 今宵ばかりの 御遊びに 深山の苔に 比べざらなむ
奥山の 苔の衣に 比べ見よ いづれか露の 置きはまさると
奥山の 苔の衣に 比べ見よ いづれか君も 置き替わさると
「昔の和歌に、このような戒めがあるではございませぬか。私は世を捨て、世間の人から非難う離れ、暮らしはべる者を、修道院の尼に恋の世話をさせるとは何事ぞ」
と、聞こえ給う。
「かような様の伝てなる断りの御消息は、皇子の身の上にては、今だ更に体験したこともなく、宮中の慣例にも聞こえ知らず、好きな姫君をあきらめる事など、習い仕給わぬ事になむ。
かたじけなくとも我慢して、掛かるついでに御縁と諦めて、小まめまめしう言い聞こえさすべき事になむ。若紫を悪いようにはせん」
と、尼君に聞こえ賜えれば、
「非が事に聞き給えるにこと他ならむ。いと恥ずかしき色恋の御気配に、幼い娘に向かいて何事を務めさせるかは、残酷で答え聞こえさせることはできませむ」
と、のたまえば、
「この催促は『果したなうも無きもの』とこそ思せ。夜中に会って話をするだれの事じゃ。帝の皇子の御手つきは名誉なことぞ」
と、そこに集まった人に聞こゆ。
「現に若やかなる人にこそ意に反し、うたて誤った考えも有らめ。真面目やかに真剣に言いのたまう。ここは差し控えて下さいまし。お聞き入れ賜えればかたじけなし」
とて言って、光源氏様の御近くへゐざり寄り、深々と床に頭をひれ伏し給えり。
「突然打ち付けに、このわしが浅はか成りと、そなたに御覧ぜられぬべき恥のついでなれど、心にはさもしい覚えは持ちはべらなくならねば、仏は自ずから私に味方などしてくれませぬ」
とて言って、大人大人しう恥ずかしげ成るに包まれて、直ぐ回答を求める問みにも、え打ち出賜わず。
「げにこちらの意向も大らかに聞き入れ賜えより、ありがたきついでに、かくこのような親心までのたまわせ、聞こえさせするもいかがな物でございましょう。お互いが苦しくなる前に、お話を止めるべきでございました」
と、尼君はのたまう。
「哀れに幼子を好きになったと受け給わる尼君の御有様を、かの過ぎ給いけむ紫の姉君の御代わりに、いつまでもそばに置きたいと思しなして、
『これほど悲しい事はない』
と考えてむや。姉君は可哀そうなことであった。尼君も言う甲斐なきほどにの弱い御歳にて、睦ましかるべき人、大納言にも立ち遅れ、供養の日々にはべりにければ、悲しう思う人生も当然の事。
しかしながら、残りの人生を怪しう気ままに暮らし、浮きたる人生を謳歌し、好きなように年月をこそ重ねて、楽しく過ごしはべれ。同じさまにもの仕給う・・・・
十三
若紫が私と同様に親に死に様にもの仕給う不幸なるを、たぐい無き絶望に打ちしがれ、悲しなさせ給わぬかと、いと心配に聞こえま欲しきを、掛かる折々に、放置はべり難く思えてならむ。
紫の将来を思されん所の暮らし向きをもはばからず、差し出がましい話ではあるが、見過ごせず打ち出でて話しはべりぬる」
と、光源氏様の声、聞こえ賜えれば、
「いと嬉しう思い給えぬるべきお誘い事ながらも、こちらの事情を聞こし召し、『ひがめたる根性の事など有りにやはべらん』と、誤解されたに慎ましう思いなむ。
行く末も分からぬ怪しき身一つを任せられる、頼もしい人を誰にするかは、光源氏様が的確な人なむに思いはべれど、いとまだ言う甲斐なきほど未熟者にて、宮中の人にも御覧じ入宮を許されるに及ばず。
心良う思う人も帝王様の御近くにおりはべり難ければ、えなおも承り、若君の意向を受け留められざりける。どうぞ、見過ごしはべれけれ」
とのたまう。
「皆、宮中で平然と暮らしはべるが、おぼつか無からず不安は誰にでもあるもの。王族の意向を素直に承るものを、心狭しう思し憚らで、気楽に思い任せ給えよる胸のさまを示し、今までと異なる心のほどを、私に御覧ぜ見せよ」
と、聞こえ賜えど、いと似合いげ無き年の差のことを、光源氏様は深刻に考えず、さも尼君の気持ちを知らでのたまう。
世間では不釣り合いのこの恋を、笑い者にされると思して、尼君は心解けたるお答えもなし。やがて御堂の読経もいつしか消えて、兄の僧都もおわしぬれば、
「光源氏様、嫌がるものを無理に御身受けするのは良くありませぬぞ」
と申す。
「良し、あい分かった。かう二人して『しばらく若紫を養育し、大人になるまで育てたい』と、切に聞こえ染めて申しはべりぬれば、いと頼もしう思いなむ。わしの出る幕ではなかった」
とて言って、離れへ出る戸を押し立て賜いつ、無言にて去りぬる。
夜が明けて暁方に成りければ、法華経三昧行う堂の説法の声長々と響き渡り、山降ろしの風に付きて聞こえ来る声はいと尊く、滝の音に響き合い、寝覚めの光源氏様の耳に心地よく聞こゆ。
吹き迷う 深山降ろしに 夢覚めて 涙もよおす 滝の音かな
吹き荒れる 深山の風に 夢覚めて 涙もよおす 誰もおらぬに
「せめて夢の中でも良い。紫姫と夜を共に過ごしたかった」
と、聞こえ賜う。
差し汲みに 袖濡らしける 山水に 住める心は 騒ぎやする
水汲みに 袖濡らしける 若男 内の心は 騒ぎやする
「御目覚めでおいでてしたか、光源氏様。上の聖の館では加持祈祷が始まった御様子。お食事をお持ち致しましたので、早々と向かわれた方がよろしいかと存じます。聖の祈祷も耳慣れはべりにけりや」
と、僧都の声聞こえ賜う。
明け行く空は、いと痛う雲に霞みて、山の鳥ども、そこはかとなく四方からさえずり合い、名も知らぬ木草の花ども、色々咲き散り混じり、錦の織物を敷ける川辺に心も落ち着く。
おぼろげなる深山の景色、草木が揺れ、鹿のたたずみ歩く姿も珍しく見賜うに、若紫に恋する思いも忘れて、悩ましさも紛れ果てぬ。
「僧都殿、大変お世話になった。聖の祈祷に立ち会わねばならぬ。これで失礼致す」
館を出た光源氏様が挨拶すると、見送りに来た僧都と尼君は嬉しそうに微笑みて、
「またおいで下さいませ」
と、深々と頭を下げ、何時までも見送り給う。
山の上の聖、挨拶の動きもえせ見せど、ともかうも何とかして義務だけは果たそうと、祈祷の場へ護身参らせ賜う。読経に励みて擦れたる声の、いと痛うしわがれて、透きひがめたる声も哀れに朽ち果て尽きて、だらだらに途切れて読みたり。
十四
読経に励みて擦れたる声の、いと痛うしわがれて、透きひがめたる声も哀れに朽う尽き果てて、だらだらに呪文の経典を読みたり。
宮殿よりお迎えの人々参りて、光源氏様を苦しめた病の活動も怠り賜えて、お元気のようすに喜びの声聞こえて、内裏の使者よりも感謝の御とぶらい文あり。
聖も山の道場から降りて来て一行をお迎えすれば、僧都も見えぬさまの御果物、菓子類の物、何くれと抱えてはせ参じまいりたり。谷の底まで降り出で、光源氏様の快気祝いのささやかな祝宴の営み催したと聞こえ給う。
「三年間山に籠り、今年ばかりの修行で終わる誓い、深う守りながら暮らしはべりて、人前に姿を見せられぬ我が身の定め、念願祈願の身の上なれば、御見送りにも、え参り享楽もはべるまじき身の上のこと。
しかし光源氏様と縁があって御会いしたからには、中々にもそうばかりは思い賜えらるるべき約束かな。修行の掟を破ってまでも、今は光源氏様と楽しく過ごし賜えるべき」
など聞こえ給いて、大神酒を持ち参り賜う。
「山水に心が清められ、僧都の館に泊まりはべりぬれど、宮殿の内よりもおぼつかながら、お礼施給えるもかしこき気持ちの表れになりければなむ。今この山吹咲く花のおり、楽しく過ぐさず何の生き甲斐があろうか。仏も宴会に参り来む。
宮人に 行きて語らむ 山桜 風より先に 来ても見るべく
僧都とも 行きて語らむ 山桜 風より先に 来て見せるべく
とのたまう光源氏様の御持て成し、声使いさえ気品に満ち、目も綾なる輝きに、
優曇華の 花待ち得たる 心地して 深山桜に 目こそ映らぬ
浮蓮華の 極楽得たる 心地して 若君の身に 目こそ映らぬ
と聞こえ賜えば、君は微笑みて、
「時有りて 今一たび開くなる山桜 いずれはかなく消えて、むなしさも高なるものを」と、のたまう。
聖、瓦器の杯、桐壺帝より給わりて、
奥山の 松のとぼそを まれに明け まだ見ぬ花の 顔を見るかな
奥山の 松の扉を まれに明け まだ見ぬ君の つぼみ見るかな
と言いながら、打ち泣きて目に腕を当て、若君を見奉る。
聖、『御守りに』と、弟子に先の尖った金剛独鈷を持ってこさせ、光源氏様に奉る。
その聖の姿を見賜いて、僧都も聖徳太子の百済より得賜いける金剛寺の珠数の玉の装束、首にしたるが、やがてそれを外し、その国より入れたる箱の、唐めいたるに入れる。
さらにその箱を透き通りたる絹の袋に入れて、五葉松の枝に付けて、紺瑠璃色の壺どもに御薬なども入れて、富士桜などのかごに付けて、枝の所々に付けたる他の御贈物共々、ぶら下げて捧げ奉り給う。
君は聖よりはじめ、読経しつる法師の御布施ども、魔受けの祈祷の者ども、様々にお礼の金品取り遣わしければ、その渡の木こりや山がつまで、さるべきささやかな贈物ども受け給い、喜びと謝礼の歓声の中で御誦経などして谷川を出で賜う。
十五
光源氏様は僧都の館に立ち寄りご自身の気持ちを伝えたければ、奥の内に僧都入り賜いて、かの聞こえ給いし孫に対しての思いの事、尼君に伝え真似び聞こえさせ賜えど、
「ともかくも、ただ今は、その話を聞こえ給わる方、ここにはなし。もし光源氏様がそれでも御心差しあらば、四・五年を過ごしてこそ、なおも欲しいと言うならばともかうも」
と、尼君のたまえば、
「さむな、やはりそうか」
と、同じさまのみある『紫をまだ手放したくない』の意を、歯がゆくも本意間違いなしと思す。尼君の気持ち消息ありのままに伝えたれば、僧都の膝元なる小さき童を目にして、
夕まぐれ ほのかに花の 色を見て 今朝は霞の 立ちぞわづらう
夕暮れに ほのかに姫の 姿見て 今朝は親の 立ちぞまぎらし
と光源氏様が御気持ちを伝えたれば、御返しに、
誠にや 花の辺りは 立ち憂きと 霞むる空の 気色をも見る
誠にや 姫の辺りは 恐ろしく 霞むる空の 景色をも見る
と、良しある甘い言葉に惑わしたる手の御誘い断り、いと当てなる穏やかなる暮らしを打ち棄ててでも、
「あくまでも従えぬ」と、御返し文を書い賜えり。
御車に護衛の者多く奉りたるほどに、左大臣家の大殿よりも多くの人々集り来て、
「いずれの地に居るとも知らせなくて、何処におわしましにても、光源氏様は人々に知れ渡りけること。葵姫様も御心配しておられます。御命令に従い、お迎えにお伺い致しました」
とて言って、大殿よりもお迎えの人々、公達などあまた多く参り給えり。頭の中将様、異母弟の左中弁殿、いとこの君達も光源氏様にお慕いの声聞こえて、僧都の館に参り給えれば、
「かう用の御供は、何んなく気軽にお仕え奉り、何時でも同行はべらむと思い給ふるを、浅ましく何のお知らせもなく参上遅らさせ、申し訳なく思い給えること」
と、若君の御遠慮に恨みがましく聞こえて、他の者も、
「いといみじき我儘な花の女子の影に、しばしも安らわずして、いそいそと立ち帰りはべらむは、男のめんつも開かぬわざかな。さぞ御腹立ちでございましょう」とのたまう。
大殿より来た供の者は、岩陰の苔の上に並み居て座り、瓦器酒宴の杯を受け取りに参る。落ち来る水のしぶきのさまなど、由緒あ滝の名所で、僧都の館の元に 有るなり。
頭の中将、懐なりける袖より笛取り出でて吹き澄まし、多くの人の注意を引くと、静粛にするよう促したり。左中弁の君、扇取り出でて、はかなうも膝を打ち鳴らし、調子を取りながら踊りだす。
「葛城の寺の前なるや、豊浦の寺の西なるや、榎の葉衣に白玉しずくや 魔白玉しずくや おしととと おしとと
しかしてば国ぞ栄えむや 我が家らぞ 富せむや おおしとと としとんと おおしとと としとんと おおしとと としとんと
光源氏様、御病気快復、おめでとうございます」
と歌う。催馬楽 葛城の歌。
『源氏物語 阿部秋生 秋山虔 今井源衛 鈴木日出夫氏作を参照』
十六
人よりは異なる大殿の君たちを、源氏の君、いと痛う打ち悩みて、
「我は病で静養に来たと言うに、この騒ぎは何たるや。世間の笑い者になるではないか。帝の使者も多くあるものを。『源氏の君は立場もわきまえず、遊びに更けっている』と、いわれるではないか」
と言いながら、暗い顔をして人目を避けるように、岩に寄り居賜えるは、たぐいなく忌々しき御有りさまにぞ、左大臣家の御厚意を粗末にする事なり。光源氏様の行動は、何事にも目移りするまじかりける。
例の騒がしいひちりきの笛吹く随身や、十一連の笙の笛を持たせたる好き者などもあり、光源氏様の憂鬱を吹き飛ばそうと、合奏はますます大きくなる一方です。
僧都、琴を自ら持て参りて、
「これをどうぞ、光源氏様。ただ御手を一つご披露あそばして、同じ言うならば山の鳥も驚かし、見事な演奏をお聞かせはべらむや。若君は琴の名人だと評判は聞いておりますぞ。
その見事な音色をこの老人にもお聞かせ下され」
と、切に願う声聞こえ給えば、
「世間を騒がす乱れ心地、いと耐え難く、恐れ多きものを」
との嘆き周りに聞こえ賜えど、それも叶わぬ願いと悟ったのか、け憎くからずあきらめて、琴を静かに弾き掻き鳴らして催馬楽に調子を合わせれば、皆聞き惚れて立ち給い、音色の方向を見賜いぬ。
光源氏様が弾く琴の調べは、何とも高貴で物悲しく、何時までも
「飽かず、終わるのが口惜しい。さすがは噂の光源氏様だ」
と、言う甲斐なき誉め言葉を惜しまぬ法師。そばの童べ姫も感動して涙も落とし合えり。
まして内の簾の中には年老いたる尼君達、付き人女房など多く居て、宴のようすを伺えば、まだ更に見ざりつる源氏の君や頭の中将、その他に掛かる人の、踊りの御ありさまを見ざりつれば、
「この世の物とも覚え賜わず、華やかて美しい宴でありますこと」
と、互いが感動する声聞こえ合えり。僧都も、
「哀れ、何の過去の契りにてこうも華やかなる人生を送らざりつるや。掛かる帝王様の御子の御ありさまながら、いと難しき日のもと国の、釈迦の教えが衰える末の世に生まれ賜えらむ。
釈迦の死後千五百年と言う乱世の世に生きると見るに、どうぞ何事もなく平穏に暮らし賜え。いと苦しき事も多かりなむ。悲しき」
とて言って、目頭押し、涙を拭い給う。しかし、
「この源氏の若君、幼な心地に天下も動かすめでたき人かな」と見給いて、
「一の宮、朱雀皇子の御有様よりも勝り賜えるかな」
などと、のたまう。
「さらばかの人、光源氏様の御子に成りて、養女におわしませよ」
と、付き人女房がお勧めする声聞こゆれば、打ちうなずきて、
「いと誠にそのよう有りなむ」と思したり。
紫姫が僧都の元を離れて、ひな人形を光源氏様の近くに持ち寄れば、
「御内裏様はこちらに、御姫様はこちらへ置きましょうぞ。五人囃子も揃っているでは有りませぬか。姫君よ、並べて御覧なさりませ」
と言う。
「はい」
光源氏様が呼びかけると、葵姫は素直に光源氏様の近くに寄り添いて、残りの人形を並べ賜う。
「それでは私は桜の飾りと、ぼんぼりを描くと致しましょう」
「ありがとうございます」
二人は楽しそうに雛飾りを造ろうとします。
「きれい、光源氏様、絵がとてもお上手ですね」
「ありがとうござる。姫君のためならば何でもいたしましょうぞ」
「紫の姫はうれしゅうございますわ」
「ははは・・・」
「ほほほ・・・」
そこにいた人々は、無邪気に遊ぶ二人を見て楽しそうに笑っています。
ひな遊びにも絵描い賜うにも、姫は源氏の君と造り出でて、人形に清らかなる衣着せ、かしづき飾り賜う。
十七
君はまず内裏に参り賜いて桐壺帝に謁見し、日頃の闘病生活、御物語など聞こえかせ給う。帝王様は若君の姿を御覧あそばして、
「いと痛う痩せて衰えにけり。心配じゃ」
とて言って、ゆゆしき事態と思し召したり。頭を抱え込みながらしばらく考え込んでおられたですが、
「近衛内管よ、こちらへ参れ」
とて言って、近くにいた内官を呼び寄せ、耳元で何かささやきました。
「はい」
内管は壁際近く自分の所へ戻ると、光源氏様に幾つかの質問をします。
「北山の聖にお世話になったとお聞きしますが、聖の名は何と申しましょうや」
「実はそう言われますと、私も正式な名前は良く存じておらぬ。『北山の聖様』とでも呼ぶべきかと。惟光、そちは聖様の名前を御存じか」
光源氏様は後に控えている随身に訪ねます。
「いえ、私も存じ上げておりませぬ。俗には北山権現入道と呼んでおります」
「その入道様に大変世話になったのでございますか」
「はい、三日三晩の祈祷をお願い致しました」
惟光は両手を広げて床に手を押し当てると、深くひれ伏して返事をしました。
「室の祈祷所と聞くが、寝泊まりもそこで」
「いえ、近くに天台の僧都が館を構えておりましたので、寝泊まりはそちらでお過ごしになられました」
「それでは僧都の館にも世話になったということか」
「さようでございます。お迎えは左大臣家の方々がこちらへお連れになられたのでございます」
「さようてございましたか。帝王様、そのような事でございます」
「分かった」
帝は聖と僧都の多太かりける世話のことなど、問わせ賜う。光源氏様と惟光が詳しく奏し給えば、
「阿闍梨などにもなるべき高僧の功績にものこそあなれ。源氏の君が回復したのもその聖のお蔭じゃ。行いの苦労は積もりて、何とお礼を申せば良い物か分からぬ。公けに印召されざりける功績事」
と、多太がりける帝の御言葉を賜わせけり。桐壺帝はその後聖を正六位上の神祇官の位を授けたと聞く。
帝王様と源氏の君が御話ししていますと、大殿から左大臣が参り二人に御挨拶仕給いて、
「北山へお迎えにもと思い給えつれど、忍びたる静養の御歩きに、お騒がせしてはいかがかと思い、憚りて遠慮したなむ。のどやかにゆっくりと静養なさり、一・二日とは言わず何時までも内に来て休み賜え」
とて言って、源氏の君を御誘いす。
「かたじけのうござる。御言葉に甘えまして、二日・三日過ごさせていただきます。葵姫はどのような御様子でございますか」
「あれは流産の後、臥せっております」
「申し訳ございませぬ、お見舞いに早くお伺いするべくを」
「葵とも一度会うて下され。互いの気持ちが安らげば、やがて二条院へ御送り仕給うかとも奉りらむ」
とて申し給えば、さしてそうとも思さねど、切に引き聞かされて、仕方なく左大臣家へ向かうべく宮殿をまかり出賜う。
源氏の君は頭の中将や左中弁等に引き連れられて、朱雀大路を南へ向かう。我が御車に左大臣は光源氏様を乗せ奉り給いて、自らは牛の手綱を持ち給いて、三条院へ引き入りて奉りれり。
持てかしずきお迎えする左大臣の気持ちを『ありがたい』と思い賜えども、大臣の聞こえ給える御心映えの丁寧な姿が、哀れなる姿にをぞと見えて、光源氏様はさすがに心苦しく思しける。
左大臣が御暮しなさる本殿にも、光源氏様を過ごしおわしせますらむと、自らは奥の部屋に立てこもる御心遣い仕給いて、久しう見賜わぬ間のほどに、いと玉の台の高床居所は華麗なる装飾の磨きを仕つらい、よろずの持て成しを整え給えり。
「おお、葵の上、よくぞ参られた」
光源氏様をそこに座られ賜えれば、葵の女君、例の・・・・
十八
「おお、葵の上、よくぞ参られた」 光源氏様をそこに座られ賜えれば、
葵の女君、例の這い隠れて人目を避けたがる人嫌いなれば、北山の孫娘の噂も重く伸し掛かり、頓みにも快く出で給うわぬを、大臣、切に、
「葵の上、何をしている。光源氏様が御待ちかねじゃぞ」
とて聞こえ給いて、辛うじて体裁を整え玉の台の前に渡り給えり。
ただ絵に描きたる物の良家の娘のように、堅苦しく仕据えられて、打ち身じろき給う愛嬌事も固く、麗しうてもの体裁のみに囚われて冷たく仕給えば、光源氏様は仲良く暮らしたいと思う事も内霞め、言い訳のみ仕賜う。
「実は葵の上、左大臣家に中々お伺いしなかったのも・・・」
「良く存じ上げておりますわ。夕顔とやらの突然の死に苦しみ、熱の起りの病で臥していたからでございましょう。しかも少し良くなられたと思ったら、今度は北山に出掛けられたとか。
それならば、一言私共に御挨拶なされてからでも良かったのではございませんか。必要ならば、私どもの方からお見舞いにお伺い致したいと思っておりましたのに」
二人の話は北山道の静養物語も聞こえむ。
「その御心遣い誠にありがたく思いなむ。ただ病の苦しみの中におっては、それほどの配慮も思い浮かべる余裕もなく、わらにもすがる思いで、言われるままに北山に祈祷へお伺いしたなむ。
今思えば申し訳なく思えり。私は家族も少なく育ったゆえ、そのような配慮がまったく足りないゆえに」
と光源氏様、面倒くさそうに冷たく見下ろしてのたまう。
「まあ、病も治ったようですから、良しと致しましょう。それにしても今度は、僧都の孫娘ですか」
「まいったな」
とて言う甲斐ありて、おかしう打ち答え賜えば、言い訳こそ哀れならめ。光源氏様は頭を抱え賜う。
世の中には心も解けず、仲良くする手立てにうとく、愛情表現を恥ずかしき物に思して、年の重なるに添えて互いの御心の隔ても勝るを、いと苦しく思わずに、おのれの意志に反した方向へ流されるもの。
「時々は世の常なる夫婦の御景色を見ばや。妻は夫の意のままに従うもの。男の好き事に気を止めていては身が持ちませぬぞ。耐え難う病を患いはべりしも、
『光源氏様、御病気の具合はいかがでございましょう。葵はじっとして居れないゆえ見舞いに参上いたしました』
とだに、見舞いに来て具合を問い給わぬこそ、いつもの事ながら珍しからぬ冷静事なれど、表に本心を表さぬはなお恨めしう思う」
と、嘆きが聞こえ賜う。辛うじて葵上は、
「光源氏様が私の機嫌を問わぬは、辛きものにやあらん。
言も尽き 程はなけれど 片時も 問わぬは辛き ものと知らせむ
言葉尽き 疑いなけれど 片時も 機嫌問わぬは 辛きと知るき
(古今集)
私の気持ちが御分かりになられませんか」
と、扇で口元を隠し、尻目に見お越し給える流し目の真目、いと恥ずかしげに気高う打ち笑いて、美しげなる品位の御形なり。
「まれまれお伺いするは、浅ましき責めの御言葉や。問わぬなどと言う際は愛人関係に言うべきもの、公認の夫婦仲の気遣いには、異にこそ違いはべるなれ、
妻は常に、心優しくもの仕給いなすべきかな。世と共に互いが冷たくはしたなき御持て成しを続けては、互いの心はすれ違いのまま溝は一向に埋まらぬもの。
もし葵の上の御機嫌が思し直る折りもあるやと、外様向こう様に色々気遣い、言葉を選び反応を試すこころみ聞こゆる時ほど、葵はいとど思しうと悩むはむなしめりかし。
良しや。これ以上話してもむだなこと。気分もすぐれぬ今になっては、命だにどうなるやも分からぬ。これで終わりじゃ。休むぞ、葵上」
とて言って、夜の御召し夜具に入り賜いぬ。
十九
葵上は光源氏様の待つ布団にも入り給わず、
「もう少し私達夫婦の在り方を話すべきにやあらん。肝心な話の詰めになると、直ぐ逃げたがる」
などど聞こえ煩い給いて、打ち嘆いて臥し給えるも、なまめしく我がままて、愛情の少ない心付き無きにやあらむ。自分の自尊心を打ち棄て、素直に布団に入りてこそ夫婦のあるべきこと。
葵上は光源氏様の横に座ったまま、眠ぶたげに持て成しなして、妻としての役目を果たすべきか迷いめり。女は、とかく不埒な夜を思し、男嫌いな性格は心乱るる事多かり。
光源氏様は床に入りながら、葵上との嫌な気詰まりを避けるかのように、この若草の生え出でむほどの僧都の孫娘を思い出し、なおゆかしきあどけなさを、楽しく思い出す。
「似合いげない歳の差ほどと思えりしも、僧都には百も承知の上と断りぞかし。それでも興味を引かれる若紫には、言い寄り難き思いを寄せる事もあるかな。
いかに構えてこの縁談を成功させ、ただ心安く世話女房に迎え取りて、明け暮れの慰めに見ん。兵部卿の宮一族は、藤壺御殿の女御様もそうだが、いと当てに生めいて、優美給えれど何かが違う。
匂やかに活気に満ちた態度なども不自然にあらぬを、如何で、かの一族にほがらかなしつけを覚えさせ給うらむ。祖父母の教育が優れていたということか。
先帝の五番目の妃、一つ后腹に生まれなればにや、二人とも性格が良う似とる」などと光源氏様は思す。
藤壺の女御様とのゆかり、いと睦ましき間柄に暮らし、いかでか兵部卿の宮の孫娘と縁があるとは、
「よほど相性が良いのだろう」
と、深う覚ゆ。
二十
また別の日、北山の僧都は御文奉れ給えり。尼君にも、
「若紫を迎えとらむ」
と、光源氏様はほのめかし『伝え賜うべし』とある。尼上には、
「持て離れたりし私の意向から嫌がる御気色の慎ましさに、若紫を思い賜ふるさまを、燃え表し果てて、この切ない思いを言いはべらず苦しみ過ごす成りにし日々をなむ。
かばかりに鳥の一声として聞こゆるにしても、押しなべたらぬ姫に対する強い心差しのほどを、御覧じ知るならば、いかに嬉しう思うなむ」
などの御言葉あり、中に小さく引き結びて別の御文があり、
面影は 身をも離れず 山桜 心の限り 留めて来しかと
面影は 身をも離れず 山鳥に 心の限り 添いて来しかと
「好きな人を放っておいては、夜の間の、風の音にも後ろめたく思うなむ」とあり。
悩む頭を支える若君の御手などは、さるものにても何とも気の毒で、ただはかなしう顔を押し包み賜えるさまも、定め過ぎたる年の私の御目どもには、無性もなく彩に好ましう見ゆる。
あな傍ら痛や。御近くで見ていても、尼君はいかが思し返事せざるを聞こえんと、他人事ながら思し煩う。
尼君は「行く先々手の失礼な御事は、なおざりにも気にも留めぬと思い給えなされしを、これほど度重なるお求めを振り払えさせ賜えるに、願を叶え聞こえさせむ方も、こちらには誰一人居なくなむ。私共は皆、誰も快く思うておりません。
まだ難波津の歌ごとくだに、はかばしう幼子を求め続けはべらざめれば、甲斐なく無駄に終わるなむ。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 古今集
の童歌のように、固い冬のつぼみを咲かそうとしても、笑い者にされるばかりぞ。若君の思いはちと早過ぎまする。さても、
嵐吹く 尾上の桜 散らぬ間を 心留めける ほどのはかなさ
嵐吹く 吉野の桜 散らぬ間を 心留めける 男の心
一時の心の迷いを、いとど後ろめたう思いはせぬか」とあり。
僧都の御文の御返りも同じさまなれば、口惜しう悲しくて、二・三日の後に通達ありて、惟光をぞ二条の屋敷に呼び寄せ奉れり賜う。
「若紫を養育した小納言の乳母と言うべき人あるべし。その人を尋ねて、若紫への思いを詳しう語らへ」
などのたまい、こちらの意向を知らす。
さも雲も掛からぬ隈無き一途な御心かな。これ程さばかりに、子供っぽい言い訳なげ成りし我儘な御気配をと、真に阿保な行動に思いならねども、一途な思いを見し程を暖かく思いやるも、桐壺帝は寛容に見えておかし。
惟光は僧都の館を尋ねて、いきなり、多くの人の前で、
「乳母の小納言殿、光源氏様からの恋文じゃぞ」
と、わざとかう御文あるを、空高く振り上げて近くにいた女中女房に見せびらかし大声を張り上げる。
「惟光殿、いきなり何を言い出すのじゃ。人の目があるじゃないか。いと恥ずかし」
小納言の妻は惟光の袖を引いて、御文を取ろうとする。
「ほうれほうれ、これじゃぞ小納言殿。欲しいか」
惟光が顔の前で御文を振り回すと、乳母は恥ずかしげに顔を赤らめます。近くにいた僧都にも、この騒ぎを、かしこまり聞こえ給う。惟光は僧都に消息してお断りすると、小納言の妻に会いたり。
「光源氏様が切に大殿入りを御所望じゃ」
とて言うと、乳母は、
「私をでございますか」
と言う。
「阿保な、そなたなど望むものか。紫の姫君に決まっておるじゃろう。実は乳母であるそなたに、若紫の気持ちはどうなのか、御訪ねしたいのだ。光源氏様の御文を預かっておる。読んでみろ」
「承知しました」
惟光は御文を渡すと、詳しく光源氏様の思しのたまうさま、大方の若紫に対する御有りさまなどを語る。
惟光はふざけ半分で言葉多かる人にて、付き付きしう最もらく言い綴れど、いと自分も納得できぬ割りなき若君の御ほどを、小納言はいかに思すにかと、ゆゆしう思うなむ。
「まるで馬鹿げた子供の使いのよう。自分も納得せぬに、よう来れたものよ」
とね小納言は言う。
「そうは言うても、命令とあらば従わねばならぬ」
「宮仕えは苦労が多いのう。おほほほ・・・」
などと、誰も誰も気の毒に思し続ける。
御文にも、いとねんごろに端正込めた文字で書い賜いて、例の御文の中に若紫に宛てた別の御文もあり、
「かの幼い姫君が読みやすいように一文字一文字分けて書いた、御放ち書きなむ。姫君になお見賜え欲しきに」とて有り。
あさか山 浅くも人を 思わぬに など山の井の 掛け離るらむ
浅香山 粗末に人を 思わぬに 何故に山の井 余を離るらむ
「これがわしの本当の心である。姫は難波津の返歌も習うたであろう。
浅香山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに
(古今集手習い歌)
どうぞ私の気持ちを御汲み取りくざされ」と有り。
これに対して尼君の御返歌は、
汲みそめて くやしと聞きし 山の井の 浅きながらや 影を見るべき
汲み止めて くやしと聞きし 井戸水の 浅き深さや 底を見るべき
とあり。惟光も同じ『浅はかなことをする』と嘆いたと聞こゆ。小納言は、光源氏様の御文の、
「この煩い給う事のよろしくご配慮の節は、この頃過ごして暮らす京の二条殿に渡り給いてなむ、我に直接聞こえさすべき」
とある命令文を、心もとなう腹立たしく思す。
二十一
藤壺の宮、悩み賜う事多くありて、桐壺帝の御前にまか出賜へり。上様の付き人女房も、
「このところ藤壺の女御様の御気分が良くありません。どうぞ女御様の悩みを聞いて上げまし」
などと、おぼつかなさがり、嘆き聞こえ給う王族出身の女官の御景色も、いと愛おしう気の毒に見立て奉りながら、帝王様に悩みを打ち明けるよう促しても、藤壺の宮は一向に口を開こうとなさいません。
「一体何事があったのだ。そなたらしくないぞ。無心な笑顔こそが藤壺の光であったと言うに」
「別に何ともありませぬ。ただ気乗りがしないだけでございます」
などと、まともに顔を見せようとせず、投げやり的に言い放つ。
「それにしてもだ」
藤壺の女御様は、掛かる光源氏様の北山旅の折りだにと、
「どうして自分を頼りに相談に来ぬか」と、
心も悪がれ途惑いて、自分の手元から離れて行く若君にを思うと、他の女御部屋のいずくにも、宮中の行事のいずくにも、詣で出賜わず。
内裏の宮殿に居ても、兄の兵部の宮の里にても、昼はつれづれにぼんやりと庭を眺めて暮らして、日が暮るれば王命婦の地位の高い女官を責めて、怒鳴り散らし歩き賜う。
いかが多計り、宮殿の退屈な生活を抜け出しけむ。いと割り切れなくて、宮殿の華やかな衣装を見奉るほどさえ馬鹿馬鹿しくて、現実のうつつとは覚えぬぞや、この単調なわびしきや。
源氏の宮も、たとえ子供の時代で何も知らぬ年ごろにあったにしても、藤壺の寝床で過ごしたことの、浅ましかりし出来事を思い出ずる恥ずかしさだに、世と共の御もの忘れ思いなるを、さてもだに病みなむ。
「あれは二人だけの秘密にし。誰にも言ってはならぬこと」
と、深う思したるに、せめて会うことがないようにと心に誓う。
いと心優しくて、いみじき妖艶が漂う御気色なる誘うような眼差しのものから、藤壺の女御様は懐かしうろうたげに、過去を忘れたかのようにさり気なく話し掛ける事もある。
さりとて、たまには打ち溶けず、心深う恥ずかしげなる余所余所し御持て成しなどの、なお並々の人に似させ賜うわぬ悩ましさを、藤壺の女御様は当て付けにお見せになる。
子供の時の思い出のように、二人して体を温め合い、夜明けまで過ごすなれば、何事も無く純真のままに心は打ち解けられよう。
などかなのめ、どうして心を惑わせなる事だに、不謹慎な考えが打ち混じり賜わざりけむ。
「忘れようにも忘れられないではないか」
と、辛うさえぞ、思さるる。
二人が何事を望んでいるのかは、聞こえ尽くし賜わむ。鞍馬忍ぶ山に宿りも取らま欲しげなれど、あや憎くなる短か夜にて、浅ましう二人で会う事はなかなか難しげなり。
見てもまた 逢う夜まれなる 夢の中に やがて混ざるる 我が身ともがな
見てもまた 逢うもまれなる 夢の中に やがて二人して 添い遂げればや
とむせ返り賜うさまも、さすがにいみじ不謹慎なりければ、
世語りに 人や伝えへん たぐいなく 浮き身を醒めぬ 夢になしても
世語りに 人は伝えよう たぐいなく 浮き身も醒めぬ 色恋女
藤壺の準王妃様は、この事が言いたくてたまりません。女御様が、源氏の君を思し乱れたる様も、いと断りに、人の情欲は避けられないものとして、女とすればかたじけなし。
藤壺様をお守りする王命婦の君ぞ、藤壺様が外で光源氏様と御会いなさるのが一番良いと考えて、主の出掛けるお直し服などは、女官が共有する衣裳部屋から、をかき集めて持て来たる。
二十二
「女御様、このところ気分が優れぬ御様子、兄上様の里にて二・三日五静養なされてはいかがでございましょうや。桐壺帝も大変心配しておわします。宮殿を離れねことは問題ありません。帝王様も
『二・三日なら許す』と仰せになられておられますゆえ」
王命婦はそのような事を進言なさいました。
「帝王様がそのようなご配慮をなされたのか。私は宮中のこの退屈さに今にも気が狂いそうです。帝がそのようにお勧めなら有難くお受けいたそうではないか。帝の気の変らぬうちに、早く出掛けると致そう。準備を急げ」
藤壺の女御様の顔に、一瞬明るい笑顔が戻りました。
「承知致しました」
藤壺の女御様は目立たぬように普通の女官の服に着替えると、例のごとく日暮れの時刻に宮殿を離れ、まかり出賜う。
源氏の君は女御様の悩みが自分と同じ、互いを不本意に避けようとする気持ちにあると悩みて、近衛府におわしても、
二条殿におわしても、泣き寝に臥し暮らし賜いつつ、何もする気力もなし。堪り兼ねて
「せめて一度、人目も付かぬところでお会いして、互いの心の整理が付くまで話し合うのが良かろうと考えるべし」
と思して、御文等も何度か送っているものの、例のごとく御覧じいれぬ良しのみの御景色あれば、常の事ながらも、辛ういみじう可哀そうに思し惚れて、内裏へも参らで、ニ・三日二条院へ籠りおわす。
源氏の君にすれば、宮殿から抜け出すことのできない女御様の境遇が哀れでたまりません。光源氏様が平然として惟光を従えて堂々と御会いすれば、この悲しいわだかまりも解決するのですが、
「源氏の君はまたも藤壺の女御様と御会いしとる。二人の仲がますますあやしい」
と、またいかなる噂にかと、お互いが心動かせ賜うべかめるも考えて、恐ろしう世間体の事のみ覚え賜う。
ちょうどその頃、藤壺宮付きの命婦から、一通の御文が惟光の手元に届きました。
「実はこの所、藤壺宮女御様の御気分がすぐれません。私の目には光源氏様のことを思うてお悩みだと思いますが、帝王様も私共も打つ手がございません。このままでは自ら命を絶つのではないかと心配しております。
どうぞ、その事で一度相談いたしたいのですが、今宵是非とも鞍馬の宿に光源氏様をお連れして来ていただけないでしょうか。私共は帝の御許しを得まして、兵部の宮の屋敷に向かう途中、鞍馬に向こうております」
という内容でした。
「光源氏様、このような御文が届いております。是非とも鞍馬に御出掛けなされまして、御相談に乗ってさし上げた方がよろしいかと存じます。いかに処すべし」
と、惟光の話し声聞こゆ。
「それは願ってもない事、藤壺宮と一度話をしないことには、互いのわだかまりき治まらぬ。命婦殿がおいでくださるなら、とことん女御様の苦しみが何であるのか聞こうではないか」
「それは良い考えでございます。さっそく出立の準備を致します」
「目立たぬように、馬で出発するのが良かろう。三頭用意致せ」
「かしこまりました」
鞍山の宿りは宮殿から三里離れた北の方角にあります。光源氏様と惟光、空蝉の若君を乗せた早馬は、王命婦の御文を受け取ってから二時ほど経って鞍馬の宿に到着致しました。宿の入り口には明る過ぎるほどの灯明が灯されております。
「命婦殿」
一足先に馬を降りた惟光が宿に入り声を掛けると、早くも馬の足音を聞き付けた命婦が供の者を従えで、簀戸門の奥に立っております。
「おう、惟光殿、よう参られた。光源氏様もおいでか」
「すぐおいでになられます」
惟光が主はまだかと後ろを振り向くと、光源氏様が門の影から姿を現しました。後に続いた光清はすぐに門の扉を閉めます。
「おう、命婦殿。今宵は世話を掛ける。藤壺の女御様の具合はどんな様子なのじゃ。宮殿では藤壺宮と幼くして仲良く暮らしたものの、十八の元服した今では人目が気掛かりじゃ。ゆっくりと会うて話もできぬ」
光源氏様は長身の体を伸ばし、右手に守り刀を持って話しかけました。
「まずは奥へ参られまし。藤壺の女御様もお待ちかねでございます」
「何、女御様が参っておるのか、それはどういうことじゃ」
「どうもこうもではありません。私供は藤壺様が命を絶たれるのではないかと心配で、心配でたまらないのです。何はともあれ会って下さいまし」
命婦は一時を争うように、行き先を手で示し先を歩き出しました。
女御様が待っているというお部屋に入ると、藤壺宮は奥で落ち着かぬ様子で座っておわします。顔色は優れませんが、やはり王族の生まれが存在感を大きくさせ、近寄りがたい威厳があります。
「女御様、お手間を取らせまして申し訳ございませんでした。光源氏様でございます」
命婦は襖を開けると、この待ち合わせが当然であったかのように、一礼してから言いました。
「何、源氏の君じゃと」
「左様でございます」
「命婦殿、これはそなたのお膳立てか」
「左様でございます。私は女御様付きの命婦として、藤壺様のようすが気掛かりでたまらないのです」
「余計な事を」
「まずは会って、二人して今後どうすれば良いのかお話をなさって下さいませ。互いが相手を案じておっては。物事がうまく治まりません」
「私もそう思っておりました。藤壺様。私達はお互いに親しく育った仲。藤壺の女御様を母親のように慕っております。遠くから叔母君の悩ましい姿を拝見して、心配で心配でたまらないのです」
命婦の後ろに立っていた光源氏様は、命婦の前に出ると当然のごとく高床の前に座り言いました。
「それよりも若君の具合はどうなのじゃ。熱がときどき起り、体調がすくれぬとか」
「私の方は北山の聖の祈祷もあってか、大分良うなりました。それよりも女御様の事が気掛かりでたまりません。命婦殿を相当に困らせておいでとか」
「私の方は贅沢病なのでしょう。宮殿の生活が退屈でたまらないのです。兄の兵部の宮は仕事と愛人の世話で忙しいらしく、なかなか会いに来てくれません。
源氏の君は内裏では余所余所しく、軽く会釈するぐらいではありませぬか。もっと堂々として挨拶に来て欲しいのです。世間の噂など気にするから変に疑われるのです」
「でもそれでは朝廷の重臣が何と言うか分かったものではありません。宮中に於いてはよほど用心なさいませんと」
惟光が後ろから口を挿みました。
「遊び人のそなたが何を言う。宮中の女官をからかいながら歩き回っているではないか。若君もそうであって欲しいのです。そして時々私の元へご機嫌伺いに来て欲しい。
私共は四方の引き戸を開けっぱなしにして、他の側室からも、女官からも見られるようにします。それならば変な噂も立たぬでしょう。噂など無視すれば良いのです」
「いやいや、他の女御どもの噂は、人を落としめるのが目的なのでしょうから、真実などどうでも良いのです。藤壺の女御様も、よほで御注意なさいませんと」
「女御様のお気持ちは良う分かりました。今後は人目など気にせずに堂々と参りましょう。この方面のお膳立ては惟光に任せれば安心でございます」
「それを聞いて私も安心しました」
藤壺の女御様が希望を持てたように笑顔を見せると、源氏の君の表情も明るくなりました。後ろから二人のようすを見ている惟光は、近くで黙って聞いている光清に、
「どうじゃ、二人は兄弟のようじゃろ」
と、二人を左右に指差しながら言いました。そこへ命婦が参りました。
「女御様、大分お元気になられたようで安心しました。京の都が見下ろせる南廂にお食事の用意ができております。どうぞ御二方もこちらへお越し、今宵はおゆるりと楽しんで下さいまし」
命婦が腰を低くして案内すると。二人はそちらへ向かいました。そして酒の酔いが加わったこともあり、二人は何故か当然のごとく寝床を一つにしたのです。
それは母君と幼子のような昔のままの自然なより添いであったのですが、十と言う年月は、十八と三十の大人として、当然のごとく裸になり、二人は抱き合ったのです。
藤壺の女御様の求めるままに源氏の君は体を触られ、源氏の君は、一度目にした桐壺帝の欲情と同じことをしておりました。
「やはり私たちは二度と逢わぬほうがよろしいかと存じます」
と源氏の君がいうと。藤壺の女御様は。
「そうですね」
とポツリと言いました。
一度兄の兵部の宮の里で過ごした藤壺様は、宮殿に戻ると気分は相当に良く成りました。桐壺帝もご機嫌なようすです。
「そなたの笑顔が戻りなによりじゃ。里に帰した甲斐があった」
と、大変喜ばれました。
桐壺帝は七十五過ぎの御年を召されて、藤壺の女御様以外は夜を共にすることは無くなりました。それに精力もめっきり衰えて、藤壺様が積極的に寄り添っても、背中を軽く叩くだけで、それ以上を求めることもなくなりました。
「わしはもう年じゃ。男としての役目はとうてい果たせぬ。時々こうして夜を共にしてくれれば、男としてのメンツが立つ。帝としても権勢を保てるじゃろう。そなたには申し訳ないが、時々こうして夜を共にしてくれ」
と言いました。
「帝様、それでは余りにも・・・」
「分かっておる。そなたは若い。どうしても我慢できなければ里でも帰り、源氏の君と時々会うが良い。あれはわしと同じじゃ。憎めぬようにできておる。あれの子供が手来たならば、それはそれで、それも良かろう」
「帝王様・・・」
「分かっておる。せめてものわしの償いじゃ。時々こうして夜を共にしてくれれば、世は満足じゃ」
桐壺帝のしわ枯れた声を聞いて、藤壺の女御様はしくしく泣きだしました。
源氏の君は常のことながらも、女御様のことが辛ういみじう、可哀そうに思し惚れて、桐壺帝が一昨日のことを聞き付け、つらく当りはしないかと、内裏へも参らでニ・三日二条院へ籠り悩みおわす。
また藤壺の宮もなお、いと心憂鬱き身の上になりけりと、犯してしまった罪の意識を嘆くに、源氏の君と一夜を過ごした喜びよりは、後悔の悩ましきも勝り賜いて、再び憂鬱な日々を過ごし賜う。
特と急いで参り賜うべき源氏の君への御使い、妊娠の兆候を伝え仕切れねど、他に良い考えが思しも立たず、誠に若君の不安な御心地、我が身のごとく感じ賜う。せめて、
「帝王様はこのような事で罰を与えたり、咎めたりははしません。どうぞ安心して、役所の仕事に御励み下さい」
と伝えたけれど、御文が世間に知られたりでもしたら、例のようにも世間の語り草におわしまさぬは、如何なる事かと悩み賜う。
一夜の誤りを人知れず思すことあれば、心憂鬱しく、不安な思いが増す一方で、源氏の君と自分が今後如何にならむとの思いのみ思い浮かんで、心は思し乱るる。
五月の程好い季節から時が過ぎて、八月の暑き季節のほどなると、藤壺の女御様は、いとど起き上がるにも息苦しさが増して、立ち上がり賜わず。
鞍馬の夜から三月に成り給えば、いと印きほどにてつわりも酷く、宮中の人々、ようすを見奉り、
「安静になさいませんと、身がもちませぬぞ」
と、とがむるに、浅ましき女の宿世のほど、心憂し。
人は桐壺帝の御年を考えて思い寄らぬ事なれば、この月まで奏せさせ給わざりける事、
「如何なる事にてか」と、驚き聞こゆ。
我が紫式部が思う女御様の御心一つには、これは帝のお子様ではないと明らかに知るよう思し、不貞と正当を分くる事も有りけり。
二十三
藤壺様は日頃から、御湯殿の女官などにも親しうお気遣い仕まつりて尊敬されるほどに、何事の変化、御気色をも知るべく見奉り、何事も帝王様に報告すると知れる御乳母御用役の弁、命婦などぞ驚き給う。
誰が見ても怪しと思えど、互いが片身をを一つにして言い合わすべき落としめに有らねば、何とかして藤壺の女御様をお守りして差し上げたいと考え悩み給う 。
なお逃れ難かりる御宿世の妊娠をぞ、御身体の変化は宮中の側室や女官に隠し通せず、命婦は浅ましと思う。
内裏の側室部屋には御物の怪の幽霊に紛れにて、問みに男が紛れ込む景色が尚うもおわしますけるようにぞ、言い訳のごとく奉りし、身に覚えのない御懐妊は良く有る事と聞きけむかし。
藤壺様を見る人も、思いやり深い人柄で身分の高い人なれば、さのみ都合よく思いけり。周りも守ってやりたい人柄だけに、いとど哀れに限りなう思されて、帝の御使いの暇なき訪問をぞ、どのようになるか空恐ろしうもの思すこと、目を離す暇もなし。
近衛府中将に出世した源氏の君も、驚ろ驚ろしう様々な異なる夢を見賜いて、悪夢に合わする予言の占いの者を召して、
「この夢が何を暗示するのか」
問わせ賜えば、考えも及び付か無う、君も思い掛けぬ筋の事を言い合わせけり。
「その夢の中に、人生の違い目ありて、誰かがご懐妊された兆しあり。天にも昇る良い事もあれば、身分を奪われて地方へ下る変化の兆しもあります。人の道理に反する事は慎しませ給うべきことなむ。災いが近くにおわしはべる」
と言うに、光源の君は煩わしく不吉に覚え給いて、
「自らの夢にはあらず、知り合いの人の御事を語るなり。占いは他の人のことじゃ。この夢のつじつまが合うまで、また人にも話しまねぶな。世間に漏れでもしたら命はないものと思え」
とのたまいて、心の中には、
「この先如何なることにならむ」と思し渡るに、
「若君様、藤壺の女御様から内密の御文が届いております。急を要するとの事、すぐに御読みくだされ」
と惟光の預かりし御手紙を受け取る。急いで御開きになった御手紙には、次のような事が書いてありました。
「光源氏様も様々な噂をお聞きしておりましょうが、私は不幸にも懐妊してしまいました。しかし、これは光源氏様の過ちでなく私の過ちなのです。私の事はどうにでもなります。
光源氏様はあの夜の事を決して他人に口外してはなりません。もし口にしてしまいますれば、重臣は当然のごとく宮中から私たちを追い出しに掛かります。私も光源氏様も、これから先の未来はありません。私はそれが怖いのです。
桐壺帝はおそらく私を咎めたりはしないでしょう。自慢のごとく自分の手柄だと重臣に言いふらすに違いありません。帝王様は私と夜を共にすることで、男としての誇りを保とうとしております。
私は当然のごとく桐壺帝の皇子として養育し、帝に満足していただけるよう忠誠をつくします。帝は光源氏様のお子様ではないかと疑いながらも、決してそのような態度は示さず、熱心に私達親子を見守って下さいます。
光源氏様も過ちを胸に秘め、平然と宮中でお仕事に御励み下さい。それは桐壺帝の揺るぎのない願いでもあります。
かしこ」
光源氏様はこの女宮、藤壺の女御様の御事聞き賜いて、
「もし、さる内容にもにも出来ればや、帝王様も女御様も、そして自分も重臣への対面が保てる」
と思し合わせ賜うに、いとど最もらしく、いみじき疑いを晴らす言の葉尽くして、言い訳に聞こえ給えど、王命婦も思うに、
「いとむかつくけう、煩わしさ勝りて、さらにこの上、たばかるべき妙案も方なし。ここは桐壺帝の御子として育てるのが、一番よろしかろうと存じます」
と言うに、
「女御様の御意向に従います。私はこれ以上に近衛府の仕事に励み、女御様にお会いしても、努めて他人のごとく、何もなかったように振舞います」
と源氏の君は返事して送れど、女御様からの御返事はなし。
これ以上のはかなきひと下りの御返り文の、たまさかなりし期待もできず、当然のごとく知らせは絶え果てに成りたり。
七月になりてぞ(藤壺宮の御懐妊兆候は六月に修正します)、光源氏様は女御様の御部屋へ参り賜いける。珍しう余所余所しく振舞うは哀れにて、いとどしき親しみの御思いのほど限りなし。
女御様は少し膨くらかに成り給いて、より一層女らしく見え給う。打ち悩みて過ごした御顔立ちは、面痩せて気高く理知的に成り給える。はたはた、げに藤壺様に似る魅力的な者、宮中になくめでたし。
例の明け暮れに、桐壺帝は是なた彼方、藤壺御殿のみにおわしまして、御遊びにも良う良う参り賜う。
夕暮れて、季節はさわやかにおかしき空なれば、源氏の君もいとまなく毎回御ちかくへ召し奉つはし給いつつ、御琴・笛など様々に演奏仕うよう御命じ奉つらせ賜う。
初秋の程好い季節に響く笛の音は、退屈な宮中の生活に明け暮れる女御どもには心地よい響きで、瞑想の世界へ誘い給う。桐壺帝の権力と藤壺宮、光源氏様の華やかさは、この上ない楽しみなり。
帝はいみじう持て成して、優しく包み賜えども、忍び難き景色の鋭き光の漏り出ずる折々に、若宮もさすがに後ろめたなる御事どもを多く感じ取り、父君に申し訳なく思し悩みけり。
二十四
かの山寺の人は病気も良ろしうなりて、北山の静養先を出で給いにけり。君は京の尼君の住み家訪ねて、時々ご機嫌伺いの御消息など、贈り物したとの噂あり。
若紫の御養女の件に関しては、熱心な要請にも係わらず、同じさまの言い訳にのみあるも何の手立てもなくて、尼君が何度か御断りなる内に、日数だけ過ぎて空しい日々を送り賜う。
この初秋の月頃は、鞍馬で過ごした密会の思い出や、空蝉の冷たい態度、夕顔の悲しい死が思い出されて、有りし過去にも勝る物思いになれども、若紫の事はことごとく断られて、何の手立てもなく無意味に過ぎて行く。
それから二ヵ月過ぎて、秋の末つ方、冷たい風か吹き、虫の鳴き声が響く頃、野分の心配もなく平穏な暮らしになると、いと空しくものさらに高まりて、気力も湧かず心細く嘆き賜う。
月のおかしき満月の夜、夕顔の昔住み家が気に成り始めて、その忍びたる所近くに、辛うじて按察使大納言の母君がおわしになるを思い立ち賜えるを、惟光を呼び寄せ、お出掛けの支度を命じ賜う。
「若君様、雨になりそうじゃぞ。それでもお出掛けになられますか」
との仰せに、
「かまわん」
と答ゆる。
案の定空はしぐれめいて雨が打ち注ぐ、おわする所は六条京極渡りにて、桐壺帝がおわします内裏よりなれば、少しほど遠き心地するに、荒れたる家の木立、いともの古るりて茂り、小暗う不気味に見えたる姿なり。
例の御供に一時も離れぬ惟光なむ。
「故按察使の大納言の家におわしはべり。一日ものの先の話でございます。噂を便りにお見舞いにとぶらいて尼君を訪ねはべりしかば、かの尼君痛う弱り賜いたれば
『何事も覚えず意識も朦朧としてなむ』と世話女房申しはべりし」
と、惟光の声聞こゆれば、
「哀れの事や。もっと早く御機嫌伺いにとぶらうべかりけるを、などうしてか、その通り素直に行動を起こさなむ。今になって残念ともの思い施ざりし。少し遅すぎたと思えるが、入りて消息御訪ねせよ」
とのたまえば、惟光は別の人を先に入れて案内施さす。
「わざわざと、かうして遠方より御立ち寄り賜えること。『是非とも尼君に御会いしたい』と言うのじゃぞ」
と、言わせたれば、供の者は屋敷に入りて、
「かくも尼君様の事心配致しまして、御とぶらいに参りなむ。光源氏様がおわしましたる」
と言うに、女房頭は驚きて、
「いと片腹痛き御気の毒なことかな。この日頃無下にいと弱り果てて、尼君様は頼もしげなく成らせ賜いになりたれば、御対面などもあるまじきこと。御用向きは難しげなり」
と言えども、無理に帰し奉つらむは恐ろしく禍し濃しとて、寝殿の南の廂を引きつくろいて、
「お待たせいたしました。どうぞお入り下さい」
と、入れ奉る。
「いと難しげに成りはべれど、かしこまりお受け致しましたお見舞いの件だけに、重大な事と思い主にお伝えしなむ。対応が遅いとて思わずに、どうぞゆくりとなうお過ごし下さい。
ここは物深き由緒あるお部屋で、装飾も立派でございます。一番の客をお迎えする御座所になむ」
と聞こゆ。
げに掛かるこのお所は、例の尼君が暮らす部屋にひと違いに成り給うと思さる。
「常に若紫と共に暮らしたいと思い給え立ちながら、甲斐なきさまの迷惑そうにのみ持て成させ給う態度に包まれ、今まで過ごしはべりてなむ。なかなかお会いできぬは、悩ませ賜うこと。
私の気持ちを重くとも受け賜わらざりける、おぼろ付かなさ。悲しくと思い給うべき」
など聞こえ給う。
「まだ若紫様は幼子でございます。無邪気に遊び回ることしか頭にごさいません。養女と申されましても、御本人が未熟なれば、私共の恥でございます。もう少し尼君が落ち着くまでご辛抱下さい」
と乳母の声聞こゆれば、尼君の声がして、
「何はともあれ、お越しなられましたならば、こちらへ御通しなさい」
と言う。
「乱り心地は何時ともなく・・・・
二十五
「乱り心地は何時ともなく人生において付きまとうもの。平穏のみ求めて暮らしはべるが、今年限り、限界のさまに成りはべりて、いとかたじけなう良い機会に立ち寄らせ賜えるに、自らは心苦しくてお願いしたくても、何も聞こえさせぬこと。
のたまわする養女の事の筋、たまさかにも後になって思し召しが変わらぬよう約束はべらば、かく割り切れなく御年、成人の齢過ぎはべりて魅力的ならば、必ず一人前の女として側室に数まえさせ賜え。
いみじう若紫は心細げに見給え置くなん。あの子は誰かの援護がなくては生きらぬと思うべき。願いはべる極楽浄土への道に放り出しの今になり、あの子への心残りは、去り難しと思い賜えられるべき」
など、嘆きが聞こえ給えり。
いと尼君の寝所に近ければ、心細げなる御声、絶え絶えに聞こえて、
「いとかたじけなき御誘いのわざにもお気遣いはべるかな。この若紫今だにかしこまり、
『礼儀作法、分別も未熟者』と聞こえ給いつべき噂にならぬほどなら、まだ増しかば」と、のたまう。
源氏の君は尼君の御言葉を哀れに聞き賜いて、
「何か若紫を浅う思い賜えむ尼君の御言葉かな。姫君は十分物事の道理をわきまえておられる事ゆえ、かうも好き付きし大人の装いさまを見え奉らむ。私は若紫を大人として十分だと見ておる。
いかなる契りにか若紫を見奉り、初めて惚れ染めし日より、自分の募る思いを哀れに思い聞こゆるも、怪しきまでこの世の宿命事に違いないと覚え悟りはべらむ」
などと、のたまいて更に、
「お願いの甲斐なき他人心地のみ仕はべるを、かの言い訳なうもの仕賜うあどけない姫君の御声、一声、いかでか私に聞こえさせて給もうれ」
と、のたまえば、
「いでや、何をそんな我儘を申される。よろづに尼君の御世話だけで大変な思いなり。姫の御姿まで思し考える暇などありません。知らぬ差間に、奥の大殿に籠り入りてお休みになられたと思うべき。この御時間に御会いするのは無理でございます」
などと、聞こゆり折しも折り、あなた、奥より人の来る音して、
「上の女房頭こそずるいぞえ。この寺に訪問有りし源氏の君にこそ御会いしたなれ。自分達だけ見奉り、私にどうして合わせぬのじゃ。なぜ私の近くへ見給わせぬ」
と若い子供の声がのたまうを、尼君に寄り添う人々、いと片腹痛し、
「これはまずい事になった」と思いて、
「あなかま、姫はまだお近くにおられた。光源氏様に言い訳が立たぬぞえ。何とも困った事態なった」
と、驚く声聞こゆるに、
「いざ、『姫君を見しかば、喜びの心地見せて、あしき欲望の慰み事になりき。何をしでかすか分からぬ』とのたまいし、こぞって私を遠ざけるのであろう。光源氏様の悪口ばかり聞きかば暮らしぞかし」
と賢き大人の策略事、反省聞こえたれと思してのたまう。
「取り巻きの世話女房が説明した言い訳は、いとおかし」と源氏の君は聞い賜えど、ここの人々の間の悪さを苦しと思いたれば、何も聞かぬように装いて、
「おお、姫君は御近くにおられのかたか。お元気そうで何よりじゃ。私は天尼君のお見舞いが終わった所で、これから急いで宮殿へ帰らねばならぬ。御婆婆さまの看病をよろしくお願いしますぞ。姫君は良い子じゃ」
などと、真目やかなる御とぶらいの御言葉を聞こえ置き賜いて、二条院へ帰り賜いぬ。
「御婆婆様、どうしてもっと早く教えて下さらなかったのですか。私は宮殿を見学したいとお願いしたかったのに」
「ほほほほ・・・姫君、そなたの歳ではちと早すぎるぞえ」
「ほほほ・・・」
げに言う甲斐なきの気配や。尼君の木戸門を通り抜けながら、女房どもの声を聞きながら源氏の君は、
「さりとも、いと良う教えてむ」
と思す。
二十六
また別の日も、いと小真目やかに、尼君のとぶらいに訪問されるよし聞こえ賜う。例の小さくて若紫に宛てた御文、
いわけなき 田鶴の一声 聞きしより 葦間になづむ 舟ぞえならぬ
あどけなき 田鶴の一声 聞きしより 葦間に潜む 舟ぞえ捨てて
「同じ人にや渡し賜え」
堀江行く 田なし小舟 漕ぎ帰り 同じ人にや 恋渡りなむ (古今集)
と、ことさら真似て幼く楷書体で書き成し賜えるも、いみじう子供じみた御文でおかしければ、やがて後の世に、姫君に贈る恋文の御手本にと、人々に知られたと聞こゆ。
僧都の小納言ぞ、この要請に激怒したと聞こえたる。
「問わせ給える御文は、相手の尼君、今日をも過ぐし難げなる沙間の危篤に陥りて、山寺の兄君にまかり渡るほどにて、こう問わせ賜える恋文のかしこまり御返事は、若君の世ならでも聞こえさせむ」
とあり。光源氏様の世間知らずは、いと哀れと思す。
秋の夕べはいつもの季節に増して物思いに沈むもの。まして心の暇なく思し乱るる若き人の御当りに心を掛けて、あながちなる葵の上や、藤壺の女御様、六条の御息所など、ゆかりの人にも訪ね間欲しき下心にも勝り、思い詰め賜う弱き恋のしもべとなるべし。
老い立らむ 有りかも知らぬ 若草を 遅らす露ぞ 消えん空なき
老い立ちぬ 運命も知らぬ 紫に 遅らす年ぞ 消えん空なき
とありし日の尼君との夕べも思い出されて、
「恋しくもまた見ばや、何人にも劣りやせむ」
と、さすがに募る思いは危うし。
手に摘みて いつしかも見む 紫の 根に通いける 野辺の若草
手に摘みて いつしかも見ん 紫の 寝に通いける 野辺の狛犬
光源氏様は十五夜の月を見ておわします。
十月になると朱雀皇子に天皇攘夷の宣旨決まり、嵯峨天皇の造営奉りし朱雀院へ行幸あるべしとの御告げあり。舞人などその役柄多くして、各役所に分担を命じる。
やむごとなき家柄の子供、三位以上の大臣など上達部、清涼殿へ参内を許された中将はじめ殿上人どもなども、その方に付き付きし才能ある者は、皆舞人などに選ばせ給えれば、
まず帝の御子たち、大臣、大納言より舞の練習を始めて、役柄に応じた色取り取りの楽器の演奏、扇や旗の振り方、舞など習い賜う。いと一時も休む暇なし。
北山の山里人にも久しう訪れ給わざりける御無沙汰を思し出でて、光源氏様は練習の傍ら、わざわざ振り映え使者を遣わしたりければ、僧都の返り事、御文のみあり。
「立ちぬる先月の二十日のほどになむ。ついに空しく見給え叶わなく成して、天国へ召されてなむ。世間の道理なれど、悲しび思い給ふる哀れのみ思いに打ち沈みぬ」
など、不幸の状況記載あるを見賜うに、世の中のはかなさも哀れに思われて、後ろめたげに思われし人も、
『いかに償いしならむ』と、若君の事が気掛かりなり。
君は幼きほどにて、尼君に恋しく安らむ哀悼の御心遣いを思い、故御息所に遅れて奉りし残された若紫の事など、はかばかしからねど思い出でて、浅からず御悔みにとぶらい賜えり。
後日になって僧都の小納言より、結いなからず、御香典返りの品々あったと聞こえたり。
二十七
尼君の二十日間の忌など過ぎて、京屋敷の殿に御都合聞き給えば、程なく時を経て「どうぞ御渡り下さい」との返事あり。源氏の君は自らのどかなる夜を御選びになられて、若紫の元へおわしたり。
いとすごくげに不気味に静まり、荒れたる所の人も少なくなるに、いかに幼き人、恐ろしからむと見ゆ。例の南廂の寝所に入り奉りて、小納言と尼君の御有様など語り賜う。
「妹君は、ただただ若紫の将来が心配で『死ぬに死に切れぬ』と、言いながら亡くなりました」
僧都は打ち泣きつつ、娘に早く先立たれた尼君の苦労を語り聞こえ続くるに、相なう光源氏様も御心を打たれて、御袖もただならず涙で濡らし賜う。
「兵部卿の宮に渡し奉らむと思いはべらるめるを、故紫の母、姫君の浮き者に苦しみ悩まされ続けた思いが聞こえ給えりしに、いとむげに稚児ならぬ齢の年を過ぎて反抗心も芽生えれば、誰にも愛されぬ年ごろなり。
またはかばかしう人の趣けに甘える愛嬌をも見知り給わず、中空なる半端な年頃の御ほどにて、兵部卿の後妻にあまたの者、御子様が御有り仕給うなる中の養育は難しげなり。
『邪魔者』と侮ずらわしき人々の中に居てや、継母の娘たちと仲良く交じわり給わらんなど案じながら、死の間際になって心配し過ぎ賜いぬるも可哀そうなこと。
世と共に惰性に流され、下働き女としてこき使われぬる運命を思し嘆きつるも、知るきこの世に多く存在はべるに、かくかたじけなき投げかけた若君の御言の葉は、有難き幸せと悟りぬる。
そのことは、光源氏様の後の御心変わりもあれこれ考えて、結論にもたどり聞こえさせず、いとうれしう思い給えられぬべき折り節に恵まれはべりながら、
少しも御厚意になづらい成る有様にもの仕給わず。若紫は御年よりも若びて自由奔放にならい賜えれば、いと片腹痛く悩みはべる」
と、小納言の声聞こゆ。
「何か、かう繰り返し聞こえ知らする半端な心のほどを、心の底に包み賜うらむ。その言う甲斐なき迷いの御有様の、哀れに心ゆかしう覚え給うも、縁談の契り事になむ。
心ながら若紫と尼君との縁を思い知らされける。なお若紫の世話女房や乳母など人づてならで、直接本人に聞こえ知らせばや。
葦若の 浦に見る芽は 固くとも 帆は立ちながら 返る波かは
姫若の 裏に見る目は 固くとも 子は立ちながら 返す波とて
姫君の成長は目覚ましからむ」とのたまえば、僧都、
「げにこそ賢けれ。私もそう思うております」とて言って、
寄る波の 心も知らで 我が浦に 玉藻なびかん ほどぞ浮きたる
寄る姫の 心も知らで 我が裏に 玉もなびかん 竿も浮きたる
若紫の御心を考えれば 割りなき不便なこと。今宵は御会いするだけにして下され」
と答え聞こゆる有様の馴れたるに、小納言の煮え切らぬ心を歯がゆく思いながら、
「少しだけ遊ぶ罪許される給うなんぞ、わしを馬鹿にしておいでか。それなんぞは恋にならざらん」
そっぽを向きながら口ずさみ、生意気な鼻歌を踊し賜えるに 君の御心、身に染みて若き人々の率直なお気持ちだと感じ給う。
紫の君は、母上を恋しく引き思い賜いて泣き臥し賜えるに、同じ年頃の付き人女房、喪に服した御遊び難き者どもの、
「直衣着たる人おわする。品ある貴公子ぞ。きっと、兵部卿の宮おわしますなめり。南廂に行かれよ」
と聞こゆれば、直ぐに起き出でて寝殿へ駆け寄り来たる。
「小納言よ、直衣着たるらむ御人は、何処ら。父君の宮おわするか」
と、僧都に寄りて手を取り、せがむように甘えておわしたる御声、いとろうたし。源氏の君は黙って見ておられません。
二十八
源氏の君が
「父君の兵部卿の宮にはあらねど、また思し放つべう悪ろき撫男にもあらず、こちへ参れ。私が誰か御分かりかな」
と、のたまうを、恥ずかしかりし高貴な人と、さすがにお声を聞き成して、源氏の君を『あしう軽んじ言いてけり』と思して途惑いければ、
「都で一番の人気者、光源氏様がおいでじゃぞ、姫君」
と、小納言が目くばせすれば、
「私もさう思うておりました。父君は来るはずはございませんもの」
と、若紫は心細げに下を向いて静かに答えり。姫は源氏の君にきまり悪さを感じ乳母に差し寄りて、
「いざかし、眠ぶたきに。夜中に起きて来るんじゃなかった。ここはつまらん、さあ、奥へ帰りましょうぞ」
とのたまえば、
「今さらに、何どうして隠れ忍び賜うらむ。この膝の上に座り、大殿籠りの父君の夢を見よ。気持ち良く眠れますぞかし。今少し、こちへ近こう寄り賜え」
と源氏の君がのたまえば、若紫は乳母の陰に隠れて怖がり、
「さればこそ、尼君様が申し上げておりました通り、姫君は世付かぬ御ほどの人にてなむ。まだ子供でございます」
とて言って乳母が、光源氏様の前へ押し寄せ奉りたれば、何心もなく御近くに居給えるに、君は几帳の布の中に手を差し入れて、若紫の着物を探り賜えれば、なよよかなる柔らかい御衣に包まれ、
髪はつやつやと肩に掛かりて、腰まで伸びた末の、房やか切り揃えた端を探り付けるほど気持ちが良くて、いと美しう手入れが行き届いたように思いやられる。
紫の手を捕えたれば、意に反し驚いたように、例ならぬ、いやらしい人の軟体動物のような鼻息を感じ、かくこうも近付き賜えるは恐ろしうて、
「寝なむと言うものを、離して下され、いやらしい」
と、付き離せば、
「何も怖がることはありませぬぞ。姫は良い子じゃ」
とて言いながら、強いて自分の腕の中に引き入れ賜うに付けて、御体を御簾の中に滑り入りさせて、
「今は、麻呂ぞ、父君に代わり思うべき人。尼君が亡くなられた今は誰を頼りに生きると言うのじゃ。父君は当てにならん。な疎み忘れ給いそ」
と、源氏の君はのたまう。乳母は、
「いで、あな恐ろしゅう居立てや。狼に変身しおって、無遠慮過ぎるぞえ。幼き子供に忌々しいもの仕はべるかな。天下の人気者と聞こえさせ、世に知らせ給うとも、更に何の貢物の知らせも有りはへらじものを。少し遠慮して下され」
とて言って乳母が、苦しげに思いたれば、
「さりとも、掛かる姫君の美しさに負けた失態の御ほどを、いかが無様に思うかはあらん。それでもなお、ただ世に知らぬ固い絆で結ばれし心差しのほどを、見果て給え。恋焦がれる思いはどうにもならん」
と、のたまう。
この日はあられ吹き荒れて、外はすごき夜の有様なり。雨戸がガタガタと音を立てれば、若紫は恐ろしう震えたり。
「いかで、かう人も少なになるに、心細う毎日を過ぐし賜うらむ。若紫が可哀そうで見てはおられぬ」
と、打ち泣き賜いて、いと見棄て難きほどなれば、
「御格子を下げ参りね。物恐ろしき夜の有様なめるを不用心ではないか。私が用心棒代わりに、宿直人に成りてここにはべらむ。ここに居る人々、近こう寄り添い、麻呂の近くへさぶらわれよかし」
とて言って、馴れ親しき顔になって御帳の内に入り賜えば、若紫をお守りする乳母は、怪しう大胆に振る舞う思いの、もっての外にもっと呆れて、誰も誰もくすくす笑い至り。
乳母は後ろめたう割切れなしと思えど、荒ましう騒ぎ立てて、この事を他人に聞こえ騒ぐべきほどでもならねば、打ち嘆きつつも黙ってそこに居たり。
二十九
若君は、いと恐ろしう『如何にならん』とわなわな震えながら、泣かれる姫君に戸惑い、いと美しきお肌付きも、そぞろ寒げに思したるを、らうたく哀れに覚えられて、我が直衣を脱いで単衣ばかりを押し括みて、
「可哀そうに、何も心配することはありませぬぞ。怖がる事は何もありませぬぞ」
と、言いながら、我が心地にも、かつ一方では押さえ切れない欲望を、うたてはしたなく覚え賜えど、とにかく若紫の不安を取り除こうと、哀れに打ち語らい賜いて、
「いざ、我が二条院へ来給えよかし。おかしき鳥や動物の絵など多く、姫君の好きな雀の絵もありますぞ。雛遊びなどするには十分に楽しめる所にて、御気に召しますぞ」
と、心に忍び付くべき優しい誘い事をのたまう気配の、懐かしき暖かさを、幼な心地にも親しみを覚えて、いと痛うそれほども怖じず、さすがに嬉しくて、難しいう寝にもいらず親しみ覚えて、光源氏様の膝の上で身じろき動きながら、眠りに臥し賜えり。
夜ひと夜、すごき風吹き荒れるに女房どもは、
「げにこう光源氏様が、今夜居わせざらましかば、姫君は如何に心細からまし。同じ護衛に滞在していただくは、よろしき明け方のほどまで、おわしましかば姫君も安心して眠れましょう」
と、ささめき合えり。
乳母は光源氏様に身柄を委ねた後ろめたさに、若君が悪い気持ちを起させないように、いと近うさぶらう。風少し吹きやみたるに、夜深う姫を襲う御心が出で賜うも、事有り顔なりや。油断大敵ぞかし。
「今夜は一時しのぎに過ごしたとしても。今後の暮らし向きはどうするのじゃ。そろそろ食料も尽きたであろうに」
と、光源氏様が後ろを振り向き乳母に問えば、
「私どもはそのことが一番の心配でございます。何時までも僧都様に頼ることはできません」
と答ゆる。
「いと哀れに見奉る若紫の暮らしの有様を、今は以前に増して片時の間も危険が迫ると、おぼつか無かるべし。麻呂が明け暮れに姫を眺めはべる所に渡し、身の安全を御守り奉らむ。
かくこの手配のみ、他に生きる道は無いと思うがいかが。我が二条院へ参れば、若紫も物怖じ仕給わざりけり」
とのたまえば、小納言は、
「兵部卿の宮もお迎えになど、何らかの手立てを仕奉らむと聞こえのたまうめれど、いずれどうするか、この四十九日過ぐして後や、それからなどと思い給ふる」
と、答えたと聞こえゆれば、
「頼もしき肉親の筋ながらも、父と子が互いに余所余所しき別居生活にて暮らし馴らい給えるは、麻呂も兵部卿の宮も、同じう他人様としてこそ、疎う思いと覚え給はめ。今より姫の暮らし向きを見奉つれど、浅はからぬ下心差しは、まさに無かりぬべくなむ」
とて言って、光源氏様は若紫の髪を掻いて撫でつつ立ち上がり、別れを惜しむかのように、返り見がちに若紫の寝所を出で賜いぬ。夜明けの兆しは迫っておりました。
三十
館の外へ出ると、いみじう不吉な霧が立ち渡れる空もただならぬようすに、霜は地にいと白う降り置きて寒々し。若紫とは誠の男の懸想も果たせず、心の欲望もおかし駆りぬべき状態なれば、有り余る力を何にぶつければ良いか、騒々しうやり切れなく思いおわす。
尼君の館から二条院への帰り道は、ついこの間、いと忍びて通い賜う所の道なりけるを思い出して、軒端の荻の心変わりを願い、紀伊守家の門を打ち叩かせ給えど、中からは音を聞き付け、返事に来る人なし。
努力の甲斐なくして、御供に歌のうまい人呼び出して、声高々に若君の心情を歌わさせ賜う。
朝ぼらけ 霧立つ空の 迷いにも 行き過ぎ難き 妹が門かな
朝まらや 霧立つ空の 未練にも 行き過ぎ難き 空蝉が門
と、ふた返りばかりを声高々に歌いたるに、良しある下使い女房もいで出して
立ち止まり 霧のまがきの 過ぎうくは 草の閉ざしに 触りしもせじ
立ち止まり 軒端の荻の 寝床には 草の閉ざしに 触りしもせじ
と、言いかけて、木戸口に入りぬ。また今度も人も居出来ねば、馬鹿にされたようで帰るも情けなけれど、明け行く空も顔を浮かび上がらせ、人目にはしたなくて、足早に二条殿へおわしぬ。
おかしつる人の若紫、名残り恋しく、一人笑み浮かべしつつ、寝床に臥し賜えり。京の都もやっと静かになりました。
源氏の君は日高うなるまで大殿籠り御休みになり、やがて起きて文やり賜うに、男女の色恋の返歌として書くべき言葉も、子供相手に例にならねば、筆打ち置きつつ、虚しさに荒び、不愛想に空を眺めて居賜えり。
姫君には返歌の御代わりに、鳥や昆虫動物の絵などをやり賜う。
そのかしこき若紫の館には、今日、今にしも、源氏の君と入れ替わるように兵部卿の宮が渡り給えり。
前に御訪ねした年頃よりも、こよなう屋敷の中は荒れ増されり。広うもの屋敷を構えて古るりたる所の、いとど人少なに寂しく恐ろしければ、全体を見渡し給いて、
「かかる紫の所には、いかでか、しばしも置いてゆけぬ。幼き人の過ぐし給うべき屋敷にならずはむ。なおより良き賢き所へ、若紫を渡して奉りてむ。ここに比べても何の所狭きほどにもあらず。
乳母は曹司部屋など繕わせ、付き添いさぶらい給わせなむ。姫君は後妻の若き人々などあれば、寂しさなどもろともせずに遊びて、いと良う楽しくの物思い仕賜いなむ」
などと、のたまう。
「紫を呼んで参れ」と、
近う呼び寄せ奉り賜えるに、かの光源氏様の移り香の気配が、いみじう艶に男の気配が染み返り給えれば、
「おかしき嫌な匂いや、御衣も、いとくしゃくしゃに萎えて古び給えり。不潔ぞかし」ど、心苦しげに思いたり。
「年頃も熱しく、さだ過ぎ賜える過去の縁者人に添い給える。賢き我が家に渡りて、北の方に見習わし給え、御機嫌伺いなどの物施しを、怪しう遠慮し疎み給いて、除け者にされているではないか。
我が北の方も、使いの人も心に置くめりしを、掛かる尼君の葬式の折りにしも、御悔みの物仕給わむも心苦しう思う」
など兵部卿の宮がのたまえば、
「何かは心細くとも、私も紫も貧乏には慣れております。しばしは、かくして今まで通り、此処におわしましなむ。少し物の紫に愛情心を思い知りなむに、時々はこちらへ渡らせ賜わむこそ、良く出来た方とは、思いはべるべけれ。私共は頼りにしております」
と、小納言の声聞こゆ。
三十一
小納言は重い口を開いて、
「夜・昼声聞こえさせ賜う御婆婆様には、良う世話していただきました。事あるごとに厳しく叱られましたが、今思えば私の将来を心配したまでのこと、今では、はかなき物、小言すら聞こし召さず、寂しい思いをしております」
とて言って涙す。
げに若紫は痛う面痩せて元気がなさそうに見え給えれど、いと当てに気品に満ちて美しく、なかなか強さも見え給う、
「何か強い心差しを思すように見える。今は世に亡き人の御事を、何時までも悔やんでいては御体に差し障る、それほど思い悩む甲斐なし。おのれの命あれば、いつの日か楽しい日も来ようぞ」
などと兵部卿の宮は語らい賜いて、日が暮るれば殿へ帰らせ賜う気配を、
「御父上様、もうお帰りになられるのですか。紫は悲しうございます」
とて言って、若紫が・
「いと心細し」
と思いて泣き給えば、兵部卿の宮も打ち泣き賜いて、
「いとこう思いな。強く心に入り給いそ。今日、明日にでも、度々こちらへ渡らし奉り来るらむ」
などと、返す返す慰めの御気持ちをこしらへ置きて、尼君の家を居出賜いぬ。姫は名残りも惜しければ、慰め難く泣き入り賜えり。
姫は行く先々の身の哀れあらむ事などまでは思し知らず、ただ年頃から尼君に立ち離るるを理屈なう恐れて、親密にまつわりし甘え習いて過ごした日々を懐かしく思す。
『今は亡き人となり賜いける』と思す若紫がいみじき苦しみに、幼き心地なれど、胸つと塞がりて、例のように雀を捕まえたり、人形を並べたり、遊びも仕給わず、ぼんやり過ごしておわしす。
昼はさて置きても庭などを散歩して紛らわし賜うを、夕暮れとなれば心細くて、いみじく目頭を押さえて屈し給えば、
「かくては、いかでか楽しそうにはしゃいで過ごし賜わむ」と慰めわびて、姫君の哀れに乳母も泣き合えり。若紫は、
「誰からも見捨てられたのだ」と思い賜えり。
源氏の君の御元よりは、惟光を遣いとして奉れ賜えり。
「若紫の元へ参り来るべきを、内裏より『参上せよ』と、御召しあればなむ、姫君の寂しさを心苦しう見立て奉りしも、静心なく心配でたまらん」
とて言って、惟光を宿直人として奉れ賜えり。
三十二
源氏の君の御元よりは、惟光を遣いとして奉れ賜えり。
「若紫の元へ参り来るべきを、内裏より『参上せよ』と、御召しあればなむ、今宵は通いもかなわず許して賜もうれ。姫君の寂しさを心苦しう見立て奉りしも、静心なく心配でたまらん」
とて言って、惟光を宿直人として奉れ賜えり。
姫君の付き人女房は、
「あじきなう粗末な扱いもあるかな。戯れにても物の事始めに、甘く見下したこの御言よ。源氏の君が几帳の中に入り姫君に触れたその時から、私共は君の御手付きになったと思いしを。
三日三晩、どうして通わぬ。結婚した男の義務であろうに。光源氏様は薄情過ぎるぞえ。兵部卿の宮、聞こし召し付けば、
「姫君に付き添いさぶらう人々の愚かなるにぞ、傷者にされたではないか。『厳格に監督してもらわなくては困る』
などと私共は叱られ際悩む。あなかしこ、恐ろしや。物のついでに『帝王様の御召し』などと、子供じみた言訳なくなど、打ち出で聞こえさせ賜うな。私供は聞きとうはない」
などと言うも、惟光は平然として、それをば何とも思したらぬ態度ぞ、浅ましきや。小納言は惟光に、
「このままでは光源氏様も惟光も地獄へ落ちようぞ」
などと、哀れなる仏門の物語ども語るして、
「あり経て後の事や。あのように大胆にも几帳の中へ入り賜う事も、さるべき宿世の縁として、逃れ聞こえ賜わぬ運命のようにもあらむ。
ただ今は仏に懸けても、いと似げなき子供相手の御事と見立て奉るを、怪しう思しの恋文を度々のたまわせするも、如何なる御事にか。
他に葵上と言う妻がありながら、このような幼子に手を出すなど言語同断。葵の上様の御気持ちを考えるならば、光源氏様以外に思いよる御方なう、御心も乱れはべる。
今日も兵部卿の宮渡らせ賜いて、
『後ろ易く心配のないように、戸締りを仕う奉れ。源氏の君が心幼く軽率に持て成し、遊び相手にされたと聞こえ許すな』
などと、兵部卿はのたまわせつるも、一方では、
『いと煩わしう、すでに只なる事態よりは、掛かる光源氏の御好き事も、果たされたと思い出でられる。今となっては悔みはべりつる』
などと言いて、この家を去りはべりつる」
と、小納言は言う。
この人惟光も、はしたなう想像を浮かべて色事を楽しむなど、事あり顔にや思わむなど、相頼りにならなければ、小納言も痛う嘆きかしげにもあえて、それ以上言いなさず。兵部卿の宮が若紫を引き取るお気持ちがあられるか、疑わしう思す。
五位の官位惟光太夫も『いかなる事にかあらむ。若紫と光源氏様がどれほどまでに真剣なのか、真相が推し測られぬ』と、
心得難く思う。
惟光が二条院へ参りて若紫の有様など詳しく聞こえさせければ、『小納言は側室にするには幼過ぎる』と言えども、源氏の君は哀れに思しやられるなど、お気持ちを煩わせ賜う。
さて、今夜にでも通い給わむも、さすがに思いやりがなく、すずろなる心地して、
「軽々しう持てひがめたる。もっと真剣に責任を執るべきではないか」
と、人々にもや漏り事聞かむなど、世間体を気にして慎ましく従わなければ、天下のならず者として悪く言われよう。
「誰が何と言おうと、若紫を二条院へただ迎えてむ。それだけが罪滅ぼしの償いじゃ」 と思す。
光源氏様からの御文は度々奉れ賜う。進展がないままに年も暮るれば、例の惟光太夫をぞ、奉れ賜う。光源氏様からの御文は、
「世間体に触る事どもありて恐れ、二条院へ、え参り来ぬも愚かにや。悩んでも何も解決せぬ」
などあり。小納言は、
「兵部卿の宮より『明日いずれ、にわかにお迎えに』と、のたまわせたりつれば、心あわただしく不安になむ。年ごろあれほど生い茂ったよもぎ生も枯れてなむも、さすがにこの家も終わりかと心細うなりて、姫にさぶらう人々も思い乱れて落ち着かず、家の中は騒然としておる」
と言葉少なに言いて、をさをさあえて簡単にあしらわず、物寝いとうなむ
気配など印しければ、あくびなどして奥へ参りぬ。
三十三
源氏の君は左大臣家の大殿におわしけるに、例の葵の上の女君、とみにも快く対面仕給わず。
「会いとうはない。良くも抜け抜けと我が家に訪ねて来れたものよ。紫とやら、小娘にぞっこん惚れ込んでいるという噂ではないか」
などと、これ見よがしに大きな声を部屋の奥から聞こえさせ給う。
光源氏様は葵上の気持ちが分らぬでもないと、物難しいく覚え賜いて、罪滅ぼしに東琴をすげ掻き鳴らして、
「常陸の国には田をこそ作れ。あだ心にやあらむ。やがて稲穂が実り、金富
の君が、山を越え谷を越え、雨夜に来ませむ」
という風俗歌を声高々に張り上げて歌い、声はいと気品に満ちなまめきて、
「女を多く従えた若君が、やがて葵の上に富を持たらすぞよ。それが分からぬ女は愚かなり」
などとつぶやきながら、気休め酒を飲みながら、すさび居賜えり。
木戸口に惟光が来て、
「若君に用があって参った。取り次いでくれ」
と言えば、若紫と同じ年頃の侍女が応対し、寝殿の奥にいた紫の上の右近に取り次ぐ。
「何、主が主ならば家臣も家臣よ。また女を騙す策略を思い付いたのであろう」と言いながら席を立ち、惟光の近くへ来ると、
「惟光太夫よ、何しに参った。葵様に貢物でも持って参ったのか」
と言う。
「今はその段取りを考えている所じゃ。もうしばらく待て。光源氏様はおるか」と問えば、
「大方、南廂で池を眺めながら歌でも歌うておられる事じゃろう。優雅なものよ。葵様の御気持ちも知らないで、強引に御簾の中に入れば良いものを。若君の所へ行きたければ勝手に行くがよい」
と言う。
「かたじけない」
惟光が光源氏様の御近くへ参りたれば、耳元近くへ召し寄せて、
「その後の紫のようすはどうじゃ」などと、姫の有様を問い賜う。
「かくかくしかじかなん。若紫は今日、明日にでも兵部卿の宮邸に御渡りになられるようす」
と聞こゆれば、『負けてたまるか』と、口惜しう思して、
「かの宮に渡りなれば、わざわざと迎えに居出むも好き好きしかるべし。厄介なことになるぞよ。二度と若紫に会えなくなるかも知れぬ。高額な結納金を請求されよう。
『幼き人を盗み居出たり』と、盗賊もどき悪名を負いなむ。その前にしばし若紫の取り巻き人にも口固めて、二条院へ渡してむ」
と思いて、
「今宵曙に小納言の屋敷へ参り、賢にものせむ。若紫を二条院へ連れ出そうではではないか。車の装束に幽閉さながら、しばし閉じ込めねばならぬ。車の準備と、腕の立つ随身一人二人、
『お供せよ』と、仰せ置きたれ」とのたまう。
「良いか。衛門府へ参り、若君の副官にこの命令書を渡し、急いで小納言の屋敷へ来るよう命じよ。光源氏様が到着するまで待避させるのじゃ」
惟光は光源氏様の命令を承りて、急いで供の者を内裏へ送る。小君は急いで衛門府へ立ちぬ。
源氏の君は、
「いかに狭し世間の噂にならざめり。世に聞こえありて、幼女相手に好きがましき誘拐の様なるべきことを犯し給う。人の程だに、薄情な男の強欲な物を思い知り・・・・
三十四
瀬戸内寂聴先生の死を心より御悔み申し上げます。先生のお宅を一度お尋ねした事がありましたが、病状が思わしくなく、会えないまま今のような結果となってしまいました、
私が『かってに源氏物語』を書くようになれたのも、初期の先生の源氏物語を読んでからでありました。陰ながら師と仰いでおります。これからも私たちをお守り下さり、若者に対する横暴な世の中を正していただきますようお願い申し上げます。
上鑪幸雄
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源氏の君は、
「いかに狭し世間の噂にならざめり。世に聞こえありて、幼女相手に好きがましき誘拐の様なるべきことと世間は笑うだろう。人の程だに、惚れた男の強欲な物思いを知り、
『それが後の世になり、自分の幸せのためであったか。何が女の心でかは、いずれ我々が知るけること』女の本当の心を推し量られぬべくは、世の常なり。
父、兵部卿の宮が訪ね連れ居出給えらむも、はしたなう世間の常識に流されて、すずろに若紫の将来を心配しての行動なるかは真相は分からぬ。継母と小姑の中で苦しむべくを」
と思し、自分のこれからの態度も『果たして若紫にとって幸せなのか』悩み乱るれど、きてもこの機会を外してむは、いと口惜しかるべければ、まだ夜深う、明け方までは十分時間もあるので居出賜う。
大殿の寝所に出向き、
「紫の上、緊急の用が起って、これから急いで出掛けねばならぬ。
『帝の賢こき所に、いと切ちに見るべき緊急の用事あるはべるを』思い給え。これから居出てなん。
側近としては急いではせ参じねばならぬ。事が終わり次第ここへ立ち帰り、葵の上の寝所へ参り来なむ」
とて言って、御部屋を居出賜えば、余りにも急で葵の上に直接聞かせた事であり、主の世話にさぶらう人々も、事の真相を知らざりけり。
源氏の君は我が控え御部屋方にて、外出の御直衣などは随身の助けを借りて着奉る。急いで惟光ばかりを馬に乗せて、御車に乗り、四・五人の御供を連れて尼君の館へおわしぬ。
門を叩かせ賜えれば、心も知らぬ不慣れな者の下男が慌てて開けたるに、御車をやおら塀の内側に静かに引き入れさせて、惟光大夫、急いで大階段を駆け上がり、固く合わせ閉ざされた妻戸を鳴らして咳払いをしはぶけば、側近の小納言、それを聞き知りて来たり。
惟光が、
「光源氏様がここにおわします」
と言えば、
「幼き人は御殿籠りて眠りてなむ。などか、どうしていと夜深う這い居出てて、ここへ来させ給える。はたはた迷惑と心得下され」
と、物のついでの寄り道たよりと思いて言う。
「にわかに立ち寄にあらず。緊急な用事があって参った」
と惟光が言えば、光源氏様が前に進み居出て、
「兵部卿の宮が今日、明日にでもこちらへ渡らせ賜い、若紫を本宅へ連れ出しべかなるを、その先にこれからの不幸を姫に聞こえ置くかむとて説得に参った。継母の意地悪が目に見える」
とのたまえば、小納言、
「何事にかは、姫が宮邸で暮らしてみなければ分かりはべらむ。いかに説得して、はかばかしき姫の喜ぶ御答えを聞こえさせ給わむ。難しかろうと思うぞえ」
とて言って、打ち笑いて居たり。
源氏の君が僧都を無視して寝所に入り賜えば、いと片腹痛く可哀そうに思えて、前を塞ぐように、
「打ち解けて御話しますが、今はまずい。怪しき古人女房ども大勢が、姫の御側に居はべるに。御意の向くままに好き勝手にはできますまい。世間の笑い者にされましょうぞ」
と、聞こえ刺す。
「姫はまだ驚い給はじな。まだぐっすり眠っているようす。いかでお目覚まし聞こえさせむ。掛かる朝霧の素晴らしさを知らで、無頓着に羽寝るものか。姫、起きなされ」
とて言って、布団の中に入りたまえば、姫は、
「やっ」
とも言わず、驚きの声聞こえず。
紫の君は何心もなく寝給えるを、源氏の君は抱き上げて驚かし賜うに、姫は『父宮のお迎えにおわしたる』と、寝帯びれがちに思したり。
三十五
姫は御櫛かき繕いなど仕給いて髪の乱れを整いたれば、源氏の君、
「いざ来賜え、父宮の御使いにて参り来つるぞ」
と、のたまうに、姫は、
「あらざりけり。父君なら昼間堂々と参ります。夜中に、こんなに乱暴に連れ出したりはしません。貴方はどなた様ですか」
とあきれて恐ろしと思いたれば、
「あな、心憂鬱し。何を震えておいでですか。麻呂も同じ紫の姫をお守りする同じ人ぞ」
とて言って、姫を掻き抱いて東廂へ居出賜えば、
「嫌じゃ、嫌じゃと言うに」と、姫は暴れて大声で泣き叫ぶ。
「光源氏様、姫がこれほど泣いておいでです。今宵は取り止めた方がよろしいのでは」
「そうでございますとも。紫様がこれほど泣き叫んで嫌がっておいでです。またの機会になさいませ」
と、惟光太夫、小納言など、さぶらう人々が言うに、僧都、
「ここはいかに」と、光源氏様に進言するのが聞こゆ。
「ここには常にも、え参らぬがが、姫の先々が心配でおぼつかなく、度々通い難ければ、『心易き所、我が二条院へおいでいただくのが一番と、聞こえしを納得して下され』
小納言も我が二条院へ心憂鬱しく渡り給うべかなれば、姫君の事が気掛かりであろう。まして姫君のようすを聞こえ難かしべければ、ここでさぶらう人々も何かと心配のはず。付き人女房の誰か一人、二条院へ参れよかし。頼りの文を書いて届ければ良い」
と、源氏の君がのたまえば、心慌ただしくて小納言はおろおろするばかり。
「今日は、いと便無く不都合なむ。あきらめはべるべき。兵部卿の宮渡らせ賜はん事には、光源氏様のなさる事は、どう見ても『如何なるさまになろうとも実行する』としか聞こえやらん。兵部卿の宮の許しを得て、昼間に正々堂々とおいでなさいまし。
自ずから反省し、十日ほど経てさるべき時におわしまさば、ともかうも反抗はべりなくなむを。これでは、いと思いやり無きほどの事になりはべれば、姫様の近くへさぶらう人々も、苦しう見はべるべしと御考え下され」
と、小納言の声聞こえれば、源氏の君、
「よし、付き人女房、誰一人都合が悪ければ、我が大殿へ後にでも人は参りなむ。待っておるぞ」
とて言って、外の濡れ縁に御車を寄せ給えば、小納言は、
『どう見ても浅ましう、如何なるさまに成ろうとも強引に連れ出す御つもり』と思いあえり。若紫君も『いと怪し、どうしてこのような恐ろしい事をなさるのか』と、思して泣い賜う。
小納言、姫様をここに留め聞こえむ説得の方なければ、昨夜、夜なべして結び縫いし兵部卿の宮お迎えの御荷物、姫君の御衣ども引き下げて、自らもよろしき外出衣に着変えて御車に乗りぬ。
「さあ、急いで二条院へ参るぞ」
と、光源氏様が言えば、
「承知致しました。それ急げ」
と惟光が馬の上から指図し、待っていた随身四、五人は急いで御車を走らせぬ。御車が立ち去った後で、尼君の屋敷に取り残された人々は、ただ茫然として姫君を乗せた御車を見送っておりました。
二条院は尼君の館から近ければ、まだ明るうもならぬ程におわし着きて、西の対に御車を寄せ光源氏様が先に降り賜えば、小納言は不安そうに簾を持ち上げて屋敷のようすを伺う。
西の対は未だ誰も住む者なければ、光源氏様は不慣れな様子で妻戸を開け賜う。
「若君、明かりをお持ちしましたぞ」
と惟光が三・四人の女房を従えて言えば、
「おう、良う参った。夕顔の右近は部屋の中を繕い、姫が住めるようにして下され。小君は外の明かりを頼む」
と光源氏様は指図する。
「承知しました」
「光源氏様、まだ夜も暗うございます。これから西の対を繕うにも時間が掛かります。姫様も小納言殿も、今はとりあえず私共の御部屋にお連れして、くつろいでいただいた方が、一番宜しいかと存じます」
と右近が言えば、
「わかった」と光源氏様はうなずく。
紫の若君をば軽らかにかかえ抱き上げて、東廂に降ろし賜う。小納言はまだ気持ちの整理が付かず御車の中に残り、
「なおいと今だに夢の心地しはべるを、如何にこれから暮らしはべるべきことにか、恐ろしい。尼君の館に居ても暮らしが立たず、光源氏様の保護の元で暮らせば幾分安心という事か」
と、幾分気持ちも安らへば、
「 古畑の そはの木に居る 鳩の影 友呼ぶ声の すごき夕暮れ
新天地の そばの木に居る 鳩の影 友呼ぶ声の すごき朝焼け
小納言は、取り残された女房仲間の声が気掛かりなのであろう。古宿を思う、空心は七里の思い。小納言御自らこちらへ渡し奉り、今さら後悔なりつれば、それも良かろう。
『帰りなむ』とあらば、供の者に送り返せむかし」
と、光源氏様が突き放すようにのたまうに、
「今さらそのような馬鹿げたことはできませぬ」と笑いて降りぬ。
縁台に立つと、小納言の心はにわかに浅ましう後悔の念が湧き居出て、胸も静かならず。
「兵部卿の宮の思いしのたまわむこれまでの事、如何になり賜うべき反逆の御有様にしか。とてもかくても頼もしき人々に住まいを贈れ給えるが未来のいみじさ。最低限の暮らしは何とかなるのか」
と思うに、小納言、涙止まらぬをさすがに忌々しく思い、努めて明るく振舞わなくては紫様も不安がるだろうと、
「きっとこれから先。良い事ばかりある」
と、念じて居たり。
三十六
西の対こなたは、日常住み賜わぬ御住まいなれば、物置として殺風景で、部屋を仕切る御帳などもなかりけり。惟光召して、
「ともかくも人の住む部屋らしく繕い給え」
と命じ、大殿より御帳、御屏風など運び、奥の当り、手前左右を当り当りして、部屋らしく仕立てさせ賜う。御帳にはその帷子布を引き引き下ろし、一段と高くなった奥の御座所など、ただ畳を敷き繕うばかりであれば、
「後の事は夜が明けてから住まいらしく整え給う。それまで小納言は麻呂の世話係女房二人と、ここにて休め。姫君は東の対にお連れする」
と命じ、光源氏様が日常生活なさる東の対に、御宿直管理人もの召しに遣わして、
「小納言はこの者と残れ、姫君は麻呂と共に来るが良い」
とて言って大殿へ籠りぬ。
若紫様は唯一人、光源氏様の御部屋に連れて来られ、いと向く付けう腹立たしく思いて、いかにするべきにならむと恐れ震われ賜えど、さすがに囚われの身と覚悟を決めて、今さら声立てて萌え泣き賜わず。
「私も小納言の近くへ参り寝む」
とのたまう声、いとあどけなく若し。
「ほほほほう、姫と小納言とは身分が違うぞよ。今はさはともかく、姫は大殿に籠るまじき高貴な身分。嫁としてここへ参ったからには、乳母は小納言ではなく、ただの奉公人として扱うべき。
離れの下人の部屋で休むべきぞよ」
と、源氏の君が教え聞こえさせ賜えば、紫の上はいと侘しく思い、たまらなく泣き伏し給えり。
離れの乳母は打ちも伏されず、じっと涙をこらえて両手を握り締めながら心配し、
「姫様は大人として成長仕あそばれたのだ。ここはぐっと我慢して堪えしなければ」
と、他の物事も覚えず、育てた姫君の事ばかりを考えて起きて居たり。やがて時間が過ぎて、
明け行くままに庭を見渡せば、この大きな御屋敷の骨組みの造り様、細かい格子戸の造りなど、木材の良さ、柾目の美しさは紫宸殿のそれと似て、丁寧にしつらいざまなど秀でていたり。屋敷の広さは更に言わず。
庭の砂子も白い玉を重ねたらむ砂の松原のように見えて、大きな岩山を思わせる庭石、岩に絡みつく松の古びた姿など、ここは夢の御殿の心地するに、乳母は幾分安心する。
それにしても端たなう若君の私生活を思いたれど、こなたの屋敷には女氣などもなく、家庭的な安らぎを催す女房もさぶらわざりけり。右近は何時まで経っても、家の者が訪ねて来ぬを不安に思す。
この屋敷に疎き客人などの世話係が参る折り節の方、来る気配がなければ、格子戸を少し開けて外を見るに、下人の男どもぞ、御簾の外に四、五人ありける。
「光源氏様が、かくかくしかじか、緊急の事情があって思い人を御迎え賜えり」
「それでか、昨夜は騒々しかったのう。どんな女ぞよ」
「若い小娘ぞよ。それも子供のような」
「主も変わった御人よのう」
とほのかにささやき、聞く人は
「その女は誰たらむ。おぼろけに見た感じては、並大抵の人にはあらじ」
とさわめく。
乳母はその下男の男どもを横目に見ながら、御手水、御粥などを求めて、この屋敷の若い女房を従え共に北の下屋、こなたに参る。西の対にはその後、再び迎えに行った惟光が、紫の上の遊び友達、童女房を四・五人連れて来て幾分賑やなり。
源氏の君は日高う寝起き仕賜いて、
「客人に『不便な思いをさたか』と思うと心苦しい。さるべき若紫と乳母を世話する人々、尼君の館へ参り、こちらで暮らすよう言い付けておいたが、惟光は迎えに行ったか」
と、問えば、
「すでにお迎えして、西の対で休んでおります」
と、空蝉の小君が答ゆる。
「それでこそ紫の上が安心するというもの。人なくて悪しかめる紫の上の寂しさを慰めるため、西の対に参り、さるべき人々、童女房を言う付けてこそ姫は落ち着く、さっそく迎えさせ給はめ」
とのたまいて、対に童召しに遣わす。
三十七
光源氏様の言付けが、
「小さき限り、ことさらに若い童女房を選んで参れ」
と有りければ、いとおかしげににて賢そうな少女四人がこちらへ参りたり。
紫の君は、光源氏様の御衣にまとわて高座に臥し賜えるを、抱きせめて起こし、
「かう心憂鬱しく、何時までも泣いてばかり居ないで、機嫌を直させそ。訳もなくすずろに悲しんでばかり居る人は、悪霊が取り付くと言う事もあろうに。賢こなる人は、こうは有り無むや。
『女は心柔らかなるが困難を乗り切れなむ良き方法ぞ』と」
など、今より自分の好みに合った側室女房として教え、家風の教育を聞こえさせ賜う。
紫の上の風貌形は、二条院より差し離れて見し大納言邸の頃よりも、いみじう清らかにて賢こければ、初めてお会いした頃のようすを、懐かしう打ち語らいつつ、御話し奉る。
おかしき鳥や動物の絵、かるたや貝合わせ道具、ひな人形など遊び道具物ども小君に取りに遣わして、目の前に広げ見せ奉り、紫の上の心に取り付く事どもを仕賜う。
紫の上はようよう起きて見給うに、黒に近い鈍色の細やかなる喪服が、打ち萎えたる小袖ども着て、何心なく打ち微笑みなどして眺めて居給えるが、いと美しきに、光源氏様も我忘れて笑いに包まれて見賜う。
元の小納言、乳母が東の対に渡り給えるに、南廂の高欄干に立ち居出て庭の木立、池の方などのぞき給えれば、霜枯れの草花や芝生、小さき木立など前栽は丁寧にしつらえて、絵に描けるように面白くて、
見も知らぬ四位・五位の大納言、小納言、大夫、中弁など、漕き混ぜに暇なう出入りしつつ、光源氏様の用向きを伺えば、此処は宮殿の別邸のごとく政務が行われ、げにおかしき所かなと思す。
「そなた、姫様はどちらにおわされるのじゃ」
と童女房に問えば、
「寝殿の奥でぼんやり絵をながめて居られます」と答ゆる。
「そこへ案内せよ」
奥に行くと紫の上は、御屏風どもなど、いとおかしき豪華な絵を見つつ、寂しき心を慰めておわするも、はかなしや。
「姫様、御無事手おわしましたか」
乳母が御簾の外から声を掛けると、
「おお、小納言、よう参った。なぜ近くに居らぬのじゃ」
と、紫の上は涙を流し賜う。
「どうにもこうにも、夕べは西の対に足止めされ、出られなかったのでございます」
「光源氏様が意地悪をしたのか。これからは、ずっと近くに居てくれ。そなたが近くに居ないと、私は不安で不安でたまらないのです」
「承知致しました。有難き御言葉、姫様からも光源氏様へ、そのようにお願いして下さいませ。そしたら私供は片時も姫様の御側を離れません」
と言いながら、寝殿の中の姿を見回し給う。
「有難い」
やっと紫の上の表情に明るさが戻って参りました。
源氏の君はニ・三日内裏にも参り賜はで、この人、若紫を手馴ずけ語らいご機嫌を伺うなど、優しい御言葉を聞こえさせ賜う。
『やがて本にも親しんでもらおう』と思すにや、
「葵の上、そろそろ書物を読み、絵の勉強もしなくてはならぬ。内裏の書庫よりそなた向きの本を持って参ったぞ」
とて言って、目の前に三冊の本を広げ賜う。
「まずはこの巻物を御覧なされ」
と言って、紐を解き床に広げたれば、
「まあ、面白い、蛙とうさぎの絵。何と書いてあるのでございすか」
と、紫の上は目を大きく広げ給う。
「これは鳥獣戯画という書物の中の『うさぎと蛙』の場面でな」
『おい、うさ公、てめえは走るのが早くとも、水の中では走れぬのじろう。けろけろけろ・・・』と、からかっている所じゃ」
「まあ、面白い。それでうさぎさんは何と答えているのですか」
「ほれ、ここの文字に書いてござろう。
『高貴なうさぎ様は、汚いどぶ沼には入れないわ。あの山の美しい清流で身を清めているでな。きききき・・・』と、答えたと書いてある」
「面白い。私も本が読めるようになりたい」
「そうでござろう」
源氏の君は書院の戸棚からすずりと筆を取り出し、『しのたまわく』と書いた手習いや、うさぎの絵など様々に書きつつ、紫の上に見せ奉り給う。
「まずはこの字を、御手本通りに書く練習をなされ。手や着物を汚さないように注意いないといけませぬぞ」
と言って、若紫の目の前に小さな机、すずりと筆、紙などを準備仕奉り賜う。
紫の上が熱心に文字の練習をしている間に、いみじう熱心に、手習いの文字紙や絵などおかしげに掻き集め賜へり。紫の上が熱心に文字の練習をしている間に君は、
知らねども 武蔵野と言えば かこたれぬ よしやさこそは 紫のゆゑ
知らねども 武蔵野と言えば 格好垂れぬ 葦や草こそ 紫のため
紫の 一本ゆゑに 武蔵野の 草歯みながら 哀れとぞ見る
紫の 巨根欲しきに 武蔵野の 草分けながら 哀れとぞ見る
と言う和歌を思い出し、『武蔵野と言えばかこたれぬ』と、紫の紙に書い賜える。墨付きのいと異なる白紙の手本を取り居出て、紫紙と見居比べ賜えり。別の和歌は手本にするには少し小さくて、
根は見ねど 哀れとぞ思う 武蔵野の 露分けわぶる 草のゆかりを
寝は見ねど 哀れとぞ思う 武蔵野の 草分けわぶる 恋のゆかりを
と書いてあり。
三十八
さすがに小さき紫紙の文字は御手本には向かぬと思して、
「知らねども 武蔵野と言えば かこたれぬ ・・・というこの歌の練習は終えたかな」
と光源氏様が御声を掛けると、
「ほうれ、御覧なさいませ。この通り」
とて言って、紫の上は自慢げに見せ給えり。
「意味は御分かりかな」
と問えば、
「まるで分かりません。『かこたれぬ』も『さこそ』も知らない言葉でございます」と言う。
「これはな、昔、偉い和歌の先生が、やがて生まれるであろう紫の姫君に書き贈った恋の歌じゃ。紫の姫君の為ならば、遠く武蔵の国から染料を葦や草に隠して運んで来るとな」
「嘘ばかり」
「ははは・・・・これは麻呂が紫の上に対する恋の歌じゃ。いで紫の君も書い給え。好きな男がこの歌を紫の上に贈ったと考えて、その返歌を書くのじゃ。楽しいぞ」
とあれば、
「まだ良うは書かず。和歌の練習は、御婆婆さまの具合が悪くなったので取りやめになったのでございます」
とて言って見上げ給えるが、その姿が何心なく美しげなれば、光源氏様も打ち微笑みて、
「良からねども、無下に書かぬと思うこそ悪ろうけれ。最初は誰でも見よう見まねで上達すると言うものじゃ。最初の恥を掻き捨てなくては、和歌は何時まで経っても上達しませんぞ。私が教え聞こえむかし」
とのたまえば、打ちそばで見て光源氏様の御手本を書い給う手付き、筆取り給える有様の幼げなるも、ろうたう可愛くのみ覚ゆれば、心ながら紫の上に恋する欲望を頭に描くは怪しと思す。
「書きそこないつ。恥ずかしい」
と、恥じて隠し給う和歌の紙を、せめて何と書いてあるか見賜えば、
かこつべき ゆゑを知らねば おぼつかな 如何なる草の ゆかりなるらん
格好つべき ゆゑを知らねば 気味悪し 如何なる恋の ゆかりなるらん
と、書い給えり。
いと和歌に関しては若く未熟けれど、生い先筋の良さが見えて、ふくよかに素直に書い給えり。故尼君の筆跡にぞ似たりける。今目かしき最新の御手本習わば、いと良う立派に書い給いてむと見賜う。
「さあ、紫の上、今日の御習いはこれで終わりと致そう。ご苦労様でござった。紫の上は中々筋が良い。これから熱心に御勉強なされば、都で一番の和歌の達人になれましょうぞ」
と、光源氏様は嬉しそうにのたまう。
「まあ、光源氏様、御冗談ばかり。それでも紫はうれしゅうございますわ」
二人はにこにこして笑っておられます。
「さあ、ひな人形遊びでもなさいませ。乳母殿、童女房にひな人形道具を持って来させ給え」
と、手を二回ほど叩きながら合図をしました。
「かしこまりました」
源氏の君はひ雛など前に並べて、わざとおかしげな屋台など造りづけて、自ずもろとも遊びつつ、紫の上がそれに並べたれば、こよなき物思いの幸福感にしたり、不穏な欲望をも紛らわしなり。
かの尼君の館に泊まりにし人々、兵部卿の宮、渡り賜いて尋ね賜いけるに、
「姫様はどちらへおわしなりけるか、私共は存じておりません」
と、行方を知り聞こえやる方なくてぞ、ただ詫びしく困り合えける。
「しばし若紫を何処へ連れ去ったか人にも知らせじ。争事になりぬれば若紫も悲しむのみ」
と、源氏の君ものたまい、乳母の小納言も同様に思う事となれば、切に口固めしてやりたり。ただ、
「行方知らずとも、小納言が率いて隠したると聞こえる。決して姫様を悪いようにはしないはず」
とのみ聞こえさせするに、宮も言う甲斐なしう思して、故尼君もかしこき宮邸の継母の元へ渡り給わむ事を、いと物々しい不幸と思したり事なれば、『これはこれで良かったのか』と思い賜う。
乳母のいと差し過ぐしたる心ばせの心配の余り、いたたまれなく行動起こしたことなれば、おいらかに目くじら立てて、
「こちらへ渡さむを便無し。けしからん」などと、素直には言わはで、心まかせて、
『それはそれて良かったのかも分からぬ。継母に苦しめられる心配事が無うなった』
と、穏やかに身を引いて、父親の責任をはぶらかしつるなめり。
「わしに出来る事があれば、遠慮のう申し居出よ」
と、泣く泣く帰り賜いぬ。宮の心としては、
「もし紫を聞き居出て、どちらへ奉りらば、急いで告げよ」と、のたまうも煩わしく、姫君を引き取る気持ちも失せたように思える。
帰り道に僧都の御元にも尋ね安否を聞こえ賜えど、後の事ははかなく手掛かりがなくて、『有ったらしか』かりし、姫君の御容貌面影などを思い出し、恋しく悲しと思す。
兵部卿の宮の北の方も、
『若紫の母君を恋敵として憎し』と、思い聞こえ給いける嫉妬心も失せて、我が心に任せつべう、
『厄介者が消えてほっとした』と、思しけるに違いぬるは、兵部卿の北の方としては仁徳に乏しく、口惜しう思しけり。
三十九(最終回)
紫の上の御近くには、ようようお世話する人ども、参り集りぬ。御遊び相手方き女童、幼い男の子の稚児ども、いと珍らしやかに今めかしき御有様の新鮮な者どもなれば、紫の上も思う事なく楽しく遊び合えり。
若紫の君は、男君の主が宮殿勤めなどして二条院におわせずなどして不在の時は、騒々しき戸締りの夕暮れなどばかりぞ、
『今夜も光源氏様の御帰りが遅くなるのか」と、祖母の尼君を恋しく思い聞こえ給いて、打ち泣きなどし賜えど、父、兵部卿の宮をば事に思い居出てて、特別に呼び出す御気持ちは聞こえ給わず。
元より文字や裁縫の見習い事を熱心に勉強なされていると聞こえ給はで、ここの暮らしに慣らい賜えれば、今はただ、この後の親となる光源氏様君をも、いみじう大切に睦び、御帰りを待つはしき仲の良い夫婦と聞こえ賜う。
物より突然御帰宅おわしますれば、まず御自身で御出迎え仕賜いて、親しげに哀れに打ち語らいて、光源氏様の御懐に入りて抱き寄せられても、いささか色恋に疎く、無邪気で恥ずかしいとも思いたらず。
去る方、そういう風にして、日を増すごとに、相当いみじく可愛げで、ろうたき仲睦ましい夫婦の技になりけり。
逆しら、ずる賢い心あり、何くれと金や権力を求める難しき親族の求める筋の要求になりぬれば、
『我が心地にも少し光源氏様の御意思と違う節も居出来るやも』
と、常に心置かれ、強の強い女は願いが叶わぬと人も恨みがちになるやもと、紫の上は父君に疎く、母方の親族も疎遠に振舞いて、わがままな御求めも差してなさらず平穏に暮らし賜う、
光源氏様が気持ちよく御暮しなされるようにと、思いの他、居間の模様替えや御召しの着物などの事、自ずから素晴らしい考えが居出来るなどをも、いとおかしき持て遊びなり。
良家の固く閉ざされた娘などは、はたはたどうして、かばかりに気安く応じなれば、老女の御咎めも多く中々できぬこと。
主に心安く振舞い、隔てなき御近くに臥し起きるなどは、高貴な妻ともなれば、えしもすまじきを、紫の上は近い母方の親戚に先立たれたこともあり、これはいと、様変わりたる賢ずき模様の仕草成り・・・・・
と紫式部は思ほいためり。
若紫編 おわり
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