第6話 疫病
秋の長雨が始まって、五日目だった。
水源下流の農村から、最初の知らせが届く。腹痛と高熱。子ども二人が寝込んでいる。マルタは薬草茶を持って駆けつけたが、農夫の顔を見て足が止まった。
「先日から井戸の水が濁っているんだ。前はこんなことなかったのに」
前はこんなことがなかった。ネルが毎年この時期、領地の水源三か所に浄化の薬草を撒いていたからだ。水が汚染されれば腹下しから始まり、重症化すれば命に関わる。今年は、その仕事をする者がいない。マルタはネルの覚え書きから浄化の方法を探した。「水源上流に薬草を撒く。種類は七つ、配合は季節と水量で変える」としか書かれていない。七つのうち、マルタが名前を知るのは三つだけだ。残りの四つは、ネルが独自に組み合わせていた薬草で、この辺境伯領に生えているかどうかさえ分からない。
マルタは井戸を覗いた。底が見えない。一月前まで澄んでいた水が、黄色く濁っている。ネルが最後に多めに撒いた浄化の薬草は、とうに効果が切れていた。
三日で村全体に広がった。
腹痛、高熱、嘔吐。家から家へ、井戸の水を介して病が移っていく。マルタが作れるのは基本の下痢止めだけだ。水源そのものを浄化する薬草の調合法は、ネルの手帳にしか記されていない。あの手帳は、ネルと一緒にこの領地を出ている。
一週間で患者は五十人を超える。
最初に亡くなったのは、東の農村の老婆だ。次に、西の村の三歳の男の子。マルタは知らせを聞いて、廊下で壁に手をついた。あの子は先月まで元気に走り回っていた。ネルが毎年配る予防薬を飲んで、冬を越してきた子だ。今年の冬は越せなかった。村長から届いた手紙には、母親が子どもの名前を呼び続けていると書かれている。マルタはその手紙を読み返すことができない。畳んで、鞄の底に入れた。
マルタは執務室に走った。
ブルーノは机の上に報告書を広げている。目の下に隈がある。軍人の顔で、慣れない問題と向き合っている。
「旦那様。死者が出ました。水源の浄化ができなければ、被害はさらに広がります」
「水を煮沸しろ。薪を配って、全戸に通達を出す」
軍人の判断としては正しい。だが薪が足りない。秋の備蓄は、例年ネルが手配していた。冬に向けた薪の確保も、薬草園の管理と同じように、誰にも頼まれずに黙ってやっていた仕事の一つだ。ブルーノはそのことを知らない。報告書の数字を見れば分かる。昨年の備蓄量は今年の三倍あった。ネルが秋のうちに森番と交渉し、必要な量を算出し、切り出しの段取りまで済ませていた。その引き継ぎ書は、ブルーノの机の引き出しに入ったままだ。
「薪の備蓄が足りません」
「なぜだ」
「先代の奥様が、毎年手配なさっていたものです」
ブルーノの眉間に皺が寄る。先代の名前が出るたびに、この男の顔が歪む。自分が追い出した妻の名を聞くことが、どれほど不快なのか。その不快さの中に、後悔があるのかどうかは分からない。
「町の薬師を呼べ。金は出す」
「辺境まで来てくれる薬師が見つかりません。三か所に使いを出しましたが、全て断られております」
辺境とはそういう場所だ。金を積んでも人が来ない。ネルがいたから回っていた。ネルがいなくなれば、代わりは誰にもできない。「薬草なんて誰でもできる」と言い放った言葉が、この屋敷の空気の中に残っている。言った本人だけがそれを忘れている。
ブルーノはゲルダのいる居間に向かった。
「ゲルダ。手を貸してくれ。領民が死んでいる」
ゲルダは長椅子に横になり、本を読んでいる。顔を上げて、眉をひそめた。
「汚い病人に近づけとおっしゃるの。私は男爵家の娘ですのよ。下々の世話は召使いの仕事でしょう」
「お前は辺境伯夫人だろう」
ブルーノの声が荒くなる。ゲルダは本を閉じ、ゆっくりと座り直した。
「辺境伯夫人がすることではありませんわ。前の奥様はなさっていたようですけれど、あの方は変わった方でしたから」
前の奥様はなさっていた。
その一言が、ブルーノの足を止める。ネルはやっていた。病人の家を回り、薬を作り、水を浄化し、薪を手配していた。辺境伯夫人がすることではないと、ゲルダは言う。ネルはその「することではない」仕事を二年間やり続けていた。ブルーノがそれを「庭いじり」と呼んでいる間に。
ゲルダは再び本を開く。話は終わりだという顔だ。
ブルーノは居間を出た。廊下を歩きながら、ネルの姿を思い出している。泥のついた手で農夫の脈を取り、子どもの額に手を当て、老人の背中をさすっていた。辺境伯夫人のすることではないと、自分も思っていた。思っていたのに、今はそれがないと領地が死んでいく。ネルが二年間座らなかった椅子に、ゲルダが毎日座っている。同じ椅子だ。だがそこから立ち上がって病人の元へ走る人間は、もうこの屋敷にはいない。
翌日。村長たちが屋敷に押しかけてきた。
五人の老人が、執務室の前に並んでいる。顔が強張り、目が据わっている。マルタが扉を開けると、先頭の村長が一歩前に出た。
「伯爵様。ネル様を連れ戻してください。ネル様がいらっしゃれば、こんなことにはなりませんでした」
ブルーノは椅子から立ち上がった。歯を食いしばり、低い声で答える。
「あの女は自分で出ていったのだ」
沈黙が落ちた。村長たちが顔を見合わせる。
マルタは口を開くつもりはなかった。侍女頭が主人の言葉を正すことは、この立場では許されない。だが村長たちの目がこちらに向いている。あの夜のことを知っているのは、この屋敷ではマルタだけだ。三歳の男の子の顔が浮かんだ。先月まで元気に走り回っていた子。もう走れない子。
言葉が口から滑り出た。
「……旦那様が、いなくなれと仰ったのです」
執務室が凍りついた。
村長たちの目が変わる。哀願の色が消え、もっと冷たいものが浮かぶ。信頼が崩れる音は聞こえない。ただ目の色が変わるだけだ。
「追い出したのですか」
先頭の村長が、低い声で聞いた。
ブルーノは何も言えなかった。
村長たちは頭を下げずに帰っていった。二年前、ネルが嫁いできた日には深く頭を下げて迎えた者たちだ。あの日と同じ五人が、今日は背中を向けて去る。頭を下げる相手を間違えたのだと言わんばかりに。
その夜。ブルーノは一人で執務室にいた。
蝋燭の光が揺れている。引き出しの奥から、ネルが置いていった引き継ぎ書を引っ張り出した。薬草園の管理表。季節ごとの予防計画。水源浄化のスケジュール。患者ごとの処方の記録。全てネルの丁寧な字で書かれている。
初めて読む。
最初の頁は薬草園の配置図だ。二十三種類の薬草が、用途別に六つの区画に分かれている。水やりの量、収穫の時期、乾燥の日数が一つ一つ記してある。次の頁は、領民ごとの持病と処方の一覧だ。エルンストの胃薬。鍛冶屋の息子の解熱剤。二百人分の名前と、それぞれに合わせた薬の配合が並んでいる。
一頁ごとに、知らなかった仕事が現れる。春の種まき。夏の害虫対策。秋の浄化。冬の備蓄管理。四季を通じて休む日がない計画表だ。全てネルが一人で回していた仕事の全容が、この薄い冊子に収まっている。
自分が「庭いじり」と呼んでいたものの正体を、初めて知る。
拳を握り、呟く。
「……あいつがいないと、こうなるのか」
だが次の瞬間、喉の奥からプライドが這い上がる。
「いや。あいつが勝手にいなくなったのが悪い。引き継ぎもろくにせずに」
机の上には、完璧な引き継ぎ書が開かれている。読まなかったのは、ブルーノ自身だ。




