第9話 あなたのためではありません
ブレーメ領から逃げてきた家族が、グリュンの村に着いたのは朝霧の中だった。
荷馬車に家財を積み、子どもを抱えた母親が広場に座り込んでいる。疲労で立てない。父親が村人に頭を下げている。
「ネル先生はこちらにおられると聞いて」
グスタフが私を呼びに来た。広場に出ると、見覚えのある顔がある。鍛冶屋の妻だ。ネルが毎月、息子に解熱剤を届けていた家。息子の頬が赤い。熱がある。
診察をしながら、話を聞いた。井戸水の汚染が止まらない。薬師は誰も来ない。屋敷の新しい奥方は荷物をまとめて帰った。残った使用人もいつ倒れるか分からない。
「……村の子どもたちが何人も寝込んでいます。先生に診ていただけたら」
私が出る前に配った予防薬は、もう効果が切れている。水源の浄化は手つかずのはずだ。あの引き継ぎ書に全て書いた。読まれていないことは、この状況が証明している。
夕方、家の中で薬草の在庫を確認していた。棚に並んだ瓶を数える。浄化に使う七種の薬草は揃っている。ここの森で自生するものを摘み、足りないものは育てた。一月かけて、備蓄は十分にある。
ブレーメ領に戻ることはできる。技術的には。
でも戻れば、あの屋敷の空気を吸うことになる。あの執務室の前を通り、あの庭を横切り、あの井戸の水を浄化する。全てが記憶と結びついている。二年間の重さが、体に戻ってくる。
戸が開いた。ルッツが立っている。いつもの顔ではない。私が何を考えているか、分かっている顔だ。
「行くのか」
隠せない。鍛冶屋の息子の熱を診た時から、決めかけていた。あの子の額に手を当てた瞬間に、体が覚えている。この手が何のためにあるのかを。
「……行かなきゃいけないと思う。でも」
「あいつの領地に行くんじゃない」
ルッツが言った。短く、まっすぐに。
「病人のところに行くんだ。おれもついていく」
この人はいつもそうだ。迷っている私の足元に、一本の線を引く。行き先を変えるのではなく、行き先の意味を変えてくれる。ブルーノの領地に戻るのではない。病人のところに行く。同じ場所でも、意味が違えば足が動く。
「ありがとう」
声が小さくなった。ルッツは頷いただけだった。
翌朝、薬草と道具を革袋に詰めて出発した。ルッツが大きな荷を背負い、私が薬箱を持つ。グリュンの村からブレーメ領まで、歩いて半日の道だ。
領地に入ると、空気が変わった。道端の畑が荒れている。家の窓が閉まっている。人の気配が薄い。収穫前の麦が倒れたまま放置されている。一月前に出た時とは別の場所のようだ。私が二年間かけて守ってきた場所が、一月で別の顔になっている。
最初の村に着くと、人が集まってきた。
「先生。ネル先生が来てくださった」
泣いている人がいる。子どもを抱えた母親が、私の手を握る。痩せた手だ。爪が白い。この人たちのことは覚えている。名前も、持病も、家族の数も。二百人分の記憶が、まだこの頭の中にある。
泣いている暇はない。まず水源の浄化が先だ。
井戸を覗く。水面は濁り、底が見えない。一月前に多めに撒いた分は、とうに効果が切れている。七種の薬草を配合し、上流から順に撒いていく。ルッツが水を汲み、薬草を刻み、私が指示した場所に運ぶ。言葉は少ない。でも手が止まらない。
患者を一人ずつ診た。解熱剤を調合し、下痢止めを配り、重症の子どもには点滴代わりの薬草液を作る。マルタが横について、手順を書き留めている。
「マルタさん。今度は全部覚えて。私がいなくても回せるように」
「……はい」
マルタの目が赤い。何か言いたそうにしている。でも今は手を動かす時間だ。感情は後でいい。
三日間、朝から夜まで走り続けた。二日目の夜、薬草を煮ている鍋の前で意識が遠くなりかけた。椅子から滑り落ちそうになった体を、ルッツの腕が支えている。
「寝ろ」
「まだ、煮込みが」
「おれが見てる。火の番くらいできる」
薬草の煮込みは火加減が全てだ。ルッツに任せたことはない。でもこの三日間、この人は私の横で全ての作業を見ていた。火加減を教えなくても、見て覚えている。
目を閉じた。壁に背を預けて、少しだけ眠る。目が覚めた時、鍋の火は完璧な弱火に保たれている。ルッツは鍋の横に座り、火の色を見ていた。薬草の名前は知らなくても、火の扱いは知っている人だ。
三日目の夕方。水源の浄化が効き始め、井戸の水が澄み始めた。熱を出していた子どもたちの顔に血色が戻っている。
片付けをしている時、影が差した。
ブルーノが立っている。前に村に来た時よりさらに痩せている。頬がこけ、目の下の隈が黒い。辺境伯の威厳は、もうどこにもない。
「……すまなかった」
その言葉を、この人の口から聞くのは初めてだ。「頼む」は聞いた。でも「すまなかった」は初めてだ。
「謝罪は受け取ります」
「戻ってきてくれ。お前がいないと、この領地は」
「戻りません」
ブルーノの目が揺れる。
「なぜだ。俺は謝った。お前の仕事の価値も分かった。全部分かったんだ」
全部分かった。その言葉が、逆にこの人の限界を示している。分かったのは仕事の価値であって、私自身のことではない。二年間隣にいた人間の気持ちを、領地が崩れてからようやく考え始めている。
「ブルーノ様。あなたは『いなくなれ』と言いました。私はいなくなりました。次は『戻れ』。その次は『頼む』。今日は『すまなかった、戻れ』。全部、あなたの都合です。私の気持ちを聞いたこと、一度もありませんでしたよね」
ブルーノの口が開き、閉じた。
「……お前の気持ちは、どうなんだ」
今さらの問いだ。二年間、一度も聞かなかった問いを、全てが壊れた後に聞いている。
「もう疲れました。言葉がころころ変わる人の隣は。ここに来たのは、あなたのためではありません。あの人たちのためです。治療が終わったら、帰ります。私の村に、私の家に」
ブルーノの視線がルッツに向いた。十歩後ろに立ち、腕を組んで黙っている男。
「……あいつは」
「前にもお答えしました。矛盾しない人です。『ついていく』と言って、本当についてきてくれた人です。毎朝来てくれる人です。言葉と行動が、いつも同じ人です」
ブルーノは何も言わなかった。背を向けて、屋敷に戻っていった。その背中を見送りながら、同情も、怒りも、寂しさも感じない。ただ、終わったのだと思った。
帰り支度をしていると、ルッツが近づいてきた。
右手に小さな木箱を持っている。手のひらに収まるくらいの、粗削りの箱だ。蓋の合わせが少し歪んでいる。刃物で削った跡がある。自分で作ったのだろう。
「……崖のやつ。前に欲しいって言ってたろ」
蓋を開ける。中に、白い種が並んでいる。あの崖の花だ。雨上がりに二人で摘みに行った、あの白い花の種。薬効が強く、この地方では希少な薬草の種だ。
あの日、私は花を摘みながら言った。「この種があれば、村でも育てられるのに」。何気ない一言だった。独り言に近い。ルッツは岩の上に座って、崖下の森を見ている。聞いていないと思っていた。
聞いている。覚えている。あの崖に一人で戻り、種を採ってきた。雨で崩れやすいと自分で言った崖に。
目の奥が熱くなる。ブルーノに追い出された日は泣かなかった。追いかけられた日も泣かなかった。でも今、この小さな木箱の前で、涙が落ちた。
「覚えていてくれたの」
ルッツの顔は変わらない。いつもの顔で、短く答える。
「言ったから」
箱の中の種が、涙で滲んで見えなくなった。




