第7話 頼む
広場でグスタフの娘クラーラの膝を診ていた。転んで擦りむいたらしく、砂利が食い込んでいる。消毒の薬草を当てると、クラーラが顔をしかめた。
「先生、しみる」
「しみるのは効いている証拠だよ」
包帯を巻きながら、広場の端に影が差したのが見えた。
馬が一頭。甲冑ではなく、外套一枚。騎馬隊もいない。前に来た時とは何もかも違う。あの時は旗を掲げ、従者を三人連れていた。辺境伯としての体面を整えて、この村に来た。今日は何もない。
ブルーノだった。
一月前より痩せている。目の下の隈が濃く、頬がこけている。辺境伯の背筋はまだ伸びているが、体が追いついていない。
包帯を結び終えて、クラーラの頭を撫でた。「もう大丈夫。走っていいよ」。クラーラが駆けていく。広場に私とブルーノだけが残った。村の人たちが遠巻きにこちらを見ている。馬に乗った男が来ることは、この村では珍しい。広場の空気が変わる。さっきまでクラーラが駆け回っていた場所に、緊張が落ちている。グスタフがパン屋の軒先から顔を出し、ベルタ婆さんが家の窓辺で杖に手を置いている。
十歩ほど離れた場所に、ルッツが立っている。腕を組んで、こちらを見ている。朝から一緒に森に入り、薬草を摘んで戻ったところだった。
ブルーノが近づいてくる。三歩の距離で止まった。辺境伯の屋敷では、こんなに近い距離で向き合ったことがない。あの屋敷では、いつも机を挟んでいた。この人の顔をこんなに間近で見るのは、離縁を告げられた夜以来だ。あの夜、ブルーノの目には迷いがなかった。今は違う。目の奥で何かが揺れている。
「……戻ってきてくれ。領地が、疫病で」
知っている。煙は見えていた。
「存じています。煙が見えましたから」
ブルーノの顔に、かすかな期待が浮かぶ。煙を見て心配していたと思ったのだろう。心配はしていた。マルタのこと、エルンストのこと、子どもたちのこと。でもそれは、この人が期待する種類の心配ではない。あの領地に戻りたいかと聞かれれば、答えは一つしかない。戻らない。心配することと、戻ることは別の話だ。
「お前にしかできないことがある。水源の浄化とか、薬の調合とか」
「一月前は、『薬草なんて誰でもできる』と仰っていましたよね」
ブルーノの口が止まった。自分の言葉を返されたことに気づいた顔だ。覚えていなかったのだろう。私は覚えている。あの執務室の空気も、隣でゲルダが紅茶を飲んでいた音も、全部覚えている。忘れることが復讐だとは思わない。覚えていることは事実の記録だ。事実を突きつけることが残酷だと言うなら、その事実を作ったのはこの人だ。
「あの時は、状況が違った」
状況が違った。便利な言い方だ。状況が変われば言葉も変わる。でもその言葉を受け取る側は、最初の言葉をずっと持っている。
「状況は変わっても、仰ったことは変わりません。あれが旦那様の本心でしょう」
「本心じゃない」
声が低くなる。この人が声を低くする時は、自分でも分かっていることを認めたくない時だ。二年間で覚えた。この人の癖を、声の高低を、言葉の裏を読む技術は、夫婦だった時間が残した遺産だ。欲しくて手に入れたものではない。
「『いなくなれ』の次は『戻れ』。『誰でもできる』の次は『お前にしかできない』。言葉がころころ変わる方の隣は、とても疲れるんです」
ブルーノの拳が握られている。この人の中で何かが軋んでいるのが見える。プライドと現実が、音を立ててぶつかっている。この人はいつもプライドを先に守る。現実が殴りかかってきても、最後までプライドを手放さない。先に現実を見ていれば、私を追い出す必要はなかった。
「領民が死んでいるのだ。お前の力が必要だと言っている」
「私の力が必要だったのは、今に始まったことではありません。二年前からずっと必要でした。でも旦那様はそれを『庭いじり』と呼び、ゲルダ様の笑い声を選びました」
ブルーノの視線がわずかに逸れる。初めて見る表情だ。反論できない時、この人は目を逸らす。逸らした先に何があるのか、本人にも分かっていないのだろう。
「……命令だ。戻れ」
命令。最後に残った辺境伯の権威だ。領主が命じれば、領民は従わなければならない。かつてはそうだった。でも「いなくなれ」と命じたのもこの人だ。都合の良い時だけ領主の権威を振るうことを、世の中では矛盾と呼ぶ。
「もう旦那様の領民ではありません。ここはブレーメ辺境伯領の外です」
ブルーノの肩が落ちた。命令が届かないことに気づいている。辺境伯の言葉は、この村では何の重みも持たない。ここで私は「先生」であって、「辺境伯夫人」ではない。
長い沈黙が降りた。秋の風が広場を渡り、乾いた落ち葉が足元を転がっていく。どちらも動かない。
ブルーノの声が、初めて震えた。
「……頼む」
この人の口から、その言葉を聞いたのは初めてだった。二年間、一度もなかった。命じることはあっても、頼むことはない人だ。辺境伯の息子として育ち、軍人として鍛えられ、誰かに頭を下げる訓練は受けていない。
その「頼む」は、たぶん本物だ。声が震えている。目が赤い。辺境伯の息子が知らない言葉を、絞り出すように口にしている。この人なりの精一杯が、この一言なのだろう。一月前にこの一言があれば、私はまだ迷っていたかもしれない。でも今は遅い。
だからこそ、答えは変わらない。
「謝ってくださったことは、嬉しいです。でも、戻りません」
ブルーノが顔を上げた。
「あなたの領地の問題は、あなたが解決してください。引き継ぎ書は全て置いてきました。薬草の種類も、水源浄化の方法も、季節ごとの予防計画も。私がやっていたことの全てが、あの冊子の中にあります」
読んでいないのだろう。読んでいれば、ここまで来る必要はなかった。でもそれは言わない。
「私はもう、ここの人です」
ブルーノは立ち尽くしていた。同情はある。憎しみは、もうない。恨みが消えたのではなく、この村の暮らしが恨みより大きくなった。でも、戻る理由もない。この人がこの先どう生きるかは、この人自身が決めることだ。私はもう、その隣にいない。
ブルーノが身を翻した時、ルッツに気づいた。十歩先に立ったまま、腕を組んでこちらを見ている男。会話の間、一度だけブルーノの声が荒くなった時に一歩前に出かけて、止まった。それ以外は微動もしなかった。
「……誰だ」
ブルーノがルッツを見ている。私に向けた声より低い。男の目だ。領主の目ではなく、ただの男の目。
「矛盾しない人です」
ブルーノの眉がわずかに動いたが、意味が掴めなかったのだろう。何も言わずに馬に向かい、鐙に足をかけた。背中が小さい。一月前とは別の人のようだ。
蹄の音が遠ざかる。来た道を一人で戻っていく。来た時と同じ、馬一頭の影だ。あの背中に、辺境伯の威厳はもう見えない。
ルッツが近づいてきた。
「……大丈夫か」
「大丈夫」
笑ったつもりだった。でもルッツはこちらの手を見ている。薬草の入った革袋を持つ右手。指先が震えていた。自分では気づかない。大丈夫ではなかった。あの人の前では平気な顔でいられる。声は震えない。でも体は正直だ。二年間の記憶が、指先から漏れ出している。
ルッツは何も言わない。聞かない。慰めない。ただ、自分の手を差し出す。
大きな手だ。鹿の紐を解いた手。薬草を揉んだ手。毎朝、戸を叩く手。雨の日に薪を置いていく手。約束を忘れない手。
その手に触れた。震えが止まった。




