かってに源氏物語 第六・末摘花編 第十巻賢木編後半(四十一~最終)
末摘花とはどんな女性はで、どんな展開が始まるのでしょう。
楽しみです。
結局は光源氏様に捨てられる可哀そうな女?
さてさて・・・・
誠に申し訳ございませんが、この末摘花の後半に 第十巻賢木編後半(四十一~五十五)を加えさせていただきました。一編の文字数制限上、申し訳ございません。
かってに源氏物語
第六巻 末摘花編
原作者 紫式部
古語・現代語同時訳 上鑪幸雄
一
思えども なお明かざりし 夕顔の 露に遅れし 心地を・・・
思えども なお明かざりし 夕顔の 闇に遅れし 罠の心地を
年月重ね御気持ち古れど、光源氏様は夕顔との出会いを思し忘れず。今でもあの悲しい事件をぼんやりと思い出すのでした。
『あの者は毒殺によって殺されたのではないか。なぜあの心地よい夕暮れ時に眠ってしまったのだろう。腑に落ちぬ。もしかしたら毒殺?まさか・・・
それでも我は眠り、夕顔の意識がもどらなかった。あれは何故だろう。毒が盛られたのか。まさか、毒薬と眠り薬ならば、食事を運んだのは惟光。まさか惟光が関係したとは思えない。
隠れ忍んで尋ねた五条院の屋敷のはずだったのに・・・。だが目覚めたときは何故か近衛府の兵が大勢いた。誰があのような多くの兵を寄越したのだろう。
金縛りのような夢心地の中で、六条院の御息所様や頭の中将が居たような気がする。あれは何故だ。夕顔の死には御息所様と頭の中将が関わっているのか。それに惟光も仲間なのか。まさかそんなことをするはずはない。』
十八歳のおぼろ月の夕暮れ、光源氏様が庭をぼ、んやり庭眺めておられますと、
「若君、何をぼんやりお考えなのです。紫の上が『お食事の準備が出来ました』と呼んでおられますよ」
と、惟光が声をかけました。
「いや、ふと夕顔の事を思い出したのだ」
光源氏様が薄れ行く木立の影をぼんやり眺めながら御返事をなされますと、
「え?」
と、惟光は目を吊り上げて驚いた表情をしました、
「そう驚かずとも良い。あれが死んだのは、こんな夕暮れ時だった。今でも思い出すのだ。あけは物の怪のせいではなく、誰かに殺されたのではあるまいかと」
「若君、そのことはもう忘れて下さいまし。もう昔の話です。幾ら考えても夕顔様は戻って来ません。十分供養なさったではございませぬか。せっかく体調も御回復なされたのに毒でございますよ」
「それはそうだが、あの時はそなたに十分世話になった。夕顔が死んだ場所に私が居たと世間に知れたらどうなったことか。絶望の淵を良くそなたが二条院へ連れ帰ってくれた。葬式の手配までしてもろうた。そなたには礼の尽くしようがない」
「何をおっしゃられますか。家来なら当然の事でございます。感謝の気持ちが御ありでしたら、もうその事は忘れて下さいまし。御体に毒でございますよ」
「そうだな」
「さあ西の対に、早く行かれませ。紫様が御待ちかねでございますよ」
光源氏様と惟光は、世間話をあれこれしながら歩いて行きました。
ここも、そこかしこも、光源氏様に馴染みの深い女君は、皆が気安く打ち解けぬ限りの自尊心の強い女ばかりで、気色ばみ、我を奴隷のごとく扱う心、奥底深き相性の悪い方々の御挑み増しさに、君は飽き飽きしておりました。
それに引き換え夕顔は、よそよそしく振舞いながらも、け近く打ち解けたりして心休まる思いが仕賜うも、哀れにも、それに似る者無う、今さら夕顔の温かさを恋しく思欲え賜う。
二
いかであれほどの大事件を起こしながら、事々しき反省の覚えなく、いとらうたげ無らむ愛しいこの人の覚えは、慎ましきことに無なからむ。
『またもや別の女を見付けて自分のものにしがな』と、
懲りずに思し渡れば、少しゆゑ付きて風流に聞こゆる渡りは、世間の御耳に留め賜わぬ隈なき人の目にさらされて、
『さてもや、又もや女を苦しめたか』と、
思しよるばかりの批判の気配ある当りにこそ、桐壺帝や上達部からのひと下り苦言もほのめかし賜うめるに、なかなか光源氏様のなすべきことは、世間の批判の流れになびき聞こえず、ますます人気者になるばかりです。
もし一歩退いて離れて見たるは、をさをさ喜んでばかりあるまじきぞ。いと世間の目、馴れたるやも困り果てるばかり。
つれなう人を突き放す心強き女には、たとしえようなう情けの心を贈るる小まめやかさなど、余り物事の道理のほどを知らぬように献身的で、さてしも相手を退屈させないほど楽しく過ぐし果てるす。
「よせばよいのに」
と思う相手にも、なごり惜しみなく屈ず惚れて、なほなほしき卑しい身分の方に的が定まり、献身的に尽くすなどするものもあれば、馬鹿馬鹿しくてのたまわしつる恋も多かりけり。紫式部の目には、
「この方は阿保ではないか」と思う事もあります。
かの紀伊守家で出会った空蝉を、物の折々には、ねたうましく思い出ずす。妹の軒端の荻の言の葉も、去りぬべき風の便りに噂にある時は、退屈な胸を驚かし賜う折りもあるべしと思われる。
灯影の乱れたりし空蝉と軒端の荻の薄着姿の有様は、またさような場面に巡り合いても、見ま欲しく思す。大方光源氏様は、過去の女の名残りを懐かしみ、今は無き者の忘れ去るべきをぞえ、仕賜わざりける未練がましい男なり。
紫式部の目には、いつになったら安心できる大人になるのか、気掛かりではありませぬ。さてさて・・・
三
左衛門長官の乳母とて、光源氏様を育てた大弐の乳母の差し次補佐役と思いたる同僚が娘、宮中の大輔命婦とて、内裏でさぶらう帝王様付きの女官なり。父親は若武通りで育った皇族の血筋の人で、兵部省大輔なる男の娘なりけり。
いと痛う色好める若人にて有りけるを、源氏の君にも話し相手に召し使いなど承り仕賜う。母は乳母の役を退いた後、今は筑前の守の夫婦にて地方へ下りければ、二条当たりの父君の元を里にして、非番の休日を過ごし、内裏へ行き通う。
その照子と言う命婦が言うに、
「私の知り合いとて、故常陸三国の国守が娘、親王の末に儲けられて、いみじう大切に育てられたものの、父君の亡き今は家も没落して、悲しゅうかしづき賜いし、誰も世話する後身の無い御娘あり。
光源氏様に向いておられますと思いますゆえ、何とかなりませぬか。生活に困り果てて心細く、この世に残りたるを、可哀そうで見ておられません」
とて物のついでに語り聞こえれば、
「あれの事や。良う思いだした。まだ世話する男が見つからぬのか」
とて言って、御心に留めて問い聞き賜う。
「世話も何も、光源氏様か頭の中将様しか御世話する者はおりません。惟光や草尾には身分が高過ぎますゆえ」
「お前も好きだのお」
と言いかけた所で、紫宸殿の廊下で控えていた典侍が振り向いて、尖った狐のようなきつい目をきらりと光らせたので、
「光源氏様、この話は後に致しましょう。人目がございます」
と命婦が警戒したれば、光源氏様は、
「分った」
とて言って、立ち去って行きました。
この話はそれっきりになっていたのですが、それからひと月ほど過ぎて、光源氏様は再び典侍の隣に立っている兵部省大舗が娘、照子を目にしてしまいました。
「おおう、大舗が娘。良い所で会うた。そなたの母君は、筑前守と共に九州へ下ったと聞いておるが、その後達者で御暮しか」
桐壺帝への謁見を終えた光源氏様は、御部屋の外でかしづき、うつむき加減に頭を垂れている照子に目が留まりました。役目上、威厳を保ち厳格な態度を見せているものの、本来の心の底から込み上げる笑顔を隠せないで、光源氏様の御姿を盗み見しております。
「まあ若君様、母をお気に掛けて下さりましてありがとうございます。つい先日、母君からの御文が届いたばかりで、無事に赴任し、元気で暮らしているとの事でございます。
光源氏様の御病気が快復したのか、気に掛けているとの事でございます」
「それは有難い。幼少の頃、そなたの乳母には大変世話になった。息災で御暮しなら何よりじゃ」
「有難く存じます。うふふふふ・・・」
「何がおかしい」
「光源氏様、あの御話を、その後どうなったのかねお気になりませんか」
「待て、典侍が聞いておるぞ。帝王様の耳にでもは入ったら大変じゃ。典侍、照子の母、乳母がどうなっておるのか、気掛かりじゃ詳しく知りたい。しばらく借りても良いか」
光源氏様は高い身分なので、断れないと知りながらそう言いました。
「承知致しました。なるべく手短になさって下さいませ。ここは宮殿でございます」
「わかつておる。さあ、こっちへ来い」
光源氏様は照れて笑っている女官の手を強引に引いて行きました。帝王様が日頃御暮しになる清涼殿から、大切な儀式を行う紫宸殿への渡殿に連れ出すと、
「その末摘花という娘、それほどの美人か」
と、光源氏様は御尋ねになられました。
「それはもう、飛びっきりの上玉でございます。のんびりしておられましては、頭の中将様に先を越されますぞえ」
「何、頭の中将も狙っておるのか。よほど良いおなごらしい。どんな奴じゃ」
光源氏様は焦っている御様子で、命婦の手を今にも掴もうとしております。
「おっとりとした温かい心映え、ふくよかな柔らかい肌は、男をうっとりとさせるとか。まるで天女の容貌形など、空を舞い上がる程の噂でございますよ。何しろ奥深き方は、私も噂に聞くだけで、詳しくは知りはべらず。
飼い潜め人、私とは隣人でありながら、疎うお付き合い持て成し給えば、さるべき月明かりの宵など覗き給いてようすを伺えば、物越しにてぞ見た事を光源氏様に語らいはべる。
今は珍しい七弦琴をぞ掻き鳴らし、懐かしき古い歌をぞ語らい給える人と思える」
と、源氏の君の耳に聞こゆれば、まさに理想の教養深き姫君と思えて・・・
四
「琴を奏でながら懐かしき李白の詩を読み上げるのか。これはなかなかの教養人らしい。麻呂が上等の酒を用意すれば、これぞまさしく風流人の、三つの友にて宵を楽しく過ごすというもの。今ひと草酒と肴を用立てあらむ」
とて言って、更に、
「我にそのおなごの話をもっと詳しく知らせよ。父君親王の知識を、左様な才能の方に、いと由し付きて優雅なものに学び仕給うけれは゛押しなべて普通の手使いにはあらじ。なかなかの技量の持ち主であらむ」
と身を低くして、命婦の目を見上げながら語らい賜う。
「左様に理想の女だと聞こし召すばかりには限りはべらず、案外平凡な女にやあらむかも。少し身を引いて御考え下さりませ」
と言えば。源氏の君、
「痛う妖艶な有様がますます景色映み、情欲を誘い増しばや。この頃のおぼろ月夜に忍びて麻呂の物とせむ。命婦も案内役にまかり居出よ」
とのたまえば、命婦、
「わずらわし」と思えど、内裏渡りの平穏なもの、のどやかなる春の退屈なつれづれに、『これは多少刺激になる』と思いて、興味深々にまかり居出ぬ。
末摘花の父君は、ここの先妻の家に住まず、他の後妻の家にぞに住みける。末摘花が住むこの家には時々ぞ通いける。ゆえに家は荒れ果てているなり。
兵部省大舗命婦は事情も同じで、父が住む継母の辺りには住みも寄り付かず、末摘花の御辺りを親しく睦びて、同じ年頃で同じ境遇にて気が合うのか、ここには度々来るなりける。
のたまいしもしるく、源氏の君の覗き趣味を即座に実行して、十六夜の月、おかしき程に明々と京の街を照らして、胸躍るままに末摘花の御屋敷におわしたり。
「いと片腹痛き不謹慎な業かな。物の寝沈むべき夜の有様に、わざわざ夜這いにもはべらざるめるに、ゆっくりと御休みになさった方がよろしいかと存じまする。若君もなかなか好き者でございますね」
と聞こゆれど、
「なおあなた、あちらへ渡りて、ただ一声の素晴らしい歌も催し、姫君の演奏する琴の音を聞こえ目でよ。空しくてこのままでは帰らむが妬み、苦しかるべきを。人目御会いできぬとは残念じゃ」
と、のたまえば、
「それほどの御思いなされるならば、ひと先ずは私の御部屋へ参りなされ。姫君も急な訪問では御困りでございましょう」
と命婦は、親王邸内に設けた打ち解けたるご自分の住み家、小部屋に源氏の君を据え奉りて、末摘花のようすを探りに居出ぬ。
「少し姫君を持ち上げ過ぎた業かな。源氏の君が末摘花の醜態を御知りになられたら、どれほど激怒なされるだろう」
と、後ろめたく、それでも光源氏様の援助が受けられるならば『かたじけなし』と思えど、
肝心の末摘花は全く無頓着で、日頃寝泊まりする寝殿に参りたれば、宵も過ぎたと言うに、廊下に面した格子は開けっ放しさながら、庭の梅の香おり、おかしきを見入り居で出して、のんびりもの仕賜う。
「姫様、不用心でございます。暗くなる前に戸締りなさいませ。このように無頓着では、良家の娘とは思われません」
「そうかえ、わらわは至って平気ゆえ。わらわを襲う物好きな男などおらぬわ」
姫君は上衣も付けず、袿の裾は乱れたままになっております。
「それが姫様、源氏の君が末摘花様にひと目御会いしたいと参ったのでございます。取り急ぎ御支度をなさいませ。琴の音色が聞きたいそうでございます」
「あれえー、これはどうしたものか。そんなの話に聞いておらぬぞえ。命婦よ、わらわはどうしたらええのか」
末摘花は慌てて身の回りに散かった衣服類を探し始めます。
「もう困った御人ですこと。あれほど急な来客があるかも分からぬので『普段から身支度はきちんとなさいませ』と、言い聞かせておいたと言うに」
それでも命婦は『良き折りかな』と思いて、
「御琴の音色、いかに世の人に勝り、演奏はべらむと思い、末摘花様を見に来賜えらるる。暖かく気候も良うなられましたので、夜の景色に誘われ、こちらへはべりて来なむ。
心あわただしき、すぐ実行なさる若君の思い立った性分を止められぬる居出入りに、え承らぬこそ口惜しけれ。光源氏様と親しく成れる絶好の機会でございます」
と言えば、
「その妙な噂を聞き知る人こそ哀れなれ。私の琴はまだ物を語らぬ雑音ぞえ。桃しき宮中に行き交う人の、何気なく聞くばかりやは、大して耳障りでもなかろうに」
とて言って、今にも逃げ出したがるようす。
「姫様、今さら後へ引く事はできませぬぞえ。姫様の生活の心配をして連れて参ったのでございます。普段の通り、私が何気なく聞いていると思いて弾き語りをなさって下さいまし。
光源氏様とて、それほど琴に詳しくはあるまいに。そうでないと、私の立場がございません」
「わかった」
とて言って、親王の娘が光源氏様を召し寄するも、あいなう、命婦は、
『あれは変音の調べだつたのではなく、唯の下手くそな練習だったのか』と思い知らされて、
『光源氏様はいかが聞き賜わむ』と、胸つぶれる。
五
衣服を正装の十二単衣に着替えた末摘花は、南廂の格子戸はそのままに開け放ち、梅の香りが漂う庭近くに琴を持ち寄り、ほのかに掻き鳴らし給う。春の暖かさは心地良くて、かがり火が梅を照らして、琴の音はおかしう聞こゆ。
何ばかりか深き手ほどき受けた訳にならねど、源氏の君が弾き鳴らす琵琶とは、物の音柄に筋の異なるものなれば、来客の耳にも聞きにくく耳障りにも思されず、
『余の知らぬ新しき調べもあるのかな』と思す。
「いと痛う荒れ渡りて寂しき所に、さほどばかりの姫人の、古めかしう所責く家に堂々として、何ゆえ賢こ付き家に据え付けたりけむ。華やいだ昔の名残りなく、こうした美しい姫君を、世の中は如何に思欲し取り残す事になからむ。人の宿命とは残酷なもの。
かようの所にこそは、昔物語にも現れる王子様が姫を救い出す、哀れなる恋物語の事どもも、有りけれなどと思い続けても、物や、今こそ姫に言い寄らまし、そうでもしないと恋物語にならぬ」
と光源氏様は思せど、姫君が、
「打ち付けに突然訪ねてや、軽率だぞえ」
と思さむと、源氏の君は追い返されるのも心恥ずかしくて、心を落ち着かせようと安らい自重し賜う。
命婦は才覚えある機転の利く者にて、痛う下手くそな琴の調べを、耳馴らさせ聞かせ奉らじと思いければ、
「明かりを暗くして、曇りがちに過ごしはべるめり。琴の音も小さくして、ほのかに聞こえさせるべき。客人の光源氏様が御近くへ来むと思いはべりつる。いと悲嘆顔にものこそして、迷惑そうに振舞いなされ。 今は心のどかに落ち着きを。御格子の外へ、客人をお連れせなむ」
とて言って、痛うも策略をそそのかさでて、命婦が自分の部屋に帰りたれば、
「なかなかなる腕の程にても、何故調べを止めぬるかな。もう少し聞きたう思いしを。上手か下手かもの聞き分くるほどにもあらで。もう少し聞かせばやと願う。妬ましう残念じゃ」
と、源氏の君はのたまう。命婦は源氏の君の腑に落ちぬ姿を『おかし』と、思したり。
「同じ調べを聞くは、け近き程の所へ案内し、立ち入り聞かせよ」
と、のたまえど、命婦は源氏の君の疑わしい探りの気配を心憎くて『いい加減になされまし』と思えば、
「いでや、この程度になされまし。いと微かなる有様に、思いは積もり楽しみも増すと言うもの。何もかも一度に知り過ぎてては恋の思い消えて、心苦しげにがっかり物仕賜うめるを。これ以上は、後ろめたき有様にや」
と言えば
「げに左様もあること。にわかに御尋ねして、我も姫人も打ち解けて語らうべき人のきわはきわと、分別をつけるべきこそあれ」
などと、哀れに思さる人の遠慮の御ほどなれば、
「なお左様の再会の景色を求めたり。『いずれまた御尋ねします』とほのめかせ」
と、語らい賜う。
光源氏様はまだ名残り惜しいと少し未練も残っておりましたが、少しかいま見た姫君のようすが『腑に落ちぬ』と、多少疑ってもおりました。
「ここは少し様子を見て、相手の素性を探らねば」と思い、
「まだ契り賜える親密な方でやあらむ」
と諦めて、いと忍びて帰り賜う。光源氏様の立ち去った命婦の小部屋は、梅の香とはまた違った、ほのかな香料の薫りが漂っています。
光源氏様の立ち去る姿を見届けた命婦は、急いで末摘花の寝殿へ向かいました。
「『上の方が、まめにこちらへ通っておわします。困った事です』と、他人に持て悩み聞こえさせ賜うこそ、自慢話になります。末摘花様の風格が上がると言うもの。
世間の人々が、
『この都に絶世の美女が居るらしい』と、おかしう思う給えらるるように、折々機会を御作りはべれ。そうなされれば、末摘花様は京の都で『一番の美人』たと評判になられます。
かやうのような御やつれ姿を光源氏様に見られたら、いかで失望するかは、御覧じ付けむ。お気を付けあそばしませ」
と、聞こゆれば、末摘花は立ち振り返り打ち笑いて、
「この人の言わむ理想の女のように、咎めな品行の悪い行動をしない女はそう多くはないぞえ。ほとんど女は醜さを表されそ。これを仇仇しき恥な振る舞いと言わば、女の有様は窮屈で苦しからむ」
とのたまえば、命婦は、
「末摘花様も言い分も判らぬでもない。余り色めいたり、上品に振舞いても、末摘花様の良さが損なわれるか」
と思して、折々かうのたまう苦言を恥ずかしと思いて、それ以上は物も言わず。ただ庭の梅から吹き抜ける心地よい風が、二人を幸せな気分にさせおります。二人の間は、いつまでも沈黙が続きました
六
それから幾日か過ぎて、光源氏様はわずかな供を従えて末摘花の屋敷へ立ち寄りました。夕暮れの二条通りはまだ人の気配多くて、すこし人目も気になったのでございますが、幸い末摘花の正門は小路の奥にあります。
御車から降り賜うに、
『寝殿の方へ人の気配聞くやも』と思して、やおら静かに立ち屋敷を覗き賜う。竹の笹、透垣のただ少し、正門へ折れたる隠れ空き地の方に進み立ち寄り賜うに、元より門の脇に立ちて覗ける男ありける。
「誰ならむ。末摘花に心掛けたる好き者、他にもありけり」と思して、小路の角に退き、蔭に隠れて突き立ち覗き賜えば、頭の中将なりけり。
(源氏物語絵巻参照)
この日、夕つ方、内裏より勤めを終えて、二人もろとも宮殿の外へまかり出賜いけるを思い出す。
「さらばじゃ」と、さりげなく分かれたものの、それぞれは、
やがて左大臣の大殿にも寄らず、二条院にも現れなで引き別れ賜いけるを、桐壺帝の使者は偶然目に仕給う。
「いず地ならむ。ただならで怪しい」と思いながら
『我も行く方あれど、光源氏様の御ようすがもっと気になる』と思して、後に付けて行動を伺いける。
怪しき質素な馬に乗り換え、狩衣姿のないがしろに扱われたよれよれに着替えてここへ来ければ、使者さえ想像もしない、え知り給わぬ家に着きたれば、さすがに二人のようすを見届けない訳には参りません。
使者は『かう異なる方に出入り賜いぬれば、事故にでも遭うやも』と、心も得ず気掛かりに思いけるほどに、物の音立てぬように聞き付いて、更に光源氏様の後ろに立ちてるに、
「いずれにしてもここは袋小路の道、帰りや再びここへ居出賜う」と確信して、したしたとうなずき辛抱強く待つなり。
君は誰とも見分け賜はで間男を、『我と知らせじ』と、抜き足に歩み覗き賜うに、男はにやにや笑いながら覗き見て、一向にそれ以上の進展がありません。少しせっかちな光源氏様はじれったくなり、ふと近寄りて頭の中将の肩をポンと叩けば、
「ああっ、びつくりした。急に驚かすな」
と、さすがに尻餅を突きたくなるほど驚きて、
「頭の中将殿、中に良い姫君でもおわすかな」との問いに、
「若君こそ、どうしてこんな所へおわすのです。二条の随身に光源氏様のようすを聞きたれば『兵部卿の宮廷に度々おわす。怪しい』とのこと。
内裏よりこっそり後を付けて来たものの、途中で見失い、もしやここにおわすかと思いたれば、さてさて源氏の君、途中で平服に着かえおったのか。この色男め」
と言う言う。
「頭の中将こそ怪しけれ。ミイラ取りがミイラに化けてしまったか。末摘花に横恋慕するなど許さぬぞよ」
「何を申される。我が妹、葵の上を振り捨てさせ賜える辛さに、内裏より愛人宅へ御送り仕う奉るは辛き事。何かと止めようと追っては来たものの、
もろともに 大内山は 居出つれど 居る方見せぬ いざよいの月
二人とも 妹が館に 居出つれど 姿は見せぬ いざよいの君
と、悲しく思う」
頭の中将は、恨むも妬ましいけれど、この君の平然とした顔を見給うに、吹き出したくなるほど少しおかしうなりぬ。
「人の行動は思いも寄らぬ事よ。頭の中将こそ曲者じゃからのう」
とて言って、憎む憎む。
里分かぬ 影をば見れど 行く月の いるさの山を 誰か訪ねる
里照らす 人をば見れど 行く月の 入るさの山は 望みの地なり
「頭の中将とて、わしの後を付けたとと言いながら、目的はここの屋敷やも」
と源氏の君のたまえば、
「かう次々と、別の女を慕い歩かば、如何に施させ賜わむ。口にくつわでも付けて、馬のようにつなぎ留めるしかあらず」
と聞こえ賜う。
「種馬に手綱を付けては良い子は産まれぬ」とのたまえば、
「誠ならば、かようの御歩きには、随身、惟光からこそ、はかばかしき苦言の一言もあるべけれ。惟光、そなたは何をしておるのだ」
と、怒鳴りつければ、
「申し訳ありません」と、惟光は夕顔の五条院の脅しを思い出して、ぶねるぶる震え出します。
「わざわざ平服に着替えさせるために、遅らせ賜はでこそ在らめ。やつれたる服装の御歩きは、軽々しき誘惑事も居出来るなん」
と、惟光を押し返して諫め奉る。
光源氏様は、こう恥のみ見付けらるる心苦しさを妬ましと思せど、かの撫子の君の葬式をば思い出し、亡骸をえ訪ね供養を知らぬを、重き抗議に言いたけれど、さらに我が子、玉鬘の行く末さえ知らぬを思い出し、
「頭の中将さえ大した男ではない」と、御心の内に思し居出づす。
七
おのおの契れる北の方宅にも、甘えて煙たければ、行き別れてそれぞれの妻の元へ歩むべきところ、そうは施させ賜わず。一つの車に乗りて、月のおかしき程に、時々雲隠れしたる道のりの程、
「浮気男め、最近手にいれたばかりの若紫には、もう飽きてしまいよったか。まあ良い。わしとて右大臣の娘は煙たい。二人で気ままに夜道を散策しようではないか。父君の大殿を訪ねるのもよかろう」
とて言って、頭の中将は源氏の君を奥へ押しやる。
中将が腰より笛を取り居出て吹きたれば、源氏の君もそれに吹き合わせて鳴らし、大殿におわし着きぬ。前駆などにも、
「頭の中将の御車、到着なるぞ。どけどけ」と追わせ賜わず、
「そっと静かにじゃ」と、静かに大殿に忍び入りて、人目見られぬ廊下に御直衣ども召して着替えさせ賜う。そのとき屋敷が急に明るくなって光源氏様を照らしたれば、見上げた空に月が雲の間が再び顔をのぞかせにけり。
つれなう平然としたそ知らぬ顔で、今来るようにて振る舞い、惟光に預けたる御笛ども手にして弥生の名曲を吹きすさび、頭の中将と共におわすれば、左大臣も好き者にて心を踊ろかされ、
「春の温かい宵に婿殿の訪れじゃ。早よう笛を持って参れ、
と、例の乗りの良さにて聞き過ぐし賜はで、高麗笛取り居出賜えり。左大臣は、いと上手におわすれば、いと面白う、さすがの源氏の君も聞き惚れてしまうほど名調子を吹き賜う。
「葵は聞いておるか。おぼろ月夜に桜が満開となれば、宴会を催さぬ訳には参らぬぞ。御琴召して、寝殿の内にも源氏の君と頭の中将、この二方に弾き合わせ、腕に心得たる人々に引かせ給うべし。葵は聞いておるか」
とのたまえば、内裏の中務君の女房、わざと琵琶は弾けれど、頭の中将君に心掛けたる恋心を持て離れて他所他所しく振舞い、ただこのたまさかなる景色の懐かしき気持ちをば思い居出て、頭の中将をじっと見詰め給う。
中将は右大臣の四の姫の婿となり、この恋は実らず再び思いを寄せるなど道理に、え背き聞こえぬに、思いは増す一方で自ずからあえて隠れようとしなくて、
「中務の女房よ、今宵は宴じゃ。無礼講を許すぞえ。そなたの好きなように振舞うが良い」
と、左大臣の北の方、大宮などもよろしからず『許す』と思しなりたれば、もの思わしくはしたなき心地でも燃え上がる恋心は捨て切れず、惨まじげに中将の膝元へ寄り臥したり。
宮勤めの夫の事を思えば、絶えて頭の中将を見立て奉らぬ所に掛け離れて忍ぶなむも、さすがに心細く未練が残りたれば、迷いは思い乱れたり。
君たちは先ほどありつる末摘花の琴の音を思い居出て、哀れげなりつるみすぼらしい住まいの有様なども、様相変えておかしう気の毒に思い続け、憐れみの募るを有ら増しごとに、気の毒に思いつる。
いとおかしう振舞うろうたき思い人の人の家へ、さてもや年月を重ねて会いに至らむ時、相手を見染めていみじう心苦しくなるは、夕顔と玉鬘の悲劇が思い居でて、我が事のように気の毒に思う。
「源氏の君、どうしたのだ。暗い顔をしておるぞ「
と言えば、
「あの末摘花の事が気になってたまらないのです。義理も人情も無いと思いながら止められぬのです」
と、源氏の君は笛を置いて答える。
「人に持てて人気者になるも良いが、世間の群衆は踊らされて持て騒がるる馬鹿な男を望むばかり。我が心にも左様な有様、ありしからむ痛い思いなどさえある。義理のない女には、あえて近づかぬことじゃ」
と言いながら、頭の中将は北の方の惨ましい嫉妬心を思いけり。
この源氏の君の、かう物好き気色ばみ出歩き賜うを、まさに『さては色恋なしでは過くし果て性分を仕賜いてむや』と、なま妬ましく危ぶがりけり。
その後こなたの方、かなたの方より文等を送ったと思うべし御気配あり。いずれも帰りの御文事は見えず、おぼつかなく相手の意図が見えず心悩ましきに、
「余り浮立て気味の悪い思いもあるかな。さようなる寂しい家に住まいする人は、物思いに真相を知りたる景色、はかなき木草の枯れ行く姿、空の景色に付けても、我が身のごとく敏感に悪い知らせと受け取る。
物事の気配に用心深く取り成すなどして、心映せ感じやすく将来の事も推し測らるる想像などして、折々気苦労などあらむ事こそ哀れなるべけれ。身分の高い生い立ちが重しとしても、いとこうも余りにも埋もれたらむは気の毒である。
また見方に因っては心付きなく不愛想で、悪浸りの性格なり」
と、頭の中将はますます心に思いを巻いて、女のとりこに心入れられしけり。
例の心隔て敗北をを許し聞こえ給わぬ心にて、
「しかじか『光源氏様より楠木様が好きです』と、返り事の文は見給うやも。試みに他人の恋人を奪いかすめたりしこそ、果はしたなくて、心が闇に乱れ惑うしかあるまい」
と、憂いたれば、
「さればよ、わしが先に見付けた姫君に言い寄りにける中将の横恋慕を、どう思い給うや」
と、源氏の君は微笑まれて、さらに、
「いざ、わしの女を見むとしても『惚れた』などと思わねばや。頭の中将もそろそろ身を落ち着かせ、他人の女を覗き見る年でもなし」
と答え賜うを、中将は、
「若い年のくせして、人を選り分きしける立場かよ」
と思うに、いと妬ましくこぶしを胸に宛てて腹立たしく思す。
八
君は頭の中将が『深うしも事の成り行きを思わぬ』事の、かうも情けなき思い込みを、惨ましく恨みがましく思いなり賜いに成りしかど、妹の葵の上を思っての事かと分半分あきらめる。
「源氏の君は、今度は別の女に惚れこんでおるとぞ。二条に住む親王の娘らしい。妻には目もくれぬ。困った婿殿じゃ」
と、かう中将の言い歩きけるを、言多く馴らされたらむ仲間内の方にぞ、
『事の成り行きを知らぬ世間の人々は、中将の批判をまともに受け取るやも。世間の噂は中将の同情になびきかむかし。中将は、したり顔にて笑みを浮かべ、源氏の君が悔しがる姿を面白そうに楽しんでいるのではないか』と思う。
源氏の君様は、
「元の起こりの事を思い、言い分を放ちたらむ遠慮がちな気色こそ、愁わしかるべけれ」
と思して、桐壺帝側近の命婦が案内した事情を豆やかに説明して、語らい賜う。
「おぼつかなう兄君の心が私の意志に反し、持て離れたる誤解の景色なむ姿、いと心憂鬱し。好き好きし弟君の方に、疑い寄せ賜うにこそ身内としてあらめ。さりとも
抱擁心なくして、親族には短き思考の心映えを使わぬものを。
人の心、のどかなる信用事なくして、婿の立場を思わず、疑いにのみあるなむ。自ずから我が過ちになりぬべき悪き事は、心のどこかにて親兄弟の悲しみを持て扱い怨むられる。
親族を思いやるもなう、心安らからむ人は、なかなかこの世には存在しない。小姑殿は、婿の私を可愛いと思い、ろうたかるべきを」
と、のたまえば、頭の中将は、
「いでや、何処にそんなのんきな男がいる。婿がさようにおかしき姫方の玄関先にて御笠、雨宿りなどしては
『心には、えしも他の女に心を奪われたや』と、心付きなげにこそ、見えはべれ。一重にもの、粗末な庶民の衣服に見包みし、引き入れたる案内方はまだしも、有り難うまじき女垂らし変装もの姿、仕賜う人なむべきか。恥を知りなされ」
と、見る有様、光源氏様の行動を正直に語り賜う姿聞こゆ。
「らうらうじう巧みに策略を巡らした、過度めきたる心は無きなめり。いと子供めかしうお程かに気ままならむ普段着こそ、らうたく可愛げはあるべけれ。直衣など身に付けず、子供の頃のように自由に歩き回ったまでの事よ」
と、若紫の事を思し忘れずのたまう。
「婿殿がそう言うならそれも良かろう。せめて今宵は葵上と仲良くすることじゃ」
と棄て置きて、頭の中将は左大臣の大殿をまかり出給う。
光源氏様の御年十九の春は童病みに患い賜い、人知れぬ夕顔の物思いに悩まされて、若紫や末摘花の恋物語も紛れて、御心の安らぐ暇なきように、慌ただしく多忙にて春夏過ぎぬる。
九
秋の頃ほいになると、静かに末摘花の事を思し続けて、かの平民の夕顔の家で過ごした砧の音も耳から離れ尽きて、今は昔の笑い話になった事さえ、新たな姫君を恋しう思し居出らるる手助けになり賜う。
末摘花の父君に当たる常陸宮様には、しばしば自分の恋心を聞こえ賜えど、なおおぼつかなう知らぬ振りのみであれば、世間の常識の通りには世付かず、心やましうも負けては引き下がりやまじの心さえ添い居出て、狩りの心が増すばかり。
光源氏様は命婦を責め賜う。
「いかなる用ぞ。いと末摘花を口説き落とすに掛かる事こそ、今だにお膳立ては知らされね。手土産なしに来よったか」
とのたまい、命婦の慌てたようすが物々しいと思い給えば、
「光源氏様、そう慌てまするな。慌てて仕留め損じた獲物は大きいと申しますぞ。末摘花様は外へ逃れたくとも、行く当てがございません」
と、おっとりした命婦の笑顔が愛おしいと思いて、
「じれったいのお。末摘花は他の男が好きになったか」
と、頭の中将の横やりを気掛かりに思い賜う。
「光源氏様から心が持て離れて、似げなき他の方へ心が移った事とも、趣け語りはべらず。まずはそのような事はありますまい。ただ大方の御貢物、包みの割と少なきに、『御誘いの手さえケチと居出賜わぬとなむ』と見給ふる。光源氏様、ここは大判振る舞いに貢物を送りなさいませ」
と聞こゆれば、
「それこそ欲に目がくらんで世付かぬことなれ。損得もの思い知るまじきほど、独り身を案じ、心に任せて誰かを頼りにせぬほどこそ、左様に輝かしきも知らず言い訳の断りなれ。
何事も思い静まり遠慮仕給えらむと思うこそ、そこはかとなく教養人のなせる技。このままでは無駄に時間を過ごす事になる。つれづれに今の生活を心細うのみ覚ゆると見賜うを、何度も同じ答え給わむらむは不幸な事。
華やかに生きるには、願い叶う心地なむに振舞うべき。何やかと世間に世付き親しめる筋ならで、是非にも世に送り出したいのじゃ。その荒れたる縁側のすのこにたたずみしまま、しばらく語り給ま欲しきなり。
いとおぼつかなう私の説得を心得ぬ心地するを、かの父君の御許し無うとも、深うも深刻に考えたばかれかし。心入れらし末摘花を騙す浮立てある持て成しには、余もあらじ。安心するが良い」
などと語らい賜う。
なお世に知られたる美しい人の有様を、おおかた一人でも多くなるように聞き集め、様々な噂を耳に留め楽しみ賜う癖の尽き果て賜える光源氏様の性格を、騒々しき宴の宵居集りなどには、はかなき虚しさを感じたついでに悪い癖が居出賜う。
さる末摘花の人こそばかり耳に聞こえ思い出たりしに、命婦がかくこのようにわざとがましう『知性的な人』とのたまい渡れば、なまわずらわしく想像を掻き立て、女君の御有様も理想の女に見え賜う。
世使かわしく世間知らずで無教養、良しめきたる魅力もあらぬを、命婦のなかなかなる思わせ振りの導きに、
『いとおしき一方的な思い込みのことや。現実が見えむか』などと思いけれど、源氏君のかう真面目やかに、
「ぜひと目だけでも会いたい」とのたまうに、周りの咎めも聞き入れざらむも、恋の盲目はひがひがしくも見誤りがちに成るべし。
父君、親王が度々この屋敷におわしける折りにだになれば、古りたる貧しい家の辺りとて、威厳が満ちて男な引き込みゆる人も無かりけるを、まして今は浅茅草分け来る人も途絶えたるに、命婦が援助する男を求めたるは当然の事。
かく世に珍しき好奇心の強い光源氏様の御気配の、惚れた兆し漏れり匂い来るをば、生々しくうぶな女腹なども楽しみは増す。微笑み誘いに負けて、
「なお詳しい様子を聞こえさせ給え」
と、そそそのかされ奉り賜えど、浅ましうも物包仕給うじれったい心にて、命婦はひたぶる容易に、末摘花を見にも入れ給わぬに成りけり。
命婦は、さらば去りぬべからん姫君が光源氏様の御手付きになった折りに、物越しに聞こえ給わぬほど深刻に考えず、自責の御心に付かずは、さても悩みね無かりかし。いたずらっぽく楽しんでおります。
また去るべき重大事になっても、仮にも脅し問わむ御咎め給うべき人無しなど、仇めきたるお調子者の逸り心は罠に掛かりやすいと打ち思いて、
「万が一、大事になったなら早めに処理すれば何とでもなる」
と、父君兵部卿常陸宮にも、掛かる光源氏様の事なども言わざりけり。
十
八月二十余日、宵過ぐる深夜まで待たさるる月の心もと無き暗さに、星の光ばかり冴えやけく闇は、松の梢に吹く風の音も心細くて、いにしえに過ぎ去った過去の不幸事語り居出て、
「私ほど可哀そうな女はいない。母とは幼くして死に別れ、兄弟もなく父君は継母の家に入り浸り。私がひもじい思いをしても振り向いてもくれません。乳母も私を見捨て、私は生涯孤独な身の上なのです」
などと、末摘花は悲しさに打ち泣き、夜明かしなど仕給う。
丁度その頃、光源氏様は『いと良き折りかな』と思いて、
「御消息や、御機嫌伺いに参った」と聞こえ、御訪ねつらむ。 例のわずかなお供を従えて、目立たぬ服装で、いと忍びて末摘花の屋敷へおわしたり。
月、洋々と良う居出て、荒れたる竹のまがきの程、外に倒れてうとましく、外から打ち眺め賜う明かりの中に、琴をそそのかされてほのかに掻き鳴らし給う調べの程、決して悪く聞きしうはあらず。
もう少し、け近うに近づきて『今めきたる気配の音楽を身に付けばや』と屋敷の中に入れば、乱れたる心には心もとなく、
「嫌われたらどうしよう。怒られて追い出されたら面子丸つぶれだ」と、悪い予感に思い至る。
人目、しなき脇道所なれば通りに人影はなく、屋敷には手引きの命婦以外に誰も居るでもなく、心安く入り賜う。すこし中の様子を伺った後で、惟光を召し、命婦を呼ばせ賜う。
「命婦、命婦はおるか」
と小声で呼びかける声に、命婦は引き戸を少し開けて、
「惟光殿、こんな夜中にどうしたのじゃ。驚くではないか」
と、今にしも、光源氏様の来訪を始めて知ったかのように、驚き顔にて姫君に取り次げば、
「いと片腹痛き迷惑な技かな。私は嫌じゃと言っているものを。そのような高貴な御方の相手が務まるような女児ではないわ」
とて言って顔を隠し給う。
「しかじかこうこう、援助をお受けするには絶好の機会だと話したではございませんか。その方がいざ来おわしたなれ。つねにかう恨み言をのみ聞こえ給う消極さを、心に叶わぬ我儘な由をのみ言い、いなび『嫌じゃ、嫌じゃ』聞こえはべるなれば、自ら御断りも告げ、『御会いできぬ』と、聞こえ知らせむべき」
と、のたまい渡るなり。
末摘花はいかが聞こえ返事を返さむ。並々の多わ易き歓迎の御振る舞いならねば心苦しき分際を、頭を低くした物越しにて慎重に振舞い、暖かく出迎えるべきを。
「果たしてどうしたものか」と迷い賜う。
「ありがたき御来訪の声聞こえ給わぬこと『嬉しい限りです』と光源氏様に聞こえ示せ」
と命婦が言えば、いと我がままな態度を、恥ずかしいと思いて、
「人に悪き噂の物、聞こえむように成るかも知らぬを。恥ずかしくて御会いできませぬ」
とて言って、奥ざまへいざり御簾の陰に入り賜うさま、いと初々しげなり。命婦は打ち笑いて、
「いと若々しう子供のようにおわします事こそ心苦しけれ。限りなき美しい人も、親などおわして大事に扱い、『着物や芸事の後見、十分に贅沢させております』
と、聞こえ給う令嬢こそ、若び給う『ぶりっ子』も道理に合った断りなれ。これほどかばかりに、心細き御振舞いの貧しい御有様に、なお世を尽きせず『恐ろし』と思し、疑いはばかるは
『似付きなう愚かな事』と、こそ思いはべれ」と、教え聞こゆる。
さすがに強い口調で咎めれば、人の言う事は強うもいなび反対せぬ御心にて、
「答え聞こえで申し上げる。ただ黙って聞けとあらば、高貴な方には格子など閉ざしては失礼有りなむ。もう少し近くの御部屋に案内した方が良うないか」
とのたまう。
「縁側のすのこにお座りいただくなど、不便なう失礼で有りはべりなむ。御障子一つ隔てた隣の御部屋に案内致しましょう。押し立ちておろおろせず、淡わ淡わしき冷淡な御心などは、よも見せてならじ」
なと、いと良く言いなして、命婦は廂から二部屋隔てた寝所の際なる障子に御自身で手使らいて、いとかんぬきを強く差し、光源氏様が踏み込めぬよう、外側に座所の御しとね置き、客のおもてなし引き繕い給う。
いと慎ましげに思したれど、かようの人に知恵もの言うらむ心映えの成果なども、夢にも知り給わざりける無知なりければ、命婦の、
「学問を知り尽くした顔をなさりませ。せめてそのように振舞いなされば、男はうまく騙されます」
とかう言うを、そのような事も有るようにこそはと思いて、すまし顔もの仕給う。
十一
乳母役、遠の昔に退き経つ老い人などは、すでに曹司宿舎に入り臥して、早くも夕まどろい、居眠りしたる程なり。 若き召し使い人、二・三人あるは、命婦がにわかに知り合いから呼び寄せた者で、世にめでるられ給う光源氏様の御来訪に、
「きゃー、本当に素晴らしい方ね」
「本当、人目見ただけで幸せ」
などと、奥ゆかしき貴族の恋愛ものに思い聞こえてわくわくし、心げ騒々しく緊張し合えり。
末摘花はよろしき衣服の衣ぞ奉り着替えて、御簾の影にくつろい落ち付きと聞こゆれば、正じ身、御本人は何も乗り気がある訳でもなく、心げ騒々しく緊張するようでもなくぼんやりしておわす。
男は障子の影から、いと尽きせぬ思いの姫君の御有様を、想像ゆかしく心に理想化し、打ち忍びて用意仕賜える密会の御気配を、いみじう素晴らしい物になまめき思えて、鼻の下を長くして微笑みあえり。
「見知らぬ人にこそ、その美しい姿を見せめ。映えある優美な姿を。隠しまじき渡りを」
と光源氏様が言えば、末摘花様は扇で顔を恥ずかしそうに隠し給う。
「天下の光源氏様に慕われているのでございます。まだ恥ずかしがるなど、あな愛おしい。御部屋に入るよう、お声を掛けなさいませ」
と、命婦は思えど、ただ御ほどかにおっとり仕給う性格をぞ、後ろ安う差し過ぎたる事は、くよくよしないように見え奉り給はじ。『この方は御自身で未来を切り開くでもなく、ただ時の流れるままに身を任せ続ける。そんな方だ』と思いける。
そんなのんびりした人を、我が常に、
「もっと積極的に男を誘惑なさいませ。私達の暮らしが良くなるかどうか、関わっているのです」
と、責められ奉る罪避けられり事に、心苦しき人の屈辱御もの思いや、自らのお節介過ぎる自責の念など居出来むなど、安らからず思い悩み至り。
源氏の君は、人の御ほど、ただひたすらに待ち続ける下向きさを思せば、しゃれ覆る今様の流行を取り入れた良し張み、見せびらかしよりは、こよなう奥ゆかしと思し渡るにいじらしさを覚え賜う。
「とにかく大事に育てられた姫君ですから、自分から人にお願いしたり、我がままを言うような御人ではございません」
とかう光源氏様はそそのかされて、障子にいざり寄り賜える気配が忍びやかに近付けば、英の芳ばしい香り、いと懐かしう薫り居出て、慎ましく御ほどかなるを、
『さればよ、ふくよかなる餅肌の男好きな女やも』と思す。
「麻呂は命婦の話から、そなたの美しさを知った。絶世の美女でありながら、慎ましく家に閉じこもっていると言うではないか。その時からどのような女人なのか、逢いたくて逢いたくてたまらなかったのだ」
源氏の君は年頃思い渡る恋しい有様など、いと良うのたまい続くれど、まして無言のまま、
「私も光源氏様に御会いしたくてたまらなかったのです。命婦の口から気立てが良く、親切な御方だと聞いております」
などと、近き御答えは無言のまま『うんとも、すんとも』絶えてなし。光源氏様は『割り切れなしの冷たい技や』と、打ち嘆き賜う。
「幾ぞとなく度々に、君がしじまに
十二
鐘突きて 閉じめむ事は さすがにて 答えまう気ぞ かつは綾なし
鐘突きて 人閉じ込むは さすがにて 答え聞かぬぞ 心は痛し
いと若びたる恐怖の声を、事に命婦は重り苦しく自責なからぬを、
「末摘花様が、どうぞ御這入り下さいと言っております」
などと、姫からの人づてにはあらぬように聞こえなせば、
「今ほどよりは、もっと甘えて御すがりするのです」
と、末摘花は聞き給えど、珍しきうぶで無知な心が気持ちを動転させて、なかなか口塞がりて、思うよう持て成しでぬ技かな。命婦は外から襖に施錠し、かんぬきを師給う。
言わぬをも 言うに勝ると 知りながら 押し込めたるは 苦しかりけり
言わぬもを 好きに勝ると 知りながら 閉じ込めたるは 苦しかりけり
何やかとはかなき事仕賜うなれど、抱き寄せて手を握り賜うおかしき有様にも、真心を込めて真面目やかに物仕賜えど、末摘花の心の変化に何の甲斐もなし。
「ははは・・・。何をなさっておるやら。何か変ですぞえ」
などと、他人事のように言って、気持ちの高揚はまるでなし。
いと掛かる性欲の高揚も様変わり。光源氏様は全くやる気がなくなってしまいました。
「他に思う方があるのか。そいつにはぞっこん惚れこんで、淫らな事物、平気で仕給うのだろう。人にや冷たく仕おって」と、ねたましくて、
「よくも人を見下した真似をしてくれたものよ。覚えておけ。この恨みは必ず晴らしてやる」
と言い捨てて、襖をやおら押し開けて、侍従の部屋に入り賜いにけり。
命婦は、あなうたて決まり悪くて、何事も知らなかったように、眉をたゆめ、床に深々と頭を下げ給える・・・などとして、光源氏様の事が御気の毒で愛おしければ、知らず顔にて早々と我が部屋に入りにけり。
近くに控える若人ども、はたはた世にたぐいなき王子様の姫君を口説き落とす御有様の失敗を見て、
「噂通りの好き者らしき音聞きに、たまにはうまく行かないこともあるのか」
などと、王子が気まずい思いをしていることに罪許し、光源氏様に申し訳ない思いなどす。
光源氏様はおどろおどろしう怖い顔もせず、思いが叶わなかった事に恥ずかしい思いをしても嘆かれず、ただ思いも因らずはかなき有様にて、このような無様な結果を見られてしまった事に、末摘花様は、
『さる心も無きぞ』と思いける。
正身光源氏様は、ただ我にもあらず気が動転して、
「この麻呂のどこがいけなかったのか。何を理由に末摘花は私を拒み続けるのだろう」
などと、心恥ずかしく慎ましき芸事より他にやる事がまたもなければ、今は掛かる御気持ちぞ哀れになるかし。
まだ世に馴れぬ人の親王の娘として、大切に打ちかしずきかれたる箱入り娘として、見許し給うものとしてからに、人の妾となる事を心得ず、男の本性を露わにした姿に脅えるは、なま愛おしいと覚える王子様なり。
何事かに付けては、光源氏様がこのような不愛想な女に惚れたかは、御心の真相が止めまとまらぬ。打う悲しう溜かれて、光源氏様は供の者にも退散を告げず、夜深かうこっそり居出賜いぬ。
命婦は今後光源氏様と末摘花が『如何にならむ』と、心配で目覚めて、出て行く足音を聞きながら床に臥せりけれど、可哀そうな御姿を知り、見たような顔をしてはならじとて気遣いなどして、御送りにも出ず。また遠くから、
「もう御帰りですか。またおいでなさいませ」
とも、明るい声造らず。
君もやおら決まり悪くて、静かにそっと居出賜いにけり。
十三
その後、二条院におわして床に打ち伏し賜いても、おな思うに叶い難き末摘花への思いを、
「世にこそ男女の恋は意のままにならないこと」
と思し続けて、軽らかならぬ姫君の性格の硬さ、人の御ほど、容易に人を寄せ付けぬ素振りを、
「いったい、あいつは私の事をどう思し続けているのか。好きなのか嫌いなのか。あっちの方をやりたいのか、したくないのか。全く分からないではないか」
などと気掛かりで心苦しとぞ、悩ましく思し続ける。思い乱れて床に休まれておわするに、頭の中将、急きょ来訪して、
「若、若君はおるか。この忙しい時に、何処へ出掛けおったか」
などと、大声を張り上げながら寝殿へおわして、
「こよなき御朝の居眠りかな。結構な身分だわい。夜中に出掛けられた結ゑに、眠たげあらむかしとこそ、思いやら賜えられる。この色男めが」
と言えば、仕方なく起き上がり賜いて、
「心安き独り身の寝の床にて、誰に咎めらるる訳でもなし。気が緩びにけりや。帝の内裏より何か急な知らせでもあつたのか」
と、のたまえば、
「しかも何の、まったくその通りだわい。たった今、宮殿をまかり居出給いはべるままの姿なり。桐壺帝が予定の朱雀院行幸が今日なむ。雅楽人、舞人など定められるべきよし。御供せよとの事じゃ。
昨夜この事を帝より承りしを、父の大臣にも伝え申さむと思いてなむ、大殿へまかり居出て報告はべる。行幸の段取りを打ち合わせた後、やがてこちらへ帰り際、参りぬうべう説明はべる」
と、忙しげなれば、
「さらば二人もろともに、急いで支度をせねばなるまい。朝飯を食って行けや」
とて言って、汁物の御粥、せいろで蒸した御強飯召し寄せて、客人にも勧め参り賜いて、行幸の話を引き続け話したれど、頭の中将は、
「ああー面倒臭い。この忙しい時に上品ぶって別々に分けて食ってられるか」
とて言って、汁物を御強飯にぶっかけ奉りて食すれば、
「急いで出発するぞ。何だその間抜け顔は。なおもまだ、いと眠ぶたげなり」と、怒鳴りつつ立ち上がれば、
「夕べなかなか寝付かれなくてな」と、源氏の君、言い訳す。
「困ったものよ。隠い賜う事多かりける。程々になされ」
とぞ、頭の中将の恨み賜い声、聞こえ賜う。
この日は行幸の事ども多く定められる日にて、内裏の内にて準備に忙しくさぶらい、行幸の後、宮殿で暮らし賜いつ静かに時を待ちながら過ごす。
例のあそこかしこには、初回逢瀬の慣例に従い、文をだに愛おしく朝方届けたのを思い居出て、その日の夕つ方時にぞありける。
光源氏様が、
『義理でも再び会いに行かねば』と思い立つその矢先、雨降り居出て、ところ急くも気乗りがしないままあるに、早くも到着して、
「逢引きのお膳立てよろしく、途中の雨宿り、末摘花が家に笠宿りせむと言うのか」とは思されず、迷いや有りけむ。
そこかしこ軒下には、半時待つほど過ぎていら立ちを覚える頃、命婦も
『いと欲しき、しつこく迷惑な御若様かな」と、心憂鬱しく思いけり。
正身末摘花は、御心の中に若様から思いを寄せられることを恥ずかしう思い賜いて、
「今朝の御文があった予告の夕暮れ時になりぬれど。咎め拒否するとも思い分き給わざりけり。
夕霧の 晴るる景色も まだ見ぬに 燻せさせ降る 宵の雨かな
夕霧の 晴れる景色も まだ見ぬに しつこく迫る 宵の雨かな
雲の間途切れて光り待ち居出むほど早々と来られては、如何に心もとなう息苦し」とあり。
これほど度重なる来訪を、恋人がおわしまじき配慮の足りない御景色を、屋敷の人々は胸つぶれて御気の毒と思えど、光源氏様は、
「なお姫君にお会いできるよう聞こえさせ給え」
とそそのかし取り次ぎあれど、末摘花は、いとど、さらに思い乱れ給えるほどにて、「え型通り、世の慣例にも従わずもあらねど、恋愛やり取り続け賜わねば、兵部卿の姫として役目が務まらず、夜も更けぬ」
とて言って、
「ここはひとつ御逢いなされまし。『良しなに。またの機会に』などと、二つ返事で良いのです。返歌のやり取りは私共が書いてそっとお渡しします。安心なさいませ。誰もがそのように致しておるのです」
などと、侍従ぞ、例の教え聞こゆる。
晴れぬ夜の 月待つ里を 思いやれ 同じ心に 眺めせずとも
雨の夜の 宿り待つ人 思いやれ 同じ心に 従わずとも
などと口々に責められて、紫の紙の痛く年経ければ、灰色まみれに気後れした古めいたる色紙に、我が今の御気持ちを書き賜う。手はさすがに文字強う迫力があり、書体は中さだの古風な筋にて、上下間隔を等しく几帳面に書い賜えり。
末摘花は気乗りがしないまま書いてはみたものの、
「どうせ下手な和歌など読まずに捨てられるだけ」
と思い、改めて見る甲斐なう打ち棄てて置き賜う。せっかく末摘花様がその気になって文を書いたというのにどうした事でしょう
如何に相手が思うらんと、思いやるも安からず。係る努力事の結果を悔しがるなどは言うにやあらむ。下手な御文でも、真心は必ず相手に通じるはず。そうした失敗を重ねてこそ人々は上達するのです。
末摘花はさりとていかがせむ。我はさりとも心長く見守り果てむと思しなすが、この姫君は途中であきらめてしまう。そうした期待する御心を知らねば、人々の上達は有り得ぬはず。
紫式部としては、かしこの姫君にはいみじうぞ、嘆い給いける。
十四
大臣は夜に入りて、まかり出賜う内裏の用事を終えた後、参内を引かれ奉りて、御自宅の大殿におわしまし着きぬ。行幸の打ち合わせの事を興味ありと思欲して、親族が集まり、
「我が右大臣家ではどのような担当を仰せ仰せ遣ったのでございますか」
「人数はいかほどに」
「警護の私兵も同行させねばなるまい」
などとのたまい、おのおの命じられるままに、舞などを習い給うを準備に忙しく、源氏の君は笛を吹き鳴らし、使用人も笛や太鼓、琴など持ち寄りて、演奏の支度を整え給う。その頃の準備に忙しい時期にて、末摘花の屋敷に通う願いも空しく、大殿の夜は慌ただしく過ぎゆく。
鳴り物の音色ども常よりも力が増して、耳貸しがましくうるさくて、おのおの方々競い合うように挑みつつ、例の時々ふざけ合うような御遊びもなさらずに、大七力笛、尺八の笛などの大声吹き上げつつ、
重い太鼓さえ高欄干の元にまろばし押し寄せて、左大臣自ら手づからう打ち鳴らして音頭を取れば、親族の君達、遊びおわさうず、誰もが熱心に行幸の舞の練習に明け暮れるなり。
源氏の君は末摘花の事が気になりながらも、左大臣の下で指揮を執る者として、御暇いただく余裕なきようにて、切に思す親しき人の所ばかりにこそ、暇を盗まわれて、自分勝手にこっそり抜け出し賜えるも叶わず。
かの恋人の渡りには、いとおぼつかなく立ち寄る事も出来なくて、
『いと腹立たしい思いしたるかな』と思いながらも。秋も暮れ果てぬ。
なお末摘花の方にては、
『頼み寄越し甲斐なく、一時的な御遊びであったのか』と、さほど傷付く訳でもなく、秋の気配を感じながら空しく過ぎて行く。
行幸の日も近くなりて、試楽などの本番さながら、予行演習の舞や音合わせが盛んにののしられる頃ぞ、突然命婦参れる。
「如何にぞ、末摘花はどのように暮らしておるか。さぞや私の事を恨んでおるだろうな」
などと問い賜いて、姫を愛おしいとは思したり。
源氏の君のいたわりの有様聞こえて、命婦は、
「いと、かうも姫様の御世話を持て離れたる心映えは、見給ふる周りの人さえ心苦しく」
などと、泣き濡れるばかりに悲しい顔をして、事情も差し迫って思えり。
心憎く持て成して、
『光源氏様の御機嫌を損なうことだけは止みなう』と思えりし事を、くだくだしく述べてける。心もとなくこの人のずる賢く思うらむ事をさえ、顔の表情や目の険しさから怪しく思す。
正じ身の末摘花様は、ここで物は言わはで、兵部卿宮邸に思し埋もれて悲しみ給うらむ有様、光源氏様が思いやり賜うも愛おしく気の毒に思えば、
「暇なきほどぞや。行幸の打ち合わせに忙しく、抜け出す事もできぬ。末摘花を放つて置くは割り切れなし」
と、打ち嘆き賜いて言い訳すれば、
「姫は、物思い知らぬ殿方の薄情なる心様を懲らしめさむと思うぞかし。兵部卿の宮に告げ口して、光源氏を捕えさせるかも」
と、命婦は微笑み賜える。
命婦の姿が若う美しげなれば、我も打ち微笑まられるる心地して、意志を明確にしない割り切れなの人に、恨みられ給ふ御齢の嘆きや、思いやり少なう御心のままにならむ薄情さも、自分を拒絶する御断りと思う。
この頃の御急ぎ行幸準備のほどぞ、合間をみて命婦は時々訪ねておわしける。
十五
時が過ぎて年暮れの雪が舞い始めるころ、かの紫の上、ゆかりの地を訪ね取り賜いては、その残された人々の暮らしに振りに、慈しみに心入り賜いて、ささやかながら援助の品物を届け賜う。
かの六条の御息所でさえ渡りだにせず、枯れ増さり遠ざかり給ふめれば、まして荒れ果てたる二条の末摘花の宿には、哀れみに怠わらずながら、足先は物憂鬱きぞ、割り切れ無しに、心は遠ざかりける。
所責き姫を捨てた自分のやり切れない御物恥を、見表わさむの御心も、事に無うて平穏に過ぎゆくを、
「また見改めて打ち返し、過ぎた女を『いい女人であった』と見優りするような未練も有りかりしぞや。手探りのたどたどしき恥じらいに、怪しう惑わされ、心得ぬ暴走に突っ走ることも馬鹿馬鹿しくもあるにや。今さら見ても仕方がない」
と、思欲せど、けざやかに、はっきりと決着を付け、この恋愛がどうなるのか取り成さむも、まばゆく恥ずかし。
打ち解けたる宵入りの静かな夜のほど、やおら末摘花の屋敷に入り賜いて、格子の狭間より中のようすを見給いけり。
「誰か、兵部卿の宮がおわしたりはせぬか」
と、源氏の君が小声で聞けば、惟光、
「そのような気配はまったくありません。とっくに見捨てたようすです。若君も中を御覧になられますか」
と言って、後ろに退けば、されどとて源氏の君が、自らは中のようすを見え賜うべくもあらず、大方のようすは想像したり。
破れた障子の間から中を見れば、几帳など痛く損なわれたる傷みの激しい物から、床の畳、御簾、屏風に至るまで、年経けるも未だ立ち所変わらず、ほこりや蜘蛛の巣に覆われながらも。何もかもが昔のままな姿なり。
几帳や御簾を押しやりなどして中に踏み込めば、人の声一つせず何の動きも乱れねば、心元なく薄気味悪くて、そこは死の世界が漂えるとも思えたり。
「若君、これ以上歩き回っても、だれもおらぬぞよし。早いとこ引き上げて、二条院へ帰りましょうや」
と惟光が言いかけた時、人の気配がして、
「いや、しっ、静かにせよ。誰かが潜んでおるぞ」
「えっ?」
惟光が奥の北の扉を開けると、廂の中に姉御達、年増な女中女房どもが四・五人居たり。
御食台、秘色青磁器ようなる物、中国唐代に持ち込まれた諸越しの物なれど、人悪き無教養な下働きに使われては、何の草配、野菜や穀物の食料ももなくて、ただ小さき芋のような物盛るは哀れげなる。
主の住まう寝殿からまかり居出て、人々が夕食を食う隅の間ばかりぞ、人影が見えて、いと寒げなる女ばら達、白き上衣の言い知らず不潔に煤けたるに、汚げなるしびら袴布を引き結い付けたる腰つき、固く成して前に折り曲がりげなり。
さすがに顔の表情は上品で気品が感じられて、前髪に刺した櫛も押し垂れて、灯り差したる額のしわ付き、やせ衰えて目が窪み死人のような形相なり。
内教坊の雅楽に合わせて舞う女房や、内侍所の親王に仕える女官の姿の程に見えて、落ちぶれて食うにも困るこの館にては、帝の宮殿に掛かる特別職の者どものあるは身分不相応やわと、いとおかし。
末摘花の世話に掛けても、兵部卿人の辺りに近う振舞う者とも思えず、素性は知り給わざりけり。
「いと哀れ、最近にない、さも寒き年かな。命永らえなければ、すなわち辱めも多し(荘子)。掛かる不幸な世の中にも遭うものも無かりける。主が帝と争った頃が華であった」
とて言って、打ち泣く者もあり。
十六
「兵部卿の宮おわしましぬ寂しい今の世を、などて、どうしても悲しく辛しと思いけむ。かくも頼みの人もなくて、希望もなく無駄に過ぐるものに成りけりにや。ひもじい思いをして苦しむよりは、いっそ川に身を投げた方が・・・」
世の中を 憂しと優しと 思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
この世をと 憂し憎しと 思えども 飛び去り兼ねる 鳥にあらねば
(山上億良)
とて言って、空へ飛び立ちめべく振舞うふる者もあり。
様々に人それぞれ悪き事ども災難を、愁いえり嘆き合え語るを、光源氏様が聞き賜うも片腹痛く苦しく思いければ、年増な姉御達の一人が、仲間から逃げるべく立ちのきて、
「あの北の方様さえお亡くなりにならなければ、このような不幸もなかったものを。姫様が可哀そう。腹いっぱい飯を食べさせて差し上げたいが、わらわとて空腹の身の上、どうにもならぬ。
光源氏様はどうしたのでございましょう。帝が行幸なさるまでは、あれほど頻繁においでなされましたにのに、今ではぷっつりと糸が切れたように、来なくなってしまったではないか。このままでは餓えて死にそう」
などと、ただ今おわするように同じことを言って、頭を壁に押し付けて、打ち叩き嘆き給う者もあり。
「そそや、そうや。もしかしておいで下さった時、御格子が閉まっておっては『末摘花様に嫌われた』と思われるかも。『不用心だ』と叱られました以前のように、扉を開けっぱなしにしましょうぞ。明かりも灯して。光源氏様でなくても他の方が御訪ねして参るかも分かりません」
などと言いて灯取り直し、格子明け放ちて末摘花を寝殿へ入れ奉る。
侍従は若かりし頃、京の斎院に参り通う若人にて巫女であられしも、桐壺帝が帝に御決まりになられた後は役目を解かれ、時々加茂神社の祭りに呼ばれることはあったものの、この御年では何の役目もなかりけり。
いよいよ怪しう飢えと寒さに体はひなびたる限りにて、顔や手や足も見てはならぬ心地ぞする。いとど外は冷え冷えと静まり返り、愁いなりつる雪も哀れぞ描き垂れて、いみじうも激しく降りにけり。
外の物音大きく、空の景色激しう風も吹き荒れて、大殿、寝室の油火消えけるを、
「だから言うたではないか。格子開ければ風が吹き入りて、灯りが消えてしまうとな。面倒になるものを」
と、責める者もあり。
「おお寒い」
と、死神のような老婆が格子を閉めたものの、火灯し作る人もなし。かの五条の廃院では、物の怪、妖怪物に襲われし折り、夕顔の死様も思い出でられて、荒れたる有様はあの廃院にも劣らざらめるを、
姉御達の小部屋は五条の寝殿に比べても、比較にならないほどの狭まう窮屈で、人げの少し四・五人あるなど慰めになりたれど、すごう、憂立て気味悪く。いざという時に備え用心せねば、命も落とす心地ぞする夜の有様なり。
おかしうも、哀れにも、人の気配多くして多少にぎやかなれば、ようす変えて夕顔とは性格反対の心留まりぬべき末摘花の有様を、いと埋もれ痛く極端に陰気な性格に添うべくすこやかにては、何の映えなき人柄をぞ、口惜しう思す。
「末摘花、末摘花はおるか」
と光源氏様が大声を出して寝殿の中へ入り賜えば、
「出た出た、とうとう出て来おったぞ。物の怪じゃ、刀で身を守れ」
と、侍従は短刀で身を守ろうとする。
「何を慌てておる。落ち着け。落ち着け。光源氏様とわしじゃ。惟光だぞ」
朝臣は慌てて刀を引っ込めるよう促す。
「ええっ、あちゃー、本当だわい。まさしく惟光だわい」
「どうしてもっと早く御訪ねして下さらなかったのですか」
と、壁に立った女が振り向けば、
「急に現れるなど脅かさないで下さい。驚きましたぞえ」
と巫女の形をした老婆が言う。
軽ろうじて世も明けぬる気配の景色なれば、人々の顔の姿も薄々見えて、光源氏様ご自身、格子を御自身で手づから上げ賜いて、明るくなった庭の前栽、雪の庭景色を見賜う。
踏み開けたる足跡もなく、はるばると遠くまで荒れ渡りて、木立に蔦が絡めて枯れたれば、いみじう寂しげなるに、この老婆の姿を見れば薄気味悪く逃げ出したくなるに、振り捨てて出て行かむも哀れに気の毒にて、
「おかしきほどの空も見賜え、末摘花殿。雪景色も中々いい物じゃ。前栽の松に積もった雪も中々見応えあるぞ。何も御簾の中だけが極楽ではあるまい。外に居出てもっと美しい世の中を御覧なさりませ。尽きせぬ御心の隔てこそ、割に合わなけれ」
と、一向に姿を見せぬ末摘花に恨みがましい皮肉聞こえ賜う。
まだほのかに暗けれど、雪の光に光源氏様の御姿が、いとど清らかに若う伸びやかに見え賜うを、老い人ども微笑み栄えて、
「おおー、さすがは光源氏様、御立派な御姿」
と、感動し、御簾の中から見奉る。
「早く居出させ給え、末摘花様。何時までも御簾の中に隠れて居っては味気なし。心美しき素直であられらるるこそ、若い娘に必要なりけれ」
などと、老婆の教え聞こゆれば、さすがに末摘花も・・・・
十七
「早く居出させ給え、末摘花様。何時までも御簾の中に隠れて居っては味気なし。心美しき素直であられらるるこそ、若い娘に必要なりけれ」
などと、老婆の教え聞こゆれば、さすがに末摘花も人の教え事を、え否び給わぬ御心になり賜いて、とにかくうも、この場を引き繕ろいて、恥ずかしげにうつむいて高欄干に居ざり居出賜えり。
光源氏様は末摘花が怖がらぬようにと、見ぬようにして戸外の奥の方、庭を眺め賜えれど、目尻横目はただならず興味深々にて、
「如何に素晴らしい姫ぞや。早く真正面からその御姿を見たいものよ」
と思せど、今だに恥ずかしさの方が、打ち解けるに勝るにいささかの間違いもあらねば、隣に立っている事さえ嬉しからむと思すも、まだまだ二人の関係が恋人になったと確信するでもなく、あながちに安心するは意志尚早なる御心なりや。
横目で見た限りでは、居丈高く腰折れの感じがして、小背長細身に見え賜う。
「さればよ、八頭身美人か」と期待に胸つぶれぬ。
「この雪景色もなかなか美しいものでござろう、末摘花殿」
光源氏様は話し掛けながら末摘花を見ようとしましたが、なぜかそれを拒む強さが感じられます。目はまだ正面を眺めたままでいます。
「あい」
「静かな静かな朝の雪景色じゃ。鳥のさえずり一つ聞こえぬではないか」
「あい」
光源氏様は末摘花の間の抜けた返事に少し違和感を覚えましたが、
『それも人慣れせぬ事情に因るものだろう』と、良いように解釈しました。
その時です。目の前の唐竹に降り積もった雪が、重みに耐えかねてしなったかと思うと、一気に雪を振り払い跳ね上がって行きます。二人の頭上に粉雪が降り注ぎました。
「あれー」
びっくりした姫君は光源氏様に持たれて行きます。
打ち継ぎて、あなた方はどんな人かと見ゆる物は、まず赤い鼻なりけり。ふと強烈な印象で目ぞ留まる。思い出いずるは、普賢菩薩の白象に乗る乗り物と覚ゆ。鼻は華麗にてその基茎をたどえれば赤真珠のごとし。
「なぜ姫の鼻は赤い」と不思議に覚ゆ。
浅ましゆう高う伸びらかに鼻は大きくて、先の形、少し垂れて色付きたること紅のごとく光るなり。事の外気味悪く、うたて吐き気もよおす気持ちもあり。
色は雪に恥ずかしう白うて、さ青に気分が悪いように思える。額付きこよなう広く晴れ渡るに、なお下太りがちなる面立ちようは、大方驚ろ驚ろしう醜くて、扇で顔を隠した姿から見て、顎は長きへちまに見えるごとく締りなきに見えるべし。
痩せ賜える事愛おしいげに、骨が突き出るほどさらぼいて、肩のほどなど痛げなるまで死人のごとく、骨のほどが衣の上まで見ゆる。
このみっともない御姿を、何に残りなう見せ表しつらむと思う恥ずかしき物心から、珍しき出しゃばりの有様に見えしたれば、光源氏様もさすがに打ちのめされて、外の景色を見やられ賜う。
首の弱げなる頭付き、髪の足元まで伸びた残り少ない掛かり端も、美しげにつやつやした他人のめでたしと思い聞こゆる人々に比べれば、下働きの女にもおさおさ劣るまじう伸びすぎて、袿の裾に溜まりて引かれるほど、一尺ばかり余りて、切り足らむと見ゆ。
着給える物どもさえ言い伝えつるも、意地が悪くて恥ずかしき事なれど、物言い難い女のさがなれば、救い無きよう口やかましく見苦しなれど、
「昔物語に出てくるような、古い御装束」
とこそ、まず言いたく書き留めれ。
薄い紫の許し色なれど、肩の辺りが割り切れなう上白み、変色したるひと重ね、何時までも名残り惜しげなう喪服の黒き袿重ねて、上着には古きクロテンの毛皮衣、いと清らかに芳ばしき薫りをさせて着給えり。
古代の由緒付きたる冬の御装束なれど、なお若やかなる女の御装いには似合気なう驚ろ驚しき殺生の事思い出されて酷なれど、当の本人は暖かく気持ちが良いのか、いと大切に持てはやされ自慢げに着たり。
されどげにこの毛皮なうては、はたはた寒から増しと見ゆる御顔ざまなる震えを心苦しと見賜う。何事の願いも言われ給わず、二人の間に沈黙が続いて、我さえ口閉じたる心地し賜えど、
幾そたび 君がしじまに 負けるらん 物な言いそと 言わぬ頼みに
幾たびか 君が黙秘に 負けるらん 何も言うなと 願う頼みに
例の前に詠んだ和歌の『しじま』も試みむと、
「そんな人の恋を『恥ずかしい』とのたまうも、棄ててこそ良かし」
言ならば 思わずとやは 言い果てぬ なぞ世の中の 玉だすきなる
言葉では 思わずとかは 言い切れぬ なお色恋の 玉出す気なる
と、かうにも聞こえ給うに、末摘花は痛う恥じらいて、口覆いし給える袖の仕草さえ日な引いて古めかしく、神殿に祈祷する儀式官の数珠を練り居出たる肘餅に思えて、さすがに姫の微笑み賜える御景色、はしたなうすずろにほころびたり。
「嫌よ嫌よも好きの内と言うではないか。ここまでその気にさせておいて、この立派な玉見せぬは苦し」とのたまう。
「あれーえ、姫はそのような恥ずかしい事を頼んだ覚えはないぞえ。二人でこうして立っているのも恥ずかし。夜が明けきらぬ内に、とっとと御帰りあそばれまし」
と言って、末摘花は奥の部屋へ立ち去る。
御簾の影に隠れてしまった姫君を見て、光源氏様は末摘花の事が愛おしく哀れに思えて、いとど急ぎ廂の小部屋を居出立ち去り賜う。
「頼もしき人無き有様を・・・・
十八
「頼もしき後見人無き有様を心得ながら、何をためらっておる。そんな姫君を見染めたる人には、疎からず親しく思い、仲睦びて優しく持て成し給わぬこそ、そなたの本意ある心地すべけれ。
何時までも家柄の小さき名誉に縛られ、許しなき寝床を共に過ごす御景色なければ辛う。何のためにお尋ねしたか、わからないではないか」
など言付けて、
朝日さす 軒のたるいは 溶けながら などかつららの むすぼほるらむ
朝日さす 軒の垂る氷は 溶けながら なぜか辛うも 結び折るらむ
とのたまえど、御簾の中の末摘花は、ただ、
「むむ」と、打ち笑いて口重げなるも愛おしげに冷淡なれば、
「これ以上待っても、わしにすがり付いて、甘える気配などないわい」とあきらめて、末摘花の寝殿を居出賜いぬ。
御車寄せたる中庭門の、いと痛う歪みよろぼいて、今にも倒れそうな姿が末摘花の境遇を物語っている。夜目にこそ痴るき曲者ども、よろずにも隠ろえたること多かりけれ。
「あの物好きな頭の中将が覗いているかも」
と思って周りを見たものの、雪を踏み歩いた形跡はなく辺りは静かなり。
寝殿から東へ伸びた渡殿は、いと哀れに蔦が絡まり寂しく荒れ朽ちまどへるに、近くの松に降り落つる雪のみ暖かげに降り積める。ここは何故か山里の心地して、見る物哀れなるを異国の心地して、
「かの人々が言いし世捨て人のむぐらの門は、かようやなる寂しうなる所になりけむかし。現に心苦しくろうたげならん若い人をここに据えて、我は後ろめたう姫を恋しいと思うはばや。
あるまじき不倫の物思いは、荒れ果てたる屋敷の中にあり、つたが幾重にも重なったむぐらの庭は奥が見えにくくて、妻の監視のそれに紛れなむかし」
と思うてはみても、
「この屋敷の中に『はっ』と思うようなる美しい姫が隠れているでもなく、誰も踏み込まぬようなるこの住み家に、虚栄心など似合わぬ姫の冷たい態度の御有様は、誰も物好きに末摘花を盗る方なし」
と思いながら、
「我ならぬ物好きな人は、この世に二人とおるまい。まして誰もここには、見忍びて来むや。我がこうして見慣れて幾度も通いけるは、故見捨てた親王の我が娘に対する『後ろめたし』と思う償いからか。我をたぐり寄せ、男を、え置き賜いけむ魂の道しるべなめり」
とぞ、思いもさるる。
御所の右側に植え込まれた橘の木、雪に埋もれたる。
「惟光、誰かを呼べ」と御随身召して雪を払わせ賜う。
橘の木は尊けれど、同じ庭木でありながらの無視された隣の木は、羨み顔に松の木、勢いよく跳ね起き返りて、『ざざっ』と周りにこぼれ落ちるる雪も、名に立つ末の銘木の誇りに見ゆるなど、いとおかし。
「うわー、冷たいぞよ。首筋に雪が入り込んだ」
「ははは・・・、松の木も小君に雪を振り払って欲しいのだとよ」
と光源氏様が笑えば、「もうこれ以上面倒は見切れません」 と小君は、惟光の後ろに隠れ給える。
いと深く丁寧らずとも、『なだらかなるほどに庭木を整え、適当に合えしらわわむ人もないがな』と、見賜う。
御車を出ずべき外の門は、まだ開けざりければ、
「何をしておる。早く門を開けさせよ。夜が明けたではないか」
と随身に命じてはみたものの、朽ち果てたこの屋敷にそれほど気の利く人がおるでもなく、
「鍵の預かり人を訪ね居でたれ」と言えば、相当に年を重ねたる翁の、いといみじきたる親切な人ぞ、出で来たる。
娘にや、娘孫にやもらい受けたると思える、端した短かなる衣は雪に出合いてさらに煤け目ちまどい、一重ねは寒しと思える哀れ景色深うて、怪しき家の者に火入れあんかを持たされて、ただほのかに手先を袖ぐくり気味に持つたれり。
翁、「門を開けやらねば」と思い、門に寄りてかんぬきを引き助くるも、いと固ければ、光源氏様の随身が助けに加わるななり。御供の人寄り集りてぞ、歪んだ門を蹴り開けつる。
降りにける 頭の雪を 見る人も 劣らず濡らす 朝の袖かな
降りにける 翁の雪を 見る人も 劣らず濡らす 朝の騒ぎに
「雪降りて 幼き者は 形隠れず 老いたる者は 体に温なし」
などと、白子の漢詩を手拍子で打ちずじ賜いても、寒き随身の姿は鼻の色ににじみ居出て、いと寒しと見えつる。末摘花の御面影、ふと思い居でられて、
「末摘花の鼻の色は、寒いせいであったか」
と、安心して微笑まれ賜う。
「頭の中将に、門を蹴破る騒ぎ、これを見せられたらむ時、如何なる苦言事を他所へ言わむ。常にわしの行動を伺い来れば、今にも見付けられなむ」
とすべなう、恥ずかしく思す。一行は足早に立ち去って行きました。
十九
世の常なるほどの習慣に逆らいて、常識と異なる事なさらば、末摘花への思いを捨て止めみぬべきを、荒れ果てたる館の暮らしを定かに見賜いて後は、中々哀れにいみじく思われて、真面目やかなる有様に心掛けて、常に訪れ賜う。
古狐、クロテンの皮ならぬ絹や綾綿の織物など、老い人、姉御女房どもの着るべき物を贈るなどのたぐいは言うまでもなく、例の翁老人のためにも、上下の狩衣と袴を思しやりて奉り給う。
かようなる事の真面目やかなる施し事も、兵部卿の宮の娘として恥ずかしげならぬを、心気安く、さる殿方の後見にて育み、新たな生活を受けまむと思欲しとりて、様々事に更ならぬ優しさが加わりて、なお一層の打ち解け技も仕賜いけり。
「かの空蝉の、打ち解けたりし宵の誘うような側女の流し目には及ばなくて、いと悪かりし笑顔の姿形ざまなれど、これほどの不器用な女ならば、自分の持て成しに隠されて軽蔑し、夕顔ももこの女に口惜しうは嫉妬も有らざりかし。今さら幽霊に化けて出る事もあるまい。
世間の評判に劣るべき人なりやは、現に天下の美女の品位にも及び寄らぬ護身の技なりけり。心映せのなだらかに取り成す気立ての良い女には、妬けに腹立たしくなりしを、末摘花は負けて争いを止みにしかな」
と、物の折々事には、
『なるほど、そうした女の生き方もあるのか』と、思し出づす。
年も暮れぬ。源氏の君は新年の準備に忙しく内裏の宿直所におわしまするに、大舗の命婦参れり。君の髪を整える御削り櫛などには、懸想立つ色恋の筋もなくて、帝の側近に対する単なる仕事と思えば、心安き御気遣もいらぬものの、
髪を整える命婦の熱心さがおかしくて、君がさすがに、
「その女を捨てたような真面目な仕事ぶりは、いったいどうしたというのだ。普段通り男に色目を使っても良いのだぞ」
などとのたまい、戯れなどして冗談を使い慣らし給えれば、命婦も親しみを感じて、君が召しなき不要な時も、聞こゆべき知らせのあるべき折りには、何かと格好つけて舞い上り話しけり。
「兵部卿の宮邸において、怪しき事のありはべるを知りながら、光源氏様に聞こえさせざらむも、ひがひがしう思い給えられて、この文を届けて良い物か少し悩みましたが」
と、物々しい言い方で微笑みて、軽く聞こえさせやらぬを、
「何起り様の事ぞ。わしが留守の間に、末摘花に何かあったのか。我には包み隠さず話し、『秘密なむ事などあらじ』となむ、思う。何があったか、残らずはなしてみよ」
と、のたまえば、命婦、
「いかがかは、良し悪しの判断に及ばず。自らの愁え事は、賢くともまず光源氏様に話してこそは、筋が通ると言うもの。『これはいと聞こえさ難くなむ』」
と、痛う言葉を内に込めたれば、
「例の艶なる命婦の思わせ振りぞ。何かにかこ付けて、わしを末摘花の屋敷に導き入れようとしても、そう易々とその手に乗る者か」
と、警戒して憎み賜う。
「かの宮姫より持たせはべる御文がこれでございます」
とて言って、懐より木箱を取り居出たり。
「何をそんな大事なものを隠しておった。ましてこれは恋文ではないか。取り隠すべき事ではあらず。直ぐにも返事を返すべきかは、そなたも存じておろう」
とて言って、初めての文を取り給うも、嬉しくて胸つぶれる。
みちのく紙の黒檀の素材ながら、暑く肥えたる強さに折り目が開かれて、中の文字が見られそうになる。
「厚紙は恋文には向かぬぞ」と思いながら読み始める。
黒檀の甘い匂いばかりは、厚紙に深う湿り給えり。筆使いも、いと良う書き仰せたり。歌も、
からころも 君が心の 辛ければ たもとはかくぞ そぼちつつのみ
唐衣 君が思いも 強ければ たもとは濡れる 磯のあわびも
とあり。ろくに歌も心得ず、伝えたき意味に首を打ち傾ぶき給えるに、
「何だこの歌は。磯のアワビの恋歌か」と笑い賜う。
御文の包みは衣箱の重なりにも桔梗の文様が有り、古風なる家柄の風格が感じ取られる。命婦はその漆塗りの箱の上に包み衣を乗せて、前に打ち置きて手を伸ばし、光源氏様の前に押し居で出したり。
二十
「今夜の誘い、これを、いかでか叶えてやるかは悩む所ぞ。簡単に『嫌だ』と方払いしたく思い給ざらむ。されど正月ついたちの御装いをいただいたとて、物々しい出で立ちぞ。この装いで、わざと末摘花の屋敷で過ごしはべらめるを、世間の常識からすれば、はしたなう映え返し、目立ち過ぎて笑い者になりはべらず。
寂しい家に一人引き込め退屈に過ごしはべらむも、人の道理に御心違いはべるべければ、断るも許され給わざるべき」
と光源氏様が御気遣いすれば、
「されど、めでたい正月の御装いを御覧ぜさせてこそは、末摘花も喜ぶと言うべき。是非ともその華やかな衣で御姿をお見せ下さい」
と、命婦の仰せ言葉聞こゆれば、
「引き込められなむ人は、辛く苦しかりなまし。濡れた袖を巻き干さむ世話もなき身に、末摘花の恋しい御言葉は、いと嬉しき心差しにも思いもすればこそは。と言いつつ、
淡雪は 今日なお降りそ しろたえの 袖巻き干さむ 人も有ら無く
淡雪は 今なお降りそ しろたえの 袖巻く人も おらぬ姫には
(万葉集)
早く末摘花に逢いたいものよ」
と、のたまいて、ことに急ぎ出発の物事は、言われ賜わず。
「さてさて、さても浅ましい御文の口付きやないか。これこそは末摘花自ずから書いた、手づからの御事の文限り、訂正無きなめれ。侍従こそは何をしておった。取り急ぎ直すべかめるを、恥を知れ。
また筆の扱いを知りとる学問院の博士ぞ、近くには無かりべきか。高度の知識の博士こそ御近くで仕えたならば、このような不始末もなかるべきを」
と、言う甲斐なく思す。
心を尽くして和歌を詠み居出賜えらんほど末摘花が思すに、
「いともおかしき熱意のある御方とは、これをも言うべかりけり」と、微笑み見せ賜うを、命婦、
「あり合わせの贈り物を繕い、光源氏様に届けたるは恥であったか。考えてみれば光源氏様には、左大臣家に葵の上と言う正当な妻がおった」
と、おもて顔を赤みさせて見奉る。
贈られた正月の正装服は、今用色の紫色ではなく、あせた紅色で、光源氏様が御召しになるには、え許すまじく、艶無うあせて古めきたる。直衣の裏植えも表と等しう粗末で、細やかなる絹の生地なり。
縫い目はいと尚直しう継ぎはぎだらけで、重なりの端づま、膨らみぞ見えたる。
「何だこの粗末な直衣は。裏地に紅色を使うは浅まし」
と、思すに、添えられたこの文を広げながら、端に手習いのすさび文字がが浮かんで、それを手本に書き写し給う気配をを、側目横目に見賜えれば、
なつかしき 色ともなしに 何にこの 末摘花を 袖に触れける
なつかしき 紫なしに 何にこの 紅花色を 袖に縫いける
紅花を 色濃き花と 見しかども 人をあだくに 移ろいにけり
紅花を 色濃き花と 見しかども 人の情けも 移ろいにけり
(奥入)
末摘花よ、男を信じてはならじ」
などと、末摘花の御文に、書き汚し賜う。
花の咎めを知りながら、なお浮気に走りらむも人も有るよう、あらむと心にやましさを感じながら、時々想い合わする折々の月影などを、愛おしき物から遠ざかるを、光源氏様はおかしう思いなりぬ。
「光源氏様、
紅の 人は夏衣 薄くとも ひたすらくたす 名仕立てずば
紅花の 人は夏衣 薄くとも ひたすら守る 名を汚ずば
心苦しの世や、この世の中は」
と痛う言い馴れて、命婦は一人ごつを言い給う。
二十一
命婦の和歌も良きにはあらねど、かう要の飼い馴でつらむ平凡な歌だに有らましかば、末摘花に不満のひと言も言うまいものをと、光源氏様は返す返す口惜しく思いなさる。
人柄のほどの、末摘花をお守りしようとする命婦の心苦しき思いやりのほどに、兵部卿の娘の名誉に朽ちなむ思いやりは、さすがなり。
二人が話し込んでいた内裏の宿直所に人々参れば、
「取り急ぎその贈物を隠さむや。人に見られたらまずい。頭の中将知られたら、それこそ大事だぞ。掛る姫君が男に着物の贈り物をする技は、普通の人のするものにやあらむ。急いで隠せ」
と、うちめき嘆き賜う。
『何人に御覧ぜさせ慌て賜う。人に咎められるほど身分の低い御方でもあるまいに、光源氏様ならもっと堂々として、
「ここは立て込んでいるゆえ、入るべきにあらず」
と、一括すれば良いではありませぬか。光源氏様の慌てよう、我さえ心無きような小心者に見え賜う』
と思いにけり。
内侍の命婦も光源氏様と同様に、いと恥ずかしくて、静々とやおら人々が通り過ぎるのを待ち居りぬ。
心なき 身にも哀れ 知られけり 鴫発つ沢の 秋の夕暮れ
心なき 我が身の哀れ 知られけり しぎ発つ川の 秋の夕暮れ
(西行)
また次の日、光源氏様は桐壺帝が住まわれる上の清涼殿を御訪ねさぶら賜えば、女房どもが過ごす台飯所に差し掛かり、部屋を覗き賜いて、
「臭わや、この雨に濡れたような匂いは何だ。部屋をきれいに掃除しとるか」
と、片手で鼻先を払いながら、
「所で命婦よ、昨夜の返り事の和歌、気になって仕方がない。怪しく心張み、気掛かりに過ぐしはべさるる」
とて言って、問題を投げ賜えり。近くにいた女房達、『何事ならむ』と、二人の秘密を暴こうとゆかしがる。
「ただ、梅の花館の色事。赤花の動き掛かりぞ。三笠の山の乙女をば捨てて、早々と二条院へ帰ったと思さるるか。
天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
天の原 振り避け見れば 近くなる 紅花里に 出でし月かも
我が家を照らす月が、女の庭も照らすとぞ。紅花色が気掛かりぞ」
と、歌いて扇で顔を隠し、すさびて女房の前に居出賜いぬるを、命婦は口元を押さえながら、いとおかしと思す。そこにいた見知らぬ人々は、
「謎めいた笑い事は何事ぞ、命婦御一人微笑み給うは、怪しき秘密が読み取れる」
と、咎め合えり。
「あらず、光源氏様との間に秘密など有るものか。寒き霜朝に鮮やかな紅梅は似合わぬ。掻い混ぜ練り込める女房どもの鼻の色合いにや、見えつらむ。君の御つづりし歌の御相手は、ここの女房どもを思いやる優しさも愛おしき」
と、命婦が言えば、他の女房ども賄いの手を止めて、
「そのような事が、有ながちなる御事かな。この中には光源氏様と密通すると匂える女房は何も無かんめり。左近が妻の命婦、肥後のうね部女房や少し赤鼻に見えしも、光源氏様の御相手には交じらいつらむ」
など、身分の心も得ず、互いに言いしろう。
「光源氏様、そのように御気掛かりてございましたら、どうぞその御相手に歌の返歌をお届けなされまし。その方も大変お喜びでございましょう」
と命婦は進言しけり。
「あい分かった。くだらぬ用事で大変邪魔したな」
と言いつつお返り和歌を奉りたれば、源氏の宮が後には、帝が台飯所の女房集いて、お見送り見目居出けり。
逢わぬ夜を 隔つる中の 衣手に 重ねていとど みもし見よとは
逢わぬ夜を 隔つる姫に 思い寄せ 重ねて幾度 衣見よとは
台飯所の簾をくぐりながら、ふと立ち止まり、白き紙に和歌を捨て書い賜える仕草の動きもぞ 中々風流でおかしげなる。
二十二
月籠りの大晦日、夕つ方にかの衣箱に御礼とて、
「先日は大変失礼な事を致しました。兵部卿の娘とあろうものが、光源氏様に粗末な衣を贈るなど、あってはならぬこと、改めて見立ての物一式、お届けに参上いたしました」
と言って、人々の奉れる御衣ぞや、ひと道具持って参りたり。
海老染めの赤紫色織物の御衣ぞ、また山吹か何かの衣ぞ色々見えて、命婦ぞ光源氏様に奉りたる。衣箱に有りし色合いを、御衣として『悪ろしとやとも見賜いけん』と、思い知らされるれど、
「彼の御召し物としては、はたはた紅の重々しかりしお似合いの衣ぞや。さりとも光源氏様の御好みからしても、御衣の一つとして消えじ」
と、値び人どもは、これまでの経験からして、
「今度は是非ともお受け取りになるに違いない」と定むる。
「末摘花様の御歌も、これよりは道理にかなった言割りに聞こえて、したたかに心打つ物にあれ。御帰りの歌は、ただ心に決めたおかしき方にこそあれ」
など周りの女房は、好き勝手な事を口々に言う言う。姫君もおぼろげならで、賢く仕出かし給える技なれば、今後は二度と失敗を繰り返すまいと、物に書きつけて、体験を記録に残し置き賜えりけり。
正月のついたちのぼどにまでに過ぎて、今年初めての宮中行事、音鼓たたき笛吹かし舞う男踏歌あるべければ、例の公達ども所々ふざけて遊び、悪霊をののしり追い出し給うべく床踏み歩く者、
白馬をいたわり自慢げにみせびらかす物、騒がしけれど、光源氏様は孤独に育ちになられたせいか、完全に乗り切れなくて、寂しき所の馬鹿げた遊びの哀れに思しやらるれば、
正月七日の日の節会には疲れ果てて、夜に入りて、桐壺帝の酒宴の御膳より早々とまかり居出賜いけるを、やがて光源氏様専用の御宿直所に泊まり賜いぬるように決めて、そこで夜更かしておわしたり。
例の馬鹿げた祭りの有様よりは、御顔色の気配、打ちそよめいて生き生きと世付いて元気におわしたり。君も少し、たおやぎて落ち着き給える景色を持て付け賜えれば、笑顔も生まれり。
しかし如何にぞ、自分が楽しいとは言っても、公けの酒宴の席を退散した後ろめたさは残り気が掛かりなる。
「改めて引き返したらむ時ぞ」と思い続けらるるものの、体は思うように動いてはくれない。
そのままに時は過ぎて、日差し出ずるほどになると心は安らい賜い成して、宮殿を居で賜う。
末摘花の屋敷に到着し、東の妻戸を押し開け破入りたれば、反動で扉が戻り返して、廊下の上でも中の廂の間でもなく往復し暴れたれば、朝日の長い光足、ほどなく差し入りて、中のようすが浮かび上がらるる。
雪少し降りたるに、中を明るく照らし、いとけざやかに見入るれらる。
「雪で御召し物が濡れてしまわれたのでございましょう、光源氏様。御着替えの服を用意致しました」
「これは末摘花殿、かたじけない」
女房頭が差し出す御直衣など奉るを見出して、光源氏様が微笑み賜えれれば、末摘花、少し前に差し居出て、傍らに臥し給える控えめな頭突き、謙虚で優しい心がこぼれ居出たるほど、いと華やかでめでたし。
御生き直りを見居出たらむ時と思されて、気が変わらぬうちに格子戸を引き上げ賜えり。中に明るい日差しが差し込み、末摘花の御姿が浮かび上がりたる。
「あっ、これは何と・・・」
愛おしかりし期待とは裏腹に、末摘花の姿は余りにも醜くて、頭がくらくらするほど幻滅した物懲りりに、格子戸を最後まで上げるも果て賜はで、手を止めて姫を見賜えり。
姫は脇息を押しよせて、右胸を打ち持たれて横になり、足元が乱れるほど十二単の裾は乱れたる。御鬢ぐきの頭の髪は寝乱れて、しどけなき姿を気にも留めずくつろい賜う。
割りなう古めきたる鏡台の上に置かれた唐櫛げ、仕方なう掲げの化粧箱など取り居出たり。
「姫よ、そう気を遣わずとも良い。そのままになさるが良い」
「あいー、わかったわい。なれば御言葉に甘えて、そうさせていただきます。御櫛とぎは嫌いじゃ」
さすがに男の御化粧道具さえほのぼのあるを、ほこりまみれに不潔に感じられて、『あるものは大事に扱わねば、不似合いな物持ちなるぞ』と、思されて、良家の屋敷には何もかも整っていることが『おかし』と、見賜う。
二十三
「それにしても末摘花殿、今朝のその十二単はどうしたというのだ。今はやりの唐模様、鶯色はすぐ先の春を思わせて美しい」
「そうかえ。わらわも気に行ったぞえ」
「どこでそのような美しい衣を手に入れたのでございましょうぞ」
とて言えば、女房頭と思える三十過ぎの女が前に進み居出て、
「何をおっしゃいますやら、光源氏様。末摘花様の御召し物も、私のこの服も、つい三か月前、光源氏様から送られたものでございますよ。末摘花様の後ろに置かれた箱を覚えておいででしょう」
とて言って、命婦は姫の後ろに置かれた御具を指差しにける。
「思い出した、思い出した。確かにわしが送った御道具箱一式じゃ」
「で、ございましょう。おっほほほほ・・・」
「はははは・・・」
女の御装束『今日は珍しく現代風に世付きたり』と、見ゆるは、在りし日に贈った箱の真心。命婦の御言葉を、さながら再現するに成りけり。興味ある紋付きにて、痴るきうろ覚えのある上衣ばかりぞ、
『おやっ』と、怪しとは思いしける。
「今年こそはだに、『私を好きです』との声、少し聞かせ給えかし。『何もかも光源氏様の御意のままに従います』と待たるる物思いは差し置かれて、少しずつお気持ちの景色、心の改まらむ、なむも奥ゆかしき。
あらたまの 年立ち替える 明日より 待たるる物は 鶯の声
あらたまの 年立ち替わる 冬日より 待たるる物は 鶯の春
(素性法師) 」
と、光源氏様、のたまえば、末摘花、
「さえずる春は、さえずる春は・・・・」
と、辛うじて少し和歌が居出給えるものの、わなわなかしく言葉に詰まり、悲しく居出振る舞いたり。
「もも千鳥 さえずる春は 物事に 改まれども われぞ振り行く
群れ千鳥 さえずる春は 旅立つ日 見方替われど われぞ振り行く
(古今集)
と、このように言いたかったのであろう、末摘花殿。その和歌の一言でも言えたら大したものよ。さりや、年月経ぬる年の効かな。物忘れとは、我々も年取ったものよ」
と、打ち笑い賜いて、
「忘れては 夢かとぞ・・ 思い来や 雪踏み分けて 君を見むとは
忘れては 夢かとぞ見る 見送りに 雪踏み分けて 君を見むとは
(古今集在原業平)」
と、おぼろげな和歌をずじて歌いながら、末摘花の館を居で賜う。
粉雪の舞う前栽前庭を歩き賜う光源氏様を見て末摘花は、高欄干の雨戸に持たれ掛かりながら見送りて、床に添いて伏し給えり。口元を覆い隠す扇の上端、側目の流し目より、素直かに流す涙のの末摘花、いと匂やかに控えめに差し居でたり。
「ああした謙虚な姿もいいものよのう。自分の醜い姿を悟り『またしても男に捨てられる』と、覚悟しているのであろう。
しかし、麻呂はああした無教養な女は苦手だ。惟光にでも任せるとしよう。。罪滅ぼしにお詫びの品を大盤振る舞いし、静かに立ち去るとしよう」
孤独な姫に恋した自分を反省し、今までした事は見苦しの技やと若君は思さる。
時は半月ほど過ぎて、光源氏様は二条院におわしたれば、紫の君、御近くに付き添いて、いとも美しき片生いの若さにて無邪気に遊ばされるる。
「紅の衣はかうも懐かしき美しき物でありけりか。末摘花がまとった色あせた醜い色合いとは、まるで違う。人によってはこうも衣の色は変わるものか」
と、君が見ゆるに、紫姫は無文様の桜の色合わせ、表に白、裏地に赤の袿を細長なよらかに着成して、薄紅の小袖をまとった姿、何心もなくて絵本もの見ながら微笑みしたまう有様、いみじう可愛げでろうたし。
「光源氏様、かぐや姫は優しい御じい様と御婆あ様を残して、月へ旅立つのでございますよ。どうして月へ行かなければならないのでしょう。残された御じい様と御婆あ様が可哀そうではありませぬか。ねえねえ、どうして」
と、言いながら庭近くの濡れ縁でくつろいでおわします光源氏様に近付いて絵本をお見せしました。
「姫も御じい様も御婆あ様も可哀そうよのう。しかしこの世には逆らえない運命と言う物があってな。かぐや姫はそれに従ったのだ」
「運命に逆らったらどうなるのでございますか」
「その時は命を落とす」
「まあー、怖い」
とて言って、紫の上は光源氏様の首に抱き着きました。姫の首に回した腕を握り締めながら、
「姫とて、いざとなつたら運命に逆らってはなりませぬぞ。運命に従ったとしても知識があれば身を守ってくれます。若いうちに、うんと勉強しなければなりませぬぞ。紫の上」
「はい、紫はこれからも、うんと勉強して参ります」
「姫は良い子じゃ」
光源氏様は紫君の尼君が天国に召されたのも運命だと説明したかったのですが、紫の上の悲しい顔が思い出されて、胸の中だけに留めました。
紫姫は古代からの教えに従って、御婆婆君が亡くなるまで続けていた御歯黒の習慣の名残りにて、歯を黒く染めると言う嫁の習慣もまだ無かりけるを、まだ少女のように純真に引き繕いておわしたる。
「何時まで経っても子供よのう」
と、光源氏様が嘆き賜えれば、
「紫は大人になどはなりたくありません。このままで良いのです」と言う。
ただ紫の上の気持ちとは裏腹に、眉のけざやかさになりたる目の表情も、美しく清らかになりける。
二十四 (末摘花最終回)
『心からなどか、どうしてかうも薄汚い世の中を素直に見集め嘆きかうらむ。かく心苦しき我が色恋の欲望の物も、近々迫り来る気配を見感じて至らで。現実の男が女を襲う醜さを知ったら、紫の上はどうなることか』
と、思しつつ、紫の上は光源氏様の欲望とは裏腹に、例の尼君が嘆き悲しんだように、もろとも無邪気に雛人形遊びを仕賜う。
大きな和紙に、かぐや姫が月に昇って行く絵など描きて、墨の外に色取りも仕賜う。何もかもよろずに、気ままにおかしうすさび、描き散らかし賜いけり。
「紫の上、麻呂にも少し描かせて給えかし。麻呂はかぐや姫の悲しい姿を描くとしよう」
「まあ、嬉しうございますわ。光源氏様。どうぞこちらへお越しくださいませ」
「あい、分かった」
我も紫の君が描いている和紙に寄り添い、月へ旅立つ姫を描きて添え賜う。髪、いと長き女を描き賜いて、鼻に紅を付けて見賜うに、美人の顔形に描きても、見賜う気失して、絵を描き賜う気持ちも冷ましたり。
「光源氏様、そのかぐや姫の御姿、どう見ても変でございますわ。赤鼻など気味が悪く。紫はこのような御人は嫌いです」
と言う。
「そうよのう。誰が見ても嫌な女じゃ、嫌いになるよのう」
とて言って、光源氏様は御自分が描いた絵を取ってじっくり見賜う。
ふと傍らに置かれた我が御身影の姿が、紫姫の鏡台に写れる御顔を見賜うが、いと我ながら清らかなる好青年に見立て賜いて、
「我ながらいい男ぞ」と、微笑み賜う。
手づから先ほどの筆を持ち出して、自分の顔に赤鼻を描き付けにて微笑みして見賜うに、鏡に写し出された我が顔は、
『これほど醜い男はどこにもおるまい』
と思うほど不気味に変化して、
「かくも良き顔だに、さても紅が交じれらむは見苦しかる、恥べかりける。おおー、嫌じゃこんな顔。紫の上、麻呂の顔をじつと見てみよ」
「いやー、変。ほほほ・・・おかしうございますわ」
姫君、いみじく笑い賜う。
「麻呂がかくこのように、傍ら醜い男に成りなむ時、紫の上は、それでも麻呂の近くに居てお仕えして下さるか。如何ならむ」
と光源氏様がのたまえば、
「うたてこそあらめ。気味が悪くて我慢なりません」
とて言って、さもや、紅色がそのまま鼻に染み付かむかと心配して、あやうく逃げ出したく思い賜えり。
空拭いをして、
「紫の上、見てみよ。これでどうじゃ、姫。姫の前に天下一の美青年が現れおったぞ」
「まだ少し、紅の色が残っておりまする」
「困った姫じゃ。更にこそ丁寧に拭いて、白き御化粧の真似を仕賜うぞ。用無きすさび技なりや。男が白い化粧をするなど気乗りがせぬ。内裏の桐壺帝に、如何に、説明のたまわむとすらむ。平時に白い化粧は御法度ぞ」
と、いと真面目やかに、のたまうを、
「紫の上は白い鼻も嫌いでございまする。何も化粧などしない方が良いのです」
と、返事する。姫君のむきになった言い方が、いと愛おしく可愛いと思して、
「今度は姫の顔に赤鼻を描いてみようぞ。鼻を赤く塗っても、姫はきっと美しい女に見ゆるぞ」
とて言って、寄りて赤い筆を差し向ければ、姫は我が鼻も赤くなったように思えて、袖で顔を拭い賜えば、
「平貞文中納言がしたように、姫の顔に色どり添え賜うな。赤からむは、あえて嫌いなむ」
とむきになって怒る。
「姫に嫌われたなら、我が人生は終わりじゃ。麻呂の目はこのように涙が溢れている」
とて言って、光源氏様が手持ち水て濡らした顔を見せれば、
「ほほほ・・・。光源氏様。御自分の顔を鏡に映してじっくり御覧て下さいませ。その嘘泣きには度々騙されぬぞえ。目の周りが真っ黒に染まっておいでじゃぞ。鏡に写して、御自分の顔をじっくり御覧くださいませ。熊五郎も良い所でございますわ。おほほほ・・・」
と姫君は大げさに笑い給う。
「何っ」
と言って光源氏様が鏡を見賜うと、目の周りが黒くなっている。
「もう姫は嘘泣きには騙されぬぞえ。平中納言の妾がしたように、光源氏様の手持ち水に墨を垂らしておきました」
「よくもやったな、姫。こんな顔は我慢できません。如何にお仕置きしてくれようぞ。今度は黒い鼻にしてやる」
とて言って姫を捕まえようとすれば、
「逃げるが勝でございます」とて言って急いで立ち去ろうとする。
「待て」
懐手拭いで顔を拭きながら姫君を追い回す御二人の戯れ賜う有様、いとおかしき妹背、仲の良い兄妹の関係と見え賜えり。
この日は陽射しのいとうららかなるに、何時しかと霞み渡れる一月の半ばのほどにて、木々の梢ども赤みを帯びて、冬の心元なき小春日和りの中にも梅は景色張み、つぼみは膨らみかけて、
『我が恋の春だ』と微笑み渡れる。
取り分けて見ゆる寝殿南の大階段の下、はし隠しの庭元の紅梅、いと特にも早咲きの花にて、すでに色付きにけり。
「紅の、花ぞあやなく、うとまるる 梅の立ち枝は 懐かしけれど
紅の 鼻ぞあやなく 疎まるる 梅の屋敷は 懐かしけれど
いでや、末摘花を放ったらかしにして良いものか。あのうっとうしい姫に対して悩みは尽きぬわい。ふうー、どうしたものか、疲れるのおー」
と、あいなく打ち嘆き、うめかれ賜う。
『光源氏様、末摘花や命婦に係わる人々の末々、あの者どもはこれから如何になりけむ。少しは残された人々の御気持ちを御考え下され』
空蝉や軒端の荻の事も思い出しながら、紫式部は末摘花の巻を閉じる事と致します。
第六巻 末摘花編 おわり
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かってに源氏物語
第十巻 賢木編 後半(四十一~五十五)
原作者 紫式部
古語・現代語同時訳 上鑪幸雄
四十一
時が過ぎて中宮の御八議の儀式もやがて終わり果つるほどに、比叡山最高の僧、山の座主召して出家する際に対し、
「皆の者良く聞くが良い。一度仏門の道に派入ったからには、そう易々と下属の世界に戻れぬと思え。藤壺中宮本人はもちろん、知り合いの者どもも、中宮が悟りを得るまでは決して会ってはならぬ。
『これは仏を忌む事として、受け賜うべき掟なるよし』
とくと心に念じておくように」
などと、のたまわす。
やがて藤壺中宮伯父の、比叡山横川の僧都が近う参り賜いて、
「そなたも元気にしておったか。桐壺院の中宮にまで上り詰めたとは大した物よのう。院が御亡くなりになられたからには、尼として仏に仕えるは当然の務めと思え。共に院の冥福を祈ろうではないか」
などと小声で話し掛け、中宮は黙ってうなずくほどに、僧都は一気に現世との別れを決意させるかのように、中宮の御髪を手に持つと肩の辺りで淡々とに髪を削ぎ下し賜う。
余りにも情け容赦せぬほどに、宮の内、侍女女房どもは、肩を揺すりて忌々しう泣き満ちたり。
「中宮様、その若さで仏門に派入り賜うとは、何と御痛わしや」
などと、口々に嘆き賜う。
何となく桐壺院の亡き後、弘徽殿女御の怒りを負い、勢力も衰えたる人だに、
「今は、昔を思えば夢物語。藤壺中宮の願いなど何一つ叶わぬ」と、世を背くほどは、怪しう哀れなる迷いのわざを、他に取るべき道はなかったのかと御気の毒に思れる。
まして兼ねての遠慮がちな御景色にも、出家の気持ち居出し賜わざりつることなれば、
「何事につけて、こう遠慮深いのか」
と、先帝からの御子や孫、兄弟どももいみじう泣き賜う。御八講に参り賜える人々も、大方の事の様々な儀式も哀れに尊きければ、みな袖を揺らしてぞ、帰り賜いける。
「何とか中宮様をお守りできない物か」
と、人々は口々に嘆き賜う。
故、亡き桐壺院の御子たちは、今しばらく蘭林坊に残りて、昔の院の優雅な御有様を思い出ずるに、中宮の身の上を、いとど哀れに悲しう思されて、
「藤壺様、何も気落ちすることはありませぬ。仏の道にも何か楽しい事がございましょう。修行の合間に書物や和歌を楽しみなさいませ」
「そうでございますとも。せめてささやかでも、樋榊や御花を御届け致しましょう」
などと、皆慰めの言葉をとぶらい聞こえ賜う。
源氏の大将は、ただ呆然と立ち止まり賜いて、慰めの御言葉も聞こえ居出賜うべきやり方もなく、途方に暮れ惑いて、
『どうしたのだ。何か慰めの言葉を、掛けてやらなくてはならないのではないか、人々が変に思うぞ。どうしたのだ。俺は薄情者なのか』
と、思されるほど何の行動もできず、
『などか、どうしてだろう。差しも刺されつ、ここに残る人々は、わしの行動に疑いを持っているではないか。性欲にまったく関係のない、小母甥の関係だと誰が信じようか。藤壺中宮を母君のような存在と崇めているのに、ここにいる親族は皆、男女の恋仲と見ているではないか』
と、人見立て奉るべければ、源氏大将は遠慮して、参列した御子など全員が居出賜いぬる後にぞ、藤壺中宮の御前に参り賜える。
やうやう人静まりて、中宮を世話する女房ども、鼻打ち噛みつつ泣きながら所々に群れ居たり。月は隈なき都を照らすほどに、雪の光り合いたる庭の有様も昔の事を思いやられるに、
『いと耐え難く思さるれど、この静けさこそが今の我々の宿命であろうか』
などと、光源氏様はいと良う思し沈めて、
「如何ように思し立たせて、かう出家なさるとは、にわかには出来心として行動できないこと。中宮様の御心は如何に」
と言えば、
「今初めて思い賜ふる考え事にもあらぬを、何もそう驚きなさいますな。私の出家について物騒がしようなりつれば、私の心乱れぬべく穏やかでは居られません。そっと静かにしてくださいまし」
などと、中宮様は、例の王命婦通して聞こえ賜う。
つづく
賢木編 四十二
御簾の内側の気配、そこら所々に集い、さぶらい歩く人々の絹の音鳴い、締めやかに尊く振舞いなして打ち動き身じろきつつ、悲しげさの慰め難き絶望感が御気の毒げに漏り居出来て、
『桐壷院と言う大黒柱を失った家の者は、木が枯れて葉を落とし朽ちて行くように、この世から消え行く運命にあるのか』
などと思い聞こゆる景色、
『事割りにもいみじき道理に満ちた結末であった』と聞き賜う。
風激しう打ち吹ぶきて、仏間の中まで吹き動かす御簾の内の匂い、いと物深き黒坊に染みて、香を焚く名香の煙もほのかなり。
『沈丁花、白檀、じゃ香など数種を練り混ぜた香料とか。ここが桐壺院の葬儀が行われた部屋なる。威厳に満ちた何とも言えぬ空気感。何とも言えぬ安らかな世界ではないか』
と人々が納得するほど、ここは神聖な場所に思える。
そこへ源氏大将の柑橘の御匂いさえ漏り居出薫り合い、極楽浄土を思いやらるる世の有様なり。何事も静かに、仏の世界に入り賜う。
東宮の御使いも参れり。
「桐壺院におかれましては、良うここまで私をお守り下さいました。これからはあやゆる困難に立ち向かい、誰もが崇める立派な帝となりますよう心尽くし、精進致します。
『どうぞ安らかに御眠りください』との事でございました」
使者は藤壺中宮の前に座り、頭を深く下げて申し上げますと、同じ内容が書かれた文をお渡しになりました。
「ついこの間、逢ったばかりであったが、良うここまで決意下された。もう何も思い残すことはない。これからも東宮の近くに居てお守り下さるよう御願い申し上げる」
中宮は御手紙を読みながら、使者にそう申し上げました。
先日東宮殿でのたまいし有様の様子も思い居出させ賜いて、呆然とした姿が聞こえさせ賜うにぞ、中宮様の御心強さも耐え難くて、文を開いたまましくしくと泣き賜う。
使者への御帰りの言葉も聞こえさせ賜わねばならねど、中宮様は泣き通し賜えり。
御簾の外にいた源氏大将は、
「東宮様の御気遣い有難く頂戴致しました。
『中宮様から心より感謝の言葉をいただきました』
と、申し上げて下され。母が東宮様の文を読まれて泣きだしたことは申し上げませぬように。ただ、
『安心して仏門の道に這入った』と御伝え下さい」
などとぞ、中宮の代理として言葉加え聞こえ賜いける。
誰も誰も中宮に仕える女房者どもは、ある限り心をさ迷わせ、落ち着く所も定まらぬほどなれば、外の人々が思す暮らしの事どもも、え打ち考え居出賜わず。
月の住む 雲居を駆けて 慕うとも この世の闇に なおや惑わむ
月の住む 天国懸けて 慕うとも この世の辛さ なおや惑わむ
と、思い賜えらるる心残りこそ慰めの甲斐なくて、東宮をお守りできぬ弱気な立場の自分が情けなくて、
「中宮様の出家に思し立たせ賜える決意こそはうらやましくて、ただただ思い切りの良さに限りなう感心するばかり。中宮様の無きあと、どうやって東宮をお守りすれば良いのか分かりません」
と、ばかり源氏大将の声も聞こえ賜いて、
「何を仰せになられますか、光源氏様。光源氏様は今の帝の弟君でございますよ。礼を尽くして御願いなされますれば、何も叶わぬ事はございません」
などと申し上げて、人々近う大将の周りにさぶらえば、様々乱るる心の内をだに外にさらけ出さずして、中宮を取り巻く人々を安心させる御言葉も、え聞こえ表し賜わず。
珍しく優柔不断な態度がいぶせし。
大方の 浮きにつけては いとえども いつかこの世を 背きはつべき
大方の 浮世につけて いとまえど いつもこの世を 振り向きはべつ
「かつ一方では、心濁りつつ、右大臣の天下が腹立たし」
などと申し上げて、片方には東宮使者への心知らせ、正直な心情を語った思いであっただろうと想像なるべし。
使者も哀れのみ尽きせねば、胸も苦しうて、蘭林坊をまかり居出賜いぬ。
つづく
賢木編四十三
源氏の大将は二条殿にても、我が内方に一人で打ち臥し賜いて、誰の御目にも会わず、世の中を厭わしう憂鬱に思さるるにしても、春宮後見人としての御事のみぞ、心苦しき。
「桐壺院は母宮をだに、おおやけの中心人物方ざまに取り立てて、冷泉王子を守るよう取り計らって下された。
『中宮に抜擢すれば東宮の身は安泰』と思し置きてしを、だが権力者の右大臣はその御事を快く思ってくれなかった。
世の憂さ晴らしに対する風当たりに耐えきれずを、かくなる尼に成り賜いに至れば、元の藤壺女房としての御位ににても、今は、え居わせ戻れじ。宮殿の外の人物になるしかなかった。
その上、我さえ東宮を見奉り補佐を棄ててはどうなる事か」
など思し、眠れぬまま夜を明かすこと限りなし。
『今は掛る方様の東宮の御住まいを整えるべく、御調度品どもを集めてこそは、東宮の権威も上がるであろう。この上ない上等の品物を東宮殿に贈るのが役目だ』と思せば、
「年の内に終わらせろ」と、急がせ賜う。
命婦の君も藤壺中宮に従いて尼のお供になりければ、
「藤壺中宮を心してお守り下され。王命婦ともなれば帝から何らかの支援があるとも思うが、麻呂も出来る限りのことをする。どうぞ末永く中宮をお守り賜もうれ」
と、それも心深うとぶらい賜う。
詳しくは言い続けん内輪事にて、事々しき閉ざされた有様なれば、中宮の哀れだけが漏らし居でける状況のようなんめり。さような事ははともかく、かのうやうな折りこそなれば、
『中宮を哀れみ、見返りに弘徽殿皇太后をあざけるおかしき歌など、大衆の間から居でくるやうもあれば嬉しき』
と願う。世の中騒々しや。
源氏の大将が時々藤壺中宮の尼寺に参り賜うも、今は源氏の君に対する慎ましさも薄らぎて、尼と言う性欲が閉ざされた世界に安心召されたのか、中宮御自ら源氏の大将を呼び出し、聞こえ賜う折りもありけり。
藤壺中宮を母と思い占めて好きし事はさらに御心に離れねど、二人が共に夜を明かす事は、あるまじき事になりかし。
明けて年も変わりぬれば、内裏渡り、奥御殿は華やかに、内苑の宴、踏歌踊りなど聞き賜うも、藤壺中宮の三条院では、桐壺院の崩御の翌年なれば物のみ哀れにて、御行い締めやかに仕賜いつつ、
『後の世の冷泉王子の華やかなる事のみ思すに、我が子が帝になったならば頼もしく、誰にも負けない奥御殿の暮らしができるであろう。ただ今は弘徽殿皇太后の世の中』
それが難つかりし事、宮殿を離れて改めて思欲さる。
「だがいつまでも弘徽殿皇太后に負けてはおられぬ。正月ぐらいは、ぱっと華やかに頼もしく、花火でも打ち鳴らして右大臣をも驚かしてやりたいものだ。だが今は我が夫のために精進せねば』
などと、藤壺中宮は密かに思い賜う。
常に行われる読経の御念誦堂をば、さる物に据え置きて、慣例に従いあえて使わず、事に新らしく建てられたる御堂の祭礼会場は、三条院、西の対の南当りにて、本殿からは少し離れたる所に人々を渡らせ賜いて、
「ここならば新年の祝い事を行うに、人目を恐れる事は無い。遠慮のう楽しもうではないか。新年を迎えたからには、今日はめでたい日でなければならぬ。藤壺中宮の許しがあったと思うて楽しまれよ」
などと、取り分けたる華やかな行い施させ賜う。
源氏大将も参り賜えり。改まる正月の華やかな印もなく、宮の内ののどかに数少ない人目にまみれて来る姿は、三条宮の司ども親しき者ばかり集めたものの、表情は打ちうなだれて浮かぬ姿なり。
「普段の見なしにやあらむ。右大臣の世に屈し、痛げに思えり」
と、中宮の人々は言う。
「青馬白馬ばかりぞ。正月に邪気を払う儀式にしてみれば立派な馬ではないか。これを見たら中宮様も御喜びになられるであろう。なお引き返えぬ天下一品の物にて、これは素晴らしい馬だ」
と、中宮お仕えの女房など見てける。
「それにしても大通りに出て見れば、所狭う参り集い給える上達部など、朝廷の主だった人々は、三条院へ続く道を除けきつつ通り過ぎて、向かいの二条院、右大臣大居殿に集り賜うを」
『それは強き物には巻かれろ』の道理に掛かるべき事なれど、ただ中宮様を哀れに思されるにしても、源氏大将の訪問は千人にも勝つべき華やかな御人気有様にて、
「深う思されて尋ね参り賜える」を見るに、光源氏様の思いやりには相もなく涙ぐまるる。
つづく
賢木編四十四
参ら人も、いと物哀れなる落ちぶれた景色に、打ち見回わし給いて、問みに物のたまわず、様変われる御住まいに、
『御気の毒に。桐壺院が亡くなられた後、これほど貧しい暮らしが来ようとは誰が想像できただろうか』
などと嘆き賜う。
御簾の端の垂れ布や、御几帳も青鈍び色にて地味な色合いなるに、暇々な隙間よりほのかに見えたる藤壺中宮の薄鈍色喪服、くちなし色の袖口など、なかなか落ち着いて、
『なまめかしゆう、それも、奥ゆかしゆう』思いやられ賜う。
高欄干に立ち庭を眺むれば、溶け渡る池の薄氷、浅岸にのみ残り、岸端の柳の景色ばかりは、時を忘れぬ春の面影をなど、様々な樹木をながめられ賜いて、
音に聞く 松が浦島 今日ぞ見る むべも心ある 海女は住みけり
音に聞く 藤が浦島 今日ぞ見る 無辺も心ある 尼は住みけり
(素性法師 源氏物語では むべも心あるのみ使用)
と、忍びやかに打ち誦し、光源氏様は詠い賜える。さらに、
ながめ狩る 海女の住み家と 見るからに まず潮垂るる 松が浦島
ながむれば 尼の住み家と 見るからに 貧し干たるる 藤が浦島
と聞こえ問い賜えば、奥深くもあらぬ障子際にて藤壺尼の御声が聞こえ賜うゆれど、皆仏に身を譲り、世間を捨てにける人々と聞こえ賜える御座し所なれば、男と女が言葉を交わすには少し、け近く心地して、それでも
ありし世の なごりだになき 浦島に 立ち寄る波の 珍しきかな
ありし世の 権勢も無き 浦島に 立ち寄る人も 珍しきかな
とのたまうも、ほのかに聞こゆれば、忍れど我慢できずに涙ほろほろと、こぼれ賜いぬ。
夜を薄情と思い済ましたる侍女尼君達の、耐え忍ぶ姿を見るらむも果てしなければ、源氏の君も言葉少なにて涙出賜いぬ。
「さもたぐいなく、練び勝り賜うかな。これほど光源氏様が立派になられるとは予想もしなかった。桐壺院の世が長く続いたならば、弘徽殿皇太后も恐れなして尼に退いた物を。御気の毒に」
言えば、もう一人は、
「心元無き後見人の所無く世に栄え、時に幸運に逢い賜いし時は、さる一つの天下人として権勢を振り得たものを。何かにつけてか運悪く、我が栄華の世を思し知らむと押し計られ賜いしを、御気の毒に」
と言いながら涙汲む。またもう一人は、
「今はなぜか、いと痛う思し沈めて、朝廷では何一つ受け入れられず、はかなき事に付けても、物の哀れなる景色さえ添わせ賜えるは、相無う心苦しうもあるかな」
と言えば。右近の老女は、
「そうばかりとは言えぬ。この苦難を耐え忍び、どうにか生きてさえ下されば。いつか光源氏様の天下が必ずやって来る」
となど、老い知ら得る人々、打ち泣きつつ未来にめでたき願い事聞こゆ。源氏の宮も、庭を眺めながら、思し出ずる事、多かり。
つづく
賢木編四十五
一月中旬の司召し人事異動の頃、この藤壺宮の縁戚に近い人々は、本来賜るべき司職も得ず、罷免の知らせに嘆き賜う。
「大方の道理にても、源氏宮の官位御賜りにても、必ずあるべき年功の加階などをだに加えようとせずなどして、右大臣家に近い人々をだに昇進させるとは、何と酷い仕打ち。これでは多くの人々に恨まれようぞ」
と、嘆くたぐい人多かり。
『かくして遠い昔の世に於いても、何時しかこれと似たような事があった』
などと、御位を去り、御封などの税収が留まるべきにもあらぬを、ことに付けて形ばかりの中宮に変る事多かり。
中宮様は都に住む民戸の税収や労役を得る権利の割り当ても少なくなってしまいました。
「これも、皆かねてより思し捨ててしまいし世なれど、三条、宮人どもも寄り所なげに『悲し』と思える景色どもに付けてぞ、私が出家したばかりにここの人々にも迷惑をかけてしまうのか」
と、御心の動く折り折りもあれど、
『我が身を無きにして、東宮の御世を平らかに受け入れられるように身を引いておわしまさねば』
とのみ思しつつ、
『東宮が右大臣家の意のままにあやつられると解れば、敵方も東宮を粗末には扱わぬはず』
と思しつつ、桐壺院の供養の御行い、弛みなく勤めさせ賜う。
「東宮様の御身分は安泰なのでしょうか。都では廃位の噂も広まっております。
『冷泉王子は光源氏君の御子ではない。桐壺院の血を引く正当な御子様ではない』との噂も」
などと、人知れず、あやうく忌々しう思いをさせる報告も聞こえさせ賜う事もあれば、
『我にその罪を与え賜え。冷泉王子には何の罪もない。冷泉王子はれっきとした桐壺院の御子、私が源氏の君と親しく接したばかりに、右大臣家に有りもしない噂を広めさせる口実を与えてしまった。
冷泉王子の罪を軽めて許し賜え。あの子には何の罪もない』
と、仏を念じ祈りを聞こえ賜うに、
『何もかも丸く収まるように』と、よろずに慰め賜う。
源氏大将も、藤壺宮の思いをしかと見奉り賜いて、事割に
『それは道理に叶った正しい筋道だ』と思す。
この二条殿の人どもも、
「今は何を言ってもまかり通らぬ世の中。せめて右大臣家の目障りにならないように、ひっそりと暮らすのみ」
と、同じ有様に辛き事のみ自覚あれば、世の中、はしたなく非情に思われて光源氏様も家の中に籠りおわす。
左大殿様、左大臣も、公け事、私事が一変し、引き変えたる世の有様に途惑い、物憂く憂鬱に思して、致辞表を表現奉り賜うを、帝は故桐壺院のやん事なき御後見人、恩人と思して、また、
「良いか、朱雀皇子よ。わしが亡き後、右大臣と弘徽殿皇太后が朝廷を牛耳るに違いない。そうなると、そなたの考えなど、まかり通らぬ世の中になるぞ。そなたは優しい。
そなたが理想の政治を考えておるのだったら、そなたにも理想の世の中を考えておるのだったら、唯一の味方となる弟の光源氏と左大臣を手元に残す事だ。この二人がおってこそ、右大臣の横暴をとめられる。
良いか。この事をしかと肝に命じておけ」
との御言葉も考え出されて、長き世の固めと聞こえ置き賜いし御遺言を思し召すに、
「ならんならん、左大臣殿、そなたは伯母君の夫ではないか。そなたと源氏の君が近くに居て支えてくれなけれは、母君の横暴をとめられない」
と申し、左大臣を棄て難き者に思い聞こえ賜えるに、
「それも今では甲斐なき無駄な事」
と、度々太政大臣の位を用意させ賜わねど、
「せめて源氏の君を左大臣に替えさせ賜うと命じて下され。源氏の大将はわしの代わりを勤めさせていただくに違いない」
と、申し賜いて、頑として辞表の意志は固く、大臣宅に籠り賜いぬ。
今は、いとど右大臣の一族のみ、返す返すも意のままに栄え給う事、限りなし。
「世の重しと思われし者、唯一の救世主と仕賜える大臣の辞職により、かく無気力に世を逃れ賜えば、公け事の朝廷も心細う思され、やがて暗黒の社会が来るに違いない」
と、世の人々も心ある限りは嘆きにけり。
つづく
賢木編四十六
右大臣家の御子どもは、父親に似ずいずれとも人柄も穏やかで、目安く世の人々に用いられて、頼まれ事も多ければ、心地良げに暮らしの物仕給いしを、一方左大臣家はこのようなく静まりて、
「三位の中将なども、右大臣家の婿養子ではあるが、どうも嫁の家が気に食わぬらしい。
『父親の左大臣をないがしろにする弘徽殿の皇太后と、右大臣に反発しているそうな。右大臣家の世を思い静める有様、こようなし』
だとよ」
「かの右大臣の四の君をもよ、なおも枯れ枯れに心重く打ち通いつつ、不機嫌な態度で訪ねて来る楠木大将が気に入らぬらしい。
『あなたが渋々訪ねて下されるのは有難いと思っております。しかし、それほど不機嫌な態度で目覚ましゆう持て成されたれば、私だって良い気持ちが致しません。いったい何が御不満なのですか』
と、言ってたんだとよ」
「うっふふふ・・・面白いのう。心溶けたる御婿の心の内にも入れ賜わず、四の姫君も御気の毒な事のよう。強欲な右大臣家の者ども、
『思い知れ』とにや。いい気味だわい」
などと世間の人々、口々にあざけり笑う。
三位の中将楠木様は、このたびの司召し人事異動にも漏れぬれど、愛しも『有難い』と思し入れず。
源氏の大将は、かうも面白くなく、静かにておわするに、世の中は、はかなき物と見えぬるを、
「まして人の人生は思い通りにはならない物、事割りにも、それは当然として受け取らねばならぬ」
と、思しなして、常に宮中に参り通い賜いつつ、学門をも、遊びをも、もろともせず、普段通りに御勤め仕賜う。
いにしえの昔の良き時代が物苦る欲しきまでに、
『そう言えば、大した美人でもない末摘花を、我が愛人に迎えようと、楠木中将と競い合ったこともあったっけ』
などと、挑み賜いし若き時代を思し居出て、片身片身に代わる代わるはかなき事に見付けつつ、さすがに昔からの負けず嫌いな性格が浮き居出て、何事にも勝者を目指して挑み賜えり。
春秋の御彼岸御読経をば見てもさる物にて、臨時の自然災害や疫病時も様々に、尊き事どもを数多く施させ賜いなどして、過ごされるようなり。
「またいたずらに罷免などされて、いとま有りげなる文人、絵師、医学博士ども召し集めてまいれ。漢詩や和歌など文作りや、韻字塞たぎ遊びなどのようの、すさび技遊びどもをし、楽しもうではないか」
などと御心をやりて、今は落ち目となった左大臣家の人々を集めて、宮仕えをも、おさおさ施行仕賜わす。
ただそうした無遠慮な人々が宮中を歩き回るを見て、世の中には、
「煩わしき事どもや。何か事を起こす前に釘を刺し込まねば厄介な事になるぞ。右大臣に報告せよ」
と、やうやう言い出ずる人々もあるだろうと思うべし。
夏の雨、のどやかに長々と降り続いて、つれづれに退屈になるころ、楠木中将、さるべき漢詩集ども、余多に数多く集めて、随身に持たせ宮中に参り賜えり。
「帝王殿にも、書庫文殿開けさせ賜いて、まだ一度も開かぬ御厨子どもの中から、見た事のない珍しき文庫集のゆえ、秘蔵書ともなからぬ古書を少し選り居出させ給いて持って参れ。
その道に詳しい学者、博士の人々、源氏方にも集めさせろ。紅白に分かれて韻塞たぎ遊びをしようではないか。この長雨に皆も退屈しておろう。かび臭い頭を洗い流すには丁度良いぞ」
と楠木中将は、わざとはあらねど、源氏大将に恥を掻かせようと、数多くの者どもをあまた多く召したり。
「光源氏様、三位の中将より挑戦状の知らせでございます。『源氏方の殿上人、大学院のものども多く集めて、承香殿に集まっていただきたい。韻塞たぎ大会をやろうではないか』との事でございます」
惟光の知らせに、光源氏様は大喜びでございました。
「よし分かった。受けて立つと知らせてくれ」
光源氏様は、それまで憂鬱に雨をながめ、池の水紋をながめていたのでございますが、生気を取り戻したように表情が明るくなりました。
承香殿には、いと多う宮殿の者どもが集い給いて、左右に陣を駒取り、片分かさせ賜えり。光源氏様は左方に紅組となり、楠木中将は右方に白組となって、多くの随身を従えて陣取りました。
つづく
賢木編四十七
「勝負には何か金目の物を懸けないと面白ろうない。わしはこのでっかい桃色珊瑚の指輪を掛けるとするが、源氏の君はその赤い珊瑚の指輪を掛けたらどうじゃ。お互いに勝った方が、好きな物を選べるとしよう」
「あい分かった」
楠木大将は、源氏の君が空蝉から預かったと言う赤い珊瑚を、今だに欲しがっているようすです。この話は帚木の編でも随分話題になりました。
「それから副賞として、負けた方は酒二十升を提供するものとしようではないか。勝負が終わったら親睦会を開くとしよう」
「わあー、それは良い」
勝負に集まった人々は歓声を上げ、大喜びしました。
かのように賭け物ども、いと二つなくて、楠木三位中将は、念願を果たそうと、胸をわくわくしながら挑み合えり。
「例えばこうじや。簡単じゃぞ。
『ゆん いん う あく いよう』と来れば何の歌か、分るよな。惟光、当てて見ろ惟光」
楠木中将は白い紙に大きく書いた、ひらがなで区切った文字を見せて言いました。漢詩に詳しい学者を除いて、他のほとんどの人物は首をかしげています」
「何で私を指名するのですか。私が知らない事を知っていて使命するのでしょう。楠木大将も人が悪い」
惟光太夫は口を尖らせて言います。
「ははは・・・」
「おっほほほ・・・」
大勢の男衆が笑っていました。
「それでは空蝉の小君、これは何と言う漢詩か、判るか」
楠木大将は利発そうな子君に向かって言いました。
「はい、春 眠 不 覚 暁でございます」
「その通り、和文に直すと何と読む」
「はい『春の眠り、暁を覚えず』でございます」
「その通り。簡単ではないか、惟光」
源氏大将は笑いながら惟光を見て言います。
「うるさい」
惟光は小君をにらみ付けました。
「それではもう一つ例を出すぞ。
『あ あく い あ いょう』と、来れば何だ』
「花 落 知 多 小 でございます」
今度は学者を含めた大勢の人が答えました。
「その通り。『昨夜の雨で、多少花が落ちる事を知った』という漢詩だ。それでは本格的に、韻塞たぎ遊びを始めるとしようではないか。源氏の君は左方の大将に、わしは右方の大将になる。末席の者から順々に交互に答えて、漢文を言い当てた方が勝ちだ。
出題は式部卿の二人にお願いしたい。そこにある珍しい書物の中から好きな物を選んで紙に書いてもらいたい。両方の全員が分らない時は会場にいる人にも答える権利はある。
それでも分からない時は式部卿に何の情景を歌った詩か解説してもらいたい。再びやり直しだ」
楠木大将は説明すると、大将は右側の頭席に座りました。
韻塞たぎ遊びも、持て過ぎくままに時が流れ、解き難き韻の文字ども、いと多くて、知識に覚えある博士ども、学者、歌人などの戸惑う所どころを、源氏大将が打ちのめ給う有様、いと爽快なり。
「大将はこよなき御才能のある御方なり」
と、人々は口々に言う。
「いかでかしうるにも、楠木大将の方は源氏大将の足元にも足らい給いけん。知識の差には圧倒的な開きがある。なお光源氏様の学識は、さるべき前世からの歌人にて、その人が乗り移ったとしか思えん。
よろずの事、人には優れ賜える天才が居る物だ。これは驚いた」
と集まった人々は、光源氏様の学識の豊かさを。
「めでたい。めでたい」
とうなずき、称賛する声、聞こゆ。ついに楠木三位の中将、負けにけり。
賢木編四十八
韻塞たぎ遊びの後、二日ばかり有りて、
「悔やしゅうは有るが、こちらで宴会を開くしかあるまい」
と、三位の中将楠木様は、負け技の催し事仕賜えり。事々しゅう超豪華な品物ではあらで、なまめきたる檜割箱ども並べて、源氏の君と約束した懸け物ども、様々にして並べ賜えり。
今日も例の宴会好きの人々多く召して、和歌文など創らせ賜う。庭に目をやれば、本殿の階段の元、地面のさうび薔薇景色、真っ赤に見せ付けんばかりに咲きて、
「春秋の桜や菜の花、菊の花盛りよりも、締めやかにおかしきなる程に、見事にきれいではないか」
などと、人々感心仕賜う。
「何でも天竺渡来の花だとよ」
「是非とも近くで拝見したい」
「良いとも。皆で庭に出て、蹴鞠でもしようではないか。源氏大将も、とくと我が家の薔薇を拝見して下され」
中将は自慢げに言いました。
「かたじけない」
光源氏様は少し身体が重たげに動き出しました。
『右大臣家自慢の花は、我が家の咲き終わった椿よりも美しい』
と、思ったのか、何となく浮かぬようすです。それでも右大臣家の庭は広々として気持ち良く、庭に降りた頃には薔薇の美しさも忘れ、陽気に打ち解けて遊び賜う。
蹴鞠遊びの一人に、飛び抜けて上手な童がいて、光源氏様が
「あれは誰か」と聞くと、
「中将の御子、二郎と言います。今年初めて殿上人として朝廷に参上するそうでごさいます」
「そうか。では年は幾つになる」
「八つ、九つばかりにてまだ幼く、声もいと面白く高い声でございますが、なかなか利発でしっかり者でございます」
「楠木中将の御子とは言っても、あいつもいろいろ罪深い所があるからのう。いったい母親は誰の子か」
源氏の大将は口には出さなかったものの、心の中で夕顔の御子を思い出しておりました。蹴鞠遊びに皆が退屈しかけた頃、その利発そうな子供が、
「光源氏様、笙の笛吹きなどするも、なかなかうまく行きません。光源氏様は笙の名手とか、どうぞ教えて下さいませ」
と話し掛けて来ました。
「おう、そは良い心掛けじゃ。笙の笛はあるのか。あるならば笛を二つ持って参れ」
「かしこまりました。寅之助、笙笛を二さお持って参れ」
利発そうな子供は随身に言いました。
「かしこまりました」
随身が手際よく挨拶し立ち去るのを見て、光源氏様は二郎と言う若者と随身の関係に感動致しました。随身が主人に対して忠実である姿が読み取れます。
二人が階段を登って行くと、周りにいた右大臣家の屈強な男どもは、まだ幼い子供に向かって深々と挨拶します。二人は階段上の高欄に座り、庭が一番良く見渡せる場所で笙の練習をしました。
光源氏様が見るところ腕は良くて、間違いもほとんどなくかなりの筋の良さです。
「おう、なかなか上達ではないか。これほど笙の笛を使いこなす若者は他におらんぞ」
光源氏様は久々に才能ある若者を見て感動いたしました。
「ありがとうございます」
「それではもっと難しい『弥生の海』なとを演奏しようではないか。寅之助とやら、そちらは太鼓を鳴らせ」
光源氏様は笛と共に準備した鼓を見て言いました。
「ありがとうございます」
随身は軽く頭を下げて太鼓を肩に持ちます。光源氏様は若き小将が笙の笛吹きなどするを感心して美くしび、手の持ち方や口の当て方まで指導して、詳しく持て遊び賜う。
余りの筋の良さに感動して惟光に、
「母御はいったい誰なんじゃ」
と、後ろを振り返り、小声で聞くと、
「四の君腹の、二郎なりけり」
と、楠木大将は大声で答えました。驚いたのは光源氏様です。
「えっ、これはびっくりした。大将は何時からそこに居たのだ」
「ずっと前からおったぞ。てめえの考えている事はお見通しだわい。丁度良い機会じや、水無月にも殿上に上り、帝の前で朝廷奉公する事になると思うが、よろしく頼む」
楠木大将は二郎少将の肩を後ろからつかみ、前に押し出しながらいいました。
「それでやっとわかった。右大臣家四の姫君の御子様とはのう。通りで気品も貫禄もある。母君は達者でおられますか」
「はい」
二郎は元気な声で答えました。楠木大将は二人のようすをにやにや笑いながら見ております。
つづく
賢木編 四十九
二郎に関しては、世の人の思える期待も事々しう寄せ重くて、名前覚え賜う事限りなく、皆が特にかしづき大事に育てけり。
「心映えも才才しう利発で、容貌形もいと美しくおかしくて、若い時の光源氏様のようだと皆が申しております」
階下で低い姿勢を保った小君は、楠木大将の御機嫌を伺うように低姿勢で申し上げました。
「遊びの少し乱れ行くほどに、調子に乗り過ぎるのがこやつの悪い所なんじゃ。今に遊び過ぎて、大怪我でもしないかと心配じゃ」
「若い時は誰でもそういう物よ。今ははそうであらなくちゃ困る。
高砂の 幸先の 高砂の 尾上に立てる 白玉玉椿 ゆり花の
小百合花の 今朝咲いたる 初花に 逢わまし者を 小百合花の
初々しい若き君に逢えるはめでたし。今日は二郎殿に逢えたてうれしい限りじゃ」
光源氏様は催馬楽を居出して歌い始め、それに合わせて立ち上がり、舞い始める姿はいと美し。
源氏大将の君、御衣ぞ脱ぎて、頭から担げ賜う。例よりは品格を打ち捨てて、打ち乱れ舞い賜える御顔の匂い、似る物なく妖艶に見ゆ。
「源氏の君は、よほど楠木大将の御子が御気に召したと見ゆる。うれしそうにニコニコしているではないか」
「葵の上との間に御生まれになさった夕霧様と、良い遊び友達になれそうだわい」
重臣の連中がいろいろささやき合う中で、光源の大将は薄物の直衣、一重を着賜えるに、透き通り賜えるほのかに赤い肌付き、増していみじう性欲的に見ゆるを、
「これはたまらん。わしもそこらへんの女房に一発ぶち込みたくなったわい」
「わしもじや。たまらんのう。これほど力が威切り立つとは、さすがは光源氏様じゃ。十か月経つと、子供が沢山生まれるぞ」
「めでたし、めでたし」
と、年老いたる博士どもなど、遠く将来を見奉つりて涙落としつつ、喜び居たり。
『逢わまし者を・・・小百合花の・・・』
と歌う光源氏様の舞い閉じ目に、三位の中将立ち上がり、
『青松の 須磨の白砂に 波押し寄せて 大和の国に 栄えあれ・・・』
と歌い始め、片手に素焼きのかわらけ杯を持ち、舞い入り賜う。
それもがと 今朝開けたる 初花に 劣らぬ君が 匂いをぞ見る
それもがと 今朝開けたる 蓮花に 劣らぬ君の 香りをぞ見る
と、終わりに継ぎ足して朗読し、舞いながら源氏の君に杯を差し出す。源氏の君は微笑みて、その杯を取り賜う。
時ならで 今朝咲く花は 夏の雨に しおれにけらし 匂うほどなく
過去ならで 今朝見る蓮は 夏の雨に 振るえ縮まり 匂うほどなく
「わしも年老いたものじゃ。若い二郎殿に比べたら体力が衰え、年老いた爺いに似たる物を。恥ずかしくてみせられぬ」
と、打ち騒々どきて笑い出し、逆らうがわしく聞こえ召し、手を振り
「そうではない、そうではない」
と払いなすを、楠木大将目で咎め居出つつ、杯を受け取るよう強いなし聞こえ賜う。
賢木編 五十
さらに楠木大将は、我が子の二郎を源氏大将に気に入られるようと、多かり召し源氏大将の誉め言葉どもも並べ立て、かようなる両家の親交が眞保ならぬ確かなものであること、数々書き作る。
「源氏大将は大した物よ。和歌もうまければ舞いも素晴らしい。女に生まれたならば、わしの嫁に迎えたであろう」
と、言いながら後ろから抱きしめる。耳元に唇を寄せるとか、親しき中にも度が過ぎる技を見て、
「三位の中将様、少し酔いが回り過ぎます。少し遠慮なさいませ」
と、随身の貫之が諫め、二人を引き離そうとする。
二人とも酒に酔い千鳥足でふらつき、今にも倒うるる方にて、支えるも二人の体が重くて難しければ、それ以上の手助けも留めつ。
皆この文遊びの御事をほめたる筋のみにて、韻塞たぎ負け技のおもてなしなれば、多少の光源氏様の乱れた振る舞いに大らかなり。光源氏様はますます大和和歌の物、唐の漢詩の物、更に書き続けたり。
この宴会のようすを書き続けたる我が紫式部の御心地にも、光源氏様の御行いは痛う思しおごり過ぎて、
「我唐の国に例えれば、文王桐壺院の子、武王朱雀帝の弟、東宮冷泉王子の後見人なるぞ。この世の天下、何も恐れる物はない」
などと、打ち誦し賜える。
「そうよ、今は源氏大将の天下よ」
と、楠木大将もお世辞を言いてはやし立てる。
「我、周公旦」
と、御名乗さえぞ、めでたき。楠木大将は、
「我は文王の子、亡き武王の弟、幼き成王の叔父なり。朱雀帝が帝の位を退いたならば『天下において政治を行ったとしても賊しからず』と、言いたいのであろう」
などと、
「成王の何とかだと、のたまわむ事らしい」
とすらむ。しかし、光源氏様は、冷泉王子の実権を握ったならば、
「やはり実の父親は光源氏様であったのか」
と、ささやかる噂、そればかりや気になり始めて、またしても心もと無からむ。
叔父兵部卿の宮も常に宴会好きで、宴があれば嗅ぎ付けて、迷惑も考えず無遠慮に渡り賜いつつ、御遊びなどもおかしうはやし立てて、楽しみおわする宮なれば、それも今めかしき新鮮な御会いどもなり。
「まあ、宴会は何事もにぎやかでなければならない事よ」
と三位の中将楠木様は苦笑いしながら、後ろに控える貫之に相槌仕賜う。
その頃、内務官の君、清涼殿へまかり出賜えり。しばしの間わらわ病み、子供が掛かりやすい二日に一度の高熱に久しう悩み賜いて、
「まじない、祈祷なども心安くせん」
とて言って、しばしば通う事に成りけり。修法など始めて護摩を燃やさせ、指で様々な形の祈祷を行わせ、しばし神業に没頭仕けり。
病も怠り、快方に向かい賜いぬれば、誰も誰も嬉しう思すに、例の珍しき暇人なるを、
「内侍の官様、それ程祈祷に没頭なさらなくとも、おぼろ月夜様は強い御方でございます。おいしいものを食べて陽気に騒ぎますれば、童病も忘れて元気になりましょう」
「そうは言っても、頭が痛いのじゃ。額に汗が酷いではないか」
「ああー、どう致しましょう」
と交わし賜いて、割り無き有様にて、夜な夜な僧侶と対面仕賜う。
いと盛りには、光源氏様を見掛けたならば、
「どうぞ、御茶でも召し上がってから御帰り下さいませ。朱雀帝も御待ちでございますよ。たった二人だけの御兄弟ではありませんか。どうぞ御くつろぎあそばしませ」
と、賑わわしき気配仕賜う人の笑顔も失われて、少し打ち悩みて消極的になれば、御体も痩せ痩せに成り賜えるほど、いとおかしげに妖艶なり。おぼろ月夜様は、何かお悩みの様子でございます。
賢木編 五十一
清涼殿には麗景殿、妃の宮もひと所におわす所なれば、宴会からの帰り道『おぼろ月夜様を見舞いしなければなるまい』
と考えた源氏様は、監視の気配、いと恐ろしけれど、掛かる忍び歩きのことしも、好奇心が勝る御癖なれば、
「夜這いの景色が始まったか」と見る人々もあるべかめれど、いちいち目上の大将を咎めるも煩わしうて、源氏の宮には、
「そんな事はさせなむ」とは警せず。
右大臣は、源氏の君と朧月夜様が恋仲だとは、はた、思い掛け賜わぬに、雨、にわかに驚ろ驚ろしう激しく降りて、雷も痛う鳴り騒ぐ暁に、宮殿に居合わせた良家の君達、宮司役人など立ち騒ぎて、
「恐ろしや、恐ろしや。どうぞこの宮殿に落ちないように。死にたくない、死にたくない」
と、こなたかなた周りの人目も激しげく、宮仕えする役人の女房どもも怖じき戸惑いて、几帳台に近こう集い参るに、
「いと割りなく、自分たちの役目を忘れて、このまま寝殿の中におっては、外の廂の警備が空っぽでございます。誰か怪しい者が侵入して来ても、誰も気付きません。このままで良いのでしょうか」
中級の分別ある女房が老女に申し上げますと、
「そう言うそなたは雷が恐ろしくないのか。ならば一人で廂に出て、寝殿の警護をすれば良いではないか」
などと老女は申します。そうなりますと、分別ある女房も、
「いやでございます。このまま放っておくしかありません」
と、言うしかありません。誰も外に出賜わん方なくて、そうこうしている間に、とうとう夜は明け果てぬ。
寝台の周り巡ぐりにも、人々激しげく、並々と大勢が集い至れば、内務官の几帳の中には、おぼろ月夜様だけでなく、もう一人、間男が居る気配で、仲を覗いた女房は、いと胸が潰らわ代わしく思さる。
「心知りの二人ばかり、光源氏様とおぼろ月夜様ではございませんか」
と、女房どもは心を惑わす。
雷鳴りやみ、雨少し収まりてやみぬるほどに、右大臣、奥御殿に渡り賜いて、まずおぼろ月夜宮の住まう御方におわし行きけるを、村雨の深い霧に紛れて寝所に這入り賜う。
我が娘が男と寝所で過ごして居るとは、え知り賜わぬに、寝起きだてらに驚かせてやろうと、軽ろやかに「ふうっ」と几帳の中に這入り賜いて、御簾を引き上げ賜うに、
「いかにぞ、明け方の雨に痛とう立て込み、恐ろしく有りつる夜の雷に脅えて過ごして居るかと、そなたに思いやり聞こえながら、心配して参り来でなむ。無事であったか。楠木三位の中将や、三ノ宮の介など警護にさぶらい参りつ、や」
などと、のたまう気配の下度に甘く淡わ付けき鼻下声を、源氏の大将は物の衣服の紛れにも体を隠して笑い声を押さえながら、
「我が子姫君に甘い父親とはこんな物か。馬鹿みたいに御人良しではないか。そういえば、葵の上に対する左の大臣様の御有様もこうであった。娘に対する父親は誰も同じらしい」
と、ふと両大臣の態度を思し比べられて、
「たとしえなうも、愚か者ぞ」
と、微笑まれ賜う。
しかし、この源氏物語を書き綴る紫式部は、このような光源氏様の人を甘く見下した態度には我慢できません。幼き頃に母親を失った世間知らずの御考えなのでしょうか。人はもっと愛情深く見つめて欲しい物です。
「げにこのような危機的状況において笑っているとはどういうことですか。御簾の中に入り賜いて、二人の姿を見果てものしたならば、刀で刺し殺され賜えかしな。恐ろしくはないのですか」
紫式部は妙に光源氏様の軽薄さが許せません。右大臣様、どうぞ光源氏様を処罰なさいませ。私はしかと源氏物語の報告書に書き込んでおきます。紫式部は遠慮なく赤裸々に書き綴り賜えり。
典侍官の君、いとわびしう父親の優しさが有難く思されて、やをらにゆっくりと、渋々居座り出賜うに、我が子、顔表の痛う赤みたるを恥ずかしがっているとも知らず、
「なお悩ましう思されるにや。明け方の雷に脅え、高熱でも出してしまわれたか。童病が完全に治っておらぬゆえ、心配しておった」
などと、御顔の色見賜いて言えば、
「父上、私なら御心配に及びませんるこのように元気でございますから、どうぞ家に御帰り下さいませ。おぼろ月夜は、もう子供ではございません」
と、娘の返事が返ってきます。
「などて、どうして顔の御景色の例ならぬ。異常に赤くなっているではないか。雷に紛れて、物の怪などの怪物が襲う難しき夜を、どうして過ごして追ったのだ。修法祈祷を延べさしするべかめり」
とのたまうに、娘に近寄り抱き締めようとすると、
薄二藍色なる男物の帯の、娘の御衣に絡まりまつわれて、夜具の中から引き居出たる姿を見付け賜いて、
「ややや・・・、ここに居るのは誰そ。男物の帯ではないか。怪し」
と、思すに、また密会の恋文を交わしたとみられる畳み紙の、何回か書き直したであろう手習いなどしたる書き残しが、御几帳の裾もとに多数落ちにけり。
「これは如何なる物ぞ。男物の恋文ではないか。誰と契りを交わした。そなたは帝の世話係であるぞ。御所で男と恋文を交わすなど許されぬ」
と、心驚かされて、
「そこに居る彼は誰そ・・・
賢木編 五十二
「そこに居る彼は誰そ。賢くも帝の女御が住まう寝所と心得ての事か。神聖な奥御殿の、女のみに囲まれた景色とは異なる物の有様かな。誰かに見られたが最後、打ち首だと思え。
頭からかぶった夜具を取り払い、
『誰がぞ、このような罪深い事をするのか、見はべらむ』
皆の者、出て参れ。ここに男がおるぞ。引き捕えて警護の者に渡してしまえ」
と、右大臣はのたまうにぞ、おぼろ月夜様は、我も男物の帯が絡み賜える足元を見付け賜えるに、父君に失態を紛らわすべき仕方も判らなければ、内務官の君でさえ、いかがは答え弁護聞こえ賜わむ。
「我にもあらで、私は男がここにおわするを、何がなんだか知りません。ただ乳母が雷に脅える私を見て慰めに来た物とばかりに思うておりました。子ながらも、
『恥ずかし』と思すらむかし。私はそのようなはしたない真似は致しません。本当でございます。父上」
おぼろ月夜様は必至で弁護致します。
「しかし、おぼろ月夜様。それは嘘であると見え透いているではございませんか。おぼろ月夜様も好き者でございます」
と、さばかりに、多くの人は思し、
「世に憚るべき大事ぞ。父親の前でこのような事があってはならぬ」
と思うぞかし。
されど急な思いに、のどめたる所おわせしぬ大臣の、気持ちを落ち着かせようと、大きく息を吸う大臣の思しも、なかなか思うように行かず、機転も回さずなりて、
「がさがさ」と畳み紙を取り給うに、
『今さら何を驚いておる。娘は幾つになったと思っておるのだ。三十過ぎの女盛りではないか。暗闇に紛れて男を求めた所で何の不思議はない。いい加減にあきらめろ』
と、几帳の中より見入れ賜える男あり。
眠気顔の大あくびにに、周りの人が驚くほど痛う風流になよびて笑い、慎ましからず、おぼろ月夜様に抜け抜けと添い臥して抱き寄せ、頬ずりする男でもあり。
今ぞやこの頃に及んでやおら布で顔を引き隠して、とにかう、
『申し訳ない』と、その場をつくろい紛らわす。
「今さらこの場に及んで何も言う事はない。恥知らずめ。たとえ光源氏様であろうと、この失態は容赦せぬ。覚えておれ。後でじっくりと、帝から成敗の沙汰があろう」
右大臣は浅ましう、目覚ましう腹立たしさを覚えて、心悩ましけれど、ひた表顔には如何でか怒りは表し賜わむ。ぐっと拳を握り締めて、ひたすら耐えておられました。
右大臣の身分では、帝の弟である光源氏様を咎める事はできないのです。頭も痛くなり、目もくるくる回る心地すれば、この証拠の畳み紙を取りて懐に仕舞い、帝の寝殿に渡り賜いぬ。
内侍官の君は、
「我がどうしてこのような恥ずかしい事をしてしまったのか。恥ずかしい。申し訳ない」
の心地して、
『死ぬべく、舌を嚙み切ってしまうほどの事をしなければ許されないのではないか』などと思さる。
源氏大将殿も、愛おしう、
『人の非難もどきを負わむとする事になる』と思せど、今は自分の心配よりも女君の心苦しき御景色を心配に成り、
「心配するな。そなたは右大臣の娘、朱雀帝の妹ではないか。弘徽殿の皇太后とてそなたを処罰するはずがない。安心致せ。罰せられるのは私の方だ。打ち首になっても仕方があるまい」
などと、とにかくおぼろ月夜様の慰め聞こえ賜う。
賢木編 五十三
右大臣は、思いのままに行動する性格なれば、胸に籠めたる所おわせぬ本性にして、いとど老いの御ひがみさえ加わり添い賜いなれば、畳紙を強く握りしめ顔を真っ赤にして、
『何事か、如何に無念を晴らしてやるか』は滞り賜わん。
行く行くと、何はともあれ、長女一の宮にも、愁える嘆き事申し述べて恨み言聞こえ賜う。
「かうかうしかじかの、はしたない色恋の事になむはべる。この畳紙は右大将・光源氏様の御手になり書かれた物なり。この達筆な文字からしても歴然として、光源氏君の仕技に間違いはない。
我が娘が男と裸でいる所を確かめようと、ふとんなど剥いだりはできぬ。昔も今も、心許されであり染めし禁断になりける事なれど、帝の御人好しな性格に付け込み、よろずに何もかもの罪を許して、
『そのような事は何も聞きたくない。さてもそのような恥ずかしい事を言う爺様の御顔は見む。早く帰って下さい』
と、言いはべりし折りは、どうして良いか分からぬ。皇太后よ、源氏君に罰を下せるのはそなたしかおらぬ。どうか父君の言い分を読み取って下され」
右大臣は泣きながら弘徽殿の我が子に訴えました。
「そこがあの子の悪い所なのです。罪を心にも留めず、目覚ましげに『悪くはない』と持て成されにしかば、安からず、
『それで何事も決着した』と思いしかど『去るべきに、今度こそは白黒をはっきりせねばなるまいとて、父君の言い分は『世に汚れたり』とも思し、捨つまじき大事な頼みにて、
『かく本意のごとく、世を正すべき』と奉りながら帝を説得致します」
「なおその憚りありて、我が物顔に受け張りたる女御なども、
『おぼろ月夜様と光源氏様が、昨夜の雷騒ぎを悪用して一夜を過ごしたのだとよ』
『帝の寝起きの世話をする内侍の官殿が汚れたとあっては、帝の権威ももはやこれまでよ』
と、言いはべらぬだに、飽かずこの事に関しても、口惜しう思い賜ふるに、
『帝は女が嫌いなのではないか。御子様など持てぬ性格ではないか』
などと、また掛る性格の事さえ言いはべりければ
『更にいと、心憂鬱しくなむ』と思いなりはべぬる」
右大臣は頭を抱えながら申し上げました。今度の事は、
『男の例の好き事』と言いながら、相手が相手だけに、源氏大将も、いとけしからぬ御心なりけり。
「あの男は、朝顔の君斎院をもなお聞こえ来るに、体を犯しつつ、忍びに御文通わし誘いなどして、許し難き景色あることなど、人の語りはべりしをも悪い評判でございます。
この成敗は世のためにのみにあらず、我が右大臣家のためも良かる事まじきことなれば『世もさる終りにて、思いやりなき技、仕居出らじ』となむ思い賜う。
右大臣は頭を抱えながら言いました。
賢木編 五十四
「それは誠に困った物よのう。時の有職の常識を覆し、人間社会と天の下をなびかし賜える有様事なめれば、粛清の嵐が吹き荒れてもおかしくはない。このような常識を覆す源氏大将の御心を疑いはべらざりつる」
などと、弘徽殿太后がのたまうに、この右大臣の一の宮は勝ち気でいとどしき気性の御心なれば、いと物々しき御景色にて脇息をも投げ飛ばし賜えり。
「帝と聞こゆれど、光源氏様の行いは朱雀帝を馬鹿にしているとしか思えませぬ。昔より皆お人好しに思い落とし聞こえて、源氏大将に対して誰もが甘く振舞っております。
先ほど左大臣を御やめになされた致辞の大臣も、またとなくかしづく大事な一つ娘を、我が戸の上の朱雀坊にて東宮とおわする妃候補には奉らで、弟君の源氏にて、そちらを大切に扱いました。
いと気なき子供が、元服の訳も知らず添臥として一つ枕の元に取りわき、またこの君をも制約が厳しい神官や内務官に奉らず、外住まいの宮仕えにとして自由な心差しにて暮らしはべりしに、
をこがましかりし男遊びに明け暮れる有様なりし暮らしを、誰も誰も怪しとやは思したりし。女にふしだらな男と思えり。
それにしても妹のおぼろ月夜は、み中の中心的御方にこそ、御心寄せはべるめりしを、その本意に違うさまにして裏切りにしてこそは、朱雀帝の御召し物係りとして、
かくては立派に勤め上げさぶらい給うめれど、内侍の官に決まったからには、献身的な愛おしさに飽き足らず、いかでかさる色恋方に於いても男と女の関係であって欲しいと願う。
おぼろ月夜が帝に興味を示さず、源氏大将に心を入れているとあっては、『人に劣らぬ有様に持て成したる』と聞こえん」
弘徽殿太后は怖い顔をして申し上げました。
賢木編 五十五(最終回)
「さばかりに、妬ましげになりし人の源氏大将が、弱みに付け込んだと見る所も有り、
『おぼろ月夜にも落ち度がありし責任などこそはあった』と思いはべり連れど、男が帝の内侍官と知りながら、忍びて我が心の居る方になびき賜うにこそは、ありつるはべらめ。
まして斎院の朝顔の君にまで手出しの御事は、ましてさもあらん。帝を馬鹿にているとしか言いようがない。何事に付けても、公けの国家元首の御方に後ろめたく安からず見ゆるは、けしからん事である。
次の冷泉春宮の御世に心寄せ事なる我が天下を見越して、権力を振りかざす人になればこそ、今の内に悪い芽を摘み取っておくのが、事割りにも道理叶った事になむとの思い有りめる」
と、右大臣もすくすくしう、当然の事とのたまい続くるに、弘徽殿太后の眼差しが怒りに満ちた顔を見て、
『その怒りが我が子にも及ぶのではないか』と考えると、さすがにおぼろ月夜に対しては愛おしう、
「おぼろ月夜にだけは害が及ばぬよう、面倒見てやっては暮れぬか。あれはそなたの妹ではないか」
など聞こえつる事ぞ、と思さるれば、
「さわともあれ、しばしこのふしだら事は、外に漏らしはべらじ。じっくり検討致しましょう。内裏の帝にも奏せさせ賜うな。かくのごとく罪事にはべりとも、父の思し棄つまじき頼みに思いて、甘えて今まで通り、勤めに奉仕はべるになるべし」
弘徽殿太后は苦悩の末申しました。
「おぼろ月夜には内々に制しのたまわむに、苦しみの胸の内を聞きはべらずは、これ以上我が子を苦しめたくないからである。内侍の官が密会を犯したその罪に対しては、ただ自ら責任取に当たりはべらむ。何事も父君に任せて置くが良い」
など、聞こえ直し賜えど、事に解決の御景色にも直らず。弘徽殿太后は、
「かくひと所の奥御殿におわして、周りの監視も鋭く暇なきに、慎む所なく大胆にも帝の寝殿に、さても入り者施らるらむは、ことさらに軽ろめの考えにて、後で牢ぜらるるに、罪こそは後悔の限りであろう」
と思しなすに、この上いとどしく、いみじう追放の画策も目覚ましく沸き上がりになりけり。
事のついでに源氏大将の一派を、さるべき罠の中に落とし込む事ども、講じえて居出むに、
『良き知らせの頼りなりけり』と、右大臣は思し巡らし、
『これはさらに好都合の出来事であった』
と、内心喜んでいると考えるべし。
賢木の巻 終わり
実は桐壺編.と夕顔編が電子書籍として発行されています。
『かってに源氏物語 桐壺編:古語・現代語同時訳』 又は夕顔編というタイトルです。
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