かってに源氏物語 第三巻 空蝉 方違え編
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桐壺編同様是非ともご期待下さい。是非とも買って見てね。
かってに源氏物語
第三巻 方違え編
古語・現代語同時訳 上鑪幸雄
原作者 紫式部
一
その日も過ぎて暗くなるほどに夜も迫った頃です。侍女長が光源氏の前に現れてこんなことを突然言いました。
「光源氏様、こんな時間に言うのも何ですが、葵様の占い師が申しますには、今宵陰陽道の中神がこちらの方向におわしますれば、内裏宮殿より塞がりてはべりけり、縁起の悪い場所なりき。
お泊りなさるには方角が悪く凶とお考え下さい。私どもが方違えの屋敷を探しますゆえ、急いでお出かけの準備をなさって下さいませ。ここの屋敷にはお泊めできません」
と言うがごとく聞こゆ。
「逆し、まさにその通りであった。例にはここも忌み嫌う方違えなりけり。二条院にも同じことが言える筋にて、いずこにか違えむか。困ったことよのう。いと悩ましき折に」
とて言って、左大臣家の正殿、大殿に籠れり。
「いと怪しきことになりけり。葵姫を『熱きに』とけなしたことが、左大臣家の人々を怒らせてしまったのだろうか」
と、これかれつぶやき、反省した声が聞こゆ。
光源氏様は、今夜は義理でも、葵の上と夜を共にするつもりで謝罪したかったのですが、ほっとしたような、残念なような、仲間外れにされたような複雑な気持ちです。
あの葵の上のお高く止まった顔や、そっけない冷たい態度を見ないよりは、まだましだと思ったりしました。
「光源氏様、方違えの屋敷が決まりました。紀伊守家にて、ここの主に親しく仕え奉る人の、京極中川渡りなる家なむ」
と、葵姫付きの上級女房が伝えはべりき。
まさしくその通り、方違えの家に選ばれたのは、最近、寝殿造りの家や庭を改築した紀伊守の屋敷でした。そこはとても田舎風で美しいと評判で、鴨川と合流する支流の近くにあって静かな所でした。
家臣の惟光が門番に、
『光源氏様が御泊りになります』と告げますと、門番は困ったような顔をします。屋敷の中はどうも
『先客がいていっぱいだ』と、言うのです。
しかし、紀伊守家は左大臣や光源氏様にとって臣下の家柄ですから、申し入れを断るわけには参りません。若君と惟光は少し待たされましたが、門番は紀伊守をお連れして、小さな脇戸から出て参りました。
「これはこれは光源氏様、このような田舎造りの家にお越し下さいますとは、光栄でございます。あいにく今夜は、父の後妻が同じような事情によりまして、私どもの館に先に泊りに来ております。
こんな時間に後妻を帰すことも出来ませんので、家の中は騒々しくなっておりますが、どうぞ御勘弁下さいませ」
紀伊守はあわてて衣服を着替えた様子で、息を弾ませながら言いました。
「何を申す。この私の方こそ突然お訪ねして、お願いしたのでございますぞ。すまんのう、私はにぎやかな方が好きじゃゆえ、どうぞ気兼ねせずに泊めて給うれ」
光源氏様は門の外での、対応に相手をして御話しされました。
「ありがとう存じます。さあ、こちらからどうぞ」
紀伊守は門番に檜の真新しい正門を開けさせて、そこから案内ました。東の対の建物や、泉殿へ続くの廊下には人の気配がします。どうやら早くから宴会が始まっていた様子でした。
東の対の階段を上って行くと、そこには十人ほどの家来が酒を飲んでふらついていました。紀伊守の家来や、留守を預かる父の伊予の介の家来どもということでした。
「そなたたち何をしている。道を開けぬか。源氏の若君がおいでじゃぞ」
と、叱りました。家来たちはあわてて酒膳を片隅に片付けて、深々と檜の床に頭を伏せました。
廊下の壇上から改めて庭を見ますと、石組の池の周りに紀ノ川から取り寄せたという緑色の石や、白い蛍石が惜しげもなく使われています。幻想的な屋敷です。
もともとそこにあったのか、老木の松が傾いた様子は、石をふんだんに配置したこの屋敷にはとても似会っていました。
「あの二つの田舎風の建物は誰に造らせたのですか」
光源氏様は車宿りと、池の向こう側に立つ泉殿が茅ぶきであることを不思議に思い尋ねました。貴族の館は檜の皮で葺いた桧皮葺が多いのです。掛け軸に描かれた仙人の家のごとく懐かしい気がしました。
「あれは父君が紀伊の国に赴任しておりました時に、『新居にふさわしいだろう』と言って、田辺の豪族に命じて送り届けさせたものなのです。ここの建物に使われた外側の材木は、すべて紀州産の古い材木を使っております」
「それでか。新築にしては落ち着いた雰囲気があると思った」
光源氏様は感心なされて言いました。
「かたじけのうございます。それでは正殿の方へ案内致します。あちらの南廂からご覧いただきますと、我が家の建物全体がほど良く見渡せるかと存じます」
東の対から正殿へ続く廊下に出ますと、多くの蛍が飛び交っています。さっき見た池の周りにも何匹かは居たのですが、それに比べると鑓水の辺りは比べ物にならないぐらい多い数です。
「蛍を飼っているのか」
光源氏様は御尋ねになられました。
「中川から池に水を引いているのですが、そこの水か澄み切ってとてもきれいなのでしょう。鑓水の小川が緩やかで住み心地が良いのか、蛍の幼虫が多く住みついているようでございます。それでご覧の有様です」
「是非とも桐壺帝にお見せしたいものだ」
光源氏様は感心して飛び交う様子を眺めています。
「恐れ入ります」
正殿の前に立つと、格子の中に何人かの女人がいる気配がしました。その中の二人は高貴な方のようで、互いに盃をやり取りしています。
「そなたたち、何をしている。光源氏様がおいでじゃぞ。早く北の対へ戻らぬか」
紀伊守は御格子の外から中に向かって、むっとした様子で二人に言いました。二人はそれでも笑っております。
「今宵は雨上がりで久しぶりに気持ちの良い夜ですもの。もう少しここに居させて下さいましな。伊予介の北の方様も、
『このような美しい蛍は見たこともない』と、言っておられますゆえ」
紀伊守の奥方らしい人が言いました。
「だいたい女人が人前でお酒を飲むなどけしからん。早く奥へ引っ込め」
紀伊守は荒い口調で言いました。
「あらっ、それは女人に対する差別でございますわ。女人が御酒を飲んではいけないという法律がありましたでしょうか。ねえ、伊予の介どの」
格子に映る影が、もう一人の方に向かって言いました。
「そうでございますよ。女人だって浮世を楽しむ権利がございますわ。屋敷の外へ出て楽しむならいざ知らず、このように建物の中でこっそり楽しむのは良いことですとも。
そうでないと、紀伊守様、北の方様も、あなたに優しくして上げられませんわよ」
伊予の介の奥方はおっとりと、ゆったりとした声で眠そうな声で言いました。
「母君は黙っていて下さい。私の内方に、変な悪い遊びを教えないで下さい。ただでさえ生意気なのですから」
紀伊守の母君は父上の奥方とは言っても、継母でしたので年もここの主人とほとんど変わりません。しかもこの継母は子連れの再婚でしたので、ある程度は世の中のことを知り尽くしています。
「まあ、今宵は良いではないかのう、紀伊守。わらわなら一向に構わぬよし。女人がいるなら尚更に、楽しみが増すというものよ」
光源氏様は三人のやり取りを、にやにや笑いながら聞いていましたが、一向に結論が出ないので横から口を挟みました。
そして三人の飾らない内喧嘩を、うらやましいとも思いました。
『言いたいことを言い、思っていることを吐き出す」
それが夫婦のあるべき姿だと思っておりましたので、
『自分も葵の上とこのような会話が出来たら、どのように楽しいだろう』と、思ったりしました。夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますが、これほど気兼ねしない夫婦の会話は聞いたことがありません。
「それならば、致し方がございません」
紀伊守は仕方なく四人分の夜食を用意させました。
「紀伊守の北の方はどちらの出身であられましょうぞ」
光源氏様は紀伊守との酒のやり取りをある程度繰り返し、緊張感がほぐれた頃に尋ねになられました。紀伊守の北の方はどちらかというと、色黒で顔幅が広く健康的な人です。
しかし、それはそれで頼もしいような美しさがあります。
「私は亭主の名前の通り、紀州の豪族の生まれでございます。紀伊守の父君がその当時田辺におりまして、息子の嫁にと、はるばる京へ私を連れて参ったのでございます」
「紀州はどのような所でございましょうや」
光源氏様も少し酒に酔った御ようすで、三人の遊び仲間になったような気分です。
「とても温暖で温かい所ですわ。海にも近いし、山も険しい。あわびや海老が多く採れまして、とても食べ物のおいしい所ですわ」
つづく
二
「それはうらやましい。私は海老と言えば川海老しか食べたことがないのです。うわさで聞いて想像しておったのですが、大きくて歯応えがあるという・海の海老を、一度は食べてみたいと思っておったのです」
「それは残念なことでございますわ。紀州では握りこぶしほどもある大きな海老が取れますもの。採れたてを生でワサビにまぶしていただきますと、それはもう、たまりませんわ。それは焼いてもおいしいのですよ」
「それはうらやましい」
光源氏様が話しますと。香木の甘い香りが漂いました。それは藤壺の女御様が若君に持たせた香袋の匂いです。酒を飲みかわす他の三人は、その甘い匂いにうっとりとしました。
「私は熊野詣の際に、一度紀州へ行ってみたいと思っておったのでございますよ」
「まあ、それは良い考えですわ。その節には是非とも私の父の館へお泊りあそばしませ」
「かたじけない。それは是非ともお願いしとうござします。熊野の那智大社へ行くには山道を通った方が安心かと思うておりますが、いかがででございましょうな」
「いいえ、いいえ、熊野へは船で参られるのがよろしいかと存じます。大和国には吉野や明日香村、高野山など見所はたくさんございますが。源氏の若君様では国境の山越えは無理でございましょう」
「これ、そなた失礼ではないか」
紀伊守が小さな声で言いました。
「構わないですぞ、まったくその通りだと思われますわい。ははは・・・噂では聞いていますが、本当にそれほど険しい山なのでしょうか」
「私も父上から聞いた話なので詳しいことは分からないのですが、六百間もの急な山が幾重にも重なり、峠から見下ろしますと、前にも後ろにも深い谷底が迫っているそうでございます。
何でも河童が谷の川底から手巻きをしているみたいで青黒く、落ちましたらまず助からないとか」
「そのような恐ろしゅうて、危い所なのですか」
「そうでございますとも。しかも五尺を超える太い杉や、檜がうっそうと茂っておりますゆえ、昼間でさえ暗いそうでございますよ。何でも天狗様が住んでおられますとか」
「嘘を申せ。この世に天狗などおらぬわ。先帝が若い頃には峠を越えて参拝したのじゃぞ」
紀伊守はむきになって顔を赤らめます。
「それは帝王様となりますと、大勢の兵士を従えて参拝なさるでしょうから、そんな時には天狗様も恐ろしくて出て来れませんわ」
「天狗が人を恐れるのかよ」
「時と場合によりますわ」
再び紀伊守夫婦の喧嘩が始まりました。光源氏と伊予の介の奥方は、面白げに笑いながら、二人で顔を見合わせ楽しんでいます。
「本当に二人は仲がいいのね」
奥方が言いますと、光源氏も
「そのようですな」
と、言いました。
「所で光源氏様は、どこか遠い所へ旅に行かれたことがあらっしゃいますか。高野山などいかがでございましょうか」
これ以上夫婦喧嘩もできないので、紀伊守は光源氏様に尋ねました。
「私は不思議と京の都からそれほど遠くへは出たことがないのです。奈良の長谷寺とか、大津の石山寺には何回か行ったのですが、伊勢や熊野詣などはとてもとても・・・一度も行ったことがありません。
それでも京の都を歩き回ることで満足しています。桐壺帝に連れられて六条の御息所の屋敷へ行くのが一番の楽しみでした」
「先の皇太子妃のお屋敷ですね」
「その通りでございます」
「とても美しくて知性の深い方と聞いておりますが、どのようなお方でございましょうか」
「とても教養のある方で、博識と申しますよりは、霊感の鋭い方とお見受けします。桐壺帝が困っていることをぴたりと言い当てるのでございますよ。それは恐ろしいほどでございます」
「御息所様は、もともと宮氏の出身でございましょう。伊勢の巫女の候補にもなられたとか」
伊予の介の奥方が言いました。
「そうなのです。あの方は神殿との関わりが深いのです。今度も姫君の秋子姫が、伊勢の斎宮に選ばれる運びとなっております」
「まあ、御気の毒に」
伊予の奥方が顔を曇らせて言い掛けると
「あら、そんなことはございませんわ。女は誰しも貞操を重んじ、清らかに一生を送りたいと願うものでございますもの。今でも私は、家族さえいなければ、出家して尼になりたいと思っておるほどでございますよ」
「まっ、そのような。よろしいのですか、北の方様は尼になりたいとおっししゃっておりますよ」
伊予の介の奥方は、紀伊守に向かって甘い笑い声で言いました。
「好きなようにさせておいて下さいませ。どうせ何も出来ないのですから」
「そうですわね。私などは男のいない浮世離れした世界なんて考えられませんわ、ほほほほほ・・・」
「本当にそのようですね。あなた様は。特別な分類に入るのでしょうな。楽しいお方だ。はははは・・・」
光源氏様は三人の話を聞いてうらやましくなりました。正妻の葵の上とこのような馬鹿げた話ができるならば、どんなに楽もしいのでしょう。頭の中将が話したように、良家の女人は話しも詰まらない物だと思いました。
「伊予の介の奥方はどちらのご出身でしょうや。私や紀伊守と同じように、京の生まれでしょうか」
光源氏は今にも自分の腕に寄りかかろうとしている婦人に、御尋ねになりました。
「私は地方と言っても、ほとんど都と変わらない近江の大津の出身でございますのよ。父君が北国航路の商人でしたので、京へも良く遊びに来ておりました。
私が七歳の時に京屋敷ができましたので、それからは京の都で暮らしておりますのよ」
「伊予の介どのには、前の亭主のお子様がおられるようですが、その亭主はどのような方だったのでしょうや」
「まあ、光源氏様も御遠慮なしに、ずけずけとお聞きになりますのね。お恥ずかしい話ですわ。紀伊守様も薄々気づいておられるようですから、はっきり申し上げます。従六位の貴族で衛兵の大尉でありました」
「従六位ですか」
光源氏は少しがっかりしました。その位は官職でも一番下の身分に値します。しかし町民にすれば、それはそれで立派な官位になのでしょう。
「それが体は大きくて兵部の大将よりも風格があったのですが、体は立派でも見掛けに寄らず、気弱で、優し過ぎて、仕事はへまばかりやっていたようなのです。
余りにも他人に気を遣いすぎるものですから、自滅して、自分の才能を押し殺してしまうのです。兵舎では
『うどの大木とはお前のことだ』
と、馬鹿にされていたそうです。そのくせ家に帰りますと
『あいつは俺より能力がないのに出世した。袖の下を渡したのだ。殿上人に取り入るなど、卑怯なやつだ』
と、愚痴るのです。私が
『あなたも負けないぐらい上司に取り入ったらどうですか。経済的な援助なら父も惜しみませんわ』と、言うと
『俺にはそんな不正は出来ん』と、拒むのです。
心が真面目過ぎるのも良いのですか、世渡りが下手な者も困ります。歯がゆくてなりませんわ。余りにも愚痴が多いものですから
『それならば仕事を辞めて、父の船にでも乗って頭になったらどうですか』と言いますと、あっさり官職を辞めてしまったのです。
所がでございますよ、船に乗りますと、水を得た魚のように生き生きとして、船衆を指図するではありませんか。もともと優しい人ですから人の面倒見がいいのです。
体が大きくて腕力がありますから、言うことを聞かないやつは強引にねじ伏せたそうでございますよ。あの人は上司のいない、お山の大将には向いているのです。
父上も頼りになるいい跡取りが出来たと喜んでいたのですが、何とも運がない人です。若狭沖の嵐に遭いましてね、船が沈んでしまったのです。
『誰も助かった者がいない』という事ですから、今頃は大方、海の底に沈んでおいでなのでしょう。もう五年も音沙汰がないのですもの」
「それはお気の毒なことでしたな」
夫の死と言う悲しいお話なのですが、まるで世間話でもしているような淡々とした伊予の介の奥方を見て、光源氏様は心から陽気な方だろうと思いました。
こうした女人ならば家の中が明るくて、深刻な悩みも吹き飛ばしてくれるに違いないと思いました。伊予の介が子連れを妻にした気持ちも分かるような気がします。
「私どもの父上様とはどうしたお知り合いでしたの」
紀伊守の北の方が尋ねました。
「父上様は私どもの七條屋敷にたびたび遊びに来ておりました。宮廷の情報や取り次ぎを条件に、良く借金の申し込みをされていたのでございます。私が小さい頃からのお知り合いですから、相当古いお付き合いですわ。
私どもも悪いお方ではないと大事にしておりましたのですが、先ほどお話ししました頭が死にましたので、実家に帰っておりますと、ひょっこり伊予介様が現れたのです。
『これはまた、この娘子はどうしたのじゃ』と、伊予介様が聞かれますと、私の父上は
『かくかくしかじかで、夫を亡くして実家に帰っております』と答えたそうでございます。
『それならばちょうど良い。実はわしも奥方を亡くして寂しい思いをしておる。こう言うのも何だが、寂しい者同士、娘を嫁にくれぬか』と、申し込まれたそうでございます。父は
『この上ない誉でございます。もし娘を正妻にしていただけるなら、今までの借金は帳消しに致しましょう』と言って、喜んでこのお話を承諾したそうでございます。
私もまんざら知らない相手でもないですし、私には優しいおじ様でしたから、安心して嫁に来ることが出来ましたわ」
伊予の介の奥方は、余り悲しそうな顔もせず、あっけらかんとして言いました。
ちょうどその時に、十歳ほどの童が
「失礼つかましまする」と言って、高膳におまんじゅうをもって参りました。髪を肩まで切り揃えて、すっきりと整えています。童は四人の中ほどにその高膳を置いて退くと、
「どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
と言って、深々と頭を下げて出て行きました。
「なかなか礼儀正しいお子様ですな。あの童は誰の御子様ですか」
光源氏様は今しがたの童っぱが、先ほど軒下の灯籠を次々に灯して行った手際の良さをを覚えておりましたので、感心して尋ねますと、
「実はあれは、空蝉様の連れ子なのです」
と、紀伊守は答えました。
「紀伊守、困りますわ。私の名前を軽々しく口にしないで下さいまし」
伊予介の奥方は言いました。
「そうなのよ。この人は口が軽いのです」
紀伊守の北の方も亭主を責めます。
「えっ、伊予介の奥方の名前は空蝉と言うのですか。なかなかしゃれた名前でごわしますな。父君の教養深さが想像できます。それにお子様もなかなか礼儀正しい」
光源氏は頼もしげに思って言いました。
「そうかしら。私にはまだほんの童っぱにしか見えませんけれど」
空蝉と言う奥方は遠慮して答えました。
「私はあの子を有望だと思って大切にしているのです」
紀伊守が言いますと、伊予介の奥方はすかさず
「それならば光源氏様、あの子が大きくなりましたら家臣にして下さいまし」
と、お願いしました。
「分かりました。考えておきましょう。空蝉様のたってのお願いとならば、聞かぬわけには参りません」
「まあ、困りますわ。私の正式なお名前は忘れて下さいまし。伊予介で十分でございますわ」
「そうですとも。紀伊守が軽はずみに名前を口にするから悪いのです」
北の方様は亭主をにらみました。
「もともとは、そなた達が悪いのだ。だから人前に顔を見せるなと申したであろう」
「もうおやめ下さい。私は空蝉様のお名前は誰にも申し上げませんから」
と、光源氏は言いました。その後、しばらく沈黙が続きました。
「光源氏様、それでは夜も更けて参りましたので、ソロソロ寝ると致しましょうか。光源氏様はこの正殿でお休み下さい。私どもは北の対で寝ますので」
紀伊守が言いました。
三人は部屋を出て行きました。この屋敷で一番広い建物はこの正殿です。ここに残っているのは、南の廂で番人を勤めている惟光と二人のみになってしまいました。
しばらくすると、紀伊守の計らいで添寝をする女房がやって参りました。慣例に従って、光源氏様よりはすこし若い女人です。おおかた北の方の侍女なのでしょう。
光源氏はそれほど欲しいと思いませんでしたが、せっかくの好意を拒むこともできませんので、いつもと同じように手まねきして、自分の夜具の中に入れてやりました。
入浴上がりの黒文字の良い香りがします。女人の腰紐を緩めて裸にしてやると、源氏の君の体は勝手に動きます。時々は桐壺帝のように大胆にやろうと思うのですが、そう思っただけですぐ終わってしまうのでした。
「御苦労であった」
光源氏は形ばかりの礼をいうと、すぐ後ろ向きになって眠ってしまわれました。
それからどれほど時間が経ったのでしょうか。光源氏が目を覚ますと、侍女はまだ隣でかすかな寝息を立てて寝ています。夜は更けてもまだ真っ暗ですから、それほど永くは寝ていなかったようです。明け方まではかなり時間があるようでした。
光源氏は再び寝直そうとしましたが、隣の侍女の寝息が気になってなかなか眠れません。光源氏は事の終わった後の女人は、顔も見たくない方でしたから、うっとうしくなって女人を揺り動かすと
「今宵はもう良いから、下がっておれ」
と、自分の部屋に戻るように言い渡しました。侍女は
「失礼いたしました」
と、言ってすぐ出て行きました。
三
光源氏はなかなか眠れそうにないので寝殿の南側に出てみました。満月に近い月が、回廊を張り巡らした池を照らしています。築山の木立ちも風情があってなかなか良い趣のある庭園です。
何よりも池の周りの芝生が広く、ゆったりとした解放感があります。光源氏は
『何時になったらこのような広い屋敷を持てるのか』
と溜息を突きました。
桐壺帝にお願いすれば多少、住まいを広くかまえることができると思うのですが、元服した以上、甘えてばかりもいられません。足元を見ると、家来の惟光が気持ちよさそうに眠っています。
光源氏は西の廊下に回ってみました。すると西の対の建物に明かりが見えます。二つの影の様子からしますと、伊予の介の奥方とその弟のようです。光源氏は楽しかった四人での宴を思い出しました。
今でもあの時の興味深い会話が耳を離れません。今更ながら夜通し語り明かさなかったことが、悔やまれてなりませんでした。光源氏は悪いと思ったのですが、灯りに誘われるように西の対の建物に近付いて行きました。
「今宵は楽しゅうございましたな。紀伊守様も、北の方様も陽気で魅力的な方ですね。それに源氏の若君の顔も拝見出来たし、最高に幸せでした」
若い男の子の声が聞こえました。
「そうですね。私も突然お会いできて、本当にうれしかったわ。噂通りの高貴で、ふくよかで、品のある方でしたね」
「そうでした」
光源氏は二人が自分をほめるものですから、悪い気がしません。廊下の、下屋に近い隅に身を寄せて聞いておりました。
「それにしても中将の女房はどうしたのでしょう。あの者が居ないと心細いし、誰かが見ているようで怖いわ」
「下屋へ湯を浴びに行くと言っておりましたから、じきに戻るでしょう。大丈夫ですよ。私がおりますから」
「私はすごく眠たいのです。あなたは西の廂に出てそこで寝て下さいね。人目がありますからね。兄弟と言えども決まりは決まりです。近くに居てはなりません。変な噂が立ったら困ります」
「私が出て行きますと、姉君がたったの一人になりますよ」
「湯を浴びに行ったのなら、中将もじきに戻るでしょう。あの方は忠実な付き人ですから、そう永く私を一人にはしません。あなたが近くにいるのなら安心です。ですから。早くお休み、小君」
「お休みなさい、姉上」
「ああ、それからいいですか。夜が明けるまでは、たとえどのようなことがあろうとも、私の部屋に這入ってはなりませんよ」
「分かっておりますとも」
弟の声は小さくなって、障子を開けた後、再び閉める音が聞こえました。それはどうも、光源氏様がおられる東廂とは反対側の西の廂に出たようです。
しばらくすると、打ち掛けを脱ぐ衣擦れの音がして、さらさらとそれを几帳に掛ける音がします。
灯りがゆらゆらと消え掛けて、明るくなったり、暗くなったりする様子からしますと、それを脱いで床に入る様子です。しばらくすると明かりも消えて真っ暗になりました。
光源氏はこの後どうするべきか迷いましたが、四人で話した時の人懐っこい空蝉の流し眼が気になってたまりません。準王妃の藤壺の女御様と何となく似ています。
女御様ならば寝ぼけた振りをして寝室へ入り込めば良いのですが、他人の奥方となると、そのような軽はずみもできません。光源氏は東廂の番人になったような気持ちで、そこに座りじっとしていました。
若い空蝉の寝息が聞こえてきました。さっきの侍女よりは大きくて遠慮のないいびきです。余りにも大きいので、それは寝た振りをして光源氏を誘っているようにも思えました。
四人で話した時の色っぽい笑顔が気になって思い出されました。いかにも、光源氏を『好きです』と、言わんばかりの情欲を誘うような目でした。そう思うと光源氏は、このまま自分の寝室へ引き下がったのでは、男としての面目が立たないのではないかと思ったりもしました。
仮に光源氏様が誤った行動をしても、伊予介の奥方が大きな声を出したとしても、ここは家臣の家ですから、奥方も紀伊守も光源氏様を咎めることは出来ないはずです。
必要とあらば、空蝉を添い寝として差し出させることも出来る殿上人なのです。光源氏はあれこれ考えながら東の廂に面した障子を開けようとしました。
もし中から竹筒が仕掛けられていて、開けることが出来なければあきらめて帰るしかないと運を試したのです。
しかし、そうしたあきらめを馬鹿にしたように、そこの引き戸は簡単に開きました。まさか、そのようなことがあろうはずがないのにどうしたことでございましょう
『どうぞお入り下さい』というように、簡単に開いたのです。問題は東の廂から寝室へ入る襖の仕切りです。
光源氏は、
『今度は幾ら何でも、開こうはずがない』
とあきらめながら手を当てて引きますと、どうしたことか期待を裏切るように、そこもいとも簡単に再び襖は開いてしましました。
中からは大きな寝息が、相変わらず大きな音を立てて聞こえてきます。わざとらしい、喉仏を揺り動かすような下品な響きでした。
それは『知らず知らずの間に襲われて、私は気付かなかなかったのです』と、言い訳できるような大きな音です。光源氏は万が一の場合
「先ほどのお話が面白かったので、続きを聞こうと思って、こうして目が覚まされるのを待っているのです」
と、そういった、言い訳を考えながら空蝉のふとんの方へ、腹ばいになって床を這うように近付きました。
暗闇の中で奥方の白い顔が浮かんでいます。その顔は光源氏の顔が近付いて来るのを待っているかのようです。誘われるままに頬に自分の唇の片隅を当てると、もう引き離すことはできなくなりました。
唇や顔全体が吸い寄せられるように、空蝉の顔に擦り寄って行くのでした。
何と気持ちの良い感覚でしょう。侍女との務めとは違って気分の高まりがまるで違います。頭は十分に満足しているのに、体が引き離すことを拒んでいるのです。
『本当に好きな人ができたら、一時も側を離れたくないものだ』
と言う、帝王様や左大臣、頭の中将や草尾の言葉が思い出されます。女人の体に触れる感触が、これほど気持ちの良いものだと思ったことはありませんでした。
「空蝉の近くにいて、寝顔を見るだけで帰って行くはずではなかつたのか」
という声をよそに、光源氏の体は大胆に動いて行く一方です、するすると足までが奥方の足に寄り添うと、今度は片手がわき腹から空蝉の胸に擦るように動いて行きました。
『はっ』
と、驚くような心地よい感覚です。乳房の柔らかさが手のひらに伝わり、顔の感触よりは何千倍もの快感が伝わって来ます。揉みほぐしながら固くなった乳首を指の間に挟むと、それまでよりはもっと大きな喜びが増してくるのでした。
何回も何回もそれぞれの指の間に挟むのを繰り返しながら、今度は柔らかい乳房をつまみ上げて乳首を飛び出させると、唇は勝手にそちらの方へ動いて行きました。
口の中へ先端の固い部分を入れると、何もかもが終わったような絶海の極楽が現れたような気分がしました。もう何もかも、すべてを捨てても構わない気分でした。
光源氏は自分の体を空蝉の上に重ね合わせました。必死ですがり付こうとして、両腕は胸から後ろの方へ回ってきつく抱きしめていました。唇を顔に近づけようとした時です。
「うっ」
と、いう空蝉のうめき声がしました。
「あっ、あなた様は」
奥方が目を覚ましたようなのです。いびきは見せ掛けでなく本当に熟睡した状態だったのでしょう。光源氏は一瞬にして我に帰りました。言葉も、体の動きも凍りついて何も出来ない状態です。
「ああ、紀伊守。ようやく来て下すったのですね。今宵は光源氏様が御泊りですから、遠慮して来て下さらないかと思っていたのに」
空蝉はそう言いながら、光源氏の背中に手を回して抱き締めました。
光源氏様は
「うむ」と言って、とぼけるのがやっとです。空蝉は光源氏を紀伊守と勘違いしている様子でした。
「うれしい。本当にうれしい。本当に気持ちがいいですわ。最近太られた様子ですね。お体がふっくらとして肌触りがとても気持ち良いですわ」
そう言いながら空蝉は、尻の後ろに手を回し、尻の割れ目に指先を押し込んで来るのでした。
「ああ、きもちいい」
光源氏も押え切れなくなって、小声で悟られない様に息を吐き出す始末でした。光源氏は自分の正体を知られない様に、顔を空蝉の横に動かして、耳の穴の中へ自分の鼻先を押しあてたり、耳たぶを軽く噛んだりしました。空蝉の耳に自分の荒々しい鼻息が通りぬけて行きます。
「ああ、いい。といもいいですわ。どこでこのような仕草を覚えたのでしょうか。私はもうたまりません」
空蝉はそう言うと、こんどは自分の手を二人の体の間に滑らせて、光源氏の固いものに手を押し当てる有様です。光源氏は、もたまりません。
「ううっ、いい」
と、思わずため息をついてしまうのでした。
「さあ、早く着物を脱ぎましょう。あなた様も、そうあそばして」
空蝉は自分から着物を脱ごうとしました。光源氏も急いで脱ぎました。大胆に着物を脱ぐことが、これほど気持ちのいいものだとは思ってもいません。
「自分もやっと、帝王様のように愛を楽しむことが出来るようになったのだ」
と思うと、嬉しくてたまりませんでした。
今では光源氏様も、もう自分の大胆さに酔っている有様です。裸になって抱き合うと最高の喜びです。二人は唇を合わせたまま、下の方も勝手に通りぬけて行く有様でした。
光源氏様は激しく体を動かして快感を一層高めたいと思う反面、少し抑えて、この喜びを永く持続させたいと思ったりします。さっきの侍女との務めが功を奏したのか、いつもよりは永く持続できるような感覚でした。
「ああ、いい。紀伊守様。あの人にはこのような強さと、鋭い突きはありませんわ。時々こうして、私を楽しませて下さいましな。ああ、いい」
そう言って、伊予介の奥方は激しく体を動かす有様でした。
「ああ、いい。いい。行く。そんなに激しく動いては行ってしまうではないか。ああ、ああ、ああ・・・」
光源氏様はそう言って、とうとう果ててしまいました。
光源氏様は空蝉から離れると、仰向けになって大胆に股を広げて天井をしばらく見ていました。すると
「まあ、立派ですこと」
と、言って空蝉が光源氏の濡れた部分を拭いてくれました。くすぐったいような、気持ちのいいような変な気分です。光源氏はとても爽快な気持ちでしたので、明け方までこのままで過ごしたいと思いました。
もし伊予介の奥方でなかったら、何時までも何時までもこうして、一緒にいたい気分です。好きになってしまったのでした。出来るなら妻に迎えて、一緒に暮らしたいと思うぐらいでした。
しばらくすると、北の廂から灯りが見えました。人の足音がして、手燭と共に人影が動いて来ました。
「誰、中将の女房なの」
空蝉が言いました。
「そうです。その通りです。奥方様。中に行ってもよろしいでしょうか」
「うむ、構わぬ」
中将の女房が襖を開けて中へ這入って来ました。さっき忠実な付き人と言っていた侍女のようです。女房は後ろ向きにしゃがみ、両手で閉めた後、一礼して
「あのう奥方様、紀伊守様がこちらへ参るそうでございます」と、言いました。
「そなた、何を申しておる。紀伊守様ならここにいらっしゃるではないか」空蝉が言いました。
「ええっ、まさか。私はたったの今、紀伊守様に呼ばれて会って来たばかりです。
ええっ・・・そんな、そこに誰かいらっしゃるのですか」
中将は驚いて言いました。
「まさか、どうしましょう。私は何も知らなかったのです」
空蝉は泣き出してしまいました。
「あなた様はまさか・・・」
付き人は二・三歩にじみ寄ると、光源氏の顔に手燭を近づけ明かるくしました。
「申し訳ない。そうです。源氏の若君です」
「ああ、どうしましょう。奥方様。あなた様は列記とした伊予介の北の方様でございますよ。このような恐ろしいことがあって良いのでしょうか。奥方様も私も、伊予の介様に殺されてしまいます」
女房は恐ろしさに声が震えて、何を言っているのか、自分も分からずあわてている様子です。
「その通りです。こんな辱めを受けて私は生きて行けません。私としたことが、どうしたことでしょう。伊予介様に顔向けができませんわ。ああああ・・・」
空蝉はひどく泣き崩れてしまいました。
「こうなりましたら、いっそ二人で死んでしまいましょう。うううう・・・」
中将の女房も一緒に泣いてます。
光源氏は二人の気持ちも分かるような気がしましたが、あれほど楽しく愛したばかりなのに、死ぬとは大げさだとも思ったりもしました。
「私はあなた様を好きになったのです。何もそう悲しむことはありません。あなた様とこうなった以上、私が責任を取りましょう。御身の上に危険なことがありましたら、私の屋敷に来て下さい。面倒は私が見ます」
光源氏は狭い屋敷ですが、何とかなるような気がしました。
「そうは参りません。奥方様も私も面子と言うものがございます。このようなことで、世間の笑い物になりたくはないのです。私どもは紀伊守家を守る義務がありますもの」
「そうです。そうなのです。中将、私のお守り箱を持って来なさい」
空蝉は、中将の女房に命じました。
中将は書院の棚に置いてあった漆塗りの箱を持って来ました。漆塗りの木箱は酢橘の紋様の金箔が施してある立派なもので、帝王様が持っている漆塗りの小道具にも劣らぬものです。
空蝉は中将からその木箱を受け取ると光源氏に差し出しました。
「これを光源氏様に差し上げます。ですから今夜のことは何もなかったことにして下さいまし。決して、誰にも話さないと約束して下さいまし。しかとお願い申し上げます。そうしないと私どもは死ぬしかありません」
空蝉は涙をぬぐいながら、歯を食いしばり、きりりとした表情になって言いました。
「そうです、光源氏様。このことは誰にも口外してはなりません。伊予介様と私どもの名誉に係わりますもの」
付き人は床にひれ伏しながら、一向に頭を上げ様とせず言いました。
「あい分かった。私は決して誰にも言わぬ。安心するが良い。この箱はそなたの大事なものであろう。このような品物はいらぬから、大事に仕舞いなさい」
光源氏は受け取った箱を空蝉に渡そうとしました。
「いいえ、これはあなた様と私の約束の印です。どうぞ受け取って下さいまし」
空蝉はきっぱりと断るようにして、その箱を光源氏様に突き返しました。
その時です。中将が「ああ、どうしましょう」と、言いました。
振り向くと、北の廂から灯りが近付いて来るのが見えます。紀伊守が近付いて来る様子です。
「お急ぎ下さい、光源氏様。こちらへどうぞ」
と言って、中将の女房は木箱と光源氏の着物を両腕に抱きかかえて、南の廂に押し出しました。
「いいですか。私が咳払いしますので、その時が安全の印です。その声がしましたら、光源氏様は静かに自分の寝殿にお帰り下さい」
中将は持っていたものを押し渡すようにして、急いで奥方の部屋に戻りました。
「紀伊守様、もう少し待って下さいますか。奥方様は寝ぼけて衣服もまだ身につけておらぬようなのです」
今度は平然とした、同じ中将女房の声が奥から聞こえました。光源氏は中将の手際の良さに、ただただ感心するばかりです。
「誰か客が来ていたのか。人の気配がしたようだが」
中から紀伊守の声が聞こえて来ます。
「そんなことはありません。随分前に小君が遊んで行ったきりです」
「いい匂いがするではないか」
「小君に光源氏様が『ごほうび』だと言って、香料をくれたそうでございます。余りにもいい匂いがするものですから、じゃれて私に振り掛けたのです。私には変な臭いですわ」
「童っぱがよう働いてくれるので、わしもよう助かるわ」
紀伊守は床に尻を突いたた様子でした。
「それならば紀伊守様も、小君にごほうびを下さいませ、ゴッホン」
中将の太い声がしました。
光源氏は合図を聞いて、静かに東の廊下に回りました。するとそこに礼の弟君が座って見上げています。軽くお辞儀をすると、にっこりと笑った表情を見せました。この時には光源氏様はすっかり衣服を整えています。
「ほれ、これをやろう」
光源氏は小君の肩を叩くと、自分の匂い袋を渡しました。小君は両手でそれを受け取ると、
「かたじけのうございます」と言って、軽く頭を下げました。
光源氏はどうにか難関を切り抜けて、侍女と寝泊まりした自分の正殿に戻ることが出来ました。とても爽快な気持ちです。
難関を乗り切って達成した喜びが、体の中の不純なものを吐き出したようで、すっきりした気分でした。
漆塗りの箱が気になって中を開けてみました。すると何としたことでしょう。そこに濃い桃色の珊瑚の指輪が入っているではありませんか。
頭の中将が見せびらかした珊瑚よりも三倍も大きなものです。これならば、色では頭の中将の物にかなわなくても、価値に於いてはこちらの方がはるかに上です。
光源氏はいずれこれを紀伊の介の奥方に返すにしても、自分が一時的に保有した喜びに胸が高まり嬉しくなりました。
そして、時々目を覚ましては箱を開けてみたり、明け方の明かりに照らして自分の指にかざしてみたりしました。
四
はてはて今までの冗談はさて置きて、私こと紫式部の本文に戻りまする。
紀伊守の家は、この頃川の水引き入れて、涼しき木の陰多い屋敷にはべると噂に聞こゆる。到着した光源氏様は門構えを御覧になられて、
「いと良か家なり」と、見上げながらはべり賜う。
葵の上という我が妻がありながら、今宵泊まれぬ悩ましきに、己の姿を人前にさらけ出す訳にもゆかず、
「車より降りて人に顔を見られる訳にはゆかぬ。牛に車を掛けたまま引き入れつべきなむ、静からむ所を案内頼む」
とのたまいて、顔を隠し恥ずかしげな様子なり。
忍び忍びの不倫を兼ねた御方違えへ行く処の話は、あまた有りぬべけれど、左大臣家を夜中に久しく時の程経て、追い出されたとなれば、光源氏様も人聞きが悪いと心配なされる様子です。
夜中になって渡り賜えるに、ようやくここの紀伊守の家にたどり着けば、ここも大方人が集まり、塞げて困った様子なり。
「何とか引き違え、ここより他の外様へ変更できぬか」と、ここの主が思さむは、いと欲しき当然の思いと御考えになるべし。
紀伊守の門番に光源氏様の仰せ言葉伝え賜えれば、困った様子で受け給わりながら、退きて主に用向きを伝える。
「伊予の統治の守、朝臣の家に慎しむべきべき不幸な事はべりて、その後釜女房なむ者、こちらへまかり移れる頃にて到着したばかりなむ。
この家の狭き所にお休みはべれば、なめて気に障るべく叩き起こす事、失礼ななることにやと、可哀そうにはべらむ」
と、下の者に嘆く事を聞き給いて。光源氏様は申し訳なく思さる。
「わしのことだったら構わぬぞ。その人近からむ隣の部屋となれば嬉しかるべき。女一人遠い婿殿の屋敷に来て旅寝しては、もの恐ろしき心地して不安であろう。
女、心細い思いすべきを、わしが旅の道連れとなって、几帳の背後にでも寝て、お守りして差し上げようではないか」
と、冗談めきてのたまえば、
「守りの方が鬼に変化しないとも限りませぬ。そばで寝なさる光源氏様こそ恐ろしけれ。げに、それよりももっとよろしき御座し所に、取り急ぎ繕いて案内致します。
臣下のもの追い出してでも、お部屋は確保致しましょう。そちらが心安まられるかと存じます」
とて言って、下の者に
「良い部屋を取り繕え」と人を使いに走らせやる。
「いと忍びて参ったゆえ、殊更に大事ごとしからぬ質素な所を頼む」
と、急ぎ出で申し上げ賜えれば、そのねがい紀伊守の耳にも聞こえ給わず、御供にも睦まじき御もてなしの限りを尽くして、手配おわしましぬ。
「帝王様の御子でござすますぞ、何も遠慮召されるな」
紀伊守も腹を括った様子なり。
「参った、気を使われるな」と何度もたわぶれど、人の願いも聞き入れたらず、寝殿の東表一部屋を人払いして開けさせて、仮りそめの御しつらいしたり。
ここの屋敷は中川の水引き入れる心映えなど、さる有名な庭師にこさえさせるなど、おかしく風流にし成したり。
田舎家立つ茅葺屋根の下に、細かな笹竹の柴垣にして、前栽の庭など、枝の配置に心留めて、庭木を植えたり。
「ほう、家も立派だが庭も中々のものですな。田舎風の家々と、池の周りの敷石、山水画を思わせるようじゃ」
とて源氏の君が言えば、
「伊予に下っている父君の趣向でございます」
と答ゆる。
風涼しくて、そこはかとなく虫の声々聞こえ、蛍激しげく飛び紛がいて、おかしき程の数なり。紀伊守と伊予の介の家来の人々、寝殿より東の対に架けたる渡殿に集まりて、中川より流れ出でたる泉覗きて酒を飲む。
ここの主も、
「わしも今ひと時、若君と酒を飲みたくなった。簡単な夜食と酒の肴を求む。急いで持って参れ」
と、小揺るぎの急ぎ足で歩くほどに、
「そこの一番良い席はわしと若君のものじゃ。光源氏様にご挨拶せよ」
とて言って座り込む。源氏の君はのどかなる景色眺め賜いて、かの中の上等な品に値する人々、左馬頭が取り出でて言いし、
「光源氏様は帝の御子てあらしゃいますから、上の上の品位ある人々とお付き合いせねばなりません。中以下の下々の者を御相手するなど、もっての外でございます」
という言葉を思い出して、この人並みならぬ下郎の人々に混じり酒をのむなど、「むかつくべし」と思い出づる。
「もっと静かな所はないか」と言えば、紀伊守は立ち上がりて、
「こちらへどうぞ」と、西の方へ案内致す。しばらくすると、
どことなく思い上がれる昔の景色、聞き置き覚え賜える娘の声騒がしく聞こえ、ゆかし懐かしく思えて、興味深々と耳に留め賜えるに、西の対、表の部屋にぞ人の気配する。
絹の音などはらはらと舞いて、若き戯れの声など憎からず、さすがに夜中ともなれば、忍びて笑いなどする気配、ことさらびて隠し切れず、大人の笑い声も聞こえたり。
中の楽しい笑い声に居たたまれなくなった源氏の君は、隔てた格子を持ち上げたり。するとそこに、五・六人の奥方と付き添い女房がおわしたり。光源氏様はここへ案内されるのだと喜びなされれば、
「心なし、人妻を覗くなどとは、はしたないことなりや」
と、紀伊守がむかつきて、格子を下し隠しつれば、
「ここでしばらくお待ち下され。中の様子を見て来ます」
とて言って立ち去る。
火灯したる透き人影、障子の上より漏りたるに、やたら寄り賜いて聞き耳を立て、『中見ゆるや』と障子越しに思せど、隙間もなければ相手の気配も分からず、しばし身を潜め様子を聞き給う。に、
「そなた達、女と子供の分際で母屋に集い居たるべきなるを、よくも人前に身をさらけ出してくれたな。すぐ奥へもどるべし」
と打ちささやきめき言う。
光源氏様の耳に叱り飛ばす事ども聞き賜えれば、
「我が家にお泊めになるとなれば、帝の御子と言えども、我が家の主が支配者と成るべし。いと痛う真面目立ちて何を遠慮しておいでです。まだ物事の道理も知らぬ若者を恐れておいでですか。
やんごとなき身分の、高い寄すがの位に定まり賜えるその時こそ、従順に従うべき。出世できるかどうかも分からぬ見習いの、あの若造相手に騒々しからめれ」
とて紀伊守の北の方が言えば、
「されど去るべき隈の隅々には、帝の密使なる者が、良くそこかしこにこそ隠れ、若君と共に歩き給うことも有りなめれ。見張りせぬとも限りませぬぞえ」
「それはそうじゃ。桐壺帝の耳に届くやも。面倒無きように用心せねばなりませぬな」
と、伊予の介の奥方らしき者が言うにも、
光源氏様は我が悪口を言われ警戒されているようで、ここの平和な人々を苦しめるのかと、思すことのみ心に掛かり賜えれば、まず胸潰れて自分を責め賜う。
このようの聞き耳立てるついでにも、人の言い漏らさむ本音を聞き付けたらむ不道徳な時など、身に降りかかる衝撃も大きいと覚え賜う。
女二人の話などに、自分の本心に異なる事になければ、聞き差し賜いつ無視するのみ。『何も聞かなかった振りをするのが良かろう」と思い賜う。
『帝王様の 弟君に へつらいて 式部柳宮 姫に朝顔奉り 便宜を図る 愚か者 見返りとて 期待にあらずものを』
とした歌などを、紀伊守の奥方、少し頬歪めて歌い語るも聞こゆる。
「式部卿の宮とはここの主を指して言っているのであろう」と思ったりもする。
くつろぎがましく世の道理に従いて、歌口ずさむ調子がちに、自然と口に出るあきらめ顔の歌もあるかな。それでもなおあの二人は、権力に見劣りはしなむ強さが有りかしと思す。
紀伊守出て来て、灯篭を掛け添え、火明るく掲げるなどして、御果物ばかりを持って参れり。
「こちらへどうぞ。良き部屋に案内致します」
と、紀の守申さば、
「奥方にも合わせず、あちらを隠しとばり帳も張るなど何事ぞは。『いかにもわしを馬鹿にしておる』ということではないか。さる二方の心尽し挨拶も無くては、目覚ましきにも、まれな侮辱と合いならむ」
とのたまえば
「何を良けむと望み仰せなられようとも、人妻を合わせるなど、え受け給わらず、ご勘弁下さいませ」とかしこまり申せど、紀伊守は、
「果てどうした物か」と困り果てさぶらう。
「紀伊守、ようよう考えて行動せよ。場合によっては、ここで受けた屈辱を桐壺帝に報告しないとも限らぬぞえ」
と若君がいきり立って申さば、なま端立つ半端者の方お出ましに、紀伊守も困り果て、仮なる用事にて口実を作り、奥の大殿に籠れば、人々も寝静まりぬ。紀伊守は寝てしまったように見ゆる。
しばらくして、ここの主の子供、おかしげに興味ありて、光源氏様を訪ねて来たる。童なる年にて、殿上人の姿にあこがれるほどに、御覧じ成れたる嬉しさもあり、遊びに来たと見ゆる。
その数五人ほど、他に伊予の介の子もあり。 あまたある多くの中に、いと気配艶やかにて、御年十二・三ばかりの者もあり。
「いずれかが紀伊守の子供で、他のいずれかは伊予の介の子供ぞ」
など問い賜うに、
「これは元従四位、故衛門府の守、長官の末の子にて、いと悲しく父君と死別はべりけるを、幼き程に遅れて伊予の介の元へ引き取られはべりて。姉なる奥方に身を寄す家に隠れてはべるなり。
学問に冴え抜くなどにも運尽きはべるべく、才能を消しう難く暮らしはべらぬを、いつぞや殿上人などにもお仕えしたく思い給えて、願いを掛けながら、清々しゆう学問や武術に映え勤しみ、親戚の人々と交じらいはべらざめる」
と申す。
「哀れの事やのう。さきほど御格子を持ち上げた時に奥に見掛けた奥方は、この子の姉君や。真うにも気の毒な人、そなたが親を亡くしても、後の親になってくれる人が居てよかったではないか」
と源氏の君が言うと、
「さようなむにはべる。しかし、後妻の姉上にしては、弟の私まで面倒見させては、伊予の介に申し訳なく思えし」と申すに
「逃げなき親をもこれから見付け出し、真受けしたり面倒見る雇い主探しけるかな。上の役人にも聞こ召し置きて伝え、そなたを宮仕えに出だし、推薦立てむ。
このことを式部省に漏らし上奏奉りせし。いかに成りけむとは分からぬが、いつぞや返事をのたまわせ、返事を聞かせし。これこそは上官の判断にて、世にこそ定め無き宿命ものなれ」
と、いと御寄すげに権力者気取りでのたまう。
「ありがとうございます。よろしくお願い申し上げまする」
と、伊予の介の小君言えば、
「人の運命とは不意に、かくしてもの親を失ったように、突然訪れしはべるなり。世の中というもの、さのみそれほどまでにこそ、悪い事ばかり定まりたることは無かりはべらめ。
その中につけても、女の宿世定めは、いと相手の男によって浮かび沈みたるなむ。いと哀れに生きはべる」
など、聞こえ指す。
「伊予の介は賢付く優しい人や、夢の君と思うらむ人なり」
と光源氏様申せば、
「いかがばかしかは、私の姑こそは有り難き人と思いて共に暮らしはべるめるを、何事にも好き好きし事と、人使いが荒いことには我慢できませぬ。自分が見染めた女を手引きするよう命じるのです。
姉の侍女の何がしより初めて受け引き、誘惑に手を貸しはべらずなむ」
と申す。
「さりとも、まことそなた達の、付き付きしく最もらしい話には、今めきたらむ魅力的な話に思えるが、侍女を遊女のように下し立てて、さげすむむやは無いと思われる。
かの伊予の介は、いと良し考え有りて、気色ばめたるをもあるや」
など物語風にしたまいて話せば・
「何処の方にぞ、そのような美しい話があるでしょうか。現実は残酷なことばかりです。侍女は皆、下屋の下働きに下しはべぬるを、えや、まかり下りるなど、人の道として有り得ざらむことなり」
と聞こゆる。
「まあまあ、今は何も見なかったことにして、大人になるまで我慢することだ。良き人に仕えれば、自立の道も開けよう」
とて言って、光源氏様はなだめる。君も酔いが進みて、近くにいた皆の人々、廂の下のすのこに臥しつつ、寝静まりぬ。
君は紀伊守の屋敷に打ち解けても寝られ賜わず、いたずらに臥して眠ろうと思さるるに、意に反してますます御目覚めて、蛍でも見ようかと外へ間家出賜う。
外は暗くして池の水は輝き、木々は蔭と化して動かず。ふと西の対の館に目をやると薄明かり見ゆる。そちらへ歩いて行くと、この北の障子の彼方に人の気配ぞするを、
「こなたや、親と死別後、姉の世話を受けなむ」と、かく言う人の伊予の介の後妻方、今宵隠れたる伊予の介の女ならむ。
「哀れや。後妻として生きるも、横暴な亭主ならば苦労も多かろう」
と、御心に留めて、やをら静かに手を戸に置きて立ち聞き賜えれば、有りつる、先ほど会ったばかりの子君の声にて、
「物氣き受け給わる用事はないか、姉君。いずくにおわしますぞや」
と、枯れたる小声のおかしき声にて言えば、
「ここにぞ、寝床に臥したる。参ら人、光源氏様は寝賜いぬるか。ようやく静かになった。いかにて高貴な方にあらむや。光源氏様を一度拝見したかったぞ。
『近からむ知り合いに成りてこそ、そなたの身請けをお願いできたというものよ。合わねば』と、そう思いつるを、されど話す機会にも恵まれず、け遠き人に思かりけり」
と空蝉は言う。
寝たりける声のしどけなきだらしなさで、いと良く甘え声に似可よいたれば、弟が姉君の世話をする様子で、『姉に対する優しさぞ』と感心し賜いつつ、おかしく仲の良い兄弟に見ゆる。
「廂にぞおわして大殿に籠りぬる。世間の噂の音に聞きつる美しい王子様の御有様を、直に近くで見立て奉りつつ、しばし話しつる過ごしりた。げにこそ噂通り目出たかり美青年でおわしつる」
と、密かに小声で言う。
「昼ならまだましかば、密かにその御姿をのぞき見立て奉りて、その高貴な御姿を一目見たいものよ。明日の朝でも見立て奉りて、お伺い致そうではないか。私を案内致しまし」
と、寝ぶた気に言いて、あくび顔引き入れつるふしだらな声で申す。子君も眠たくなった様子で立ち去り、近くにいた侍女も寝て静まったように思える。
「あの寝ぶた気な声、何とも色っぽいではないか。この腕に抱きしめて眠らせたいものよ」
妬ましいう、そう思せど、幾ら心留めて聞き耳立てても、離れていては互いが問い聞けかし話しもできず、人の声も無く成りて、味気きなく思す。
「麻呂はここに寝はべらむ。近くで聞いておる。あな苦し。私を見たいのなら、火掲げるなどして案内すべし。私とて逢いたいのだ。女君はわしの廂近く、障子口の筋交いたる程にぞ、伏して寝たるべき」
とて言って、光源氏様は今にも中へ押し入りたい気持ちになられました。引き戸を開けようとした時、
『ことっと』言う思わぬ音がして、
「あな恐ろしや、嫌な予感がする。付き人、中将の君はいずくにぞ参った。人げき気配無きここの人々、遠き心地して遠くへ出払い、近くに誰もおらぬように見える。あな物恐ろし」
と言うなれば、
「下屋に湯浴びに下りて去りぬ。ただ今直ぐには参らむ。しばし、お世話出来かねるに成りはべり」と、下女房御格子の外では言う。
皆寝静まりたる気配なれば、源氏の君、掛け金を試みに引き開け賜えれば、あな他、以外にして珍しきに、内側よりは鍵も差さざりけり。源氏の君は忍び足で内側に入りぬ。
几帳を障子口には立ててあるものの、火ほのかに暗きにして見賜えれば、唐櫃立つ大きな長持ち物ども置きれば、にわか寝所に見立て奉る。
乱れがましき調度品の中を分け入り賜えれば、ただ一人、ささやかにて添い寝もなく伏したり。なま煩わしいけれど、寝姿の上なる衣押しやるまで相手は気付かず、空蝉は源氏の君を求めつる人と思えり。
「中将の君、召し連れ参りなば去りなむ、そなたも人知れぬ心細い思いの印ある心地して、用心棒代わりに参った。安心致せ。わしが見張りを致そうではないか」
と源氏の君のたまうを、ともかくも夢か現実かも思い分かれず、空蝉は物に襲わるる心地して、
「ややっ、あなた様はどなたです」と脅ゆれど、顔に衣の障りにて顔を隠し、音もたてず息を潜める。
「打ち付けに突然訪ねて参ったが、怪しき物ではらむ。深からぬ悪意の心の程と見賜うらむ遊びなれば、断りなく参れど、年頃多くの人に思い渡る源氏の君なれば、安心し給え。
そなたも心の中に、『一度は源氏の君と夜を共にしたいものよ』と、心の隅に秘めたる思いあるやもと、聞こえ知らせなむとて参上した。
遠慮はいらぬなむ、掛かる殿上人と知り合う折りを、良き機会だと持ち出でたるも悪くはないはず。更に『浅く考えたのではあらじ』と思いなし給え。これからの縁が伊予家に幸運を持たらすぞよ」
と、いと柔らかにのたまいて抱きしめる。
空蝉は鬼神も荒立つほどすざまじき妖怪に捕えられた気配なれば、男に襲われた我が身がはしたなく恥ずかしくて、
「ここに人が居るぞえ、泥棒じゃ。誰か早く来て助けて下さりたもうれ」
とも、えののしり騒ぎたてることも叶わらず、この恥ずかしめを受けた我が姿を人に見られまいと願う。
この男も女も、心地はたはた非難の的になるも、わびしくあるまじき事が起ったと思えば、浅ましく、空蝉はまだ何とかなると思いて、
「人違えにこそあらめ。部屋を間違えて来たので有りはべるめれ。私はお前など知らぬぞえ。何を無礼な真似をなさる」
と言うも、事態はすでに遅く、若君の息の下なり。抵抗する気力、消え惑える景色、いと心苦しく哀れにろうたげなれば、それも可愛くおかしいと見賜いて、
「違うべくもあらぬ誤解の心の導を、思わずにも意に反し、『幸運に恵まれた』とも思めい給うかな。そなたも中々、好き構しき有様にて嫌いではなさそうだ。
その色気は世に見え奉らじ中々のものであるぞ。心に思う事、少し外に出して行動し、『こういう事をしたかったのです。ああ楽し。気持ちのいいこと』と、わしの耳に聞こゆるべきぞ」
とて言って、小さやかに囁きなれば、空蝉もあきらめた様子でおとなしく成りにけり。
源氏の君は邪魔者が這入るとも限らなく思えて、空蝉を掻き抱いて両手で持ち上げ、自分の部屋に運ぶべく障子の元へ出賜うにぞ、その時、女の求めつる侍女、廂に立つ人来たる。
桐壺殿に居た乳母の付き人に似た人で丸顔で太った女房で、不運にも源氏の君と合いたる。
「ややっ、しまった。見つかってしまうぞや」
とのたまうに、暗き闇にて怪しく誰とも分からずして、障子の影に探り寄り隠れたる。
「何、この高貴な匂いは何じゃ。誰か賊でも入り賜うや。御方様大丈夫でござるや。どちらにおわしなさる」と声を潜めて言う。
人影みえずとも悪い事はできず、運悪くいみじく香料が辺り一面に満ちて、中将の顔にも薫り掛かる心地するに、思い因りぬ事態となりぬ。
「浅ましう、間男め、よくも人妻の部屋へ参ったものよ。ここは如何なることにぞ成りきはべらめ。紀伊守に殺されてしまうぞえ」
と、中将の君思い惑わるれど、我が主の事を思えば声にも出せず、誰かに聞こえむも方なし。
並々の人ならばこそ、荒らかに騒ぎ立て、空蝉を源氏の君より引き離しすべき。あるいは殴らめ、殺しやらめ。しかし中将は二人の先々の災いを思いして冷静成りけり。
「こは穏便に光源氏様の意のままに任せ、二人の噂が世間に知れ渡らぬようにした方が得策なり。空蝉様には我慢していただくしか仕方があるまい。何よりも若君の将来と空蝉様に傷が付く」
と、中将は暖かく思いやる。
しかし、それだに人の甘た情けを知らむ光源氏様は、いかばかりか人の思いやり素知らぬ様子にて、中将の苦しみを理解できず、己の手柄だと己惚れるは世間知らずであらむ。
「今こそこの人妻と添い寝せねば、頭の中将と左馬頭、惟光にも馬鹿にされる。ここぞ身分の権力を見せるべき」
と、心も騒ぎて覚悟を得たれば、若さに似ず動揺もなくて、ただ一心に人妻を慕い、逢いたい一心でここへ来た目的を果たすべき。
「待っておったぞ。今夜は伊予の介の女と世を共にすべき。わしの寝所を教えるから付いて参れ」
と女房の中将に命じ、自分は空蝉を持ち上げたまま先に歩く。西の対の廂を出で、長い廊下の渡殿を鼻声混じりに歩くと、本殿の奥なる御まし所、今夜の寝床に入り賜いぬ。
障子を引き立て中へ入りむ。後ろ手で閉めて、
「曙にここへお迎えに来て、声掛け物せよ」
とのたまえば、中将の君は、この人の責任を思うらむ事さえ、死ぬばかりの大犯罪なれば、光源氏様の厚かましい命令に割り切れなきを覚えるに、流れるまでに冷や汗になりて、いと悩ましげになる。
しかし皆さま、光源氏様の心も理解して下さいませ。光源氏様の申し付けは、まだ御年も若く未熟者なれば、例の何処より問うて出賜う軽はずみの、言の葉にしかあらむ。
世の常々哀れ知らるるばかりの若さなれば、相手の悲しみ、絶望感、恐怖心を情け情けしく慰めて相手にのたまい尽くすべかめれど、源氏の君は何をどう慰めるかも分からず、なおいと浅ましきに当然のごとく振舞うのでございます。
五
「今しばらく待って給うれ、中将の君。この格好で誠に申し訳ないが、明日の朝、こちらへ迎えに参り賜う時には、必ず私のお守りの木箱をこちらへ持って来てはくれますまいか。あれがないと私は不安でたまらぬ」
と、伊予の介の妻が言いました。
「お守りの箱でございますか」
「そうじゃ、あれが無いと落ち着かぬのじゃ。しかと頼んだぞ」
妻は源氏の君に持たれたままです。
「承知しました」
侍女女房の中将は首を傾げながらも、しばらくして意図を悟ったらしく、うなづきながら立ち去って行きました。
あとに残された人妻は
「夢うつつとも覚えず恥ずかしめを受けたにして今こそ、数成らぬ身分の低い我が身ながらも、光源氏様か思わしく猛々しける御心映えの自慢の程も、いかが浅く行動したかは、腹立たしく思う賜えざらむぞえ。
いとかようなる罪の極は大きいと、しかとけりを付ける極にこそと思いはべなめれ。痛い思いをするぞや」
とて言って、空蝉は怒りをぶつける。
かく押し立ち寄り給える夜這いを深くも考えず、情けなくも『うるさし』と言って気にもせず、
『身分の高い者ならば気にすることではない』と思い入り賜える御様も図々しくて、げに愛おしく、少しも心恥ずかしがらぬ光源氏様の気配なれば、誰も止める事はできません。
「その際際をも知らぬ初事ぞや。何が起ろうと知ったことか。初めての体験なればこそ『我ながら良くやった』と思う。我慢して給うれ。悪いようにはせぬ。
中々押しなべたる世間の慣例に従う面に思いなし給えるなむ。高貴な身分の者ならば、一度はやってみたい経験であらむ。自分の意に反した憂立てなむ行動には有りける。しかし、誰もがやっていることであり、いまさら引き下がる訳には行かぬ」
自ずから聞き賜う不合理な捨て台詞に、光源氏様は苦しむようにも見えあらむ。あながちに一人前の男としては、女を襲う好き心は更に起こして、再び楽しみたいと願う思いをも秘めたる。
「さるべきにや、男としての運命は悲しくて、げにかくも泡めき立てられ、おだて奉るも、『男とは、女を何人襲うかでその価値が決まる』という世間の考えを否定することもできずなむ。
女が意に反して断り切れなくなる心惑いを、自らも怪しきまでに不条理とは思いなむ」
など真面目立ちて、よろずに最もらしくのたまえど、いとたぐいなき虚栄心の御有様の強がり見えたるに、いよいよ打ち解けき空蝉のあきらめ顔が未だに見えずして、
「これ以上のことをしでかしたならば、この懐刀で死に物して見せようぞ。覚悟なさりませ」
と聞こえむことの敵意が侘しければ、すくよかに心付き無しの情けに期待できないとは見え奉るとも、さる方の、
「弓矢は片っ端から多く放った方が勝つ。いずれにせよ一つぐらいは当たるぞ」
と言う頭の中将の説教を念頭に置いて行動して当たらねば、甲斐なき時間を無駄に過ごしてむと思いて、相手がつれなくするも、我慢してのみしつこく持て成したり。
しばらくすると、空蝉は若君から逃げられないと悟ったのか、人柄のたおやぎ大らかたるに、光源氏様の強き心を敷いて加えたれば、なよ竹の風まかせの心地して、さすがに折るべくも成り行きに任せるしかあらず。
空蝉は覚悟を決めたのか、衣服を脱ぎ棄て、光源氏様の意のままにしました。
翌朝霧立ちて、前庭の呉竹も露に濡れぬ。障子を少し開け外を覗き賜えれば、朝の風冷たく、萩という木々、茅と言う草花、皆うな垂れて露の重みに伏したり。
殿上人のお召とあれば誠に心やましくて、あながちに光源氏様の満足した寝顔の御心映えを眺むれば、空蝉は今更言う恨み方なしと思いて、自然と涙が流れて袖を濡らしぬ。
「私の油断が引き起こした結果とは言え、伊予の介にも小君にも申し訳ない事をした」
とつぶやきながら、泣く様などいと哀れなり。心苦しくはあれど。帝王様の御子の御意志とあらば、見逃して見ざらましかばも従うしかなく、口惜しからましと思す。
光源氏様も障子の明かりに目覚められ、人妻の泣く姿は心苦しくはあれど、慰め難く憂うつしと思えれば、
「男と女の色恋などは直ぐにでも忘れめ。過去の過ちと疎ましき物に考えしも、楽観的に思すべき。覚え無き災難の様になるしもこそ、前の世からの宿命だとあきらめよ。
尊い契の運命にあるとは、このような事だと思い給いて、明るく暮らしはめらめ。無下に世の習いを思い知らぬ若者ゆえに、そなたに溺惚れ好きになり給うなむ。そなたが悲しむのは、いと辛き」
と、恨みがましくの賜いらられて、涙落とせば、
「いとかくも浮気の身の程の人妻にして、相手も定まらぬ有りしながらの放浪の身にて、かかる光源氏様の熱心な御心映えを見ましかば、もう少し若ければ恋人として連れ添い、楽しい人生を共に過ごせたでしょうに」
と嘆く。
取り返す 物にもがなや 世の中を 有りしながらの 我が身と思わむ
思い返す 見るも悲しき 世の中を 有りし昔の 我が身と思わむ
「何を言う。たった一度の契りで女に束縛されるのは御免だ。目的を達成したならば、男は二度と顔も見たくないもの。そなたも、うぶな素人でもでもあるまいに、楽しき思い出として、心に留めるべき」
若狭なる 後瀬の山の 後も逢わむ 我が思う人に 今日ならずとも
若さなる 逢瀬の山の 後はうっとうし 我が思う人に 今日ならずとも
(古今六帖二)
と、光源氏様はそっけなく言いました。
「あるまじき我が頼みにて、もし光源氏様が『再び逢いたい』と仰せになられたならば、人生を見直し給う後の後瀬をも、楽しい人生なむと思い給えて過ごせし。仲良くしましょう」
と、空蝉が言えば
「それはならん」と言う。
「『いつかは分からぬが、再び訪ねて来よう』の優しい一言があったならば慰め増しを、いとこうも仮なる浮気寝の程を、『うっとうし』とは、いかが薄情となかれめ。
若君を繰り返し思いはべるは、恨めしく思い過ごしはべる。 もし光源氏様が一緒に暮らしたいと申し上げるならば、いとたぐいなく充実した暮らしと思う給えて、人生は楽しかるべき。
はかなき人生をやり直せると考えさせられるに、夢に惑わされた女は希望も消えるるなり。若君にその気がないのならば、よし今は、見極め時と覚悟し、未練なかりけそ」
それをだに 思うこととて 我が宿を 見きとな言いそ 人の聞かんに
それさえも 思いは悲し 我が宿を 見たくなしとは 誰も聞かぬに
(古今 恋五)
とて言って、空蝉の嘆き苦しむ様、げにいと身分をわきまえず愚かな断りなり。それほど愚かならずとも秘めた恋愛沙汰の契りは、楽しい恋の思い出として、暖かく慰め給う喜び事のみ多かるべし。
「それでは私も覚悟を決めました。光源氏様とは二度と合わないでしょう。中将、衛門府の中将はおるか」
と声を掛けますと、障子の外から、
「はい」という声が聞こえました。
「例の品物は用意したか」
「はい、ここにございます」
「それならそれを。ここに持って来て給うれ」
「承知致しました」
中将が持って来たのは、濃い黒塗りの酢橘の文様が描かれた木箱でした。
「これは私の父君からいただきました大事なお守りの品でございます。光源氏様と私の契りとしてこれを差し上げます。夕べの事は誰にも口外しないと約束して下さいまし」
空蝉は床にひれ伏すほどの礼をして、光源氏様のあぐらした前に差し出しました。
「そんなことをしなくとも、約束は守る」
光源氏様は、少し大げさ過ぎないかと思いながら、ぼんやりして言葉だけが飛び出しました。
「しかと、約束でございますよ」
空蝉は上衣を振り払うようにして決意を示すと、その裾が光源氏様の見脚にぶつかるような勢いで立ち去って行きました。
鶏も鳴きぬ。人々起き出で四・五人が集まる。
「いと居汚なし方違えの宿であった。持て成しも少なくて、ゆっくりと眠れず、安らぎなかりける夜かな。館は立派でも主はケチと見える」
「大きな館でも大変だぞえ、ひひひ・・」
「馬鹿を言うな。光源氏様の御帰りじゃ、御車を引き出でよ」
などと言う声聞こゆ。
光源氏様が御車の前に来られますと、紀伊守も出て来て、女などの、
「若様の御方違えこそ忍びの御来館じゃ、夜深く暗いうちに急がせ賜うべき。急ぎなされ」などと、言う女房もあり。
いかでか 君はまだ、かの用のついでに、『この屋敷の庭の配置をを知りたい』と、見学あらむ事もいと意志固く、差し映えてはいかでか去り難く、御車の前で庭を眺めておわします。
空蝉との事も気掛かりで、御文など通わぬ事の、いと割りなき物足りなさを思すに、「いと詫び状だけは贈らねば」と、胸痛し。
奥の住まいから中将も出でて来て、昨夜の仕打ちを、中将がいと苦しがれば、
「人妻ならば二度と逢えぬのは仕方があるまい。女はそうして貞操を守らねばならぬ」
とて言って、何事もなかったように空蝉を許し賜いても、中将は不安な様子で、光源氏様をまた引き留め賜いつつ、
「いかでか、どう受け止め、何を言いたいのか聞こゆるべき。世に知らぬ御心の辛きも憐れも、浅はかならぬ夜の思い出は、二人にとって様々珍しからなるべき試かな。きっと未練もあるはず」
とて言って、空蝉の悲しみを思い出して、打ち泣き給う景色、いと紀伊守の家族にすればなまめきたり。鶏もしばしば鳴くに、心慌ただしくて急いで立ち去らねばと思い、
つれなきを 恨みも果てぬ しののめに 取り合えぬまで 驚かすらむ
つれなきを 恨みも果てぬ 暁に 音沙汰もなく 見送りもなく
伊予の介の女、身の有様を思うに、いと尽きなく光源氏様との情愛が眩き心地して、めでたき夜の御持て成しも、何とも恥ずかしく光栄とも覚えず、ただ何事も無かったように装う。
常はいとすくすくしく貞淑な女として振舞い、男に対しては心付き無しと思わせ、「男など何とも頼りにならん」
と、馬鹿にしたように侮づる伊予の介の妻、男嫌いの方のようにのみ思いやられて、夕べのような色恋は、夢にや見らむ他人事のようで、空恐ろしくも慎ましい人なり。
身のうさを、嘆くに開かで 明ける夜は 取り重ねてぞ 音もなかれける
身の憂さを 嘆きつ重ねて 明ける夜は 捨て置きにてぞ 未練もなきに
ことごとく空も明るくなれば、紀伊守家の人々、障子口まで出でて、光源氏様を見送り給う。
内も外も人騒がしければ、紀伊守の御子などを引き立てて、華やかに別れ賜うほど明ければ、光源氏様の従者は少なく心細くて、優雅な屋敷と貧乏貴族の暮らしを隔つる関と見えたり。
御直衣など着給いて、二方家族の重臣や子供たちが南廂の高欄干に立ち、光源氏様の一行をしばし打ち眺め給う。西表の格子も高々と開けて、女房の人々に混ざり、空蝉も外を覗くして見詰めべかんめる。
いよいよ光源氏様との別れが迫ったと感じたのか、空蝉は外の渡り廊下に出でて、すのこにの中ほどに立て掛けてある小障子の、上かよりほのかに見給える。
光源氏様はその御有様を、身に凍むばかりに思え賜えて、『空蝉は私を忘れられなくなったのだ。恋心を抱いている』
と、好き心どものうぬぼれ、数多く胸に有りめり。
光源氏様は頂いたばかりの巣立ちの箱を胸に抱え、空蝉に向かって手を振ると、そこに居た大勢の人々が、自分たちに向かって別れの挨拶をしているのだと勘違いして、
「わー」
と、一斉に手を振り給う。空蝉だけでなく、紀伊守やその奥方も手を振って別れの挨拶しました。
月は有明にて満月に近く、光を醒まされるものから、顔消さやかにおぼろげに見えて、中々おかしき曙の朝なり。月も薄く消えゆく。
何事も無き空の穏やかな気色も、一筋の雲が尾を引き、穏やかな一日が始まろうとしています。伊予家の人々は、今宵若君が訪ねて来た珍しきに、この朝が特別な一日のように思えました。
光源氏様は幸福そうな個々の人々を眺め、ただ何事も無かったように見ゆる紀伊守家の人々から、
「空蝉は自分に対する憎しみを消し去った」
と、偶然会った縁にも、すごく親しくも華やかに見ゆる景色なりけり。
二人の間の人知れぬ御心には、いと胸痛く、「私は今でも好きだよ」と、言づてやらん寄す家の優しさは、源氏の君には今だに無きを、帰り見返りがちにて、
何時までも手を振る空蝉の姿を哀れに思いながら、紀伊守の家を出で賜いぬ。空蝉の悲しむ姿だけが、何時までも心に残りました。
光源氏様は 葵姫の住まう大殿に帰り賜いても、頓にも直ぐにまどろまれ賜わず、なぜか今頃になって、恋しい女の事ばかり考えておわします。また再び逢い見るべき方になれども、その約束も無きを残念に思す。
またかの人の別れ際に見せた悲しみを思うらむ心の内は、如何ならむと心苦しく思いやり賜う。それにしても、空蝉は優れたる文才は無けれど、目安く持て遊ぶに付けても、情の深い女に違いないと思えり。
頭の中将や草尾が話しておったような、ありつる中でも、
『中の品の中でも、上の女かな』隈なく遊び学んで見集めたる人の言いし事は、
「げに全くその通りだわい」と、思いし合わせられけり。
六
ひと眠りすると、光源氏には朝食に餅が振る舞われたので、宮中へはそこから出掛けて行きました。空蝉から預かった酢橘の木箱は、左大臣家の人々に勘ぐられたくないので、御車の中に隠しておりました。
上官の部屋に入り、自分の机の上に空蝉から預かった来の箱を置いて、うっとりと昨夜の様々なようすを思い出しました。
人との恋愛があれほど楽しいものだとは思ってもみませんでした。そのことを思い描いただけで、下の方は固く、いきり立つ有様でした。それは生命力が溢れ出るようで、とてもいい気持ちです。
その夢見心地は、頭の中将が部屋に這入って来たのも忘れるぐらいでした。
「若君は何をぼんやりしているのだ」
頭の中将はいきなり後ろから、首を締めるようにして腕を回しました。それぞれのお香の匂いが絡み合って漂って来ます。
「ううっ」
光源氏はそれほどきつく締められるとは思いませんでしたが声が出ません。
「色男め。何か収穫があったのか。うれしそうににやにやしているではないか」 頭の中将が言いました。
「何もありません」
「じゃあ、この箱は何なのだ。女人の匂いがぷんぷん漂っているぞ」
頭の中将はそう言って、光源氏がうっとり眺めている小箱を取り上げました。
「いけません、それは預かりものなのです」
光源氏は手を伸ばして取り戻そうとします。
「男はな、そういいながら、最後には自分の物にしてしまうのだ。ヒスイの宝石ぐらいなら、いただいたとしても構いませぬぞ」
頭の中将はそういいながら、箱を開けて見ました。
「ひえー、何じゃこりゃ。俺が持っている珊瑚よりも、すげえー、立派な珊瑚じゃないか」
頭の中将は余りにも驚いて、下品な声を大声で叫びました。余りにも大きな声で楠木様が驚くものですから、近くにいた武官も集まって箱の中を覗いています。
「すげえー。光源氏様、どこでこんな立派な宝物を手に入れたのですか」
「俺に見せてくれ」
「俺もこんなのが欲しい」
部下は光源氏様を囲んで、輪になって騒いでいます。
「こらあ、てめえらには高値の花だ、すぐに下がっておれ」
余りにも部下が騒ぐものですから、頭の中将は怒って追っ払いました。部下は名残惜しそうに、後を振り向きながら去って行きます。
「なあ、源氏の小将、俺の赤い珊瑚と取り換えっこしようぜ」
頭の中将はしゃがんで光源氏の机に顎を乗せると、見上げながら言いました。
「嫌ですよ。それは私の物ではないのです」
「ははん。『それは私の物ではないのです』て、か。それでも『くれた女は私の物です』と、言うんだろ」
頭の中将がわざと大きな声で言います。すると、二人の様子を聞いていた部下達は、楽しそうにニヤニヤ笑いながら見ています。
「いいですか、若君。一度いただいた物は、易々と返してはなりませんぞ。この餌を元手に、もっと大きな獲物を釣り上げるのです」
頭の中将は温かみのある笑顔を浮かべながらも、教育を施すように大らかな寛容さで言います。
「分かりました」
光源氏は大らかな温かさを感じながらも、余りにも昨夜のことが頭にこびりついて、楠木様の優しい言葉がまともには聞こえて来ないのでした。頭中将はそんな光源氏の無表情に、むっとしたり笑ったりします。
それから光源氏は、たびたび紀伊守の屋敷を尋ねるようになりました。あの時は、館の主の紀伊守のことが気になって、そっけない態度を取ったのですが、相手が好きになったのに惜しい気がします。
あの時は空蝉に満足な褒美を与えるものがなくて、気兼ねして追い出したのですが、二人は共に愛し合ったのです。あの喜びは紀伊の介の奥方にしても、簡単に忘れることが出来ないはず、と信じていました。
屋敷の侍女に「紀伊の介の奥方はこちらか」と、尋ねると
「最近ではこちらに来ておりません」
と言う。光源氏を避けるような、そっけない返事でした。余りにもそんな返事が続くのですから
「奥方がこちらへ来たならば、是非ともお知らせて頂きたい。渡さなければならぬ大事な品物を預かっているのです」
と、相手がその気になるような言葉を残して、六条の御息所の屋敷へ出掛けました。 御息所は
「最近では桐壺帝も光源氏様も、滅多に私どもの家を尋ねて来なくなりましたね。寂しいですわ」
と言いました。
「そんなことはありません。帝王様も私も、色々と用事があって忙しいのです」
光源氏は、言い訳じみたことを言いました。
「最近、帝王様は藤壺の女御にすっかり夢中になっておられるとか。光源氏様も同じでございましょう。寂しいですわ。時々はこうして、私の屋敷にも御立ち寄りあそばしませ」
「分かりました。秋子様はどのようにお暮らしであらっしゃいますか」
「あの子は巫女の修業とかで、八坂の社へ良く出掛けています。あの子に言わせれば、そうした静かな暮しは向いているとか」
「それは良うござりました。それならば伊勢の斎宮の役職も立派に務まりましょう」
秋子様とは前の皇太子と六条の御息所との間に生まれた姫君です。光源氏よりは六つ年上で、頭の中将よりは一つ年下になります。
「都落ちは寂しいですわ」
「ほんの二・三年の辛抱ですから、すぐ終わりましょう。どうしても嫌でしたら断れば良いのです。それにまだ、しばらくは先のお話ですから」
「本当に光源氏様は呑気でうらやましいですわ。私などは誰かが急に尋ねて来なくなったり、くしゃみをしただけでも、世の人々から悪く思われているのではないか、
『邪魔者にされたのではないか』と心配でたまりませんもの。一人身は悲しゅうございますわ」
「世が世なら、今頃は宮殿の中宮王妃様として権勢をふるうはずでありましたのに、御息所様は本当に気の毒な悲しい見の上です。その悲しみを御察し申し上げます。
桐壺帝とあなた様は親しい間柄なのですから、困ったことがありましたら、何なりと私へお申し付け下さい」
光源氏も悲しくなって困ったように仰せになられました。ただ住まいは前の皇太子妃の身分でしたから、それほど悪くありません。光源氏様は御息所の付き人であった母君との思いで話を、あれこれ聞いたりしました。
「本当にそなたの母君も悲しい見の上でしたね。皇太子様さえ生きておられたならば、私が桐壺の更衣をお守り出来たのに。小桐に、あのような悲しい思いをさせて申し訳ありませんでしたわ」
御息所は光源氏と会うと、決まって光源氏の母君と自分の思いで話を語るのでした。
「もう昔の話ですからおやめ下さい。私まで悲しくなります」
「そうでした。そうでした。ただ小桐があなた様を御産みになったことは立派でした。今もこうして更衣の忘れ形見とお会いしていることができますもの」
「私もうれしゅうございます」
「あのう、光源氏様」
後ろの方で御息所の侍女の声がしました。光源氏は呼ばれて庭に面した廊下に出ると、侍女から要件を聞きました。
「家来の惟光が車屋で待っているそうでございます。急いで戻らねばならぬ用事が出来たそうです」
侍女は光源氏の耳に手を添えると、小声で言いました。
「あい、分かった」
光源氏様はうなづくと、急いで御息所の近くへ戻りました。
「分かっております。判っております。すぐお帰りになるのでしょう」
御息所は話の内容を察したようで、すでに暗い顔をなさいました。
「申し訳ありません。急いで帰らなければならない用事が出来たのです。近いうちに、またお訪ね致しますので」
光源氏は深々と頭を下げると立ち上がりました。
「そうなのです。誰もが私から遠ざかって行くのです」
「いえ、近い内にまたお訪ねしますので」
「分かっております。源氏の君は優しい方ですものね。すっかり大人になられて、小桐が生きていたらどんなに喜んだでしょう」
六条の御息所は見上げながら言いました。
「失礼つかましまする」
光源氏は六条の御息所の屋敷を後にしました。
家来の惟光の用事というのは、中川の紀伊守の屋敷に伊予の介の奥方が尋ねて来ているという、願ってもない嬉しい知らせでした。
今夜は前と同じように、厄除けの方違いとして泊ることになりそうだということです。光源氏様は急いで紀伊守の屋敷に行きました。
光源氏様が屋敷に着くと、紀伊守は宮中に呼ばれているとかで留守でした。出迎えたのは北の方です。光源氏は客間の東の対に通されました。
「光源氏様、たびたび御足を運ばさせまして申し訳ありませんでした。継母様がようやくこの家を尋ねて参りましたので、お知らせした次第でございます」
北の方は御簾の影から言いました。覆いに遮られると何となく他人行儀な気がします。光源氏は最初にお会いした時のように、何の隔てもない会話を望んでおりましたので、よそよそしい態度は意外でした。
「北の方様、一体どうなされたのですか。この前の蛍の宴では何の隔たりもなく、親戚のようにお近くで語り明かしたではありませんか」
光源氏はお酒を飲みながら語り明かした親近さが、どうしようもなく懐かしかったので、身近で話が出来ることを望んでいました。
「あの時、私どもは、お酒に酔ってましたゆえ、どうかしていたのでございます。私も、伊予の介の奥方も、受領の身分でございますもの。
帝王様のお国の一部をお預かりする大事な役目の人妻としては、軽はずみなことはできませんわ」
「そのことは何となく分かるような気がします。世間体を気にしているのでございましょう。ただ、あの時は蛍が舞う心地よい夜の宴でした。私はああした楽しさが忘れられないのです」
「それは浮世離れした、一時の夢物語だと思って忘れてくださいまし。人妻の身分では浮かばれてばかりはいられないのです」
「そう堅苦しくなさらなくても良いではありませぬか。人との親近さを重んじる紀伊守家の家風が、私はとても気に入ったのです」
「それは一時の亡霊に過ぎませんわ。私共女は囲われの身分で自由などないのです。再び逢って話すなど、それはなりません。ここの主にも、
『北の方としての礼節をわきまえよ』
と、そのことを固く言われております。それは伊予介の奥様も同じです。自重して下さいませ。では母君をお連れ致しますので、ごゆるりと御話下さいませ」
そう話すと、紀伊守の北の方は出て行きました。
しばらくすると五人ほどの侍女に守られて、一人の貴婦人が御簾の奥から這入って来た様子でした。貴婦人はしばらく黙っていたのですが、ようやく口を開きました。
「光源氏様、どうして私にお会いなさろうとするのですか。あの時私は酒に酔って人違いをしていたのです。『あのことは無かったことにして下さいまし』と、固く申し上げたはずでしたのに」
「実はあの時いただいた箱を開けて驚いたのです。あのような高価な物はいただては、私のほうが悪者になります。今夜はお会いして、それを返そうと思って持って参ったのです」
光源氏様は横に置いてあった箱を前に差し出しました。
「一度差し上げたものを、受け取る訳には参りませんわ。女にも意地がございますもの。ですから光源氏様君も、『二度と私と会わぬ』、と約束して下さいませ」
「どうしてですか。あの時は空蝉殿も私も、お互いに好きになって愛し合ったではありませんか。私がこのように、女人を本気で好きになったのは初めてなのです」
「それは私とて、あなた様が好きなことに変わりありませんわ。もし私が若くして、一人身の身の上だったならば、ああして激しく求められることがどんなに幸せだったことでしょう。
でも私には紀伊の介と言う大事な夫がおります。紀伊の介様は私に良く尽くして下さいます。私には何の不満もございません。ですから光源氏様も、すっかり、私のことを忘れて下さいまし」
「私はもう一度でいいですから、あの素晴らしい愛を確かめたいりです。あの時から、私はあなた様のとりこになってしまったのです。空蝉様も同じでございましょう。
私はあのことを一時も忘れたことはありません。これほど一時も離れたくないと思ったことは一度もありません。今頃になってあなた様を、私は心から好きになってしまったのです」
「いいえ、一時的な情熱でしかありませんわ。そのような情熱を左大臣の葵様に注ぎあそばれませ。あの方は気位は高くとも、光源氏様の優しさを待ちわびておられるのですよ」
「そうであらっしゃいましょうか。あの者は私を嫌っているのです。私には、私を避けているとしか思えないのです」
「それは親が決めた婚姻だからでございましょう。光源氏様が先日の私にした時と同じように、夜這に何回も通われて結ばれたならば、葵様もそのような遠慮はなさらなかったでしょう。
堅苦しくとも我慢して一緒にいてご覧なさいまし。一緒に居ればいるほど、親しくなって、一時も離れたくなるものでございますわ。私も最初の夫とはそうでしたもの」
「伊予介の奥方がですか」
光源氏は、空蝉の人懐っこさは天性のものだと思っていたのでびっくりしました。
「そうなのです。あの方が亡くなって初めて分かったのです。あの大きな体の夫を、どうして優しくしてやれなかったのか悔やまれてなりません。
私はあの方をウドの大木だと思って軽蔑していたのですが、亡くなった後で紀伊守の北の方に言われたのです。
『あの方は体が大きくていらして、武官としては最高に魅力がありましたわ。うらやましかった』
と。そしたら私、父に押しつけられた反感が一変に消えて、
『本当は好きでたまらなかったのだ』と、ようやく分かりましたもの。
光源氏様も桐壺帝と左大臣に勧められて、御成婚あそばれた反感もありましょう。でもその反感を取り除かれまして、自分達が望んだ結婚だと考えますれば、二人の間の垣根もなくなりますわ。
光源氏様は高貴で自由な身の上ですもの。どうしても嫌ならば、他の一人身の女人を探せば良いのです。この京にはそうした女人が五万とおりますもの」
「どうしてそのような、心にもないことをおっしゃるのですか。私は今でも御簾の中に飛び込んで、あなたを抱き締めたいぐらいです」
「もうおやめ下さいまし。わたくしも辛ろうございます。いいですか、光源氏様は元服なされた立派な大人です。分別をわきまえて軽はずみなことをなさってはいけません。
そうでないと、私は紀伊の介に殺されてしまいます。私が哀れだと思いなされるならば、どうぞ二度と会わないで下さいまし。悲劇が起こりましたら、私の父君にも、弟君にも顔向けができません」
「ああ、どうしてこの思いを捨て去ることができましょうか」
「忘れるのです。こうしてお傍にいては辛ろうなるばかりです。私はこれで失礼いたします」
そう言いながら、貴婦人は十二単の袖を目頭に当て、後ろ見向きになると泣きながら出て行きました。
光源氏様は、まだ話の途中なのでなかなか心の整理がつきません。まだ話し合うならば、お互いに相手を傷つけず、再び会えることが出来ただろうし、別れるにしても、もう少し納得できる話をして、心のわだかまりを取り除きたいものだと思いました。
光源氏は誰もいなくなった御簾の中に入り、空蝉の匂いの残る御座の上であぐらをかいて、そのぬくもりを確かめるようにしばらくぼんやりしていました。
七
その夜紀伊守が内裏の役目を終えて帰って来ましたので、光源氏は酒宴に誘われました。
「光源氏様はたびたびこの屋敷を訪れているようですが、このように葵様を放っておかれて良いのでしょうか。
あの方は帝王妃になれるほど美しい姫君ですぞ。左大臣にも義理が御有りでょう。寂しい思いをさせてはなりませぬぞ」
紀伊守は楠木様よりは更に五つ上位の年頃でありましょうか。すでに何人かの子供もおりますので、所帯じみた落ち着いた表情で言いました。今宵は寝殿の南廂に誘われて、二人だけの杯です。
「紀伊守に、『葵の上を大事になさいませ』、と言われるのはようよう理解できます。頭では一時も離れてはならぬと分かっているのですが、あの重苦しさを考えますと、息が詰まりそうなのです。
優しくしなければならないと思えば思うほど、何も出来なくなってしまうのです。それに私には財産らしい財産も、お金もありません。葵の上を喜ばすような贈り物ができないのです」
「何もそんな高価な金品を送らなくとも良いのです。野辺の花を摘んで和歌と共に送っても良いではありませんか」
「私には葵の上がそのような安物で満足するとは思えません。あの方は気位が高く、高価なものを望んでいるようですから」
「そのようなことはございますまい。一度試してご覧なさいませ。意外と打ち解けるものでございますよ。鴨川へお誘いして船宿の鮎を御馳走したり、嵐山の紅葉や桜を見物したり。
そのような趣向を凝らした遊びに女人は喜びますよ。何なら宇治の瀬田川にある私どもの別荘をお使い下さいませ」
「宇治ならば帝王様の御用邸もあります。もしそちらへ足を運ぼうとするならば、利用できないことはありません」
「そうです。そうです。そのようにあちらこちらの帝王様の御用邸を利用すれば良いのです。光源氏様は何分にも桐壺帝の第二皇子なのですから、御遠慮する必要はないのです」
「わかりました。さっそくお誘いしてみます」
話が一段落すると、二人だけの酒宴ではなかなか盛り上がらなくなりました。紀伊守は幾分、光源氏を厄介者だとも思っていますから困って、家来の惟光や紀伊の介の奥方の弟君を加えたりしました。
しかし、女のいない酒宴は退屈でした。
光源氏は紀伊の介の空蝉のことが頭から離れないようです。なにかと沈みがちになるので、紀伊守は今夜の添い寝をする侍女と、惟光の酒の相手をする下女を呼んで、二人の相手をするように言い付けました。二人の女人と入れ替わるようにして、紀伊守は小君を連れて出て行きました。
夜も更けて、光源氏様は添い寝の侍女と同じ寝室におりましたが、やはり伊予の介の空蝉が気になって、なかなか侍女を抱く気にもなりません。光源氏は仰向けになって、
『自分がこれほど好きになっているのに、どうして嫌われたのだろうか』と、あれこれ考えたりしました。しかし、考えれば考えるほど思い当たることはありません。
考えて考えた末の結論は、相手が自分を好きだからこそ自分も空蝉が好きなのだという結論でした。
『いやよいやよも好きの内』ではないか。亭主の伊予介に気兼ねして、自分の本心を隠しているのだろう。誰にも知られず、内密として会えるならば、決して相手も嫌だとは言わないだろう。
光源氏はもう一度会ってみようと考えました。もしそれでだめならば
『きっぱりと諦めよう』とそう決めました。この苦しい思いに決着を付けない限り、前にも後にも進めないような気がします。悪い暗示に誘われるように、夢見心地で西の対へ歩いて行きました。
西の廊下に出ると、西の対の建物は前の時と違って、真っ暗で人の気配はしません。明かりがないということは、寝静まっているか、誰もいないかです。
光源氏は空蝉が居ようが居まいが、一向に構わぬ気持ちがしました。誰もいなければ思い出の部屋で静かに寝て、じっくり想像をめぐらしてみようと思いました。
淡い匂いや、床に温かみが感じられるかも分からない。それだけでも心が落ち着くだろう。今夜お会いできなければ、生涯二度と会うことは出来ないだろう。
『紀伊守の屋敷で寝泊まりできるのはこれが最後だ。今夜必ず実行するのだ』と心に誓いました。
光源氏は東の廂に這入る引き戸を開けようとしましたが、中から鍵が掛っているのか、今度は何回も力を入れても一向に開きません。仕方がないので、通常屋敷の者が出這入りする北の廊下の方へ回りました。
北の扉を開けようとしましたが、そこも同じでした。左右に動かそうとしても、わずかなガタがあるだけで一向に開きません。中は相変わらず真っ暗で人の気配はありませんでした。
光源氏は思い切って扉を叩いてみました。始めの内は何も聞こえなかったのですが、しばらくして
「中将か」という、不安な小さい声が聞こえました。紛れもなく伊予介の奥方の擦れたような声です。相手の女は侍女の中将が帰って来たのだと思っている様子でした。
光源氏は
「私です」と叫びたい心を必死で押えました。もし空蝉が本当に自分を嫌いならば大騒ぎとなり、必死で逃げて行くだろうと思ったからです。紀伊守の『葵様を大事にするように』
という忠告も気になりました。自分がどうしようもなく悪いことをしているようで、罪悪感にも悩まされました。
しかし、ここで引き下がる訳には行きません。ここで逃げて自分の寝室に戻ったのでは、未練心がつのり、いつまでも空蝉のことが忘れられないだろうと思えます。
ここで決着を付けなければならないのです。光源氏はそのために恥を忍んで、紀伊守の屋敷へ通い続けたのでした。
かといって、再び扉をたたく勇気もありませんでした。伊予介の奥方の居る部屋の近くに居られるだけで幸せなような気もしました。
嫌われて逃げられるよりは、このままじつとして夜を明かしてもいい。側にいられるだけで、ほんのりとした喜びが高まりました。
『明け方になったら自分の寝室へ戻ろう。これが最後だ』
と思って廊下に座り込んだ時です。
北の対へ続く廊下の方から、手燭を持った灯りと共に、足音や着物の床に擦れる音が近付いて来ました。光源氏はあわてて立ち上がると、西の廊下の角へ周り、灯りを持った主が誰であるか確かめました。
暗闇に隠れて角から覗くと、その人物はやはり侍女の中将のようです。さっき部屋の中から問いかけた奥方の声からも察しが付きました。中将は他にもう一人、中将付きの侍女と一緒でした。
中将は用心深く、廊下に誰も居ないか確かめた上で扉をたたきました。
「奥方様、私でございます。衛門府の中将です。扉を御開け下さい」
中将は言いました。
「やはり中将であったか。ああー、良かった」
中から奥方の声が聞こえます。急に建物の周りが明るくなったような気配が感じられました。ごとごとという音と共に扉が開きます。
「お急ぎ下さい」
中にもいる空蝉の侍女が急ぐように言いました。光源氏様は、後ろにいた侍女が、中将の後に続いて部屋の中に這入ろうとした、その瞬間を待っていました。
後ろから口をふさぎ、抱きかかえるようにして侍女を押えると、その女と共に一体となって中に入りました。
廂の中に入ると、更に寝室へ続く中の障子も開けられています。障子の中には、白い寝巻きを着て、薄明かりに照らされてた空蝉の姿が見えました。
「どうした。早よう扉を閉めぬか。危ないではないか」
中将が後ろを振り向いて言いました。
「ううっ」
光源氏様が締めつけた侍女はうめき声を上げるのがやっとです。中将はもがく侍女を見て、身の丈もある髪が逆立つほど驚きました。ようやくそこに賊が居ることに気付いたのです。
「ああっ、あなた様は。光源氏様。いったいどうしたことでございましょう。大変でございます。奥方様、光源氏様です。早く御逃げ下さいまし。これ以上、罪を犯してはなりません」
中将は大声で叫びました。
「ああー、なんという・・・」
悲嘆にくれた悲しい声と共に、空蝉が遠くへ逃げて行く姿が見えました。中にいた三・四人の侍女もいっせいに逃げて行きます。寝室の中は、侍女が小道具を蹴飛ばす足音で大騒ぎになりました。
光源氏様が侍女の体を緩めて中扉の寝室に這入ろうとすると、中将は必死で障子を閉めようとして中に入れようとしません。光源氏様は男の力でようやく中将を引き倒し中に入りました。
しかし、中は抜け殻の暗闇だけです。外からは中将と連れの侍女の泣き叫ぶ声が聞こえます。光源氏は気が抜けたように、へたへたと空蝉の寝床に座り込んでしまいました。
「光源氏様、どうなされたのです。あれほど奥方様が『近付いてはなりません』と、お願いしておったではございませんか」
中将は怖い顔をして、座った光源氏様を立ったままで見下ろしています。
「すまぬ、すまぬ。どうしても募る思いを押え切れなかったのだ。頭では悪いと知りながらどうしようもなかった。
せめてこうなったら空蝉にわび状を書こう。怒ったそなたにはすまぬが、紙と筆を持って来て賜もうれ。すぐに文をしたためるから、お奥方に届けてくれぬか。せめて最後の願いだ」
光源氏は寝床に脱ぎ棄ててあった十二単を抱き締めて言いました。紛れもなく伊予介の奥方の匂いが漂い、体の温もりが感じられます。その着物を抱き締めただけで、空蝉がそこに居るかのような、幸せを感じるのでした。
空蝉の 身をかへてける 木のもとに なお人柄の 懐かしきかな
空蝉の 身を振り返る 我が目に なお人柄の 懐かしきかな
蝉の抜け殻のようになった着物を抱き締めながら、私はあなたが飛び去った後も、深く愛した姿を思い出します。
あれは一瞬の幻だったのでしょうか。私は今でもあなたの人柄を思い出して嘆き悲しんでおります。
光源氏は和歌とお詫びの手紙を書き、それを空蝉に渡すよう中将に託しました。
空蝉かってに編おわり・・・・のはずですが
古文空蝉編へと続きます
八
「なぬっ。誰が簡単に空蝉編を終わらせるのじゃ。けしからん。この源氏物語は私こと・・紫式部が書いたのじゃぞ。私に黙ってそう簡単に終わらせてたまるか。
それにあの話の内容は何じゃ。まるででたらめではないか。かってにストリーをこさえやがって。源氏物語は芸術の世界じゃぞ。ストリーなどどうでも良い。
まずは私の本物の源氏物語を読んで下され。
光源氏様は、この程二条の大殿のみ過ごしおわします。
なおいと書き絶えて、空蝉との交流がないとの思うらむ事の、再会を望む気持ちがいと惜しく心に掛かりて悲しければ、苦しく思しわびて紀伊守を屋敷に召したり。
「かのそなたの屋敷で世話を受けし子君、有りし衛門府監督の中納言の子は、いかが過ごしはべるぞや。『こちらに得させて置かむや』と思うが、いかが思いなむ。
ろうたげに賢く見えしを、何かと役に立つと思い、身近に置いて使う人にせむ。上の人事院へも要請を奉らむ」
とのたまえば、
「いと賢き仰せ言葉に思いはべるなり。姉なる伊予の介の北の方に、のたまい聞いて見む」
と申すも、『これは人妻に手を出す手始めではないか』と心配し胸潰れて、
「何とか逃げ口実を取らせせねば」と思せど、
「その姉君は、そなた左大臣の朝臣、紀伊守の妹やもと思われたる。父の妻にしてはそなたと兄妹のように年が近く、伊予の介の奥方ににしては若過ぎると思わむか」
と更に好き好きしくお尋ね賜う。
「さも若くしはべらず。化粧でごまかしてはおりますが、中身は老婆と同じでございます。こり二年ばかりぞ、かくて病ものしはべれど、親の掟に違えりと思い嘆きて、人前では弱さを見せません。
体も心のままに動き行かぬようになむ、痛々しく見えて苦しいと聞き給うる。若く見えるのは見掛けだけでございます」
「あれのことや、伊予の介は女嫌いと聞き給うぞ。その奥方は人当りもよろしく、中々奇麗な美人と聞こえし人ぞかし。寂しい思いをさせてはならぬ。誠に良しやに再開できるように取り計らえ。」
と、光源氏様が扇で下心を悟られぬように隠し、笑みを浮かべてのたまえば、
「氣しう人妻に易々と惚れてはならじ、見逃しはべらざるるべし。伊予の介と持て離れて、うとうとしく虚ろに暮らしはべれば、世の例えにて留守を預かる女には、睦まじく結び言い寄りはべらずべき。
伊予の介は国の役目に従って地方勤務の身の上でございます。どうぞ国の役目に忠実な人妻のことは放って下さいませ。後日弟君をお連れ致して参ります」
と申す。
さて五・六日余り過ぎて、この子君率いて紀伊守が参れり。細やかにどこが御賢しこく魅力的にとは言えなけれど、なま目きたる若者の気迫の様して、高貴な当て人と見えたり。
「光源氏様が所望致しました子君を連れて参りました。どうぞ、よろしく取り計らい下さいませ」
と紀伊守は光源氏様の前で深々と頭を下げました。
「おう、待っておったぞ。屋敷での方違えの折では大変世話になった」
と、源氏の君が仰せになられますと、小君は外の廂の下にて、
「とんでもございません。大して役に立っておりません」
と、はきはき申しました。紀伊守は二人の会話を聞いて、ある程度親しい間柄と思ったのか、
「お二人が顔見知りならば私は安心でございます。どうぞ光源氏様の好きなようにお導き下さいませ」
と言いました。
「かたじけない。子君は私の配下で暮らすことに不満はないか」
と、光源氏様がのたまえば、
「有り難き幸せでございます。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます」と言って、小君は礼儀正しく頭を下げました。
紀伊守は二人がまんざら他人行儀でもなかったので安心したのか、
「御二方がある程度顔見知りならば、私も安心致しました。小君よ、何か困った事があったら、わしの屋敷を訪ねて来ると良い」
と、光源氏様の御顔色を伺いながら子君に言うと、君は、
「はい」とだけ軽く答えました。
紀伊守は、小君が余り不安な様子を見せないので安心したのか、
「私はこれにて失礼つかまります。光源氏様、後々の事はよろしくお願い申し上げます」
と言って、足早に立ち去って行きました。
紀伊守の姿が見えなくなると、
「こっちへ、近こう参れ」
と、小君を親しく召し入れて、いと懐かしく昔の兄弟のように語らい賜う。童心地にて素直で笑顔も、いとめでたく嬉しと思う。妹のように世話する姉君のの事も、詳しく聞き賜う。
「そなたの姉君は評判の美人じゃゆえ、何事にも多くの男から言い寄られる事も多かろう」
とて聞けば、
「文なども多く届きて、私に貢物を渡し、会わせるよう迫る者も多くおります」と答ゆる。
「運よく夜を共にした者もおるのか」と、のたまえば、
「これまで二人ほどは・・・。いい、いいえ。語り明かしただけで変な事はなかったと存じます。私は遠くへ追いやられておりましたので、詳しい事は何も分かりません」
小君は困った様子で、去るべき重要な事はいらへ答えず、聞こえなかった振りなどして、恥ずかしげに静まりうつむきたれば、光源氏様も打ち出でてそれ以上は聞きにくし。されど、
「そなたに頼みたいことがある。姉君に頼まれた伊予の国の最近の治安の様子だが、文をしたためる由え、姉君に届けてはくれぬか。これを読んだら姉君も安心致すじゃろ」
などと、やましくは思えども、あれこれ策略を考えたたすえ、光源氏様は預かった珊瑚のお礼にと。代わりに上等の御櫛をも揃えたり。
「これも文のついでに届けてくれぬか」
などど意図良く口実を言い知らせ賜う。
「かしこまりました。そのような用向きならば、た易い御用でございます。さっそく姉君の屋敷に参りまして、この品物を姉君に届けて参ります」
とて言って、小君は二条の大殿を後にす。
空蝉は『姉君に掛かる色事こそは』と、『このような幼い子供に手紙を託すなどどうしたことか』と、ほのかに哀れと心得るも、
光源氏様の弟君に対する扱いは思いの外なれど、幼心地にすれば主君には従うは当然の事で、命じられたことを深くしも考えをたどらず、あきらめるしかなしと心得るべき。
子君が伊予の介の館に自慢げに御文を持って来れば。女は光源氏様の浅ましきに涙も出で来て泣きぬ。この子君の思うらむ主への忠誠心事もはしたなくて、
「姉君によその男を手引きするとは何事ぞ」と涙す。
「姉君、どうされたのです。何をそのように悲しむのですか」
と聞けば、さすがに空蝉は弟君の将来を考えて、御文を面隠しに広げて涙を見せまいとしたり。悩みもいと多くて、
「今だに見し恥ずかしき夢を、再び逢う夜も有りやと嘆く間に、目さえ哀れぞにやつれて、衣の袖も減りける。寝る夜になりければ、男が恐ろしくてならぬ」
などと、目にも及ばぬしつこい御書き様も、今にも訪ねて来そうな御気配が感じられて、霧蓋がりて前が見えなくなるほど恐ろしく、空蝉は心得ぬ宿世に従うしかない仕打ちに添えりける我が身を、哀れに思い続けて床に伏し泣き給えり。
また別の日子君召したれば、『近々そちらへ参る。いつの日が良いか具体的な日時を知らせよ』とて言って御手紙を渡し、空蝉の屋敷に小君来れば、お返りの返事を請う。
「掛かる御文を見るべき人も、私の知り合いにはなしと、光源氏様に聞こえるように伝えよ」
と、のたまえば、小君は打ちほほえみて馬鹿にしたように、
「主君に従えるべき身の上なれば、姉君に違うべく物あろうはずは無く、私とて無理な事は受け給わざりしものを、いかがさ無理な事は申さむ」
と言うに、光源氏様の御命令に忠実に従おうとする我が弟君に、空蝉は願いを叶えてやれない我が身が心やましくて、
「光源氏様の目的は我が身を犯し、私を妾にする事」
と、この事情を残りなくのたまわせ、伊予の介に殺されるかも分からない我が身を知らせけると思うに、弟君の将来を考えるならば、辛きにと思う事限りなし。
光源氏様は小君の言づてを聞いて、
「いで、まったく馬鹿の使い走りでもあるまいに。大人のお世すげたる深い事情の事は言わぬぞよ、小君。この良きに、『さ、ばかりその程度の用事ならば、ここへ来る必要もあるまいに、姉君の元へ直ぐにでも参り給いそ」
とて言って、むかつきかられて、
「光源氏様に召す用向きには、いかでか、なさるおつもりか姉君。逢うだけは逢ってみたらどうですか。後の事は知らぬぞ良し」
とて言いながら、姉君に迫る。
紀伊国の守、好き心にこの継母の有様を遠くから見ていて、光源氏様がしつこく求めたれば、女を安っぽい新しいき浮気者に思えて、
「自分も追走し、あわ良くば同じ楽しみを味わえるかも」
との下心ありければ、この子君をもって大事にかしづきて世話し、光源氏様の元へ率いて歩く。
源氏の君、小君を御近くに召し寄せて、
「昨日の内に返事が来ると待ち暮らししを、なおうやむやにごまかすとは、あい思うた程に、役立たずまじき者なめり」
と、怨じ賜えれば、この子君、恥ずかしげに顔を打ち赤めて居たり。
「いづら、あの手紙の返事はどうなった」と、のたまうに、
「しかじか、『あの御手紙を読む人はおらぬ』と申しまして、返事ももらえませんでした」
と申すに、源氏の君は、
「言う甲斐なしの役立たずとはお前の事や。浅まし。『今度は帝の御子の命令だ』と伝えて、しかと返事を寄越すように申し伝えよ」
とて言って、またも御手紙持たせ賜えり。
「あ、この子は知らじな。その伊予の介の翁老人より先に結婚し、暮らし向きを見し人ぞ。結婚はしてみたものの、されど、相手は頼もしげもなく首細し弱虫にて、あっけなく先立たれてしまった。
ふつつかなる後見人を真に受けて、かくも世の中を侮りし給うことならば、痛い思いをするなめり。さりとも、あ、この子君は我が子同然にて、わしを当てにすべくあれよ。
この頼もしき伊予の介は、高齢にて行く先々も短るなむ。ご自身の若い身の上を考え、先々のことを考えよ」
とのたまえば、
「左様な事もや有りけむ。いみじくも姉君の主は先が短い。光源氏様の御命令に従います」と、率直にうなずく。
君はそのあどけない純情さをおかしく思す。
この子を自分の近くにまとわり従うようしたまいて、桐壺帝がおわします内裏にも率いいて参りなど、配下として見せ付し賜う。
我が御身櫛化粧殿の召使にのたまいて、
「宮仕えにふさわしい身なりに整えよ」と、装束なども施させ、誠に親めきて真剣に扱い賜う。
「このような宮殿の服装をさせていただきまして、誠にありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
と小君申さば、
「良いってことよ。気にするな」
と、軽くあしらう。
御文は常に空蝉の元に有り。されどこの子も、いと幼し。光源氏様が姉君を思う気持ちが心より他に散りもせねば、空蝉は「軽々しう役立たずの小君の名さえ取り添えむ」
と心配する身の覚えを、いと付きなかるべく可哀そうに思えば、なんとかしてやりたいと思す。空蝉はめでたき弟の栄華は我が身の振り方からこそと思いて、仕方なしに打ち溶けたる御答えも聞こえずして従う。
ほのかなりし若君の香り立つ御気配の有様を、「げに並べて平凡にやあらむ」と思いて、自分との思い出を他人に聞こえさせむにはあらねど、光源氏様のお気持ちは、おかしき自分の栄華に見え立て奉りても、
「深い係わりは、きっと何にかの役には立つべき」
などと思い返して、有難き事と思すに成りけり。
九
源氏の君は空蝉を思し怠る一時の暇もなく、心苦しくも恋しくも思し出づるして過ごしたり。思えりし紀伊守家で二人で過ごした愛の色気景色などの情の深い愛おしさも、晴れ煙る方なく繰り返し思し渡る。
軽々しく相手の立場を考えず這い紛れて、こっそり立ち寄り賜わむお姿も悲痛なほどで、人目繁からむ多くの人々が見ている前で、便なき我儘な御振る舞いや、現れむ。
紀伊守の屋敷は固く門を閉ざして人の気配もなければ、光源氏様は遠く御車の中から、屋敷の様子を眺めておわします、世間の人の為にも、いと欲しく恥ずかしい見本と思し煩う行いなり。
例の宮殿の内に再び方違えの日数を経給い迫うる頃、さるべき方の来訪者を忌嫌う口実を待ち出でて、光源氏様は葵姫の元へ通うことが出来なくなりぬれば、紀伊守家の方向へ出賜う。
にわかに行楽にまかり出賜ふ真似をして、ついでに立ち寄ったのだと、道の程より折り返して、光源氏様は紀伊守家へおわしましたり。
「先日の方違えのお礼に立ち寄ったのだ」
と、惟光が門番に告げますと、
紀伊守は驚きて、
「お越しになられるのでございましたら、前もってお知らせくださいませ。いきなり来られましては、こちらは何の準備も致しておりません。
と申す。
「いやいやそれほど気を遣わずとも好い。先日の方違えの宵は大変世話になった。鎗水の蛍の風情も中々の物であった。もう一度見せて下され」
と光源氏様のたまえば、紀伊守、
「鑓水の蛍を面目にお越しなられたのですか」
と、かしこまり安堵し喜ぶ。小君には昼間より、
「姉君からの文によれば、『今宵は方違えの日に当たり、それを口実に来て下され』との知らせがあった。かくなむ事情に思い寄れるとなれば、『必ず参る』と伝えよ」」
とのたまい、空蝉との約束を契れり。
この日は明日の明け暮れまで過ごす予定との事で、近くにまつわり付かせ、愛の営みを自然に馴らし賜いたく思えれば、今宵もまず空蝉を近くに召出でて、近くへ呼びたり。
女もさる消息の下心ありけるに、周りが『さぞ嫌であろう』と思したばかりの辛きと思さむ気持ちの程は、浅ましくもないと思いなされねど、さりともあからさまに打ち解けて、光源氏様と親しくするには軽々しい女と思いなして恥ずかし。
人の激しさ無き二人だけの世界にして有様を見え立て奉りても、味気なく夢のようにして、ただ時間だけが過ぎて行く。空蝉は伊予の介の妻として、光源氏様を寄せ付けようとしません。
周りの人々が気を利かし、
『帝の御子の所望とあらば、屈して従うのが世の定め。決して伊予の介に気兼ねするにあらず』と、小君が諭しても、
「私は夫のある身、このようなはしたないことはできません」
と、嘆きをまたや繰り返し加えむと思い乱れて、なおさても、光源氏様との一夜を待ち付け、誰かに見られることが恥ずかしく眩ゆければ、小君が出でて去りいぬるほどに、世間の聞こえむ事の噂も気になります。
「どうぞ、お二人で御ゆるりとお過ごし下さい」
と言えば、
「いと近ければ傍ら覗かれているようで痛し恥かし。光源氏様との愛が悩ましく苦痛なりければ、忍びて御格子に近寄りて扉を打ち叩かせなどせむに、何時でも助けられるように程好い所におれ」
とて言って、小君を渡殿の控え部屋に行かせ、中将と言いし右近も、屏風ひとつ隔てた局としたる隣の部屋に移ろいぬ。
さる心にて、空蝉との恋を果たすべく光源氏様は正殿の西廂に居て待っておられたのですが、急ぐ気持ちをひととく心を静めて待っていても、これほど、「空蝉との逢引が待ち遠しい」
と御要請を心底伝えてあれど、小君は光源氏様が勝手に訪ねて来るものとばかり思い込んで、一向に主の元へは訪ねあらず。光源氏様は空蝉の部屋をお伺いして良いものか分かりません。
独りぼっちになった光源氏様は辛抱しきれず、
「空蝉はわしに『今宵訪ねて来るようにと申しておったに、小君は何をしているのだ』と、
何処かよろづの良い所を求め歩きて、渡殿に分け入りて探し続ければ、辛うじて小君が待っていた部屋にたどり来たり。
いと浅ましく辛しと思いて、
「役立たずの大馬鹿者めが。如何に甲斐なしの役立たずと思さむ」
と、泣きぬるばかりに言えば、空蝉は二人の話し声を聞き付けて渡殿に参り、
「かくも、けしからぬ心映えを使うものか。光源氏様は小君に対して思いやりがなさ過ぎます。幼き人に男と女の色恋に掛かる事を、言い伝えうる世話役にするとは、いみじくも忌むなるものを」
と言い脅して、喰って掛かります。光源氏様は空蝉の言うことも最もだと思って何も言いません。
「申し訳ございません。姉君が光源氏様との色恋を嫌っておいでだと思ったものですから、お呼びにも行かなかったのです」
と小君言えば、
「『心地、光源氏様に命じられたことがやましければ、人々を避けずして、私の周りに右近や他の女房をまつわり付かせ、近くで腰などを押さえなむして、整体のまね事でもする。決して姉君の周りから離れるな』と聞こえさせよ、とも言うべき。
『光源氏様と私の関係が怪しい』と、誰も誰も私たちを見るらむ。お前のやっていることは中途半端だ」
と言い放ちて、心の内には、
「『いともかくも今更どうしたものか・・・光源氏様に頼るか、伊予の介に頼るか』品定まりならぬ見の覚えならで、過ぎにし親の御気配泊まる古里の、昔の我が家ながら、たまさかにも愛人を待ち付け奉らば、おかしうやあらまし。
しいて思い知らぬ、何事も無かったような顔に見せ付けつつも、親はいかほども知らぬように装い、悲しいと思すらむ」
と、空蝉は心ながら胸痛く、さすがに光源氏様とお会いしたことを悔いて思い心乱るる。
『とてもかてくも、今の世は言う甲斐なき権力者に逆らえぬ宿世なりければ、無心に心付き無くて、哀れな我が身を悩みなむ』
て思い果てたり。
源氏の君は、いかに計略を張り巡らし、たばかり空蝉をその気にさせなさむと思えども、まだ幼きを純情を後ろめたく待ち臥し悩み賜えるに、
『不器用なる御人好しを捨て切れぬ』と聞こゆれば、権力者にすれば浅ましく気弱に振舞われる姿が、珍しかるに成りける心のほどを、
「身も心も、いと恥ずかしくこそ成りぬれ。早く二条院の我が家に帰りたい」
と、いと愛おしき御気色、気弱な御気配なり。
「者ども、引き上げるぞ」とばかりの強がりも、のたまわず、痛くうめき声を出して、後ろめたしと思したり。
帚木の 心を知らで 園原の 道に彩なく 惑いぬるかな
空蝉の 心も知らで 園原に 愛の彩なく 夢の帚木
「人をその気にさせながら、拒むとは何事ぞ。王子を騙すとは、誰にも聞こえむ方こそなけれ。お前だけだ」
と、のたまえり。
女も、さすがに途惑い、後ろめたく混ざり心乱れければ、
数ならぬ 伏屋に居ふる 名の憂さに あるにもあらず 消ゆる帚木
数ならぬ 浮気の身にて 名も辛し あるにもあらず 帚木の宿
と、強がりを見せたと聞こえたり。
子君、姉君に対しての愛おしさに涙ぐみて、
「『眠たくもあらで』と他人の家を、夜中に惑い歩く姿を見られては、家の人々に『怪しい』と見られうるらむ。今宵は申し訳ありませんが、どうぞご自分の部屋で静かにお過ごし下さませ」
と、詫び給う。
例の供の者どもは、いびき汚なしに深く眠り込んで、光源氏様の休む場所も無ければ、ひと所のように、すずろにすざましく空蝉の事を思し続けらるることは無けれど、どうしたものか迷っておわします。
人に似ぬ心様の、光源氏様に対する空蝉のの思いは、なお消えずして立ち昇りけると思いやりて、妬ましく二人で夜を明かす事態に掛かるにつけてこそ、心も安らかに留まれると思したり。
かつ一方では『伊予の介に対しての貞節を守らせてやりたいものだ』と、思しながら目覚ましく辛い気持ちになりければ、『さらば立ち去れ』と思せども、さも空蝉に対する思しは凄まじく、
「空蝉の隠れたらむ所に、なお率いて行け」とのたまえど、小君は、
「いと難しげに内側から鎖を鎖し込められて、人あまたに近寄りはべるめれば、賢げにどうすることもできません」
と聞こゆ。光源氏様は小君の辛さを愛おしいと思えり。
「よし、あ子だに覚悟は良いな。そなたを棄ててそ」とのたまいて、小君を御方払いにして追い出し、伏せ賜えり。
光源氏様の悩みが若く懐かしき思い出となりければ、その御有様をうれしくもめでたしと思いたれば、傲慢でつれなき人よりは、
「なかなか可愛そうに」
と、哀れに思さる人こそ多いとぞ。噂に聞こえたり。
方違え・帚木編おわり
いやいや最後の和歌を読んで、ここまでが帚木編である事をつくづく思い知らされました。許して下され。かしこ。帚木は頭の中将の名前ではありませんでした。
かってに源氏物語
古語・現代語同時訳
上鑪幸雄
原作者 紫式部
第三巻 空蝉編
一
光源氏様は正殿の広い部屋へ戻られましても、
寝られぬままには御目だけさえて、空蝉の誘うような眼差しが一向に忘れられません。
「我はかく人々に憎まれはしても、美しいと世間の評判に上がり、ほとんどの者は見逃して好きなようにさせる慣わしが有りぬるを、今宵はなむ。初めて憂鬱しと世の中を思い知りぬれば、いとも腹立たし。
男として強引に相手を説き伏せねば、恥かしいて、臆病者と生き永らうまじく馬鹿にされ続けよう。目的を果たしてこそ、名誉の思いになりぬれて、男としての面目が立ちようぞ」
などとのたままえれば、涙さえこぼれ出でて、悔しさに夜具に臥したり。いとこのような光源氏様の御姿、ろうたしげに可哀そうに思す。
光源氏様は、その後も空蝉が忘れられず何度か御屋敷を御訪ねしたのですが、一向に進展がありません。空蝉は今夜もその気があるように見せかけて、若い青年の恋を拒み続けていたのです。
「この白い手の柔らかさ、髪の匂い、なかなか良い気持ちだ。こうしてそなたに触れていると心が休まる」
光源氏様は空蝉を近くに抱き寄せ、左手で空蝉の手を握り、もう片方は髪の毛を指先で撫でまわしました。近くのお世話女房達も、二人が逢瀬を繰り返す間に目が慣れて来て、
ただの子供のじゃれ合いのように見えて、それほど気にしなくなりました。二人は一向にそれ以上の進展がなかったのです。
「どうだ、今宵こそ二人で夜を共に明かそうではないか。近くにいる女房共も、『どうぞ、好き勝手にして下さいませ』と、誰も気にしなくなっているではないか」
光源氏様は大胆な笑いを浮かべ、再び空蝉の手を握ります。
「また、そのような我儘を。私は伊予の介の妻でございます。そのような申し入れを受ける事はできません。私もそろそろ疲れて参りましたので、光源氏様は正殿へお帰り下さいませ」
「いやじゃ」
「私は北の廂に戻らせて頂きます。そなたたちの二人、光源氏様をお部屋にお連れせよ」と伊予の介の妻が言うと、
「かしこまりました」
とて言って、二人の女房は深々と頭を下げました。光源氏様は仕方なしに、手燭を持った二人に従うように、自分のお部屋へ御戻りになられました。
寝床に入りて目を閉じると、
手探りの細く小さきほどの指先、髪のいと長からざりし幼き気配の様、繰り返えし通いたるも、思いなしにや目に浮かび、哀れにや忘れられぬなり。光源氏様は、一時も空蝉の側を離れたくないとおもいました。
あながちにその一方では、人妻に関わりらづらい隠れ部屋にたどり寄らむも、人として悪かろべく、真面目やかに目覚ましく悪い自分だと思して、今宵は何もしない方が良いと、不本意ながらもご自身の寝室で夜を明かしつつ過ごしたり。
例のように、「姉君の部屋へ案内せよ」とのたまい奉まつわさず、夜深う寝静まった時刻に外へ出で賜えれば、この子は愛おしく、なかなかおとなしく眠れぬ性格のようで、騒々しく人騒がせな男だと思します。
光源氏様は未練がましく、空蝉の過ごす奥の部屋を眺めておわします。
それから何日か過ぎて、
女も並々ならず簡単に片払いし、若君を追い出したと思うに、いざ光源氏様からの音信、御消息が絶えてなしとなれば、多少未練心も芽生えて、
「いかが御暮しか」と、気に掛かりになりけり。
懲りずに未練けると思うにも、やがてつれなくされてみると、
『私にそれほど魅力的がなかったのか。無視されるほど安っぽい女に見られておったのか』
と、悩み賜いなりましかば、腹立たしうなりからまし。しいて言うなれば、愛おしき御振る舞いの口説きが、絶えざらむも意に反し、うたて、もっと積極的であるべきと思うべし。
良き程にて、かくてそれほど、ほのぼのした恋に留めて置けば良いものを、扉を閉じめて断てんと思うものの、傍らでは唯ならずとも、何かに期待して外を眺めがちなり。
君は、『心付きなしの薄情な女め』と思しながら、かくそのようにして、映えやまむまじう恋しい女と御心に掛かり、自分を人悪ろく未練がましい男と思欲しわびて、小君に、
「いと辛う埋もうれ賜うも気の毒に覚ゆるに、空蝉の心情をしいて思い返せど、自らの心にも従わず、伊予の介に気兼ねして、本心を打ち明けられぬ苦しきを、なんとか叶えさせてやりたいものよ。
去りぬべき絶好の折りを見て、姉君と対面すべく機会をたばかれ」
と、のたまい御車寄せに御渡り来たれば、弟君はわずらわしいと思いはしけれど、掛かる姉の方にても、
「姉君、光源氏様がこちらへ御渡りになるそうでございます」
とて伝えれば、
「何、それは誠か。本当に来て下さるのか。いやいや、また厄介なことになったものだ。困った、こまった」
と、のたまいつはすれども、嬉しう覚えけり。
幼き心地に、今度も如何にならん折りにと胸をときめかせ、待ちわびたるに、紀の国守屋敷に光源氏様を引き連れ、庶民の女の服装に下り変装などして、女どちの弱弱しい姿で御車に乗り賜う。
のどやかなる夕闇の道を、たどたどしげに前駆の者は回りに気遣い、人ごみに紛れるに、小君は光源氏様の正体がばれないようにと、我が車にて目立たぬように率いて奉る。
この子も幼きにして、姉君の迷える心を考えるならば、今回も如何にならむと思せども、さのみそうばかりも言っておれず、燃え上がる主君の思し、のどかに押さえむにまじかりければ、さりげなき装いの姿にて、
「門など夜が迫り、内側から横木が鎖される先に到着けねば」と、急ぎおわす。
人に見られぬ裏口方より光源氏様を引き入れて、急ぎ裏木戸の扉を降ろし奉る。小君はまだ若く童なれば、宿直人なども、
「またも屋敷を抜け出して遊びに行ったのか」
と気にも留めず、ことに見入れて追従せず、逆にお菓子など与えるなどして注意を引けば、光源氏様が内門を通り抜けるも心安し。
庭を通り抜け、光源氏様を寝殿の廂に案内し、東の妻戸近くに奉りて、我は南の角、隅の間に近寄り腰を低くして格子戸を叩きて、
「姉君、私です、どうぞ扉を御開け下さい」
と、ののしりて入りぬ。伊予の介の妻を世話する御用達、女房は、
「現わなり。誰かと思ったら、小君様でしたか」 と言うなり。
「謎めいたことをするな。かう熱き折りに、どうしてこの格子は下されたる。息苦しくはないのか」
と、問えば、
「昼より西の御方の、用向きで渡らせ給いて、今は碁など打たせ給う。高貴な御二方ですので安全のために、御格子を下ろしていたのです」
と言う。
『さては姉君と向かいたらむ客人を見ばや』と思いて、
「姉君にお会いして来る。取次は不要じゃ」と言って奥へ進みぬ。
やをら音をたてぬように奥へ歩み出でて、簾と外の格子の狭間に入り賜いぬ。東の妻戸へ行くと扉を両側へわずかに開き、
「お待たせしました、光源氏様。女中女房に悟られない様に、お静かに御入り下さい」
とて言って、主を中へ引き入れぬ。
この妻戸に入りつる中の格子は、まだ戸締りの差し木も鎖さねば、隙間より奥見ゆるに、脇に寄りて西ざまに御目を見通し賜えば、女の声する几帳の中の様子が伺える。
この二人の極に立てたる屏風端の片方を押し畳まれるに、影に紛れるべき
几帳なども、暑ければにや風通しが悪いと、衣を上に打ち掛けて、いと良く中の様子がありありと見入れられたる。
「良いのですか、奥方様。これでは中の様子が外から丸見えではあれませぬか。のぞき見でもされたらどうするのです」
と、小姑の妹が言う。
「何を申すか、軒端荻殿。この寝殿の中には女中女房共以外は誰もおらぬ。誰が覗くと言うのだ。暑くて北の方などやっておられぬわ。そう言うそなただって汗びっしょりではないか」
とて空蝉が言えばね
「本当にこの暑さは、どうなっているのでございましょう。息苦しくて仕方がございませんわ。私も失礼して十二単を脱がせていただきます」
とて言って、妹も上着ぬを脱ぎぬ。
「ほうれ御覧なさい。外の御格子まで開けたいぐらいですよ」
「まったく」
二人は碁など打たせ給いの様子、火近こう灯したり。その二人に近付く怪しい人影、母屋の中柱に音もなく忍び寄り、婦人から身を隠すように柱に側める人や、中の様子を探る。
男は我が心隠れるようにと息を潜め、まず目留め賜えれば、女は濃き青色の縞模様の綾の単衣重ねの肌着なめり。腰ひもも付けず、何かあらむ胸当ての上にそれを着て、頭付き細やかに小さき人の、物げ無き可愛いい女の姿ぞしたる。
顔などは、差し向いたらむ周りの人などにも愛嬌を振りまいて、わざと楽しく見ゆまじう、楽しく持て成したり。空蝉の手つき痩せ痩せにて細く、単衣重ねの袖の中に、痛う目立たぬよう引き隠しためり。
今一人は、東向きにて光源氏様の正面なれば、残る所なくまともに見ゆ。白き薄物の透き通るような単衣重ね、ふた藍色小袿立つもの、ないがしろに滑らせ着成して、無防備なようすなり。
小袿は紅の腰巻ひも引き結える際まで下して、胸露わに見えて暴賊人にて、あばずれ女のごとく持て成したり。
胸の乳房はいとう白く、おかしげにつぶつぶとはち切れるように肥えて、そぞろかなる背高き人の頭付き細く、額付きもの眉毛や目鼻立ちは鮮やかにくっきりと映す。
まみ、口付き、いと臼笑顔で愛嬌付き、人懐く笑いを誘うなどして、華やかなる容貌の形なり。
髪はいと房やかにて多く、長くは有らねど下がり端、肩の程好き前に垂らし、清げに、いとねじれけたる所もなくさらっと伸びて、子供っぽくおかしげなる魅力的な人と見えたり。
むべこそ厳格に教育する年齢にあらねど、『誰も指図できる親の世にではなくなった』とは思うらめと、奔放な振る舞いをおかしく見賜う。
「あら、私どうしたのでございましょう。笑い過ぎでございますね。義姉君が、私の罠にまんまと引っ掛かって石を置くものですから、もうおかしくて、おかしくて・・・」
「そうじゃ、笑い過ぎじゃ。ケチな一手を使いやがって、どう懲らしめてやろうぞ」
「もう手遅れでございます、義姉上」
「黙れ、黙れ、静かにせぬか」
「ほほほ・・・義姉上のあわてよう、がおかしくて、おなしくて・・・」
軒端荻は、心地ぞなお静かなる気持ちを添えばやと思せど、勝負に勝った喜びを押さえきれぬと、ふと見ゆる。利発な才なき淑女にはあるまじ行為でる。
碁打ち果てて、どちらの所有にも属さない目の結に差す渡り、心研げに機敏な判断力に見えて、極ぎわと言えば、
「さあどけ、この邪魔者の石め」と、はしゃぎながら取り払えば、奥の人は、いと静かに和めいて落ち着き、
「いで、いででで、いででで。待ち給えや、そこは陣地にこそ大事な場所にこそあらめ。この渡りの石を『根こそぎ囲うをこそ』とならめ。一歩前の手に戻りやがれ」
などと言えど、
「いでで、いてで、痛うござろう、姉上。さあ、どうする。この度は姉上が負けにけり。隅の石の所々、いでで、いでで。満々と罠に掛かりましたわいな、姉上。その悔しそうな顔、鏡に映してみせてやりたいものよ。じゃじゃじゃじゃーん」
二
「黙れ黙れ、勝負はまだ終わっておらぬ」
「いい加減にあきらめなされ」
軒端荻は指をかかめて折りながら、
「十、二十つ、三十つ、四十つ・・・」などと数うるさま、道後温泉の湯桁にも似て、たどたどしかる童の数えまじゆう見ゆ。少し品悪く、気後れしたりするほど意地悪なり。一方相手の空蝉は、
例しえなく貞淑な人妻として振る舞い、御袖で口元を覆いて隠し、爽やかに熟女のごとく見せねど、光源氏様が目をじっと見詰け観察し賜えれば、自ずから愛嬌を振りまく流し目の側女に見ゆ。
目少し腫れたる心地して眠たげで、鼻なども鮮やかなる艶やかな所が無う、しわもやつれたようにねびれて、夜更かしに疲れたのか、匂ほしき男の欲情を誘う色気の所も見えず、
「これが自分の恋した空蝉であったのか」
と、魅力がが全くありません。
言い立つなれば、悪ろき老婆に例え寄れる姿容貌を、いと痛う妖艶な人妻のように持て付けて装い、光源氏様が好まされる軒先萩よりは、見所のない女にあらむと、目留めつべき不愉快な様したり。
一方軒端荻は、賑わわしう華やかな愛嬌付きに振る舞いて、華々しくおかしげなるを、いよいよ勝ち誇りかに打ち解けて、笑いなどふざけそぼぶるれば、男を引き寄せる匂い多く見えて、 近くの柱に隠れて覗くさる方にも、いとおかしき魅力的な人ざまなり。
あわ付けし落ち着きのない女と思しながら、こまめならぬ女を一途に追い求めようとする御心は、これ燃え上がる炎のごとく思し、それを見詰める御目は、軒端荻に光を放つ思いにまじかりけり。
これまで見賜う限りの宮中の人は、かくこのように打ち解けたる自由奔放暮らしをする者はこの世になく、身分の高い者に引き繕い、醜い事を側めて見ぬふりをしたる、上辺をのみこそ多いのを見給え。
かく打ち解けたる伊予の介家の人々の、心を飾らぬ有様をかいま見などした思い出は、まだ目にし賜ざりつる事なれば、何心の策略も無う爽やかなる振る舞いは新鮮なり。
宮中の女房共もこのように素直な態度であったならばと、いと欲しく思いながら、久しうこのまま覗き見賜わま欲しきに
「奥方様、渡殿より小君がおいでです。急ぎの用事があるとか」
と、奥より耳打ち話を承った右近らしき女房が、二人の横に進み出て、床に頭を臥しながら申す。
「またよりによって、こんな夜更けに何の用事があるというのだ。大方『光源氏様が私に会いたがっている』とでも言うのだろう。厄介なものよのう」
空蝉は汗ばんだ顔を扇で仰ぎながら言いました。
「いいから通しなさい」
「かしこまりました」
連絡に来た女房は弱弱しい声で返事して奥へ出て行きました。代わりに小君が訪ねて来ます。
「姉上、まだ起きておいででしたとはようございました。光源氏様が・・・」
「ほうれごらんなさい、軒端萩どの。『光源氏様が御訪ねしたい」と言うのであろう』
空蝉は囲碁の相手の女に向かって目くばせしました」
「いいえ、もう光源氏様がこちらへおいでなのです。お会いして挨拶だけでもしたいのだと」
「なに、もうこちらへお越しだと。そんな馬鹿な、誰からもそのような連絡は受けて折らぬ」
「それが御忍びで参られたのです。せっかくですから姉上、一度お会いして下さい」
「そなたという奴はとんでもない手引きを・・・軒端の萩殿、こうしてはおられません。そなたは急いで供を従え、西の寝殿へ帰りなされ。光源氏様に見られでもしたら大変です。内側より厳重に差し木を止めて、一歩も外へ出てはなりませなぞえ」
「承知致しました」
言うが早いか、軒端の萩は急いで本殿を出て行きました。
「さあて小君、光源氏様には『姉は熱が出て、早くから休んでおります。今宵は誰ともお会いできません』と、伝えよ」
「でも・・・」
「何をしているのです。とにかくそう伝えよ」
「分かりました」
子君は不満ながらも渋々出て行きました。
三
光源氏様はまだ二人の碁の様子を見て居たかったのですが、残念ながら小君、御身を探しに出で来る心地すれば、仕方なしにそこを、やをら出で賜いぬ。
若君は再び元の、渡殿の戸口に寄り居賜えり。小君の取り計らいを成果はなかったと思いながらも、いとかたじけなしと思いて、
「空蝉との面会はどうなった」
と、お聞きになれば、
「例ならぬ先客の人はべりて碁など打たせはべれば、私など、え近うも寄せ付けはべらず。碁が終わりますと、熱があるとかで、今宵は早々と床に臥するそうでございます」
「さて今宵もや『帰してん』と、追い出そうとする。いと浅ましう辛うこそあれべけれ。やっとの思いで訪ねて来たと言うに」
と、のたえば、
「などて、どうしてか、先客を遠く西の彼方に帰りさせはべりなば、急いで自分事も西の寝所でたばかり、お部屋を奇麗に片付けはべりなん。珍しき香料など炊くなどしております」
と聞こゆ。
「さても部屋を奇麗に片付けたともなれば、新しく客を迎える準備をしてるまでのこと。さも麻呂に心がなびかしつべき景色にこそあらめ。童なれど、物事を判断すべき心映え、中々のものではないか。
人の心景色、良く見つべく深く読んでおると見える。誰も来なくなった静まれる夜を」と思すになりけり。
一方、空蝉の部屋に於いては、碁打ち果てつるその後の事であらむ。打ちぞよめく心地して、そこに居た人々、散り散りに離るる気配などする様子なり。光源氏様と小君はそこへ近づいて参りました。
「若君はいづくにおわしますにならむ。この御格子の留め金は差してん、開けようとしても開きません」
と言う下女房の声聞こゆ。
「光源氏様、どう致しましょう」
とて言って、外から止め金を鳴らすなり。
「しっ、静かにせぬか。夜は静まりぬなり。何としてでも中へ入りて、さらば、わしを中へ引き入れるべく空蝉にたばかれ」
とのたまう。
この子も、先に地方へ嫁いだ姉の妹、空蝉の御心は、たわむ所なく真面目立ちて貞操を重んじたれば、主を世話する女房の誰かにも言い合わせ、手引きする方なくて、逢引きは難しいと思うなり。
しかし、御命令とあらば、誰もが寝静まり人少なくならん折りに、光源氏様を入れ奉らんと思うなりけり。
「紀の守の妹、軒端の萩もこなた、空蝉と同じ部屋にあるか。我に少しかいま見せよ」
と、光源氏様がのたまえど、
「いかでか、どこにおわしますかさは分かりません。ここにはべらんと見えまする。入口の格子には几帳添えて、中を見せぬようにしはべり」
と聞こゆ。
「逆かし、惜しい事をした。先ほど見たばかりなのに、されども『もう居ないとは』と、おかしく思せど、『わしは今さっき見つ』とは知らせじ。のぞき見を恥ずかしく思す。
「空蝉よりも軒端の萩が愛おし」と思して、「早く会わねば夜更くるばかりぞ。朝になってしまうではないか」
などのふがいなさ、心配事の心もとなさのたまう。
こたみは正式に妻戸を叩きて空蝉を呼ぶ。運よく童見習いが戸を開けたのを良い事に中へ入る。みな人々、静まり寝にけり。
「おう、誰かと思ったら、見習いの君ではないか。助かった。今宵はこの障子口に麻呂は寝たらむ。麻呂が見張りをするゆえ、この扉は風吹き通させて、涼しくしてやる。奥で休め」
とて言って、御座の薄い畳広げてその上に臥す。空蝉側近の上女房、姉御達は東の廂に、いと運よくあまた集いて寝たるべし気配なり。
戸放ち去りつる童も、そなたの東廂に入りて姉御女房と共に臥しぬれば、入り口には誰もおらぬと思える。・・・とばかりに空寝して周りの様子伺うも静かなり。
月明かりが差す明かるき方、入り口に屏風広げて中を隠せば、光源氏様の影ほのかなるに、やをら静々と主を入れ奉る。
いかにぞ、屏風の内側に誰か見張りをする女房はおらぬかと、おこがましき事もこそ起らぬと思すに、いと慎ましく慎重になりけれど、周りは静かにて、何の警戒した様子も見当たらぬ。
光源氏様は小君が導くままに母屋に入りて、奥の空蝉の寝所へそっと音をたてぬように近づくなり。几帳の帷子の布を引き上げて、いとやをら静かに忍び入り賜うとすれど、皆静まれる夜の音の気配変わらず。
つづく
四
横に臥し近くで見賜えれば、相手の夜の御着の気配ほのぼのとして、柔らかなる腰巻の下いとの場所も知るかりけり。その糸を静かに引けば、結びはさらりとほどけて、布は開くなり。女は、
「ようこそ、良く忘れもせず来て下されました。私はずっと前から待っておったのです」
とばかり、忍び来賜うを嬉しきに思いなせど、怪しく夢のようなる心地に思えて、これも意識が心を離るる幻想の折りなき頃にて、眠りに心溶けたる入り口の境だに、中々寝られずなむ。
夜は覚め 昼は長めに 暮らされて 春は木の芽も いとなかりける
夜は目ざめ 昼は退屈 閉ざされて 春は芽吹きも いと無き暮らし
昼は人々の暮らしをのんびり眺め、夜は眠れぬ寝覚めがちなれば、この暮らし春ならむ季節に例えれば、木の芽もいと芽吹くことなく嘆かわしきに、碁打ちつる君、夢心地なり。
今宵は夢に現れたこなたに相手をしてと、今めかしく打ち語らいて、夢心地に男に侵される姿を想像して寝にけり。君は無抵抗の空蝉を抱いて本願を遂げにけり。
「さて女はこの事を知っているのか、夢でも見ているのか。それとも寝たふりをしているのか」
と、不思議に思す。
隣の部屋に行くと、若き人は何心なく空蝉との愛をしるべきもなく、いと良うまどろみ寝たるべし気配がする。光源氏様が御近付きになられますと、若き軒端の萩は掛かる男の気配、いと香ばしく打ち匂うて迫り来るに驚く。
顔もたげるに足元を伺い見れば、一重打ち掛けたる几帳の横の隙間に、暗けれど、打ち身じろき忍び寄る男の気配、いと著し。
「これぞ浅ましく、よくも女の寝所へ忍び込んだものだ」
と、覚えて、ともかくも思い分かれず逃れようと、やをらそっと起き出でて、涼しなる薄い単衣を一つ着て、その寝床を滑るように静かに引いて出でにけり。
君はその気配に御気付きにならず、軒端の萩の寝所に入り賜いて、だれも居なくなった床にただ一人臥したるを心安く、幸せに思す。
「ここでじっと待てば、若き女は戻ってくるやも」
と思す。ここには若い女の匂いが有り、程好い温もりある。残された上衣をじっと握り締める。
寝所の下手に目をやると、床張りの一段下に、二人ばかりぞ軒端の萩の侍女臥したる。寝所と侍女の部屋を隔てる几帳の絹を押しやりて、女房に寄り賜えるに、女どもは動かず。
軒端の萩の碁打ちたる有りし先ほどの気配よりは、物々しく脅えたように覚ゆれど、大して魅力的と思欲しくも依らずかし。いぎたなき口臭の匂いの様などぞ、怪しく変わり果て、ぶよぶよ太った女中女房など薄汚さも思えば、その気も失せにける。
ようよう我に返り、寝所の周りを見回らはし賜いて、浅ましく御身の愚かさに御気付き賜う。
「よくもこのような大胆なことをしでかしたものだ」
と、心やましけれど、人違え、下郎女房へたどり着きて見えんもおこがましく馬鹿げた行為に思えて、怪しく愚かな事と思うべし。
本意の人、紀伊守の妹を訪ね寄らむも、これほどかばかり逃れる心あめれば、
「危険な思いをしてまで夜這いに来てはみたが、甲斐無う無駄を起こしにこそ、ここにはそれほどの価値はないと思わめ」と思す。
つづく
五 最終回
しかし、
「かのおかしかりつる空蝉と軒端萩の、碁打ちつる魅力的な灯影の情景ならば、いかがせむ。二人を我が者とし、二条院へ連れて帰りたくないのか。無邪気な妹を、それでもあきらめて思いを遂げぬまま逃げ出すのか」
などと未練に思しなさるも、悪ろき御心、浅ましく軽率になめりかし。
空蝉はようよう目覚めて、光源氏様が忍び込んで襲われた気配、いと苦痛に覚えず浅ましきに、あきれたる表情の景色にて、何の代償を求める策略も、心深く相手を屈服させるる野心の、いと欲しき用意の考えもなし。ただ、止めどもなく涙は流れ落ちるばかりである。
世の中をまだ知らぬ軒端の萩ほどよりは、さればみ道理をわきまえたる方にて、あえかにも慌てず泣き叫んだり、警護の者を呼んだりせず、物事に思い惑わず冷静に行動する。
光源氏様は、ただひたすら涙を落とし忍び泣く空蝉を御覧あそばして、
「我は今ここにおる。そんなに悲しまないで賜うれ。責任は私が取る」
とも知らせ慰めじと思欲せど、
寝て気付かねまま襲われたとなれば、相手がわしだとは知るよしもない。いかにして自分の名誉を保てるか。重臣どもに咎められでもしたらどうしよう。このまま証拠を見せぬように、姿を隠した方が良いのか』
などと、掛かる不名誉な事にぞと、後々の事に思いを巡らし、慎重なさむも当然な事なり。
我がために何の得策事にもならねど、あの辛き人、空蝉のあながちに悲しみを考えるならば、
「暖かく慰め、秘密に空蝉の名を包み隠さむも必要なり。伊予の介の妻もなれば上の上のいい玉ではないか」とも思す。
さすがに悲しむ人妻を見て愛おしければ、恥を忍んで空蝉の前に姿を現して、度々の御方違えに事付け賜いし、迷惑を掛けたさまを、
「本当に迷惑を掛けてしまった。わしはそなたが好きてたまらなかったのだ」
とて言って、いと良う言いなし賜う。
寝所に辿らむ襲われた人は、相手が身分の高い高貴な方で逆らえないと心得つべけれど、まだいと若き頼りにならぬ若造の心地に、
「見ればまだ若き子供のくせに、さこそ良ううぬ惚れやがって、差し過ぎたる大人を襲うとはけしからん」
と思うやうなれど、相手の一途な思いに、得しとも悪くとも思い分けかれず、憎しとの思いはなけれど、帝王様の御子に御心留まるべきゆえの価値も無き心地して、なをかの憂れたき腹立たしい人の心を、末恐ろしくいみじく思す、
「いずくから這い紛れてここへ来たらむ。若君を固くなし、愚か者と思いたらむ人は大勢いましょうぞ。かく執念深き人は『世間ではありがたきものを』と思すにしても、私は納得できません」
などと、空蝉はあや憎くに紛れ給う怒りが出でられ給う。しかし、
この人の生半端な心ではなく、若やかなる情熱の気配も哀れなれば、さすがに空蝉は愛に溺れて情け情けしく、
「二度とこのような軽はずみな事はなさいませんように」
と、光源氏様に約束を契り置かせ給う。
「わしとそなたの関係を、世間の人が知りたる事よりも、そなたがかようなる悲しみに明け暮れるは、哀れも添う被害者の事と笑われなむ。昔人も言いける。被害者として笑われるよりは、合い好きたる人と思い給えよ。
包むことなく好きにしも演技あらねば、身ながら心に燃え任すまじく惚れた振りをしなければ、世間をうらやましがらせる二人として難ありける。努めて楽しく明るく振舞えば、世間は呆れて目をそむける。
また去るべき伊予の介の人々も、許されじ姦淫かしと、兼ねてより胸痛く思いなん。努めて明るく振舞われよ。わしもそなたの事は気に留めておく。忘れで時が来るのを待ち給えよ」
などと言い置きて、かの忍び込んだ時に脱ぎ捨て、滑らしたると見ゆる空蝉の薄衣を、取りて部屋を出で賜いぬ。
子君近こう入り口に臥したるを叩き起こし賜えれば、君は姉君に苦しい思いをさせてしまったと、後ろめたう思いつつ、うとうとと寝ければ、ふと叩き起こされて驚きぬ。
眠そうな目をして戸をやをら静かに押し開くるに、廂の外に人影が二人ほど現れて驚きぬ。老いたる姉御達の頭の声にて、
「あれは誰そ」
と、驚ろ驚ろしく付き人に問う。
「さあ誰でございましょう。私もまったく存じ上げません」
と随身の女房が答ゆれば、小君は返す言葉もなく後ろめたく思いて、扉の内側から、
「果てどうしたものか、何と説明すれば良いのだろう」
とて言って小君は困りはてぬ。
瞬時に考えた末、小君は返事するのもわずらしくて、身内の自分であることを見せ付けるように、
「麻呂ぞ」
と、堂々と姿を現して答う。
「夜中に子はなぞと、禁制を破って女の寝所に歩りきかせ給う」と逆しがりて怒り、入り口を塞ぐように扉の外様に来る。
姉御達が中を覗こうとすると、その咎め、いと憎くて、
「中を覗き見するにあらず。控えなされ。伊予の介の北の方、空蝉様の弟、小君であるぞ。しかと確かめよ。ここ元に出ずるぞ」
とて言って、中が見えぬように、老婆の前に立ち塞がり、源氏の君を扉の陰に押し出で奉るに、
曙近き月が明々と運悪く隈なく差し出でて、上衣を持った光源氏様を映し出でたる。ふと人影見えれば、
「まだ他におわするは誰そ」と問う。
「民部省の娘、乙女なめり。姉君が小袖を汚したゆえ、洗いに行く処でござる。別に怪しうはあらぬ見習い乙女の、ぼおーっとした丈立ちかな。床も汚れておりましたので、拭き掃除も招きなむ。そなた、早く着物を届けぬか。気が利かぬ大女ののろまめ」
と言う。
「本当でございますか」
「さよう。丈高き人の行動は鈍く、何事も遅くていらいらしますぞよ。みるからに不格好ではございませぬか。ははは・・・・」
などと、小君は丈高き人の、常に笑わるる無様な姿を言う成りけり。
老い人、姉御達は、これ民部省の乙女と共に連ねて歩きけると思いて、
「今、ただ今二人そろって、わしの前をに立ち並び給いなむ。どれほど不格好な女御かみてやろうではないか。それにしても男のような、ごつごつした
女御よのう。うをっ、ほほほ・・・」
などと言う言う。
光源氏様は空蝉の小袖を裏返し着て、自分の服を手に持って何とか体裁を整えたものの、いつ正体がばれぬとも心配で、見習いが上人に気遣いするように、低い姿勢で顔を見られない様にいそいそと出て行こうとしました。
我もこの戸より出でて来。老婆の高笑いは侘しけれど、えはた無礼を押し返さで、渡殿の扉口に介添いて身を隠れ立ち賜えれば、再び姉御達はこの乙女の近くに差し寄りて、
「民部省の乙女は、今宵は上の寝殿にやさぶらい給い、空蝉様の用事を仰せ遣い奉るとな。不思議な物よのう。この乙女は一昨日より腹を病みて苦しがり、いと割りなく役に立たねば、下屋の寝床に臥しはべりつるを。
それでも人少な成りと、無理やり召ししかば、そうであったか。昨夜参り北の様方へ上りしかど、あの時は苦しくてなお、え耐えまじく立っていられなくなむ。気の毒に、気の毒に」
と憂う。
「申し訳ありません」
などど、応えも聞かで、
「あなハラハラ、自分の正体がばれるのを恐れ、お腹が締め付けられる音が今聞こえん」
とて言いながら通り過ぎぬるに、光源氏様は空蝉の寝所を辛うじて出で賜う。
なお掛かる源氏の君の歩きは軽々しくて、空蝉様にお仕えする女房として見えまじく危ぶかりけりと、なかなか反省なさらぬようす。いよいよこの先が思しやられる姿、懲りぬべし。懲りぬべし。
その夜の明け方、小君は光源氏様を乗せた御車の尻にて同乗し、二条院へにおわしまし着きぬ。軒端の荻の有様をのたまいて、
「幼かりけり。男が尊厳を冒して女を訪ねたと言うに、床を同じゆうはせずとも、話の相手ぐらいしても良かったのではないか。そんなに嫌いなら、こっちの方が狙い下げだ」
と淡め賜いて腹を立て、かの人の心を爪弾きをしつつ、未練がましく恨み賜う。
「義理の妹君は母親を早く亡くされて、甘やかされて育ちなむ。私の姉君は後妻ゆえ、厳しく教育できないのです」
「それにしても姉御達の態度はどうじゃ。わしを馬鹿にしおって。帝の子と知りながら馬鹿にしたのじゃろう」
「そうではございません。姉御達は背が低いゆえ、丈高き人に嫉妬しているのです。下屋の女房が憎いがゆえ馬鹿にするのです」
「それにしても腹が立つ。何か仕返しをしてやらなければ」
などと、怒りをぶつけるだけで、愛おしゆうて恋しく思うものも、え、少しも聞こえず。
「お気を静めて下さいませ。軒端荻はまだ子供なのです」
「いと深うこうも憎み給うべかめれば、身も浮く怒りが込み上げて、じっと座っていても息も切れ果てぬ。などか、どうしてよそ者と扱うにしても、
『何時までもおそばに居とうございます』
などど、お世辞でも懐かしき親しみの答えばかり述べて、優しくするべきであろう。人を見て逃げ出すばかりは、し給うまじき作法なり。このわしを伊予の介に劣りける身分との思いこそ侘しけれ」
などと、心付きなしの無礼者と思いてのたまう。
先ほど有りつる、かの軒端の荻の脱ぎ滑らしたる小袿を人恋しく思い、香りを懐かしく思いながら、さすがに人目に見られぬように御衣の下に引き入れて、大殿に籠れり。
子君を御前に臥せさせて、よろづに恨み言を長々と並べ立てて怒りをぶつけ、かつ一方では、空蝉と軒端荻の暮らしについて問い賜い、未練がましく語らい賜う。
「あ児等は父と母君を早くに亡くし、らうたき身なりになりけれど、辛き身の上のゆかりにこそと絆が深まり、互いへの思いは睦まじけれ。姉君への思い分かるようなきがする」
と、豆やかに二人の心境を思い、のたまう。空蝉と小君と軒端の荻との兄弟姉妹の愛、なかなか踏み込めず、いと侘しいと思いたり。
しばし寝所で打ち休み賜えど、寝られ賜わず。今の心情を吐き出すかのように御すずり急ぎ召して、差し映えたる上質紙の御文にあらず、懐より取り出でたる畳紙に、手習いのように乱雑に書き、思いのままにならない軒端の荻をすさび、お気持ちを慰め賜う。
空蝉の 身をかへてける 木のもとに なお人柄の 懐かしきかな
空蝉の 身を振り返る 我の目に なお人柄の 懐かしきかな
と書き賜えるを、
「これが今のわしの心情だ。どれほど割り切れぬ思いをしているのか、判ろうはずもあるまい」と、小君にお渡し賜えれば、
「申し訳ございません」と、その御文を読みながら答え、君はそれを懐に引き入れて持たれり。
「かの人も如何に思うらん」
と、光源氏様は愛おしく思いけれど、方々の世間体を思ほし返し賜えれば、それ以上何の御言づてもなし。
かの軒端の荻が脱ぎ捨てた薄衣は、小袿の、いと懐かしく人香に染める体臭の薫りを身近く馴らして、懐かしく見い賜えり。
小君、かしこき姉君の寝殿に行きたれば、姉君待ち付けて、いみじくこうのたまう。
「そなた達の浅ましかりし仕打ちに、とにかくこうも紛らわしても、腹立たしく思えてならぬ。人の思いけむ事、熱意があればこそ去り所なきに『いと宿命となむ』と思えとは割りなき。
いとこうも心幼き者を利用するとは、かつ一方の光源氏様は、いかに思欲し、何をするらん。利用するだけ利用して、捨てられるかも知れぬぞえ」
とて言って、少年を恥ずかしめ給う。
子君は右左に顔を振り、姉君の御言葉に苦しく思えど、何の言い訳もできず、かの光源氏様が御手習いのように書きすさびたる畳紙を、泣きながら懐より取り出でたり。
空蝉は、いかがわしい御手紙をの受け取りを拒んだものの、さすがに多少の未練もありければ、その御文を取りて見給う。 かの裳の抜け殻となった薄衣を、取りに来させるような御文を、
鈴鹿山 伊勢をの海女の 棄て衣 塩馴れたりと 人や見るらむ
鈴鹿山 伊勢方海女の 棄て衣 取りに来いとも 人や見るらむ
などの藤原伊尹の和歌を思い浮かべ、
『いかに伊勢をの海女の塩馴れて、使い勝手が良い薄衣であったか』など思うもただならず、いとよろずに様々な事を思い出して、光源氏様が持ち去った薄衣の事を、未練がましく取り返そうと思し乱れたり。
西の軒端の荻の君も、光源氏様にそっけなく対応したことを、物恥ずかしき心地して、小君からの知らせがどのようになったのか心配になり、浮橋を渡り給いにけり。
光源氏様の御文は、また知る人も無きことなれば、時々義姉様の戸棚から取り出でて、人知れず打ち眺めていたり。時々光源氏様が忍びで参られたことを思い出して、ほのぼのした恋を懐かしく思いたり。
「薄衣を持ってこい」
とて言えば光源氏様を招くことになり、招かねば衣は取り返せぬ。空蝉は光源氏様の仕打ちに割り切れなく思い給う。
その後、小君が光源氏様の元へ渡り歩く様子につけても、小君からは何の音沙汰もなく、衣の事を考えれば胸蓋がれど、何の御消息もなし。
光源氏様の仕打ちを浅ましと思い得る味方もなくて、嘆きされたる心にもの、哀れなる気の毒な方と思うべし。つれなき人の栄華も、さこそ報いを受けて沈むれ。
いと浅はかにも思えあらむ空蝉の御気色を、有りしながらの我が身ならばと、私こと紫式部は御気の毒に思います。
空蝉は取り返すものとはならねど、いつか自分の気持ちが伝わるのではないかと
空蝉の 羽に置く露の 木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな
空蝉の 羽に照る光 木隠れて 忍び忍びに 泣く涙かな
などと、綴らせ給う。空蝉の思い
蝉の羽の 夜の衣は 薄けれど 移り香濃くも 匂いぬるかな
蝉の羽の 夜の衣は 薄けれど 願いは濃くも 匂いぬるかな
古今和歌集の雑上友則の気持ちと同じだったと思います。(式部)
空蝉・方違えの巻 おわり
まずくても最後まで読んでいただけるとうれしいです。
源氏物語は再開します。




