第4話 薬草なんて誰でもできる
ネルが門を出てから、三週間が経っていた。
ブレーメ辺境伯邸の薬草園は、手入れをする者を失って形を崩し始めている。雑草が列の間に伸び、カミルレの枯れた茎が倒れかかっていた。マルタが来ても、薬草は応えない。ネルが触れると生き返るように見えた葉が、マルタの手では黙ったままだ。
侍女頭のマルタは、毎朝ここに来る。ネルに教わった通り、水をやり、枯れた葉を取る。それだけなら何とかなる。問題は、その先だ。
薬の配合。乾燥の度合いで変わる粉の量。患者の年齢と体格で変わる煎じ方。ネルは二年間かけて、その全てを手に覚えさせていた。マルタがメモに書き取れたのは、その一部に過ぎない。
最初に困ったのは胃薬だった。
領民のエルンストが屋敷を訪ねてきた。
「先代の奥様に毎月いただいていた胃薬が切れたのですが、次はいつ頂けますか」
先代の奥様。三週間で、もうそう呼ばれている。ネル様は先代になり、ゲルダ様が「奥様」になった。
マルタはメモを広げた。ネルが去る前日に書き取った配合の覚え書き。カミルレの花を三、タイムの葉を一、ヤナギの皮を半分。数字は並んでいる。だがネルは調合の最後に必ず粉の色と匂いを確かめ、ほんの少し量を加減していた。季節で変わる。患者の体格で変わる。その匙加減は数字にできない。
試しに作った。舐めると苦いだけで、ネルの薬にあったほのかな丸みがない。
エルンストには渡せなかった。効かない薬を渡すよりは、正直に頭を下げるほうがましだ。
エルンストは何も言わずに帰っていった。背中が小さかった。あの人は胃が弱い。ネルの薬がなければ、冬の間ずっと痛みに耐えることになる。
次は東の畑だった。
夜のうちに鹿が入り込み、豆の苗が食い荒らされている。ネルが畑の周囲に植えていた獣除けの薬草が枯れかけていた。刺激臭のある草の生垣。手入れが止まって三週間、匂いが薄れている。農夫たちはその薬草が何のためにあったのか知らない。ネルは引き継ぎの三日間でも、この生垣については伝えきれなかった。三日では足りなかった。何もかもが。
南の畑にも被害が出た。鹿だけではなく、猪も入り込んでいる。冬前の食料を荒らされれば、この領地の春は厳しくなる。
井戸水だけはまだ澄んでいる。ネルが最後に多めの浄化薬草を撒いた分が、まだ効いているうちは。それが尽きたら、腹を壊す者が出始める。あの人が毎週欠かさずやっていたことの重さを、失ってから知るのは遅すぎる。
そして、子どもたちが風邪をひき始めた。
秋の変わり目。毎年この時期にネルが予防薬を配っていた。二十人分の粉薬を、子どもの体格に合わせて一人ずつ配合を変えて。今年は、誰も配らない。
一人、二人。三日で五人。一週間で十人を超えた。
咳の止まらない子を抱えた母親が、毎日のように屋敷を訪ねてくる。マルタが渡せるのは薬草茶だけだ。ネルの予防薬とは比べものにならない。薬草茶で防げるなら、ネルは毎年二十人分の粉薬を調合する必要はなかった。
マルタは執務室の扉を叩いた。
ブルーノは書類に目を落としたまま顔を上げない。隣の椅子にゲルダが座り、銀の茶器で紅茶を飲んでいる。ネルがいた頃、あの椅子に人が座っているのを見たことがない。ネル様は執務室に呼ばれても、立ったまま用件を聞いて、立ったまま出ていった。薬草園に戻る仕事があったからだ。
「旦那様。領民に配る薬が足りません。先代の奥様がお作りになっていた薬がなくなり、困る者が日に日に増えております」
「薬草なんて誰でもできるだろう。町の薬屋から買え」
「辺境でございます。薬商は月に一度しか参りません。次は二週間先です」
「なら二週間待て」
ブルーノの声に苛立ちが滲む。先代の名前が出るたびに、この人の眉間の皺が深くなる。ネル様が屋敷にいた二年間、この人が薬草園を見に来たことは一度もなかった。井戸水がいつから澄んでいるのかも知らない。存在に気づかなかったものを、失ったとは思えない。だから「誰でもできる」と言える。
ゲルダが紅茶のカップを置いた。
「マルタ。病人の相手は侍女のお仕事でしょう。私は辺境伯夫人ですのよ。そういったことは、あなたたちで何とかなさいな」
辺境伯夫人。ネル様も辺境伯夫人だった。その辺境伯夫人が、毎朝暗いうちから薬草園に立ち、昼は領民の家を回り、夕方は馬で川上まで走っていた。紅茶を飲みながら「侍女のお仕事」と言える人と、同じ肩書きだったとは信じられない。
マルタは頭を下げて退室した。
廊下を歩く。三週間前、ネルが執務室に呼ばれて歩いた、あの廊下だ。あの夜、すれ違う侍女たちは目を逸らしていた。何かを知っている顔だった。今、マルタ自身がこの廊下を歩いている。目を逸らす側ではなく、逸らされる側として。
でもそれを口に出すことはできない。マルタは侍女頭だ。先代の名を出して今の奥様を貶めることは、この立場では許されない。
夕方、マルタは屋敷を出て領民の家を回った。ネルが毎日やっていた往診を引き継いでいる。引き継いだというより、やらなければ誰もやらない。
咳の老人にタイムの煎じ茶を届ける。関節痛の婦人にヤナギの粉薬を渡す。単純な薬草茶なら作れる。配合を組み合わせる段になると、手が止まる。
風邪の子を寝かせた母親が、茶を受け取りながら言った。「ありがとう。でもネル様の薬なら、一晩で良くなったのに」
悪気はない。事実だ。マルタの薬草茶は気休めに近く、ネルの薬は一晩で効いた。その差を、三週間かけて身をもって知っている。三軒回って、どの家でも同じ言葉を聞く。ネル様の薬なら。ネル様がいれば。
その夜、鍛冶屋の家から使いが走ってきた。
息子が高熱で痙攣を起こしている。
マルタは鞄を持って駆けた。家に着くと、母親が戸口に座り込んでいた。中から子どもの泣き声が聞こえる。細く、途切れがちな声だ。
部屋に入る。寝台の上で、小さな体が震えていた。額に触れる。指が焼けるほど熱い。ネルならここで首筋と手首にも触れて、脈の速さで薬の配合を決めていた。マルタにはその判断ができない。額が熱いことしか分からない。
「お願い……ネル様がいつも作ってくださっていた、あの薬を……」
母親が両手を握ってくる。マルタの手を離さない。爪が食い込むほどの力だ。
マルタは鞄を開けた。解熱の薬草は持ってきている。だが配合が分からない。ネルの手帳には全てが書いてあった。患者ごとの処方、季節ごとの配合の比率、煎じ方の細かな加減。あの手帳を、マルタ自身がネルに返したのだ。「ネル様が持っていてください」と言って。
あの判断は正しかったと、今でも思う。あの手帳はネル様の二年間だ。二年分の知識と、患者一人一人の記録が詰まっている。マルタが預かっていいものではなかった。
でも今、目の前で子どもが震えている。正しさは、この子を助けてはくれない。
マルタは薬草を手に取った。メモを開く。不完全でも構わない。何もしないよりはましだ。
手が震えている。ネルの手は震えなかった。暗い部屋でも、泣く母親の隣でも、あの人の手は淡々と薬を量り、淡々と煎じていた。あの手に迷いはない。マルタの手にあるのは、覚え書きの紙と、乾燥の甘い薬草と、二年間のうちの三日分だけの知識だ。ネルの代わりにはならない。でもここにいるのはマルタしかいない。
あの手帳をめくれば、答えはすぐに見つかる。でもここにはない。
わたしには読めても、作れません。
三週間前に自分が言った言葉が、そのまま返ってくる。




