第5話 矛盾のない朝
村に来て一月が経った。
暮らしに輪郭ができてきた。朝、戸を叩く音で起きる。開けるとルッツが立っている。毎朝、同じ場所に、同じ顔で。
「行くぞ」
森に入る。ルッツが前を歩き、私が薬草を摘む。一言も交わさない朝もある。それでも足音がふたつ並んで進む。ルッツは薬草の名前を知らない。でも、どこに何が生えているかは知っている。私が探す前に立ち止まり、地面を顎で示す。大抵、その通りだ。森の地図がこの人の頭の中にある。
昼は村に戻って診察をする。ベルタ婆さんの腰。グスタフの娘クラーラの喉。ヨシャンの奥さんイルゼの手荒れ。名前と症状が結びついていく。辺境伯の領地では二百人の名前を覚えた。ここでは四十人。でも四十人の顔のほうが、よく見える。
夕方は翌日の薬の仕込み。乾燥した薬草を量り、配合を記す。ここでは自分の判断で全てが決まる。誰かに報告する必要はない。薬が効けばそれでいい。効かなければ作り直す。それだけのことが、二年間はできなかった。
夜はベルタ婆さんの家で夕食をいただく。村の慣習で、独り者は長老の家で食べる。最初は遠慮したが、ベルタ婆さんが「遠慮する暇があったら皿を並べな」と言うので、それきり断っていない。
ルッツも来る。ベルタ婆さんが呼ぶからだ。食卓にはベルタ婆さんと私とルッツ。三人分のスープと、硬いパンと、たまに猟の肉。ルッツが持ってくる肉は、いつも小さく切ってある。骨を取り、筋を引き、そのまま鍋に入れられる大きさにしてある。料理が難しくなったベルタ婆さんのために、この人が台所の手前まで済ませている。ルッツは黙って食べる。私も黙って食べる。ベルタ婆さんだけが喋り、ルッツに野菜を食べろと叱る。ルッツが渋い顔で豆を噛む。ベルタ婆さんが満足そうに頷く。毎晩同じやりとりだ。
静かな食卓だ。でも、足りないものがない。辺境伯の屋敷の食卓には銀の食器と蝋燭があり、静寂があり、足りないものばかりだ。あの食卓で「おいしい」と言ったことがない。ここでは毎晩言う。ベルタ婆さんのスープは味が濃すぎるが、それでもおいしい。
ある日、森の中でルッツに聞いた。
「裏の崖にもこの薬草があった気がするんだけど」
「ある。だが今は雨で崩れやすい」
「じゃあ、晴れたら連れていってくれる」
ルッツは木の幹に寄りかかったまま、短く答えた。
「ああ」
それだけだった。特別な約束ではない。晴れたら行く。それだけのことだ。
三日、雨が続いた。雨の日はルッツが来ない。森は滑るからだ。代わりに薬草の仕込みと、患者の家を回ることに一日を使う。グスタフの娘クラーラの咳がまだ残っている。蜂蜜で溶いた薬を届けると、クラーラが「先生の薬、苦いけど好き」と笑う。ネル様ではなく、先生。ここでは名前で呼ばれない。それがありがたい。
雨の中を歩いて帰ると、家の軒先に薪が積んである。朝はなかった。濡れないように板が一枚乗せてある。ルッツだろう。来ないはずの日に来ている。
朝起きるたびに窓の外を見る。灰色の空が変わらない。薬草の仕込みをしながら、崖の群生地のことを考える。別に急いではいない。雨が上がれば行けばいい。忘れても構わない。頼んだ私が忘れかけている。
四日目の朝。窓の外が明るい。
戸を叩く音。開ける。ルッツが立っている。いつもと同じ顔で、一言だけ。
「晴れた」
この人は覚えていた。三日前の、森の中の、たった一言の会話を。「晴れたら」と私が言った。晴れた。だから来た。
当たり前のことだ。約束をしたら果たす。それだけのことだ。
なのに胸が詰まる。ブルーノは約束を覚えていたことがない。「今度、お前の薬草園を見に行く」と言って来なかった。「領民の話を聞く」と言って聞かなかった。言葉はいつも消える。消えることに慣れていた。約束とは消えるものだと思い始めていた。だから求めることをやめていた。期待しなければ失望しない。それが辺境伯の屋敷で身についた処世だ。
この人の言葉は消えない。三日前の一言が、そのまま残っている。
崖は風が強い。眼下に森が広がり、その向こうに灰色の川筋が見える。高い場所から遠くを見るのは久しぶりだ。辺境伯の屋敷の窓からは庭しか見えない。自分で手入れした庭を、自分だけが見ていた。
足元の岩に白い花がまとまって咲いている。昨日までの雨に洗われて、葉の色が鮮やかだ。根を傷めないよう、一株ずつ丁寧に摘む。雨上がりの葉は色が濃く、薬の成分も強い。良い日に来られた。
ルッツは少し離れた岩の上に座って、崖下の森を見ている。見張っている。鳥の声が変わると視線が動き、枝が揺れると手が短刀にかかる。私が摘み終わるまで動かない。
帰り道、聞いた。
「毎朝来てくれるの、大変じゃない」
「大変じゃない」
「……本当に」
ルッツは前を向いたまま答えた。
「通り道だ」
嘘だ。ルッツの家は村の北で、私の家は村外れの南だ。通り道ではない。でも、そういう嘘をつく人だ。優しさを言葉にしない代わりに、嘘を一つだけつく。朝は必ず南の私の家から歩き出しているのに、通り道だと言い張る。村の誰もが知っている。たぶん本人だけが隠せていると思っている。
その夜、ベルタ婆さんがルッツの話をしてくれた。ルッツは先に帰っていて、食卓には二人きりだ。
「あの子の母親が死んだのは、ルッツが十二の時でね」
ベルタ婆さんは薬草茶を啜りながら、薪の火を見ていた。
「父親は、その前の冬に猟で死んでいた。十二で一人になったんだよ。村の者は引き取ろうとしたけれど、あの子は首を振ってね。『おれが村を守る』と、それだけ言った」
十二歳の子どもが言う言葉ではない。
「それからずっと一人で猟に出て、獲物を村に分けてきた。冬も、嵐の日も休まない。口下手だけどね」
ベルタ婆さんが少し笑った。
「あの子が『やる』と言ったことで、やらなかったことは一度もないよ」
薬草茶が冷めていく。手の中の温かさが少しずつ引いていく。十二歳の少年が一人で森に入り、獲物を担いで帰る姿を想像する。怖くなかったのだろうか。怖くても行ったのだろう。「やる」と言ったから。
矛盾しない人。
言葉と行動が一致する人。
十二歳の時に言った一言を、今日も守り続けている人。
私が辺境伯の屋敷を出たのは、矛盾に耐えられなかったからだ。「いなくなれ」と言われた。だから出た。言葉通りに動くことが、私にとっての筋だった。
この人は逆だ。「守る」と言った。だから守っている。言葉通りに動くことが、この人の全てだ。
それがこんなにも安心するものだと、知らなかった。
この村で私が「先生」と呼ばれるのは、たぶんルッツと同じ理由だ。やると決めたことを、やった。それだけのことが、ここでは届く。
翌朝。窓の光で目が覚めた。
いつもの朝だ。薬草を棚から出して、乾燥の進み具合を確認する。配合の覚え書きに昨日の分を追記する。手が勝手に動く。ここでの暮らしが体に馴染んでいる。
手を止めた。窓の外を見る。
ブレーメ領の方角の空が暗い。
雨雲ではない。色が違う。灰色ではなく、濁った黒だ。低く、横に広がっている。
戸が開く。ルッツが立っている。いつもの顔ではない。
「……煙だ。あっちの方」
ブレーメ領。私がいた場所。マルタが残った場所。エルンストの胃薬は足りているだろうか。子どもたちの風邪は治っただろうか。井戸水の浄化は、あの多めに撒いた分がまだ持っているだろうか。
でも、もう私の領地ではない。
窓の外の空は暗い。煙は風に乗って、ゆっくりと東へ流れていく。




