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「いなくなれ」と言ったのに探しに来るの、矛盾してませんか?  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話 全部あなたのせいです

屋敷の使用人が倒れたのは、疫病が広がり始めて二週間目のことだ。


厨房の下女が朝から腹痛を訴え、昼には高熱を出した。続いて馬番の少年。洗濯女。村の病が屋敷の塀を越えてきた。井戸の水を介して、壁も扉も関係なく広がっていく。マルタが看病に走り回っているが、薬が足りない。基本の解熱剤すら底が見え始めている。


ゲルダの悲鳴が居間から響いた。


「嫌。嫌よ。病人がこの屋敷にいるの」


ブルーノが駆けつけると、ゲルダは長椅子の上に足を上げ、床に触れることすら拒んでいる。まるで床そのものが汚染されているかのような振る舞いだ。ネルならこの時、すでに患者の脈を取りに走っていただろう。そう思ったことに、ブルーノ自身が驚いている。比べている。無意識に、いなくなった女と比べている。


「使用人を別棟に移した。屋敷の中は安全だ」


「安全なわけがないでしょう。あの子たちと同じ井戸の水を飲んでいるのよ」


正しい。ゲルダの指摘は、医学的に正しい。同じ水源を使う限り、誰が倒れてもおかしくない。ネルがいた頃は、この時期の井戸水は全て浄化されていた。今はその浄化ができる者がいない。


ゲルダが荷造りを始めたのは、その日の夕方だ。


衣装箱を三つ。装飾品の箱を二つ。嫁入りの時に持ってきた全てを、元の箱に戻している。手際が良い。この日のために準備していたかのように。


ブルーノは寝室の扉を開けた。衣装が散らばった部屋の中で、ゲルダは黙々と手を動かしている。嫁いできた日に見せた笑顔の面影はどこにもない。


「帰るのか」


「帰ります。実家に」


ブルーノの声が低くなる。


「お前が来たいと言ったのだろう」


ゲルダの手が止まった。振り向いた顔には、涙も怒りもない。冷たい目だ。計算が済んだ後の目。


「あなたが前の奥様を追い出すと仰ったから、お受けしたのです。こんなことになるなんて、聞いておりません」


「俺が追い出した。お前が」


「あら。『いなくなれ』と仰ったのはあなたでしょう。私はただ、あなたのお気持ちに添いたかっただけですわ」


言葉が喉に詰まる。ゲルダの言い分には、反論できる部分がない。「いなくなれ」と言ったのはブルーノ自身だ。ゲルダはそれを利用しただけだ。利用されたことに気づかなかったのは、ブルーノ自身だ。ゲルダが来る前、この屋敷には別の女がいた。泥のついた手で帰ってくる女。銀の食器を使わず、木の器で薬草茶を飲む女。あの女がいた場所にゲルダを置いた。同じ椅子に座らせた。だが同じ椅子から立ち上がる人間は、最初から一人しかいなかった。


翌朝。馬車が一台、屋敷の門を出た。


玄関の柱に、封書が一通貼りつけてある。マルタが剥がして、ブルーノに渡した。ゲルダの筆跡だ。丸く、整った文字。


「私は悪くありません。全部あなたのせいです。あなたが前の奥方様を追い出さなければ、こんなことにはなりませんでした。ゲルダ」


短い手紙だ。便箋一枚に収まる量の文字が、この屋敷での日々の結末だ。ネルが置いていった引き継ぎ書は二十頁を超えていた。ゲルダが残したのは十行にも満たない。二人の女の、この屋敷への関わり方の差が、紙の枚数に出ている。


ブルーノは手紙を読み終えて、机に置いた。反論はない。ネルの「私はもう、ここの人です」。ゲルダの「全部あなたのせいです」。追い出した女と、迎えた女。両方から同じことを言われている。しかも、両方正しい。



三日後。領民の移動が始まった。


最初は東の農村の一家だった。荷馬車に家財を積み、西の街道を目指す。行き先を問うと、父親が答えた。


「グリュンの村です。あっちにはネル先生がおられる」


ネル先生。領民が自分の元妻をそう呼んでいることを、ブルーノは初めて知った。先生。辺境伯夫人ではなく、先生。自分が「庭いじり」と呼んでいた仕事に、領民たちは敬称をつけている。自分の領地の民が、自分ではなく、自分が追い出した女のもとへ向かう。領主としてこれ以上の屈辱はない。


一家だけではなかった。翌日には三家族。その中に、鍛冶屋の一家がいた。ネルが毎月、息子に解熱剤を届けていた家だ。翌々日には七家族。荷馬車の列が西へ向かう。ブルーノは屋敷の窓から、自分の領民が去っていくのを見ている。止める権利はある。領主として命令すれば、留めることはできる。だが、ネルに「命令だ。戻れ」と言って届かなかった記憶がまだ新しい。命令で人は動かない。少なくとも、この男の命令では。去っていく荷馬車の列を見ながら、ブルーノは窓枠を握り締めている。指の関節が白い。


その翌日。ヴァイス公爵家の使者が屋敷を訪れた。


封蝋を切ると、短く簡潔な書状が現れる。


「ブレーメ辺境伯領内の疫病対応について報告せよ。対応が不十分と判断した場合、領地管理権の一時剥奪もあり得る」


公爵の紋章が押された、公式の文書だ。辺境伯の上位にあたる公爵家が、管理能力を疑い始めている。領地を取り上げられれば、ブルーノには何も残らない。軍功も、家名も、全てがこの領地に紐づいている。


ゲルダに去られ、領民に去られ、上からは管理能力を疑われている。三方から同時に崩れていく。軍人として戦場に立ったことはある。だが敵は目の前にいた。今は、どこにも敵がいない。崩壊の原因が自分自身であることを、この男はまだ言葉にできない。


使者を帰した後、執務室に一人で座っていた。窓の外は暗い。蝋燭が一本だけ灯っている。


マルタがお茶を持ってきた。銀の盆に、湯気の立つ杯が一つ。いつもと同じ所作だ。ネルがいた頃も、ゲルダが来てからも、変わらない。


「……なぜお前は残っている」


マルタは盆を置き、一歩下がった。


「この屋敷に忠誠を誓いましたから」


沈黙が落ちる。マルタの目が伏せられる。次の言葉を探しているのではない。言うべきかどうかを量っている。


「ですが、旦那様。わたしはずっと悔いております。ネル様が追い出される前に、お引き止めしたかった。あの夜、わたしは廊下に立っておりました。聞こえておりました。止められたのに、止めませんでした」


ブルーノは何も言わなかった。マルタの告白を聞く資格が自分にあるのかどうか、分からなかった。止めなかったマルタを責めることはできない。止める必要がない状況を作るべきだったのは、この男自身だ。


「引き継ぎ書を、最後まで読まれましたか」


「……読んだ」


「最後の頁も」


最後の頁。ブルーノは覚えていない。途中で読むのをやめていた。引き継ぎ書の内容が正確であればあるほど、自分の無知が照らし出されることに耐えられなかった。


マルタが去った後、引き出しから冊子を取り出す。最後の頁を開く。


季節ごとの予防計画。冬の備蓄一覧。薬草の種の保存方法。各農村への巡回日程。春に蒔く種と、秋に収穫する根の記録。四季を通じて一日も空白がない計画が、丁寧な文字で綴られている。全て読み終えた、その裏に一行だけ書かれている。


ネルの筆跡だ。丁寧で、小さな文字。


「ブレーメの冬は厳しいので、暖かくしてお過ごしください」


怒りでも、恨みでも、皮肉でもない。


追い出した男の体を、まだ心配している。「いなくなれ」と言われた相手に、「暖かくしてお過ごしください」と書く人間がいる。恨みの一言もなく、ただ冬の寒さを案じている。


ブルーノは冊子を閉じた。両手で顔を覆う。蝋燭の炎が揺れ、影が壁に大きく伸びた。声は出ない。ただ、肩が震えている。


マルタは扉の向こうで、その音を聞いていた。


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